2015.01.20
移民、宗教、風刺――フランス・テロ事件を構成するもの
沢山の血、涙、怒り、哀しみがパリを襲った。
1月7日に起きたパリでのテロ事件については、今でも数多くのことが語られ、分析され、指摘されている。日本でも多くの翻訳があり、その小説をクリバリ容疑者も読んだ形跡があるとされた作家アメリ・ノートンは今回の事件に際して、「正しい言葉を見つけるのは今よりも距離が必要だ」と、感想を述べた。事件の全容は明らかになっていないし、時間という距離を得なければ、この事件をどう捉えたらよいか、より客観的な解釈は難しいように思う。
『シャルリ・エブド』襲撃とつづくスーパー人質事件を解釈する際に、最大の問題となるのは、どのような立場の表明や分析をしようとも、それが必ず「構成主義的」なものとなること、すなわち他の立場や意見に連鎖していくことだ。
たとえば、単純にテロを非難したとしよう。それは翻って、フランス社会におけるエスニック・マイノリティたるムスリムの問題を(意図しなくとも)等閑視すること意味するか、あるいは等閑視していると指摘されることになる。逆に『シャルリ・エブド』の風刺を非難したとしよう。それは翻って、表現の自由という民主主義社会の原則を非難することになる、と反論されかねない。ではムスリムの問題に焦点を当てようとすれば、今度は宗教とテロを無媒介に結びつけると指摘されるだろうし、表現の自由を擁護すれば、では差別や憎悪表現も許されてしまうのか、ということになる。
さらにもっといって、テロが脅威だとして(実際フランスが現在行っているように)イスラム国への攻撃を強化し、国内で治安強化策をとれば、それは(おそらく今回の事件に直接的には関与していないかもしれない)イスラム国やアルカイーダの目論見が成功したともいえなくもない。西洋諸国を戦争に引きずり込み、社会を分断させること自体が、こうした集団組織の目標でもあるからだ。
論点は必ず別の論点を呼び込み、それがまた人々の解釈や意見に影響を与えるというのが、このテロ事件を語る際に生じる難しさの根底にある。だからこそ「正しい言葉を見つける」ことは難しいのだ。
以上を承知の上で、このテロ事件を構成しているものは何なのか、それがどのような文脈や背景のなかで生じたのかについて、いくつかの手がかりを提示することで理解に努めたい。このことは、まずフランスにおける移民、宗教(イスラム教)、風刺の問題、そしてテロの問題(いずれも日本人には馴染みが薄い)を、個別に分けて論じることを意味する。もちろん、それぞれについて論じることのできる程度や深さには限界があるし、どの問題にも専門家がいる。ここでの内容には初歩的な知識も含まれているが、それでもテロ事件を考える際に、そして日本での報道の正確さの程度を計るための、さしあたっての導入になるものと筆者は考えている。
フランスの移民問題は何が問題なのか
フランスにおけるムスリムの存在の大きさはつとに指摘されてきた。フランスはヨーロッパのなかで最大のムスリム・コミュニティを抱えているとされる。彼らの多くは戦後の高度成長期の1950年代、マグレブ(北アフリカ)諸国から流入してきたことにルーツを持つ。
ここで問題になるのは、その「ムスリム」がどのくらい存在しているのか、そもそも「ムスリム」をどう定義するか、という問題である。
まず(後述の理由から)フランスでは、アメリカなどと違って国勢調査で国民に自身のエスニシティを訪ねることはしないのが原則になっている。入手できるのは公的・民間調査を問わず、それぞれムスリムが何かについての定義の異なる、アドホックの調査である。こうした調査では数字に幅があるが、約200万人から400万人のムスリム(もしくは人口の3~7%程度)がフランスに存在しているとされている。
ちなみに国立統計機関による調査(2005年)では、マグレブ諸国(アルジェリア、モロッコ、チュニジア)をルーツに持つ人々は約6%、うち3%はフランスで生まれたとされている。フランスは出生地主義をとるから、論理的には最低でもその半分以上(多くはフランス国籍を取得すると推測されるから)がフランス人ということになる(なおフランス社会に占める外国人移民の数は10%程度)。
