福島レポート

2018.05.12

科学を福島の住民の生活につなぐ

丹羽太貫×早野龍五 / 服部美咲

インタビュー・寄稿

「基準値は安全と危険の境界ではない」

2017年8月、放射線相談員等についての会合が福島県いわき市で開かれた。放射線相談員は、住民が放射線と向きあいながら暮らしていく上での様々な相談に応じるべく県内各地に配置されている。会合では、避難指示が解除された地域の相談員から、「国が除染の目標として示した年間追加被曝線量(以下「年間」と略記)1mSvという数字、そこから算出された毎時0.23μSvという数字そのものが、住民の不安と不信感を煽っている」と訴える声が複数あがった。

長崎大学高村昇教授は会合の中で、2017年4月に避難指示が解除された富岡町では、住民のうち「戻りたい」と回答する人は2割を切ると発表した。その理由として約43%の人が「放射線不安」を挙げた上、「(数字として)線量が下がれば帰還を考える」と答えた人は48.4%にのぼり、「(放射線による)健康影響がないとわかれば帰還を考える」という回答(29.3%)を大きく上回った。「国や公的機関が、『毎時0.23μSvに縛られる必要はない』と明確に発信してほしい」と、ある相談員は悲痛な声をあげた。

原子力規制委員会の伴信彦委員は、「本来、『どこに住むか』という選択は住民自身の自由意思で行われるべきものである。しかし、国が掲げる『1mSv/年』、またそこから算出された『0.23μSv/時』という数字は、その自由な意思決定を阻んでいる」と指摘した。その上で、「基準値は安全と危険との境界ではないのにもかかわらず、そのあまりに硬直化した運用が、かえって住民を苦しめているのは本末転倒である」との厳しい見方を示した。

硬直化した基準値が奪った豊かさ

ICRP(国際放射線防護委員会)では、事故などの緊急時に一般の人々の受ける放射線量の管理目標として、年間20~100mSvを勧告している。日本ではこの勧告に基づき、緊急時の管理目標の最小値である年間20mSvを避難解除の要件とした。生活を再開し、住民が生活を送る上で無理なく下げられるのであれば、年間20mSvから段階的に管理目標を下げていく。そしていつか、最終的には年間1mSvにしても、住民が生活に不便しないようになればよい。しかし日本では現状、このように基準値が柔軟に運用されているとは言いがたい。

2011年10月に当時の細野豪志環境大臣が「年間1mSv以下を目標に除染する」と発言した。これにより、「年間1mSv以下」という数値があたかも「安全と危険の境界」であるかのように運用されるようになった。さらにその数値を達成するための空間線量率を「0.23μSv/時」と環境省が算出し、除染の目標として公表した。このことが「その地域の空間線量率0.23μSv/時」が除染するかしないかの線を引くことにもつながり、住民間の軋轢や不安を強めた。

この除染費用は、最終的にさまざまなかたちで次世代が負担することになる。これまでにかかった国の直轄除染費用は2兆円を超え、市町村などが管轄する除染費用もほぼ同額に達する。除染土を詰めた膨大な数のフレコンバッグは、2017年3月末にようやく避難指示が解除された飯舘村だけでもおよそ200万袋を超える。除染土や廃棄物等はあわせて約1600万~約2200万㎥(東京ドームの約13~18倍分に相当)にもなる。黒いフレコンバッグが故郷に山積された光景は、帰還を待ち望んだ住民にとって決して心安らぐものとはいえないだろう。さらに、大熊町や双葉町に建設される中間貯蔵施設の面積は約16㎢であり、これは大熊町と双葉町をあわせた全面積の1割以上を占める。

富岡町夜ノ森駅前

富岡町夜ノ森駅前

基準値の硬直化した運用の弊害は除染の問題にとどまらない。「1mSv/年」という基準値から、「市場に出回る食品の50%が汚染されている」という現実的ではない前提のもとで、「100Bq/kg」という極めて保守的な食品基準値も定められた。この基準値に基づく県産米の全量全袋検査には年間数十億円の予算が投入されつつも、かえって風評被害の一因となりうるとの指摘もある。

