2012.03.22
留年制度は効率的で効果的か?
日本はこれまで自動進級制度を採用してきたが、橋下徹大阪市長が大阪での低学力層の児童に対する留年制度導入を提言したことで、一躍、留年制度が脚光を浴びることとなった。しかし、提言以降さまざまな所で行われている議論を見ると、自身の経験や感覚にもとづいた主観的な議論が大変多いように思われる。そこで、今回は低学力の児童を対象にした留年制度導入のためのコスト・成果について考察し、さらに留年制度の代替足りうる効果的で効率的な教育政策について提案したいと思う。
やや本題からは外れるが、本題に入る前に、教育の効率性とは何か述べておく。教育の効率性は、一般的に外部効率性と内部効率性の2種類に分けて議論される。外部効率性とは教育に費やしたコストに対して、教育システムがどれだけのベネフィット(アウトプット・アウトカム(*1))を生み出すことができたか、というものである。これは、前回紹介した教育のコストベネフィット分析そのものである。これに対して内部効率性とは、教育システム内部でのコストとアウトプットを表すもの(*2)である。
(*1) アウトプットとは投入物が直接生み出したもので、アウトカムはその生み出されたものがどのような変化をもたらしたかを指す。たとえば、あるコストをかけて学校建築を行った場合、でき上がった学校がアウトプット、子どもたちがそのでき上がった学校に通うようになり起こる変化がアウトカム、と考えられる。
(*2) もっとも知られた内部効率性の分析対象は、恐らく少人数学級のインパクトだと考えられる。この場合、少人数学級導入に伴い新たに教員を採用するコストに対して、子どもたちの成績向上というアウトカムがどの程度であるかを分析したものである。
以下では、まず仮に日本全体で留年制度を導入した場合に、追加的に発生するコストとその内訳について言及する。次に、国際連合教育科学文化機関国際教育研究所(UNESCO-IIEP)が出版している教育政策シリーズの留年を扱った回の内容を紹介することで、留年制度を導入した場合に予想される児童の学力への影響を考える。そして最後に、留年の対象になりそうな児童の学力を向上させるための、留年制度の代替足りうる教育政策について考えることとする。
留年制度を採択するコスト
前回紹介したように、教育のコストは(1)直接費用、(2)間接費用、(3)政府補助金、の3種類に分類することができる。今回は、日本全体で自動進級制度を放棄し留年制度を採用した場合、この3つのコストが大まかにどの程度変化するのかを考える。日本で留年制度を導入した場合に、現在15歳の学生が、経済開発協力機構(OECD)諸国平均と同じく、留年を一度も経験することなく義務教育を終了できる割合が87%で、かつ留年率が全学年で一様であったモデルケースを想定する。下の表はそれをコーホート再構築法を用いて展開したものである。総務省統計局発行の「日本の統計2011」によると、現在の15歳年齢人口が120.8万人である。この場合、義務教育を修了するまでに留年を経験する延べ児童は約16.9万人、延べ児童数増加率は1.55%となる。
まず、直接費用であるが、義務教育期間は無償であるため、留年制度が導入されても、追加的に発生する直接費用はそれほど大きく上昇することはない。具体的には1年分の生徒会費・PTA会費・学用品/実験実習教材費(教科書代を含まない)、教科外活動費、通学費(*3)などが、留年制度を採用した場合に追加的に発生する直接費用である。平成22年度の文部科学省「子どもの学習費調査」を用いて、公立小学校で留年した場合にかかる直接費用を試算すると、一人当たり約4.4万円となる。この場合、留年制度の導入によって増加する直接費用の額は約74億円に上る。
(*3) 話題になることが多い給食費は、働こうが学校にいようがいずれにしても食費は発生するので、留年した場合の追加的な直接費用とはみなせない。
留年制度を採用した場合のコスト面の問題点は、間接費用と政府補助金の上昇である。まず前者について考えてみる。前期中等教育修了を義務教育として維持しつつ留年制度を導入すると、留年した児童は留年した年数分だけ将来の労働期間が短くなってしまう。前回述べたように、一般的に教育の間接費用は直接費用よりも大きい。仮にある児童が義務教育期間のあいだに1年留年したとすると、留年して1年間労働期間が短くなることで諦めなければならない収入、つまり放棄所得は、少なくとも200万円以上に上る。この200万円に留年児童の人数を掛け合わせたものが、留年制度を採用することにより新たに社会が負担しなければならない間接費用となる。前述の留年率となった場合、留年制度を採用することで毎年社会が負担しなければならなくなる間接費用は、約3380億円程度となる。