テロを犯したクアシ兄弟もクリバリも、フランス人である(そして、フランスへの帰化が認められ、ユダヤ人スーパーで人質をかくまった不法就労者だったバティリ氏はマリ人だった)。
それでは、こうした調査におけるムスリムとは何なのか。基本的にムスリムはイスラム信仰を持つ者、すなわち宗教によって定義されるのではなく、エスニシティの概念である(ムスリムには無神論者もいればカトリックに改宗した者もいる)。すなわち、宗教を含むアイデンティティの定義であって、そこには敬虔なムスリムもいれば、そうではないムスリムもいることになる。
ちなみに、テロ実行犯3人がどれほどイスラム信仰に傾倒していたのかは定かではないが、過去に接見した弁護士の証言によれば、少なくともサイド・クアシについては、当初イスラム教のコミュニティには属しておらず、その後イラクに戦闘兵を送り込んだ容疑で収監され、監獄でイスラム過激派と接触を持ってから、宣教師を名乗る人物に洗脳されていった、という。簡単にいえば、彼は敬虔なイスラム教徒ではなかったからこそ、イスラム過激派になったといえるだろう。
フランスは、カナダやアメリカにも劣らない移民大国である。むしろ、移民が作り上げた国といってもよい。有名なのは、キュリー夫妻(ポーランド出身)やシャルル・アズナブール(アルメニア出身)、サルコジ前大統領(ハンガリー移民2世)などかもしれない。現在ではフランス人の3割程度が、片方の親ないし両親ともに移民だったと推計されている。
教科書的にいえば、移民の社会統合には同化主義と多文化主義があるが、フランスは明らかに前者に属する。ただし、ここでいう同化主義は、マイノリティにマジョリティが自文化を強制することを意味しない。19世紀以降のフランスで同化の対象(フランス市民)となるのは、形式的には共和主義的理念に賛同する者ということになっている(フランスの教育典は『共和主義の理解』が第一の目標に掲げられている)。
ここでいう共和主義的理念とは、憲法に定められているように、人民主権と法の下の平等の原理のもと、個人の本来の属性(信仰や人種、ジェンダー)は私的領域にのみにおいて認められるべきで、公的な空間ではこうした個人の本来的な属性を捨て去り、公的な事柄については自由・平等・友愛という理念に沿って思考し、行動しなければならないという社会契約のことを指す。個々の属性や信条は尊重するが、それによって境遇や条件を差別することはない、という約束になっているのである。
それゆえ、カナダやオーストラリア、オランダでは当然のことである、エスニシティ別に異なる言語や風習に基づく教育や政策はフランスではとられない(たとえば公教育でカトリックを含め宗教的な配慮や教育は認められない)。それは、共同体の構成員が個別的なアイデンティティにもとづいて集団を形成するのは、普遍的とされる理念からなる共同体の形成の障害となるからだ(憲法では、フランスは「不可分な共和国」であり「出生、人種、宗教」に問わず法の下の平等を保障すると謳う。こうした考え方を的確かつ手早く理解するには、差当りシュベヌマン・樋口陽一・三浦信孝著『〈共和国〉はグローバル化を超えられるか』平凡社新書を参照)。
フランス社会でこれは単なるお題目ではないということは、次に宗教の位置を論じる際に明らかになるだろう。
もっとも、この同化主義、あるいは共和主義的統合といった理念・政策的な原理は、2005年の大都市郊外での暴動事件、あるいは今回のテロ事件でも改めて明白になったように、有効に機能していないとみられるようになった。それは、個人の属性の主張が個人化のプロセスのなかで公的な空間でも主張されるようになり、またアイデンティティが再帰的なかたちで個人によって選択される(フランスでは『差異への権利』と呼ばれる)ようになると、共和主義的統合はむしろ個人にとっての抑圧の原理として機能することになるからだ。かといって、オランダやイギリスのような多文化主義的な移民政策が、上手く機能しているかといえばそうではない所に、問題の難しさがある。
ムスリムに話を戻せば、ムスリム系のフランス人の統合が上手くいっていない(実際に彼らの多くの就業率や所得、教育水準は平均よりも低い)のは、統合政策の機能不全だけではない。フランスは戦前から、中東欧と南欧から多くの移民を単純労働者として受け入れてきたが、彼らの統合は紆余曲折を得ながらも、進んできたからだ。これは仮説だが、ムスリム系の統合が進んでいないのには、社会的要因と経済的要因が作用していると思われる。
