2021.01.15

隣国中国と向き合うために――『教養としての「中国史」の読み方』(PHP研究所)

岡本隆司(著者)東洋史、近代アジア史

教養としての「中国史」の読み方

著者:岡本 隆司
出版社:PHP研究所

正体の見えない中国

新型コロナ・ウィルス感染症の蔓延する昨今、移動渡航の制限ですっかり外国人を見かけなくなった。でも一年ほど前は、どの観光地もいわゆる「インバウンド」でごった返していたものである。

なかでも圧倒的多数を占めていたのは中国人。どこでも見かけて、「うるさい」といっては甚だ失礼ながら、率直な印象ではある。ともかくその存在感は、各国を抜きん出て圧倒的だった。

旅行者・観光客ばかりではない。国のスケールでも、事情は同じである。日本にとって隣国の中国は、政治も経済も関わりが深く、「うるさい」のもかわらない。尖閣諸島という係争があり、あげくはコロナの発生まであったから、いよいよ嫌悪が増すという側面も強かった。

そのように見てくると、中国はいちばん身近な外国にまちがいはない。それなら中国のことはよく知っているはずで、近くにいて見知ってきたからこそ、アラも目立って、嫌悪感を覚える。そういう理屈・論法は、確かにわかりやすい。

しかし実態はどうだろうか。近しい隣人・親しい友人ほど、その正体が見えないというのは、世上身近によく話である。要は外見・表面だけみて、自分の見聞・知識の範囲で相手のことを判断してしまうわけで、中国に対する日本人の見方・姿勢も、どうやらその例に漏れない。正体が見えていないのに、知っているつもり、になっているのである。

身近だった中国人の傍若無人。報道で目にする中国政府の上から目線。これを大国化にともなう、単なる恣意・わがまま・専横・中華思想と断じてしまっては、まさしく表層的な理解、上にみたような思考様式の陥穽に落ちてしまう。それでは、いたずらに好悪の感情だけが増幅するのではないだろうか。なぜわれわれの眼にそう映るのか、そうみえてしまうのか、考えたことがあるだろうか。

歴史とその「読み方」

物事の存在には、何でも由来がある。目前の中国も然り。なかんずく本質に触れようとするなら、そこにあるものの来歴をみなければならない。就職・人事でもやはり履歴をみるだろうし、気になる人なら、その来し方に関心を寄せるものだ。過去を知りたいのは、人間の知的本能である。それは人間世界を成り立たせているものが、時間・言動の積み重ねだという平凡な道理を、本能的にわきまえているからである。

というわけで、それなら目前の中国を知るにも、歴史を読むことが重要だし、また必要でもある。もっとも、本気で歴史に向き合うには、「読み方」に気をつけたほうがよい。

歴史といえば、小中高では「暗記科目」、大学では「調査研究」とかいって、いずれにしても細かい年代・人名・事件など、よくわからないようなことばがいっぱい、いちいちそれを覚えなくてはならない。クイズでよく歴史の問題が出るのも、納得できる。

しかし暗記力を衒い、知識をひけらかすことが目的ならともかく、そんな歴史の読み方は、いかにもつまらない。小説を読んでいたほうがずっとおもしろいだろう。実際に本屋さんに行ってみても、「歴史」コーナーには歴史小説・時代小説が並んでいるし、ヒストリーとストーリーは同じ語源であった。楽しむだけなら、それで十分ではある。でも少し立ち入って知りたければ、どうすればよいか。

人物・事件がなくては歴史にならない。けれども、あればいいというものでもない。並べるだけでは、無味乾燥な年表・暗記物の教科書になってしまう。数ある人物・事件のなかで、何が全体にとって最も重要なのか、欠かせないのか。そして全体をどのように摑むのか。歴史の「読み方」でいちばん大切なのはそこであって、ともすればあまり省みられてこなかったものだろう。