次に留年制度を採用した場合の政府補助金の上昇について考える。政府補助金の増加こそが、留年制度は内部効率性を損なうとして嫌われている原因であるが、留年制度を導入すると延べ児童数が増加する。延べ児童数が上昇すると、キャピタルコスト・リカレントコスト(*4)の双方が上昇する。まず、前者についてだが、一般的には延べ児童数が上昇すると、これを収容するための教室や学校の建築が必要となる。しかし、極端な少子化傾向にあり、余裕教室(所謂空き教室)が6万教室以上存在している日本で、これらを心配する必要はほとんどない。したがって、留年制度採用に伴い新たに発生する政府補助金の上昇は、キャピタルコストの面に関しては発生しないと仮定することとする。
(*4) キャピタルコストはその年度内で消費され切らない予算を差し、学校建築費などが該当する。リカレントコストはその年度内で使い切られる予算を差し、初中等教育では教員給与がその大半を占める。
しかし、リカレントコストの上昇には直面してしまう(*5)。とりわけ、日本の初等・中等教育の教員給与はOECD諸国のなかでも高い水準にあり、具体的には日本の教員給与の国民一人当たり所得比をOECD諸国の平均と比べると20-30%ほど高い。そのため、新たに教員を採用する必要がある教育政策にかかるコストは、他のOECD諸国と比べて高くついてしまう。
(*5) 現在、日本の法律では1クラス最大40人と定められ、留年によってそれを超えた場合、新たにクラスを増設させなければならない。そのため教員も新たに増やさなければならなくなる。
では、必要な教員数が延べ児童数の伸びと同じく約1.55%上昇した場合、コストはどの程度増加するのであろうか? 平成23年度の義務教育費国庫負担金は約1兆5938億円であった。教員給与の1/3は義務教育費国庫負担金で賄われているため、地方は教員給与に関して、義務教育費国庫負担金の倍の額を負担していることになる。実際は、地方独自財源で教員を雇っているケースも存在しているが、少なくとも平成23年度の国・地方を合わせた教員給与予算は4兆7814億円に上る。ゆえに、留年制度を採用した場合、最低でも約741億円の追加的な教員予算が必要となる。
以上の結果に関して直接費用が算入されていないこと、政府補助金のキャピタルコストを無視していること、および教員予算に退職後の年金等が算入されていないという留意点があるものの、留年制度を採用した場合、社会全体で少なくとも4195億円程度のコストがかかることが分かる。
留年制度は子どもの学力を向上させうるか?
留年制度の導入は約4000億円弱のコストがかかり、高校無償化のための政府支出が3932億円であることと比べて考えてみると、留年制度の導入は社会にとってそれなりに高額な教育政策のように感じられるが、それに見合ったベネフィットを社会に対して生み出せるのであれば問題はない。
では、そもそも留年制度は、子ども達の学力を向上させることができるのであろうか。今回、橋下市長の提言直後に、毎日新聞が、OECDの報告書『Equity and Quality in Education-Supporting Disadvantaged Students and Schools』は留年制度が効果的ではないと報告していることを記事にした。しかし、国際機関が行った留年制度に関する分析は、この報告書の留年制度に関する分析の個所でも引用されている、UNESCO-IIEPとThe International Academy of Education(IAE)が共同で出版したEducation Policy SeriesのGrade Repetitionの巻の方がより広範囲な研究結果をもとに詳細な報告を行っている。
その内容を紹介すると、まず留年は次の条件を満たす児童のあいだで、多く発生していることが報告されている。(1)社会経済的に不利な家庭出身の児童、(2)低学年、(3)相対的に幼い児童(日本で言う所の早生まれ児童)、(4)男子、(5)両親の学校活動への関与が少ない家庭出身の児童。