野生のキノコや山菜、イノシシやシカなどのジビエでは、いまだに「100Bq/kg」という基準値を超える放射性物質が検出されることがある。これらの食材とかかわりの深い、福島の豊かな食文化にも、この保守的に過ぎる基準値は大きな打撃を与えた。豊かな食文化は、豊かな自然と共に生きてきた住民の生活そのものである。帰還を決断して新たな日常を歩み出した住民にとっては、何にも換えがたい宝であり続けるはずのものだった。

「ALARA」は「ALAP」ではない

「QOL(Quality of life:生活の質。一人ひとりにとって幸せを感じられるような人間らしい、自分らしい生活のこと)を投げうってでも無条件に可能なかぎり線量を低くするべき」という考え方は、県内外を問わず福島の住民の生活を脅かし続けている。言うまでもなく、ICRP(国際放射線防護委員会)の勧告する「ALARA」とは「As Low As Reasonably Achievable」(「(社会的、経済的に)合理的な範囲内でできるかぎり低い被曝線量を目指す」)であり、「ALAP」(As Low As Possible)(「(無条件に)可能なかぎり低い線量を目指す」)とはまったく異なるものである。

こういった現在の状況をふまえ、今回は丹羽太貫放射線影響研究所理事長、早野龍五東京大学名誉教授にお話をうかがった。

丹羽理事長は、東電福島第一原発の事故以前からICRPの委員を務められ、事故後にはさまざまな責任ある立場も経てこられた。また、福島の住民と国内外の専門家との対話を通して、住民が放射線と自助的に向き合うための「ダイアログセミナー」をはじめられた。早野名誉教授は、福島第一原発事故の直後から、福島の住民における外部被曝、内部被曝などあらゆるデータの測定・解析をされ、多数の論文を発表されている。また、住民一人ひとりとのきめ細かい対話を続け、2015年からは福島の高校生を中心に放射線教育にも力をいれておられる。

「日常生活が壊されたこの状況を、サイエンスだけでは助けられない」

――早野先生は、もともと専門にご研究されてきた分野が原子核物理学ということを以前うかがいました(物理学者・早野龍五が福島で示した光――研究者として福島に向き合うということhttps://synodos.jp/society/19238)。丹羽先生のご専門はどのような分野だったのでしょうか。

丹羽理事長(以下敬称略) 私はもともと、放射線生物学で放射線の生体影響の機構解明の研究、それに、この研究が放射線防護(放射線障害を防ぐこと。主に放射線管理施設や関係法令などの政策に関わる)にどう関係しているのかということを研究しておりました。そういうわけで、私がやっていたのも純然たるサイエンスです。

――福島第一原発の事故が起こって、丹羽先生の「純然たる科学者」という部分に変化はありましたか。

丹羽 原発事故後に福島にきて、「どんなに根拠のしっかりしたサイエンスでも、誰にも通じなければ何の役にも立たない」ということを学びました。これはぼくにとっては大切なレッスンでしたね。

放射線審議会の会長でしたから、2011年の3月11日に会合の開催は不可能な中、メールでの審議がはじまりました。

早野名誉教授(以下敬称略) 最初は緊急時の原発構内作業員の線量制限当面250mSv/時の設定でしたか。もともとこういった緊急時の放射線作業従事者の線量制限についての法律はありませんでしたね。現存被曝状況(事故後の回復途上の被曝状況)についての法律もなかった。原発事故前の2010年に丹羽先生が放射線審議会でなさろうとしていたこれらの法整備が最後までできていれば、少しは状況が違ったかもしれません。

