福島レポート

2019.08.20

夏の高校野球福島県大会で聖光学院がV13――戦後最長の連覇記録

遠藤乃亜 / ライター

福島の暮らし

2019年8月に開催された夏の高校野球大会には、福島県代表として聖光学院高校(福島県伊達市)が出場しました。聖光学院は福島県大会で13年連続優勝で甲子園への切符を手にしました。13連覇は、戦後最長の地方大会連覇記録です。

聖光学院は夏の甲子園に計16回出場しています。1999年9月に就任した斎藤智也監督の下、2001年に県大会で初優勝し、2004、05年には連覇を達成します。そして2007年から13年連続で甲子園に出場しています。2014年に8連覇を果たし、智弁和歌山(和歌山県)と並んで地方大会の戦後最多タイ記録を達成。以来、連覇記録を更新し続けています。

聖光学院が2001年に甲子園に初出場した際、福島県の高校野球のレベルは、全国的には決して高くありませんでした。福島県代表は1995年から2003年まで6年連続で初戦敗退でした。聖光学院も明豊(大分県代表)に初戦敗退しましたが、その時のスコアは「20対0」。歴史的な大敗でした。

2回目の甲子園出場となった2004年には2勝してベスト16に進出し、1995年以降9年間続いていた「福島県代表の初戦敗退」に歯止めをかけました。そして、13連覇中は2008年、10年、14年、16年の4度ベスト8に進出し、全国にその名を轟かせました。

13連覇のうち最も印象に残るのは、東日本大震災の起きた2011年の大会です。3月に予定されていた春の県大会は中止となり、貴重な実戦の機会を失います。聖光学院野球部も2週間、練習休止を余儀なくされました。津波で祖父を亡くした選手もいました。

斎藤智也監督は震災直後の2011年4月、津波に襲われた沿岸部に選手たちを連れていきました。当時の新聞では、「震災を背負って戦うこと」、つまり被災地で野球をすることの意味を、監督が選手に伝えようとした、と報じられています。もちろん、若い人たちに、震災を重みを背負わせるべきではありません。しかし、監督は、福島を始めとする被災地のチームが、震災や原発事故との関係性の中で語られることは避けられない、と考えたのでしょう。選手たちが置かれる立場を予想し、本番でも動じない精神力を培おうとしたものと思われます。

2011年7月14日に開幕した県大会の開会式では、選手の被ばくをできるだけ避けるため、恒例の入場行進を断念せざるを得ませんでした。選手たちはグラウンドを1周する代わりに、外野から内野までの約30メートルを直進して整列しました。試合結果を報じる新聞紙面には、各球場の放射線量も細かく記載されました。聖光学院の選手たちは、この異様に緊迫した空気にも飲まれず、7月29日の決勝戦を制して、見事に甲子園への出場を決めました。

8月6日の甲子園1回戦、8月13日の2回戦は、県内はもちろんのこと、県外に避難されていた人々からも、大きな声援が送られました。福島市のあづま総合体育館から、テレビで聖光学院の闘いぶりを見守る人々の姿もありました。発災から5か月近くもの間、体育館での避難生活を送る人々でした。聖光学院の変わらぬ力強さが、震災と原発事故の苦難に立ち向かう県民や被災者を勇気づけたのです。

福島県内の他の高校も負けてはいません。2019年の春の県大会で、聖光学院は2回戦敗退に終わっています。夏の大会に必ずベストの状態に仕上げる聖光学院の底力と、連覇記録打破を狙う強豪校との一層激しい闘いが期待できそうです。

13年連続で甲子園出場を決めた聖光学院ナイン(福島放送より)