そんな全体の流れを摑むには、流れを枠づける構造・しくみをみきわめることだ。河川工学でも中国史学でも選ぶところはない。

「対」の構造と中国

そんな視角からみると、いわゆる構造をデザインしていたのは、中国文明にそなわった「対」の思想だといえる。あらたまって「対」というと、漢詩の「対句表現」など、つい文学作品的な技巧を想起するけれど、実はわれわれの日常ですでにおなじみ。漢字の熟語でも、たとえば「上下」「尊卑」「文武」「男女」「老若」「君臣」「朝野」など、ほとんど意識しないくらい、ありふれているものだ。

文字・文学で表現できる、というのは、書き手と読み手が通じ合えることを意味し、つまりは思考がその型でできあがっているからである。人々の頭の構造がすでにそうだとすれば、ひいてはその形づくる社会をも枠づけていたとみてよい。

中国文明はそもそも、農耕を営む黄河流域の人々の間でいち早く誕生し、生活様式の違いによって、自分たち「華」と異なる者たちを「夷」に二分し、前者の「華」の中も、さらに自分たち文字を使うエリートの「士」と、その他大勢の「庶」に二分した。

このように対比二分はするけれど、その「対」はわれわれ日本人の感覚とは、必ずしも同じではない。必ず自らが中心である。「対」であっても、決して対等ではない。必ず上下で関係を整序する。

そのため常に自分・「私」が優先優越するのだ。互恵・対等という価値観も希薄であった。これは人間が誰しも共有する、自己中心の思考情念に即した世界観・秩序観であって、それが中国思想、いわゆる儒教のバックボーンに存在する。儒教ではそんな中心を「中」という漢字で表現し、それは唯一無二、至上の存在であり、該当する場所を「中国」といった。

中国史と現代

以上がすべての前提である。ここを基軸に中国の歴史を跡づけると、頭に浮かぶいろんな疑問にも、答えがそれなりに見えてくる。現代の中国がなぜ「一つの中国」と声高に叫ぶのか、中国は独裁制をやめないのか。それは元来はじまった「華」「夷」の二元構造から、歴史をへて多極的な国際関係となり、「士」「庶」の二元構造から、歴史をへて多様性のある社会構成に変化していったからである。

日本はじめ東アジアの周辺国は、漢・唐の時代、こぞって中華をモデルにしていた。ところが遅くとも18世紀以降、欧米列強のみならず、日本・朝鮮までも中国と対等の関係をめざし、現在もそうありつづけている。またかつては、漢語の古典を身につけた知識人こそ、社会の師表たるべきエリートだった。けれども海外の文明はその優位を突き崩し、いまや多様なリーダーシップを生み出している。

二元構造で整序されるはずの中国は、このように多元化の歴史を経てきたため、しかるべき至上の「中国」でありつづけるには、「中華思想」にもとづく「ひとつの中国」、正しいエリートが指導する「共産党一党独裁」という求心的な体制を維持しなくてはならない。現代の中国と中国人は意識すると否とにかかわらず、そんな理念と現実、個性と歴史とのジレンマの只中にいるのである。

拙著は日本人が隣国の中国に抱きがちな疑問に即して、上のような歴史の「読み方」を具体的に提示してみた。「対」の構造をはじめとする中国の個性がわかれば、「うるさい」現代中国の正体もかいま見えて、冷静に向き合う道筋も見えてくるはず。その一助になるなら、著者冥利に尽きること、それにしくはない。

プロフィール

岡本隆司東洋史、近代アジア史

1965年京都市生まれ。京都府立大学文学部教授。専門は東洋史、近代中国の政治外交・社会経済を中心とした東アジア史の研究。主な著書に、『近代中国と海関』(名古屋大学出版会、2000年大平正芳記念賞)『属国と自主のあいだ』(古屋大学出版会、2005年サントリー学芸賞)、『李鴻章』(岩波新書)、『近代中国史』(ちくま新書)、『中国の論理』(中公新書)『中国の誕生』(名古屋大学出版会、2017年アジア・太平洋特別賞・樫山純三賞受賞)、『世界史序説』(ちくま新書)など多数。

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