丹羽 当時の官僚を説得できたでしょうかね。それでも当時はとにかく「現地を見ないで審議はできん、それはおかしなことや」ということで、原発事故が起きて審議会の有志を募って福島に行きました。伊達市、飯舘村。伊達市では半澤さん(当時、半澤隆宏伊達市生活部次長)に除染の現場も見せてもらいました。

田中先生(田中俊一元原子力規制委員長)が除染を頑張っておられた飯舘村の長泥(飯舘村・2017年現在帰還困難区域に指定)にも行きましたけど、区長の鴫原さんのお宅は除染もしっかりされて、線量は高くなかったです。でも排水溝を測ったら測定器の針が振り切れてね。私も長いことアイソトープ(放射性同位体。本来はこれを含むものが放射性物質と呼ばれる)を使って研究しておりましたけども、針が振り切れるのを見たことがなかったから、驚きました。

鴫原さんには3、4時間お話を伺ったんです。牛小屋に行ったら、納屋にうっすら埃が積もっててね。野良仕事から帰ってくると牛がもうもう鳴き、犬がわんわんと吠えて迎えてくれる。借金も返しきれていないのに、ここで生活もできない、とのお話をお聞きして、「ああ、これはあかん」と思った。「日常生活が壊されたこの状況を、サイエンスだけでは助けられるもんやない」と思った。

またもっと現地に近いところでものを考えないといけないとも思いました。当時私は東京で小さな会社にいましたが、そこでやっていたこともそれなりに形が整った次の年には退社しました。そして運よく福島に行くことができました。

放射線の「セルフヘルプ」は可能か

――2011年11月から、丹羽先生は福島でダイアログセミナー(国内外の専門家を含む関係者が福島県内各地で行っている対話集会)を始められました。(2015年12月でICRPによるダイアログセミナーは終了。現在開かれている同名の活動は別の運営主体によるもの)

丹羽 2011年で大きかったことは、飯舘村の長泥に行ったことと、もう一つ、9月にベラルーシを訪問したことです。ICRPの同僚だったジャック・ロシャールと一緒に行きました。ジャック・ロシャールという人はつねづね「自助努力」と「対話」と言うんですが、私は当初はあまりピンとこなかった。対話で何かがよくなるとは信じられなかったんです。それでも、「福島は立ち直れるんやろうか」というのが一番気になっていたから、とにかく一緒にベラルーシに行ってみました。

そしたら、ベラルーシはちゃんと立ち直っていた。立ち入り禁止になっている区域のすぐそばの村には若い人たちがたくさんいて、人口も少しずつ戻り始めていてね。ほっとした。「とにかく25年たったらリカバーするんや」って。

帰国して11月に福島県庁で、まずは地域の職員や首長にお集まりいただいて、最初のダイアログセミナーを開きました。翌年の2月に伊達市で、同年7月、11月、年が明けて2月、とテーマを変えながら対話をしてもらいました。ICRPが専門家として入っていましたが、主役は地域住民ですし、対話のなかでとくに意見を言ったりしない。

最初から見ていると、住民の方々の意見の違いの中で、対話を通して共有できるものや具体的なアクションが取れるもの、そういったものがだんだん見えてくる。でも2013年の7月に福島市で飯舘の皆さんとの対話をテーマにして開いてみたら、コミュニティが変われば対話を通して共有できるものもまた変わるんですね。ダイアログは今も開かれています。意味もあると思いますよ。

ダイアログセミナーがうまくいったのは、線量が低いということがはじめからわかっていたからでもあります。福島の原発事故では健康影響は大きな問題じゃない、社会問題であることは明らかでした。ただ、「健康影響がない」ということをわれわれ生物学者が矢面に立ってはっきり言えば、社会問題も少しは解消できると思っていたけれど、それは傲りでした。結局、早野先生のような物理学者が一番役に立ちましたね。と言うのも、放射線の線量は数字ですから、誰とでも共有できる。でも健康影響についての判断は共有ができませんから。