ひとつは、ポスト工業社会に入って、社会的な上昇や統合にはより高度なコミュニケーション能力や知的技能の能力が要されるようになっており、これがむしろ個人がいかに文化資本の質と量を有しているかの要求につながり、相対的に移民系にとって不利になっていることである。
もうひとつは、このことと関連して、70年代に高度成長期が終わり、低成長時代になって再分配機能が脆弱になったことで、統合が進まなくなったことだ。最近でいえば、リーマンショックとユーロ危機を経て、フランスの若年層の失業率は25%に届こうとしている。
言い換えればここで検討されるべきは、ムスリム系フランス人だから統合が進まないのではなく、彼らがポスト工業社会に直面しているゆえに、統合が困難になっているのではないかという視点である。そう考えることで、少なくともテロ犯の心情や境遇が、誰ひとりにとって関係がないものではないと捉えることが可能になるだろう(そうしたくない人は違う説明解釈を施せばよい)。
強者の論理となった弱者の論理
上述の共和主義理念のなかでも重要な機能を果たしているのが、政教分離(ライシテ)の原則である。このライシテはフランスの国是のひとつと言っても良い。
この原則的な理念は、フランス革命で生まれ、19世紀末に始まる第三共和制時に定着したものだ(『国家と教会の分離に関する法』は1905年に制定された。ライシテの歴史や意味についてはルネ・レモン『政教分離を問い直す』青土社を参照)。
フランスの絶対主義王政は王権神授説に象徴されるように、またそれが「王政と祭壇の同盟」と呼ばれたように、王政とカトリック教会が一体であることを特徴としていた(『ガリカニズム』)。それゆえ、フランス革命は徹底的な教会権力の排除を目指し、革命政府は宗教者に対して世俗に対する忠誠を誓うことを強要し、この共和主義の伝統を引き継ぐ政治勢力は、とりわけ公教育の場から宗教色を追放することを政治的な目標としてきた。
革命から、最終的にカトリック勢力が政治的に共和国を認める19世紀末まで、フランスの歴史は(ドレイフュス事件を含め)カトリックと世俗との権力闘争でもあった(それゆえ、フランス革命で生まれた人権宣言は現憲法でも言及されているように、活きた規範である)。
言い換えれば、フランスのライシテはまずは弱者(世俗)が、強者(カトリック教会)からの公的領域への介入を排除するために生み出されたものだった。その理念が保持されたままにベクトルが変化してきたのが、1980年代以降のことである。
80年代前半には、政府のカトリック含む私立学校への補助をめぐって大論争が起きるが、その後になって、パリ郊外の中学校でムスリムの女学生が被っていたスカーフを外して授業を受けることを拒否して放校になった事件を得て、大きな転換を迎える。公教育での宗教色の排除という原理だが、かつてはカトリックに向けられた原則がムスリムにも向けられるようになったのである。公平な理念であるからには、それがどのような宗教や属性であろうとも、適用されなければならない。
同じ時期には、極右勢力の国民戦線の台頭やムスリム系フランス人の殺傷事件などもあり、エスニック・マイノリティが社会問題として可視化されるようになった(長期不況が本格化、失業率が上昇した時代でもあった)。マイノリティの人権か世俗の原理かをめぐって論争が起きたが、(後に文部大臣となる)フィンケルクロート、B.Hレヴィといった知識人、さらに政治家や現場の教員をはじめ、社会のマジョリティはライシテの原則を守り、維持することが統合を進めることであり、結果的にマイノリティの問題も解決することになるというコンセンサスに落ち着いていったといえる。
90年代は、実際にはフランスのムスリムが背負言ったこの問題が、さらに大きくなっていく過程だった。ひとつは、格差の拡大によって、ますますムスリムというエスニシティと貧困問題が重なりをみせるようになったことである。「ライ」と呼ばれるエスニック文化と西欧文化の混合がサブカルチャーとして認められ、その音楽がフランスのみならず世界的にブームになる一方、パリ郊外がいわゆる「バンリュー」と、スラム化が問題視され、治安の悪化がこれに伴って政治的課題になっていく。
