『乗数効果と公共事業の短期的効果への疑問──藤井聡先生へのリプライ』への追加コメント

▶シノドスの電子メールマガジン「αシノドス」

https://synodos.jp/a-synodos

▶英語の「話し方」教えます!「シノドス英会話」

https://synodos.jp/article/23083

「フロー効果」と「所得移転効果」は、経済学的に全く別である

 

さて、筆者は先の討論の第六番目の論点として、次の様な論点を指摘致しておりました。

 

『第六に、仮に、飯田氏が言うような「無駄な投資」があったケースを考えてみましょう。その時、その投資が「景況感に何の足しにもならない」という事態が生ずる可能性は、極めて低いものと考えられます。なぜなら、仮にその投資でできあがった「ストック」が何の価値も生み出さないものであったとしても、そのストックを作りあげる過程で、受注業者が「受注」をしているとするなら、それは、法人の所得になり、ひいては、世帯の所得になる、という「フロー」が存在することは否定しがたいからです。一般に、そうしたフローによる景気浮揚効果は「フロー効果」と呼ばれます。そして、ストックがもたらす景気浮揚効果は「ストック効果」と言われますが、これらの言葉を使うと、「仮にストック効果がゼロの投資」でもあっても、「フロー効果が生ずる」という事態が生じないとは、到底考えられないのです。つまり、飯田氏の言うように「景況感に何の足しにもならない」と断定する事は、論理的には不可能なのではないかと、筆者には思えてならないわけであります』

 

この点について、飯田氏はやはり、「分配の問題を無視すると「1兆円増税して1兆円の給付金を支給した」ならば経済効果はゼロ(乗数は0である)と考えられます」と論じておられます。

 

当方の「フロー効果」についての論点は、まさに、この飯田氏のご主張に疑義を申し上げた次第です。

 

今一度繰り返しますが、公共投資には、フロー効果とストック効果の双方が存在します。この概念を用いるなら、飯田氏が語っておられる「B.10億円分の自宅警備事業(または穴を掘って埋める工事)を発注した」という事業は、「ストック効果がゼロの公共投資」と言うことが出来ます。飯田氏は、これを「C.定額給付金10億円を支給した」とことと、「実質的に(BとCでは)同じ事が行われている」と断定しておられますが、これは当方としては、残念ながら同意できないご主張です。

 

以下、その理由をお話いたしたいと思います。

 

まず、「C.定額給付金10億円を支給した」場合は、直接的には、その給付先が世帯であれ、企業であれ、所得が増えるという効果「のみ」が存在します(その所得を使うかどうか、とうい事はここでは問わないことにしておきましょう。ちなみに、それが使えば乗数効果が生ずることになりますが、それについてもここでは不問に付す事にしましょう)。

 

ところが、「B.10億円分の自宅警備事業(または穴を掘って埋める工事)を発注した」場合、そこで建設業者が「労働」をしておりますし、その穴を掘るための「重機」を使用していることになります。その重機が「レンタル」であるなら、その業者は、重機レンタルマーケットから、重機レンタルサービスを購入しています。

 

これは文字通り、民間の経済活動です。その重機の輸送を、建設業者が輸送業者に委託すれば、これもまた「輸送サービスの購入」という民間経済活動になります。さらには、労働者は「通勤」をしており、その通勤時には、その労働者は「バスサービス」「鉄道サービス」をバス・鉄道マーケットから購入しています。これは文字通りの民間の経済活動であります。

 

ここで重要なのは、上述の例で登場する建設業者も重機レンタル業者もバス・鉄道事業者も建設労働者も皆、仮に彼等の個人・法人の所得を一切使わずにタンスにしまったとしても、これだけの民間経済活動を誘発することになる、という点です。これが、筆者の言う「フロー効果」(の一部)です。

 

(なぜ一部かというと、この事業を経て得た所得を「使う」ことがあれば、一般的に言われる「乗数効果」が生ずることになるからです)(なお、飯田氏がおっしゃる乗数効果という言葉の定義と、当方がここで言及している乗数効果という言葉の定義とは共通で無い可能性が考えられますが、本稿の超長文化を避けるために、その点についてはここでは不問に付す事にしたいと思います)。

 

(ちなみに、こういう分析は一般に「産業連関分析」と呼ばれるもので、当方の様な公共政策の経済分析を行う人間にとっては、極めて一般的な分析アプローチであります)。

 

それにも関わらず、飯田氏は、「実質的にBとCでは同じ事」と断定しておられるのですが、なぜ、そのような断定ができるのでしょうか?