ジャック(ロシャール)の言っていた「セルフヘルプ」は、ダイアログセミナーの基本的なモチーフです。その理由は明確で、放射線という目に見えないものは、対抗できず、統御できないという思いを人々に与える。自分で状況を統御できない状況に陥ると、人間は自分に自信が持てなくなくなり、そうなると誇りも持てなくなるんです。自分が何か前向きに動くことができると、自信を回復することができる、前向きに動く機会が重要です。

――早野先生も、ホールボディカウンター(内部被曝計測装置)やD-shuttle(1時間ごとの個人積算線量がわかる外部被曝計測器)、ベビースキャン(幼児向けの内部被曝計測装置)といったツールを使った放射線計測を通して、住民との対話を深めてこられました。

早野 ぼくは最初、ホールボディカウンターで住民の方の内部被曝をはかっていました。内部被曝線量は、「何を食べたか」と対応していますから、住民一人ひとりと対話ができる数字です。検出されて気になる方は裏山の山菜やキノコを少し我慢すれば、数ヶ月で出なくなります。

それから、千代田テクノルのD-shuttleを田村市都路で帰還の準備段階で皆さんにつけて、帰還後の生活と同じように過ごしていただきました。たとえば帰還して農作業をされる方には、D-shuttleをつけて実際に畑へ出て農作業をしていただいた。外部被曝線量を一人ひとりの行動と対応させたので、とても納得感がありました。

でも、D-shuttleによる対話が田村市都路で成功したのは、やはりこれも実際に線量が高くなかったからです。農作業をしても何をしても大して外部被曝線量が高くないとわかったから、納得感があった。じゃあこれをもっと線量の高い地域、年間1mSvを超えるような地域でやったら一体どうなっただろうか。とくに、その当時2014年には年間追加被曝1 mSvと共に「毎時0.23μSv」が定着しつつありました。それを超えたときに、一体どうすればいいのか。

ぼくもジャックとは何度も話しあいました。お互いに言ってることは理解できる。でも、最後のところでどうしてもわかりあえない。

ジャックが言っている「放射線のセルフヘルプ」の対象は内部被曝線量なんですよ。でもぼくたちが今問題にしているのは外部被曝線量なんです。内部被曝は食べものでコントロールできます。自分で決められる。でも外部被曝は自分ではどうしようもない。

たとえば、果樹農家が果樹園に行くと外部被曝線量が年間追加被曝1mSvを超えるとわかったとして、でも「だから果樹園には行きません」ということにはならないんですよ。だって生活しているんだから。「あなた、果樹園に行くと年間追加被曝1mSvを超えるから、明日から果樹園に行くのをよしなさい」という対話は成り立たないんです。じゃあこういう場合に、放射線のセルフヘルプに一体どんな意味があるんだろう。

食べものならば自分でコントロールができます。ぼくらも「裏山の山菜キノコをちょっと控えなさい」と言えます。今地域に配属されておられる放射線相談員もそれなら言えるでしょう。でも、外部被曝線量はそうはいかない。D-shuttleをつけて、年間追加被曝が1mSvを超えるとわかっても、「あなたはちょっと高いですね」でとまっちゃうんです。相談員も追加除染しますなんて言えない。そんな権限は与えられていないわけです。これには、「解」がない。

「何のための放射線防護ですか」

早野 原子力規制委員会が「帰還に向けた安全・安心に関する検討チーム」を招集し、2013年の秋に結論を出しました。それは、まず「年間追加被曝20mSv以下であること」、「生活インフラが整っていること」、そして最後に「ステークホルダー(利害関係者)の合意があること」です。

この三つ目の要件が避難指示解除を難しくしました。住民の方々の集会に行くと、かたや「帰れるものなら今すぐにでも帰りたい」、かたや「月いくらかを貰いながらでも帰らないでいたい」、ステークホルダー、住民の方々の合意なんかないんです。この三つ目の要件を設定したことについて、当時検討チームの議論に参加しておられた丹羽先生はどうお考えですか。