それゆえ、平等の原理としても機能するライシテの原則を、フランスはますます捨てることができなくなっていく。マイノリティをマイノリティとして認めることは、フランスの自己否定になるばかりか、マイノリティだから貧困や生活の苦難を背負っているという是正すべき課題を解決する手立てを失うことになるのだ。
その結果、2003年には「スタージ報告」という答申が政府に提出され、公教育の場でライシテの原則の強化が謳われることになった。ここで公教育の場で、誇示的な宗教的帰属を示す標章や服装を生徒は身につけてはいけない、ということが法制化されることになった(後年にはより治安的な面を配慮した、公的な場での顔面の覆い隠し禁止する法律も可決される)。
注目すべきは「スタージ報告」が、ここで新たな視点をつけ加えたことだ。同報告では、たとえばムスリム女性のスカーフが女性一般に対する抑圧であり、差別であることを強調し、それゆえにこのような慣習は認めることができない、とした。ライシテの原則は微修正されることになったが、これもジェンダーという属性から個人の解放を目指すものであったことを考えれば、理解できる方針だった(ちなみに同種の法律はベルギーやイタリアでも導入されており、ドイツでも同様の方針をとる州もある。傾向については「イスラムのスカーフに対するヨーロッパ諸国の姿勢」『ル・モンド・ディプロマティーク』日本語電子版を参照)。
難しいのは、実際にケースであったように、仮に女性が自主的にベールを被っている場合も、それも人権侵害のひとつとしてみなすのかどうかという点について、この法律は何の配慮もしていないことだ。イランやスーダンのように女性が顏を隠さないことで罰せられる国もあれば、隠すことで罰せられる国(罰則の程度は異なるものの)の原理は真っ向から対立する。
問題は、これが2001年のアメリカの同時多発テロ以降の動きで制定されたことだ。このポスト9.11のムスリム問題は、別の視角から論じられるようになる。それが、ムスリムは、人権を含む共和国の原理を脅威にさらす存在であるとの捉え方である。
一部のムスリムが女性の割礼や一夫多妻制、学校給食での豚肉提供を拒否するといった行動をとることが報道されるようになったことで、こうした指摘は男女平等や普遍的人権に敏感な世論の注目を集めることになった。極右の国民戦線も、「イスラムは祈祷の際に公道を占拠する、これはナチスと同じ」という主張をするようになる。
つまり、ムスリムは彼らがイスラム教を信仰しているから差別されるべき存在(本質主義に基づく差別)なのではなく、建国の理念を犯すゆえに矯正しなければならない存在(形式主義に基づく差別)なのだ、という言説を展開するようになる。これは、人種差別は否定しても、人権と市民権は擁護されなければならないと考える一般世論にも、ある程度まで理解される主張となる。
言い換えれば、フランス社会は右傾化したのではなく、過激主義が強調されそこに焦点が当てられたことで、より防御主義的になったと解釈すべきだろう。しかし、逆説的に、それまでの弱者の防御の論理だったライシテの原理は、強者による排斥の論理として機能するようになった側面があるのは否定できない。
これは2005年のバンリューでの暴動の際に、アラン・トゥレーヌなどの社会学者が指摘していたことだが、フランス社会に敵意を持つ移民系フランス人は、自らのアイデンティティを認めない社会に対して怒りを持っているのではない。そうではなく、ライシテを通じて提供されるはずの共和主義の平等原理が、経済格差の是正という目に見えるかたちで、自分たちに及んでいないことに対する抗議の形態でもあった。
今回のテロ事件がそうであったという保障はないし、テロ行為と抗議は分けて考えるべきである。しかし、とりわけクアシ兄弟が孤児だったこと、教育を受ける機会もなく、満足な職も得られなかったという社会環境を抜きにして、このテロ事件を理解することはできない。過激派は血縁や地縁に乏しい、社会関係資本を欠いた存在をピンポイントで狙い、社会的承認を与え、役割を与え、教義に基づく洗脳をする。それは世界中で行われ、日本でもカルト集団が行っていることである。
