福島レポート

2019.02.12

被災地のコミュニケーターを目指す

AFW代表理事・吉川彰浩さんインタビュー / 福島レポート編集部

インタビュー・寄稿

一般社団法人AFWの代表理事の吉川彰浩さんは、東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所事故の被災地の「今」と廃炉の現状を伝える活動を続ける。かつて東京電力の社員だった吉川さんは、原発事故後東電を辞め、被災地の住民とともに地域創生の道を歩む。吉川さんは「科学と暮らし、人と人、組織と組織をつなぎたい」と語る。被災地に向き合う想いを聞いた。

自分たちが運転してきた原発は、自分たちでどうにかするしかない

――2011年に東日本大震災が起きたときには、東電社員として福島第二原発で働いていらっしゃったそうですね。福島第一原発事故が起きたときの状況を教えてください。

あの日は金曜日で、いつも通りに業務をしていました。地震が起きて、社員や作業員に対して「現場から退避するように」との指示が出ました。停止できる設備は止めて、全員、高台にあるグラウンドへ向かいました。人数が多く、退避が完了するまで数十分かかったと記憶しています。

高台からは建屋が見えず、音しか聞こえません。それで、はじめは地崩れかなと思いました。でも、ラジオのニュースを聞いていたら、「双葉郡にも津波が来ている」と伝えていました。「津波」の言葉は聞こえているのに頭が受けつけず、まったく信じられませんでした。やがて、ちらちら雪が降ってきたのを覚えています。防寒もせずに出てきていましたので、とても寒かったです。

――「地震で原発が壊れたのではないか」という不安はありませんでしたか。

2007年の新潟県中越沖地震の際、柏崎刈羽原発で火災が起きました。その教訓を踏まえて、原発の耐震性強化が進みました。強化対策がおおむね完了したのがちょうど2011年3月の原発事故の直前。ですから、「地震で壊れることはないだろう」と考えていました。

普段から、大きな地震があると、深夜までパトロールに追われます。このときも、普段と同じ地震対応が始まったという気持ちでした。週末を控えた金曜日午後のことですから、周りにいた人たちと、「まもなく休みに入れると思っていたのに」と話していたくらいでした。

――原発が津波に襲われたことは、どのように知りましたか?

福島第二原発には4基の原子炉がありますが、すべて運転停止できました。そうは言っても、地震の揺れで、事務所の中はめちゃくちゃになっていると思いました。片づけをしなければいけないので、まず第1陣がバスで高台から事務所につながる坂道を下っていきました。

ところが、そのバスが津波に襲われたのです。運転手が咄嗟にバスをバックさせて高台に戻ってきました。バスはずぶ濡れでした。予想外でしたから、バスに乗っていた人たちに聞くと、「津波だ」と叫んでいました。中には泣いている人もいました。下の様子が見えるところまで行ってみると、水を張った田んぼのようになっていました。フェンスも外れて、ぐちゃぐちゃに壊れていました。

原発で働いていた人たちは、みんな原発の近くに住んでいました。町に戻ろうとする人もいたし、泣き崩れて動けなくなってしまった女性もいました。富岡町の海沿いは津波にのまれて、楢葉町も一部ごっそりとなくなっているように見えました。

そんな状況の中、私はある瞬間にカチッとスイッチが入ったような感覚を覚えました。「現場に行くぞ」と思ったのです。自分たちが運転してきた原発ですから、「どんなに酷い状況になったとしても、自分たちがなんとかするしかない」と思いました。

運転中の原子炉はつねに冷やし続けなければなりません。その冷却水を確保する必要があります。普段は原発2基を冷やすための水がありますが、緊急時には近くの川から水を引きます。そういうことを考えながら、その後はもう、とにかく無我夢中で動きまくったという記憶しかありません。

原子力発電は「未来のエネルギー」だった

――そもそも、どのような経緯で東京電力に就職されたのでしょうか。

茨城県常総市に生まれ、中学卒業後に東電学園高等部という、東電が運営している学校に入学しました。月3万円ほどの生活費をいただき、普通の高校の必須科目も学びながら、電気関連の授業を受けました。正社員になると、大抵自分の出身地に配属されます。

卒業前に進路相談の機会があり、おおまかに希望の所属部署を訊かれます。私は、火力・原子力への配属を希望しました。出身の茨城県には鹿島火力発電所もありましたし、当時は「選べるのであればかっこいい仕事がしたい」という感覚だったのかもしれません。

当時、原子力発電は「クリーンな未来のエネルギー」として高い期待が寄せられていました。「そんなに凄い技術ならば、やってみたい」と思い、第1希望を「福島第一原発」、第2希望を「福島第二原発」、第3希望を「鹿島火力発電所」と書きました。福島第一原発には、3年次に見学もしました。