丹羽 いや、合意なんかいらないですよ。帰りたい人は帰る。それに尽きるんじゃないですか。世界中で今難民問題が起きているけれども、「おれはここに残る、ここにしがみついてでも生きていくよ」っていう人がいなくなったら、その国は消滅するんです。たとえば飯舘村はもともと入植でできた村ですね。帰りたい人が1/3だって1/5だって、高齢者ばかりだとしても、帰ってきたなら、帰ってきた人がもう一度ゼロからはじめる。それしかない。

早野 帰還までの時間が長くなればなるほど、それは難しくなりますね。

丹羽 もう、とっくに難しくなっているでしょうね。

早野 そう、とっくに難しくなってしまいました。でも、線量だけで言うならば、田村市都路で避難指示を解除した2014年の段階で、すでに同じくらい線量が低くなっていた地域はたくさんありました。UNSCEAR(国連科学委員会)が2015年に出した図があります。(http://www.unscear.org/docs/reports/2015/Fukushima_WP2015_web_jp.pdf

地図

これは、事故後3年が経過した2014年の段階で、外部被曝線量が年間追加被曝1mSvで引かれた線です。田村市都路(2014年4月避難指示解除)は1mSvの外、川内村(2014年10月避難指示解除)もほぼ外、楢葉町(2015年9月避難指示解除)も南相馬市小高区(2016年7月、一部地域を除いて避難指示解除)もほぼ1mSvの外です。

これは1mSvの線ですから、もし避難指示解除の基準になる20mSvの線を引けば、これはもうほとんどの地域で一斉に避難指示が解除できていました。たとえばこの時期に、都路がそうしたように学校再開を含めて一斉に避難指示を解除していれば、きっともっとたくさんの人が幸せになっていたでしょう。

何のための放射線防護ですか。事故も何も起きていない平常時は管理上1mSvにしておけばいいでしょう。でも現実的には事故が起きたんですから、住民は生活をしなければならない。生活しながらの放射線防護はもっとリアルなものであるべきです。「ALARA」とはまさに、「放射線リスクを必ずしもゼロにしなければならないわけではない」ということのはずなのに、そしてこの6年半、専門家は常にこの意味で「ALARA」と言ってきたはずなのに、実際には一度も「ALARA」は実行されませんでした。

人々は「ALARA」の代わりに「ALAP」(無条件に可能な限り低い線量を目指す)を実行しました。ND(不検出)じゃなければいけない、空間線量率は毎時0.24μSvになってはいけない。しかし、それと引き換えに壊されたものはあまりにも大きいものでした。家族を壊されたし、コミュニティを壊されたし、豊かな食文化も壊されたし、そこに住む生活の楽しみも壊されました。でもこうして線量を見てみれば、これほどのものをすべて投げ打つ必要なんてなかった。

けれども当時はそんなことを言えるような状況ではなかったし、さまざまな要素が絡み合って、結局これを言うのに6年半も経ってしまいました。今さらこんなことを言って、一体どれだけの人に伝わるか。ぼくはかなり絶望しています。

丹羽 人の心は、こうと決めたら命がけでそっちへ突き進むという場合があるから、それはなかなか言えることじゃないです。最後の最後までぼくらが言えるとしたら、帰りたい人は帰って大いにがんばりましょうよ、ということだけじゃないですか。帰れない人もそこで大いにがんばりましょう。

次世代への影響は「絶対にない」

早野 福島に事故後6年半経ってなお残る問題を2つあげるとしたら、まずは甲状腺の問題です。これはしかし、福島で今見つかっている甲状腺がんは被曝由来ではないということで専門家はおおむね合意している。