私事になるが、2010年に10年ぶりにフランスに住んで一番驚いた変化のひとつが、多くの一般市民がムスリム以外にもユダヤ人、ロマ人の風習や行動についての不満や非難を大っぴらに交わすようになったことだ。ロマ人に囲まれて身の危険を感じた、地下鉄にのってもフランス語が聞こえない、ムスリムの若者は礼儀を知らない――たしかに、こうした意見は今までにも存在した。しかし、それは少なくともきわめて限られた条件と範囲で、いわば陰口としてささやかれていた程度のものという印象があった。
これについては長年、産経新聞のパリ支局長だった山口昌子氏が面白いエピソードを紹介している。彼女は取材先にアポを断られると、相手のことをあなたは差別主義者だから取材を受けようとしないのでしょうと非難して、日本人で女性であることを武器に取材してきたが、それが最近になって「私は差別主義者だからね」と開き直られることがでてきたという。「レイシスト」、というのはフランス人一般にとって最大の屈辱の言葉だったのが、その文化的条件が変化しつつあるわけだ。
風刺という伝統芸能
こう考えると「シャルリ・エブド」というメディアについても、別の観方をすることができる。同誌は1970年に、ドゴール大統領の逝去を揶揄して廃刊に追い込まれた「アラキリ(腹切)」という、やはり刺激的な表紙の風刺を売り物にする雑誌の後継誌としてスタートした(関心のある人はHara-Kiri journalと画像検索してみると、時代にしてはかなり過激なものだったことが日本人でもわかる)。
その中心になったのは、1960年代のタブー破りとカウンターカルチャーの空気のなかで育ってきた編集者だ。文化的な規範を正面切って批判するのではなく、それを揶揄することで常識とされているものを批判することが何よりもの売りで、「シャルリ」は風刺の代名詞にもなった。
もともと、強力な王政(のみならず、アラキリが果敢に批判した保守的な大統領権力も)を頂いた土地柄ゆえ、民衆文化に権力批判が伝統的なものとして存在している。「シャンソン」の語源ともなった「シャンソニエ」は、もともとカフェやミュージックホールで時事ネタを面白おかしくパフォーマンスした芸能人であるし(今でも存在している)、映像・紙メディアでも「ユモリスト」という、ときどきの事件や社会情勢をなかば批判的に嘲笑する人々が一程度の割合で存在する。日本では想像するのが難しいが(それぞれの芸風がまったく違うのを承知でいうと)、「ザ・ニュースペーパー」、ナンシー関や中野翠の路線をもっと激しくしたものといえば、何となくわかるかもしれない。
「爆笑問題」がNHKで政治ネタを禁じられるような国では理解し難いかもしれないが、そうした権力や規範を論評したり批判するではなく「嘲笑」することは、フランスの政治文化ではひとつの潮流としてあるのである。それは権力が強大であるがゆえの、民衆の精神的な自己防衛の手段でもあったとさえいるかもしれない(嘲笑するユーモアとは相手に対して優位に立たせることだ、と哲学者のアイザイア・バーリンはいったことがある)。
70年代に好調だったシャリル・エブドはしかし、こうした新左翼の勢いを吸収して1981年に約四半世紀ぶりに政権交代をとげた社会党政権が誕生すると、10万部程度あった発行部数は勢いを減らしていくことになる。それは新左翼的な文化批判がもはやカウンターカルチャーではなく、メジャーとなったことで、その魅力を失っていったと解すこともできるだろう。
同誌は70年代の著名風刺画家・漫画家が復帰して1992年に再発行されることになるが、新世代にその名が知られるようになったのは、2002年頃からイスラム教を批判しはじめた頃だ。当時は今と比べても、一般的にイスラムをメディアが正面切って批判することは稀なことであり、当然、論争の種となった。フランスの文化的左派(『第三世界主義』などと呼ばれる)が伝統的にアラブ寄りであることもあって、これが大きな注目を浴びることになった。2006年には、欧州中で議論と抗議を巻き起こしたデンマークのユランズ・ポステン紙のものを含むムハンマド風刺画を転載したことで、ふたたび脚光を浴びて部数も伸びることになった。