親や教師には反対されました。「普通は地元に戻るものだ」と諭されたり、「なんのために3年間勉強したんだ」と言われたりもしました。全部突っぱね続けて、福島第一原発で働くことになりました。

――原発の技術者としてのお仕事はどのようなものでしたか。

1999年4月に福島第一原発に配属されました。縦割りで、グループによって極端な分業化がされていました。私は廃棄物処理の担当でしたので、廃棄物処理建屋内の仕事しかしません。原子炉建屋に行く機会はありません。私は別の現場も知りたくて、業務ではなく、あちこちを見て回っていました。

どのグループにも同期入社の仲間がいたので、彼らに会いに行くようなかたちでした。ですから、事故が起きた福島第一原発1~4号機は、全基の格納容器に入ったことがあります。福島第一原発で10年ほど働いた後、異動で福島第二原発へ移りました。その後に、東日本大震災と原発事故が起きました。

東京電力を辞めてやりたかったこと

――東京電力をお辞めになったきっかけはありますか。

東京電力を辞めたのは2012年の6月でした。原発事故から1年余りが経っていましたが、事故を起こした東電に対するバッシングは非常に強くありました。現場で働いている人たちにも、非難の声がたくさん届いていました。

現場で働く人たちは、協力企業の社員も含め、多くは地元で採用された人たちです。つまり、自分が今まさに働いている場所が、自分の故郷を壊したということです。事故収束の作業中にけがをした人が、血だらけで運ばれていく場面に居合わせた人もいました。第二原発では、津波で亡くなった方のご遺体を預かったこともあります。

こうした現場の過酷さに加えて、どんなに命がけで頑張っても誰も褒めてくれないどころか、むしろつねに非難され続けて、みんな相当精神的に追い詰められていたと思います。休みの日には、避難生活を送る自分の家族の元に帰ります。家族が「お前の父親は東電社員か」「あんたは親族に東電の人いるよね」と責めるように言われていると、聞かされます。家族といても気を休めることができないのですね。次第にどこにも自分の居場所がないという感覚になっていきます。

そのうち、社員も協力企業の人たちも、どんどんやめていきました。日々、誰かがお別れの挨拶にきました。「吉川くん、ごめん、ごめん」って泣きながら謝るんです。ずっと「吉川さん」って呼んでいた人が、そのときは「吉川くん」って言うんですね。自分の親くらいの年齢の人が多かったです。もしかしたら、息子を置いていくような気持ちだったのかもしれません。そういう人たちが、謝りながら、どんどん去っていきました。

残った人たちがなんとか頑張っていましたが、故郷を壊してしまった罪悪感に苛まれながら、なんとかぎりぎり踏みとどまっているといえる状況でした。耐えきれずに辞めていく人の代わりに、ややモラルに欠ける人たちが加わることもあったのでしょう。働く人のモラルが低くなればトラブルが起こります。そしてトラブルが起これば、メディアが現場で働く人たちをバッシングする。そういう悪循環が起きていました。

一方で、偉い先生がテレビに出ていろいろ語ることがたくさんありました。現場に来ない先生たちが語る「現場」の話は、はっきりいって全部机上の空論だと感じました。本当に酷かった。それで、実際に現場で働いて、現場を知っている人間が、社会に向かってきちんと声を出さなければいけないと思いました。でも、東京電力の社員のままでは、守秘義務があって話せないことがたくさんありました。だから、「辞めよう」と思いました。「東電を辞めて、現場で起きていることをそのまま伝えよう」と思ったんです。

現場に支援物資を送る

――東京電力を辞職された後は、どのような活動を始められたのでしょうか。

まず、ブログやFacebookなど、インターネットを使った活動を始めました。目的は、ずっとバッシングされ続けていた現場の人たちに「社会が応援しているよ」という声を伝えることでした。そして、現場に支援物資を送ろうと思いました。募金を呼びかけるために銀行口座が必要だったので、任意団体「Appreciate Fukushima Workers(現在のAFW)」を立ち上げました。新聞でも取り上げてくれて、募金は最終的に1000万円くらい集まりました。それを全部使って、ヒートテックみたいな温かい下着を7000着と携帯カイロ30万個を送りました。

当時の現場は、当たり前に働けるような環境ではありませんでした。社会にも彼らを支えようという考え方はありませんでしたし、働いている人たちにも、社会に応援されて、それをエネルギーにがんばろうという感覚はなかったと思います。ちゃんと見てくれる人はいるんだ、応援してくれる人はいるんだということを、現場の仲間に伝えたかったんです。