次に、この報告書は、肝心の留年制度が児童の学力を向上させるか否かについては、留年制度は児童の学力を向上させるどころか、長期的にはむしろ留年した児童の学力に悪影響を及ぼすと結論づけている。この報告書によると、
留年直後の同学年内で比較すると、留年した児童は新たに進級してきた児童よりも成績が高く、この結果をもってして留年制度は効果的であると主張する人々がいる。しかし、同学年内ではなく同年齢内で比較した場合、留年を経験した児童はそうでない児童と比較して、進級するほどに学力で遅れを取っていく。しかも、同学年内で比較しても、留年直後に持っていたアドバンテージは長期的には消滅してしまうことが確認されている。
となっている。つまり、留年による学力向上効果はきわめて一時的なもので、学年が上がるにつれて留年によって向上した学力が低下し、長期的な効果は認められるどころか、むしろ逆効果でしかない、ということである。
この報告書は、留年によって向上した学力損なわれていく原因として、(1)留年によって自尊心が傷つけられてしまうこと、(2)友人たちとの関係が損なわれてしまうこと、(3)問題行動が増加すること、(4)学校が嫌いになってしまうことをあげ、これまでに留年を経験したことがある小学校6年生の児童にこれまででもっともストレスを感じたことをあげてもらうと、留年経験がもっとも多くあげられたことにも言及している。
つまり、一部の両親やとくに低学年を担当している教員、政策決定者は、留年の短期的な成果に目が行き易いので、留年を学び直しができる機会であると誤って捉えてしまっているが、大半の児童にとって留年は罰や屈辱の象徴でしかなく、長期的にはこれらによって学力が押し下げられてしまうのである。
また、留年制度の支持者には留年制度の導入によって、学級内の児童の学力が均質になり、教員の学級運営が容易になることで、留年した児童以外にとっても留年制度は恩恵があることを主張する人もいるが、これも実証研究の結果によって否定されている。
留年児童の傾向、長期的に見ると留年は学力向上に逆効果であること、留年が学力向上に逆効果である原因、はアメリカだけでなくフランスやベルギーでも見られたことも報告されている。
留年制度の代替となりうる教育政策
では、留年制度の代替となりうる教育政策として、どのようなものが考えられるだろうか。1つはOECDの文献が提唱したように、留年対象児童への集中的な介入であり、もう1つは、留年対象児童をそもそも発生させない方法である。
まず、前者を検討する。留年対象児童への集中的な介入方法として、留年の対象となりそうな児童に対する少人数学級の導入・放課後の補習授業や長期休暇中の特別補講の実施・両親との緊密な連携などがあげられる。
このなかでも、とくに長期休暇中の介入は重要である。アメリカで、貧困層の児童に対する、就学前教育による介入の効果を検証しようとした論文は、就学前教育修了時には就学前教育の効果が認められるものの、就学前教育終了から小学校入学までの長期休暇中の貧困層の家庭教育がきわめて不十分であるために、小学校入学時には就学前教育の効果が大幅に減少してしまい、1年生と2年生のあいだの長期休暇を経験したころにはそれが消滅してしまう、という問題があることが明らかにされている。
つまり、アメリカでは低学力児童に長期休暇をどのように過ごさせるかが、低学力児童の学力向上を考える上で肝要、ということである。日本でも、低学力層と家庭の教育力が弱い低所得者層がかなりリンクしていると考えられるため、長期休暇中の学習活動を家庭教育にすべて委ねるのではなく、学校教育が特別補講の導入などで積極的に介入することにより、低学力層の子どもたちの学力改善にある程度の効果が期待できると考えられる。
集中的介入のコストであるが、直接費用はほとんど発生しないし、間接費用はまったく発生しない。また、生徒たちが夏休み期間中であっても、フルタイムの教員は職務専念規定があり通常勤務であることから、長期休暇中に低学力層に補講を行うことの追加的コストはあまり発生せず、政府補助金の増加も留年に比べれば小さなものであると考えられる。