フランスの小メディアは、ときの編集長や主筆の個性や方針が色濃く反映されるから(日本の今のネットメディアのように)、ひとつの路線でそのメディアを捉えることは難しい。しかもシャルリ・エブドの経営状況は、ネット時代の到来もあって、その他メディアの例に漏れず不安定で、経営陣や編集者の移り変わりが激しく、そのときどきの論調も変化する(ル・モンド紙によるとシャルリは92年から2014年の間に約50件もの告訴を抱えていた)。
そうした背景と風刺の伝統から、シャルリ・エブドが唯一「看板」とできたのは、タブーや権威を嘲笑し、そして人々のあいだで議論を巻き起こすことだったと、今ではいえるかもしれない(雑誌のうたい文句は『無責任なジャーナル』である)。
もちろん、彼らが挑んだタブーはイスラムだけではない。イエス・キリスト、法皇、ユダヤ教徒、党派問わない政治家、事件の犠牲者なども、容赦なく俎上に載せられてきた。これは、良く言えば人々の良識を揺るがすような問題提起であり、悪くいえば愉快犯のようなものだ。
事件を受けて、日本のみならずフランスでも、シャルリは挑発が過ぎたのではないかとする意見は存在する。しかしフランス国内法でも、欧州人権条約でも、表現の自由はまず大原則として尊重されるべきものであり、その上で他者危害や公共性を害した場合にのみ、制限することが可能であるとしている。具体的にいえば、犯罪をそそのかしたり、国家の安全保障を侵したり、個人の属性(民族、宗教、国籍、人種、セクシュアリティ、身体性)をもとにした差別や憎しみ、(物理的)暴力を誘発しようとすることが、罪に問われることになる。
少なくともシャルリの風刺という行為は、「差別、憎しみ、暴力」を特定対象に向けたものではないことを理解しておかなければならない(それゆえ出版は認められるというのが、2007年のムハンマド風刺画掲載についてのパリ地裁の判断だった)。
日本を含め、多くの「良識的」な意見が、「表現の自由は大事だが、それを無用に振り回すべきではない」という以外の言葉をみつけられなかったが、それは何も言っていないのに等しい。そればかりか、表現や言論の自由が原則とされているのは、何が自由でそうでないかは先験的に決められるべきものではなく、社会で事後的に決めるものでしかないということ、しかし個人が選択できないものをネガティブな価値として広めることは、自由として認められないという大前提が理解されていない証拠でもある。
ただし、彼らの風刺が風刺たり得る余地は、時代を追うにつれ、少なくなってきているといえなくもない。日本で『噂の真相』が苦戦するようになったこととも似ているが、ネットメディアが発達して、そうした嘲笑がむしろ穏健なものにみえるようになったこと、あるいは社会的なタブーや規範が緩やかなものになり、権力性がよりミクロに拡散するようになると、風刺する対象も多様化し、結果的に風刺そのものの前提が共有されなくなるからだ。
またおそらく、それ以上に「シャルリ・エブド」にとって致命的だったのは、同時並行して、タブー批判がもはやシャルリのお家芸ではなく、むしろメディアのメジャーなトピックとして扱われるようになったことかもしれない。2000年代のポスト9.11の時代になって、フランスのメディアではあらゆる「政治的正しさ(PC)」を揶揄するエリック・ゼンムールといった、あえて人々の神経を逆なでする「ポレミスト(論争家)」が、活字メディア・映像メディアで重宝がられるようになったからだ。
最近でも「私はシャルリ・クリバリ」とSNSに書き込んで事情聴取されたデュードネも、反人種差別主義運動家から反ユダヤ主義者を標榜するようになって、演劇公演が禁止されること自体がニュースになるなど、文化的なタブー批判そのものがニュースバリューを提供するようになった。国民戦線のルペン党首の政治言説も、こうした社会変化の上に位置づけられなければならないだろう。
2011年にシャルリ・エブドの編集部は放火犯によって焼き討ちにされたが、それはもはや社会風刺がネタとして楽しまれるような土壌が少しずつ失われていることを改めて印象づけるものだった。実際、この時期から、フランスにかぎらずヨーロッパ各国で、イスラム教批判とモスク破壊、その反対にユダヤ教徒襲撃やシナゴーグ放火、ロマ人へのリンチなどが頻発するようになった。
それは風刺の余地が失われ、ヘイトが動員される社会の出現でもあった。
相似形のテロ