 

ひょっとしますと、我々は「無駄なモノ=ストック効果がゼロのモノが作られた場合、それが作られる際に投入された全ての付加価値はゼロである」という強い仮定を引き受けなければならないのでしょうか?

 

あるいは、JR山手線に乗っている人々を、無駄なものに従事している人々と、そうでない人々に分類し、後者の移動サービスだけが「価値」あるものであり、後者の移動サービスは「無価値である」という強い仮説を我々は引き受けなければならないのでしょうか?

 

さらにあるいは、仮に、受注した仕事が最終的には「無駄になる」とうい事が確定していたとしても、取引先から「来てくれ」と言われたら、やはり、その受注業者は、「目的地に行きたい」という(飯田氏がおっしゃる)主観的価値を形成する以上、その受注業者にJR山手線が提供する移動サービスは「価値がゼロ」であるとは言い難いのではないか、という論理を、我々は棄却しなければならないのでしょうか……?

 

筆者は、(B=Cであるという等式を成立させるために、論理必然的に求められるであろう)こういった強い諸仮説を全て引き受ける事を「回避」することが、理性的なのではないかと考えます。そしてその上で、(最終的な帰結はどうなろうと) 電車に乗りたいと考える人がいれば、彼に電車移動サービスを提供すれば、そこには経済価値があると考えることが、極めて自然な考え方ではないかと思います。

 

したがって、筆者は、やはりB=Cである、という飯田氏の主張は、受け入れがたい……と言う主観的認知を形成している次第であります。

 

ただしいずれにしても、(もしもここまで当方の討論にお付き合いいただいた読者の方々がもしもおられましたら)このご判断は、読者の皆様方にお任せいたしたいと思います。

 

ただ、読者の皆様方に是非お願いいたしたいのは、この

 

 

B.10億円分の自宅警備事業(または穴を掘って埋める工事)を発注した

C.定額給付金10億円を支給した

 

 

という両者において、B=Cか否か、という議論は、アベノミクスを成功させる上で、極めて重大な帰結をもたらす議論なのだ、という一点だけは、忘れないでいただきたい、という点であります。

 

もしも「B=Cである」と信ずる政策担当者αと、「Bの方がCよりも遙かに効果がある」と信ずる政策担当者βがいたとすれば、担当者αよりも担当者βの方が遙かに、財政出動=第二の矢を重視した経済政策を展開することとなるのは、論理的に必然だからです。

 

言うまでも無く、筆者は客観的な真理を常に断定できる神のような立場ではございません。したがって、筆者は筆者の主観を断定的に論じたに過ぎませんが、この筆者の討論をご覧になった方は、「B=Cである」と信ずる政策担当者αと、「Bの方がCよりも遙かに効果がある」と信ずる政策担当者βのいずれが理性的であるのかを、是非とも、「誠実・真摯かつ理性的」にご判断頂ければ幸いに存じます。

 

1 2 3 4
シノドス国際社会動向研究所

vol.269 

・外山文子「タイは民主化するのか?」
・中西啓喜「データサイエンスは教育を「良い方向」に導くのか?――学級規模の縮小を例として」
・笠木雅史「実験哲学と哲学の関係」
・穂鷹知美「求む、国外からの介護福祉士――ベトナムからの人材獲得にかけるドイツの夢と現実」
・久木田水生「ロボットと人間の関係を考えるための読書案内」
・吉野裕介「【知の巨人たち】ハイエク」
・内田真生「ヒュッゲ(Hygge)とは何か?――デンマークが幸せの国と言われる理由」