次に後者を検討する。留年が低学年の同学年内で相対的に幼い男子に顕著に見られることをUNESCO-IIEPとIAEの報告書は指摘していた。これは、低学年の早生まれ男子に多く留年の傾向があるということで、相対年齢効果という観点から説明することができる。
相対年齢効果とその対策については今後機会かあればまた詳しく書こうと思うが、簡単に説明すると、4月生まれの子どもと3月生まれの子どものあいだにはほぼ1歳の差があり、小学校入学時点で4月生まれの子どもは3月生まれの子どもよりも20%長く生きている。これは、IQに換算すると15程度もの差になると言われている。そして、男子は女子に比べて成長が遅いために顕著にこの影響が見られる。UNESCO-IIEPとIAEの報告書が指摘しているのはまさにこのことである。しかし、近年の相対年齢効果に関する研究を見ると、早生まれで成長の遅い児童の入学を1年遅らせることで、このような不利が解消されることが指摘されている。
早生まれで成長の遅い児童の入学を1年間遅らせることのコスト面に関しては、留年と同じく労働期間が1年短くなってしまうために、間接費用は留年同様発生してしまう。しかし、直接費用と政府補助金に関しては増加がない。それゆえ、早生まれで成長の遅い児童の入学を1年間遅らせることのコストは、留年制度の導入よりもコストを抑えることができる。
まとめ
以上の事から、留年制度の導入はコストが高くつく上に効果がほとんど認められず、低学力児童の学力向上策としては、不適切な教育政策であることが予想される。しかし、上記の結果が完全に日本に当てはまるとはかぎらない。日本の児童がアメリカの児童と異なり留年によって自尊心が傷つかず、友人関係も壊れず、学校を嫌いにならない可能性は、研究結果がないことには完全に破棄することができない。また、上記で紹介した報告書がレビューしている研究は、同年齢内の似たような成績の児童を比較対象としているが、より厳密なマッチングを用いた推計が必要だと感じられる。このため、日本においてもこの分野での研究が必要だと考えられる。
しかし、留年制度の代替足りうる教育政策は、留年制度よりもコストが低いだけでなく、留年制度のような負の作用が存在しない。これに他国の経験をあわせて考えると、やはり留年制度を導入することは低学力児童の学力を向上させるために効果的でもないし、効率的でもないという判断を下すのが妥当だと思われる。また、何よりも、成長という観点から1日1日が大変重要である児童に、その日の放課後や長期休暇に学び直しの機会を与えるのではなく、わざわざ1年も待って学び直しの機会を与えなければならない必要性はまったくない。日本の自動進級制は今回紹介した報告書でも良い実践として紹介され、国際的にも高い評価を得ているのに、あえて留年制度を導入するという改悪を行う必要はない。
世界的に見ても、自身の学歴・学校歴の高さがもたらすバイアスと国際的な経験の豊富さから、教育政策関係者は高学力の児童・生徒を国際的な競争に勝ち抜けるように伸ばすことに注力しがちである。さらに、大学生の人数をめぐる論争が示すように、近年の日本にはできない子どもや人間に教育を施す必要はないという誤った風潮が見られる。たしかに、留年制度は低学力児童の成績向上のための教育政策としては適切ではない。だが、そうした風潮のなかで、低学力児童に対して早期に対処をしようとするその姿勢自体は、高く評価されるべきものであると考える。
(本記事は筆者個人の見解であり、所属機関を代表するものでも、所属機関と関連するものでもありません。また、立場上謝金は受け取っておりません。)
プロフィール
畠山勝太
NPO法人サルタック理事・国連児童基金(ユニセフ)マラウイ事務所Education Specialist (Education Management Information System)。東京大学教育学部卒業後、神戸大学国際協力研究科へ進学(経済学修士)。イエメン教育省などでインターンをした後、在学中にワシントンDCへ渡り世界銀行本部で教育統計やジェンダー制度政策分析等の業務に従事する。4年間の勤務後ユニセフへ移り、ジンバブエ事務所、本部(NY)を経て現職。また、NPO法人サルタックの共同創設者・理事として、ネパールの姉妹団体の子供たちの学習サポートと貧困層の母親を対象とした識字・職業訓練プログラムの支援を行っている。ミシガン州立大学教育政策・教育経済学コース博士課程へ進学予定(2017.9-)。1985年岐阜県生まれ。