――現在(2018年)は、どのような活動をされていますか。

現場の働く環境はだんだん改善されました。次第に、支援物資を外から送る必要もなくなりました。そのとき、改めて「自分はなぜこの活動をするのだろうか」と考えました。

「自分が一番幸せだったのはいつだっただろう」と思い返すと、震災前の、何でもない普通のサラリーマン時代だったのです。なんでもない日々がとても幸せだった。言い換えれば、「暮らし」です。この地域で、持続的に住民の暮らしが営めるために、活動していこうと思いました。

今は、福島第一原発の構内視察を3か月に1度くらいのペースで行なっています。以前は毎月だったのですが、「AFWだけ特別に構内視察しやすい」という状況ではなく、ほかのグループと同じ頻度で続けられるようにしています。

構内視察に加えて、被災した地域の現状を案内する活動も行なっています。この地域の日常の暮らしを伝えたいという思いが今は強いですね。地域のことなら、いくらでも話すことがあります。たとえば、除染で出た廃棄物や除染土を置いている仮置き場は、負の象徴のように語られます。でも、除染でゴミや土が出るということは、作業員が毎日頑張ってくれたということでもあります。その結果、私たちもここで安心して暮らすことができるのです。

福島第一原発の廃炉を伝えること

――福島第一原発の廃炉の現状については、どのように伝えておられますか?

ここで暮らすということは、「福島第一原発とともに暮らす」ということだ、という現実があります。現場で日々汗を流す人たちのことも伝えますし、福島第一原発の廃炉そのものにどんなリスクがあるのか、あるいはどこまで作業環境の改善ができたかということなど、包括的に伝えていかなければなりません。「全部東電に任せておけばいいや」ではなくて、「みんなで考えようよ」と思っています。

活動当初は、まるで「エンジニア」同士が話しているように、専門的なことばかり語っていました。でも、それでは東電が住民に向けて一方的に説明会を開くのと変わりがありません。それでは住民の心には届かないな、と気づきました。ここで田んぼを再開したい、子どもを産んで育てたい、など、この地域で暮らすために、福島第一原発のことを知りたいと思うようになった方がいます。

そこで、2016年頃からは、積極的に自分から原子力や廃炉のことを話す頻度を、意識的に減らしました。「福島第一原発や廃炉のことなら、気軽に聞ける吉川くんが身近にいるな」と、地域の人たちに思ってもらえるようでありたいです。サイエンスやアカデミックな世界と、暮らしという日常の世界があります。その間の溝や壁を越えるためのつなぎ手になれればと思っています。

数年前の自分は、たんに科学的なデータを示して一方的に説明するだけでした。相手の思いや信じているものを頭から否定して、「おれの話を聞け」みたいな。今は、福島第一原発や放射線が「怖い」と感じる相手の思いや、信じているものをまず聞いて、いったん相手を受け入れることを大切にしています。

福島県沖で魚を釣って、人にあげようと持っていくことがあります。ときどき「いや、いらない」と言われることもあって、もちろん、多少はショックを受けますが、むしろ「押しつけようとしてごめん」と言えるようになりました。

福島にまた遊びにきてください

――活動を続けてこられて、ご自身の変化はありましたか?

活動当初は「社会を変えたい」なんて言っていました。でも、本当はそういうことではなかったのです。「自分自身にとっての大切な場所を取り戻したかっただけだ」と気づきました。この地域で、私は成長しました。私にとっても、もうここは大切な故郷なのです。「故郷の日常が、当たり前にここにある」ということが、どれだけたくさんの人たちの努力や苦労の上に成り立っているのかを、たくさんの人に知ってほしいなと思っています。

活動を続けていく中で、「私は福島のために何ができますか?」と聞かれることがよくあります。私は、「まずは、あなた自身の人生と、あなたの家族の人生を大切にしてください」と答えています。福島に来てくれた一人ひとりの故郷を、大切にしてほしい。その上で、もし余力があって、そして福島を好きになってくれた人が、また訪れてくれたら嬉しいです。

別れ際に「また遊びにきてくださいね」と言っていたら、本当にまた福島に来てくれる人がずいぶん増えました。同じように、福島の米がおいしかったらまた買ってくれたらいい。そうやって、無理のないかたちでいろんなことが進んでいったらいいな、と思います。

原発事故前、私は双葉町に住んでいました。今の双葉町には自慢できるようなことは決して多くないのかもしれない。それでも、住民の方の誇りを取り戻せるようなことが、ひとつずつ増えていくといい。AFWが、そういう「暮らし」や住民の方の誇りを伝えられる存在になっていきたいと思います。