もう一つは、広島で仕事をされている丹羽先生にあえてお尋ねしたいのですが、遺伝に関する不安の問題です。福島県立医大が行っているこころの健康調査アンケートによれば、次世代になんらかの影響があるんじゃないかと不安に思うとお答えになる方が、いまだ全体の38%もいらっしゃる。しかし、広島と長崎のデータから言って、福島における次世代への影響はありえないわけです。

丹羽 そんなのがありえたら、花崗岩の多い西日本で遺伝的に問題が増えていることになってしまいます。絶対にない。

早野 絶対にない。

丹羽 自然の突然変異というのは必ず起きています。われわれは通常たくさんの突然変異を持って生まれてくるわけですから。たとえば放射線の照射を受けたマウスから生まれた仔マウスで突然変異のパターンを見る実験では、自然に生じる突然変異と放射線被曝による突然変異の区別がつくんです。

そのような実験から、放射線による突然変異で子どもの世代にまで伝わるものは、ごく少ないことが分かっています。また被爆二世の方々の疫学的調査からも、ご両親の被爆が大きな影響をもたらしているという事実は見当たりません。福島における放射線の線量の少なさから考えて、その遺伝的影響は絶対にないと言ってもいい。

しかし、どんなにないと言っても「放影研は信用できない」と言われてしまえばそれでおしまいですから、もうわれわれは金槌で叩こうが、大きなハンマーで打ち壊そうとしようが、決して壊れないデータを粛々と積み上げていくしかないです。

マウスの実験結果は集まってきた。疫学的な解析もちゃんと出ている。時間が経過すればするほど、子どもに遺伝病もがんの発症も増えていないということははっきり言えるようになってくる。

これはわれわれだけが言っているわけじゃなくて、小児がん、とくに腎臓がんの放射線治療では、腎臓にごく近い精巣や卵巣が被曝します。でも、こういったがんの生存者でも、子どもさんを産まれている例が多いです。また、生まれた子どもの疫学的解析で影響は見つかっていません。広島、長崎の被爆者よりもずっと高い放射線を浴びた小児がんの方々の場合でも、次世代に影響は出ていないわけです。

ましてや、福島のようなごくごく低いリスクの地域で生活して、次世代に放射線の影響が出るはずがない。

ノイズに振り回されずに自分を取り戻す

――川内村のある住民の方が、「仮設住宅はあるけど、仮設の人生はない」という言い方をされたのが心に残っています。「一分一秒が自分自身のリアルな人生の時間だ」と。

丹羽 原発事故の後、政府の政策や外野からの情報が押し寄せる中で、自分の日常なのにそれが自分で制御できなくなっている状態におられる住民の方々を見ました。今、放射線の健康影響以上に大切なのは、放射線から自分の日常を取り返すことです。つまり、いったんは非日常になってしまった日常の回復です。

これさえできれば、住む場所は次の問題として考えていただければよい。すなわち福島に住むことで放射線が気になる方は外を選択すればいいんです。そしてそこで自分が主役の日常をしっかり生きる。どのような選択であってもいいから、なによりも自分が主役であることがもっとも重要なことです。事故にも放射線にも振り回されることなく、国の政策や外野のノイズにも振り回されることなく、バラバラになってしまった自分を拾い集め、自分を取り戻すことです。

放射線影響の元祖は広島・長崎です。かつてとんでもない線量に悩まされ、今も悩まされ続ける方がおられる広島や長崎で、自分の回復に成功なさった方は沢山おられます。そういった方々の人生は輝いています。私は今広島で仕事をしておりますので、福島との物理的な距離ができました。そのせいか、福島については、距離をとった見方ができるようになったのかもしれませんが。

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プロフィール

服部美咲フリーライター

慶應義塾大学卒。ライター。2018年からはsynodos「福島レポート」(http://fukushima-report.jp/)で、東京電力福島第一原子力発電所事故後の福島の状況についての取材・執筆活動を行う。2021年に著書『東京電力福島第一原発事故から10年の知見 復興する福島の科学と倫理』(丸善出版)を刊行。

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