思い返せば、2014年の春にはアメリカのボストン・マラソンでテロがあり、その後もカナダで、オーストラリアで「ローンウルフ(一匹狼)」による「ホームグロウン・テロ」が起きた。パリのテロ事件もその延長であり、それが今までにないほどメディアでカバーされたのは、(それ自体特異だったものにせよ)メディアが攻撃対象になったこと、パリという世界随一の観光都市で起きたからだったといえるだろう。
もっとも、フランスがテロに晒されるのは珍しいことではない。1980年代にはヒズボラやアルジェリア過激派による首都でのテロが頻発した。たしかに、これらは組織的なテロリズムであることで異なっているが、それでも2012年には、やはりムスリム系だったモハメッド・メラがツールーズでユダヤ教学徒と軍人を射殺するというテロ事件があった(なおクアシ兄弟は突撃銃以外には手りゅう弾やロケットランチャーを保持していたとされ、それが事実なら、少なくとも武器供与には組織的関与があったとみるのが自然だ)。イスラム教に親和的な多文化主義政策を進める自国のエリートを対象に、その前年にノルウェーで70人余りを惨殺したブレイビックは、フランスでテロが起きるだろう、と予言までしていた。
文明の衝突は、文明がテロを起こすという構図ではなく、ヘイトの矛先として文明が呼び出されることによって、ある意味で現実のものとなりつつある。実際には反目しているイスラム国とアルカイーダの名を、クアシ兄弟とクリバリがそれぞれ名乗りつつ協働していたことは、この解釈を裏づける。この事件を受けて文化思想が専門のイアン・ブルマーが指摘したように、タブー破りや表現の自由が西洋に固有のもとすることも、冒涜がテロそのものを呼び起こすと考えるのも、思考のショートカットにすぎる。
イスラム国がシリアとイラクでやっていることや、ボコ・ハラムがナイジェリアでやっていることは、相似形である。イスラムの名を借りて、集団組織を拡大するのに戦争を遂行し市民を虐殺し、そのために先進国を含む若者に生き甲斐と使命感、衣食住を提供する。いわば「ブラック企業」としてのイスラム国だ。フランスは、英米と連携してイスラム国への空爆に参加している。これはとりもなおさず、自国民を敵にすることを意味してしまう。それを抑え込むために治安強化とテロ掃討作戦を開始し、近くフランス版「愛国主義法」(テロ特別法廷、諜報監視の強化など)を用意するのではないかといわれている。
左派の社会党政権であるがゆえに、こうした人道的介入に前のめりになったことも影響している。フランスの左派は、最後まで植民地アルジェリア解放に消極的だったように、人権が普遍的なものであると考えるゆえに、伝統的に多国の人権問題に介入することに積極的である。そのことが結果的に足元の人権問題をこじらしてしまうという、にっちもさっちもいかない状況を生み出しているのだ。
おわりに
必要なのは、「シャルリ・エブド」およびその他へのテロ事件において、何が固有の現象(つまりフランスに帰せられるもの)で、何が普遍的な現象(日本でも教訓になるもの)を腑分けして考えること、そして普遍的な現象である部分がなぜ生じるのかの要因を突き止めることだ。
そのためには「テロ=ムスリム=移民」「表現の自由=人権=西洋」という定立しかねない連立方程式を、丁寧に解いていく姿勢以外に、有用な手段はないように思う。そうでなければ、私たちもフランスが数世紀をかけて避けようとしつつも成功しなかったこと、つまり宗教やジェンダーや人種といった個人が選択できない属性でもって、世界をこれから構成しなければならないことになる。
それは、自分で選択できないことに私たちが縛りつけられるような、とてつもない不自由な世界に住むことを意味する。ましてや「正しい言葉」の居場所も、なくなってしまうに違いない。
サムネイル「Je_suis_Charlie-24」Valentina Calà
プロフィール
吉田徹
東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学博士課程修了、博士(学術)。現在、同志社大学政策学部教授。主著として、『居場所なき革命』(みすず書房・2022年)、『くじ引き民主主義』(光文社新書・2021年)、『アフター・リベラル』(講談社現代新書・2020)など。