2017.09.14

バングラデシュの現代政治とイスラーム――ダッカ襲撃テロ事件から考える

日下部尚徳 国際協力論、南アジア地域研究、開発社会学

国際 #イスラーム#バングラデシュ#IS#テロ事件#ダッカ

バングラデシュの首都ダッカにあるレストランが武装集団に襲撃され、日本人7名が犠牲となったテロ事件から1年と2ヶ月。欧米諸国とも良好な関係を築き、穏健なイスラーム国家とみられていたバングラデシュでの大規模テロ事件は、日本のみならず国際社会に大きな衝撃を与えた。

同国では、独立戦争時にパキスタンの側について虐殺行為に荷担したものを裁く戦争犯罪裁判が、現政権与党であるアワミ連盟によって実施されているが、裁判ではイスラームの教義に則った国家建設を主張するグループの指導者が被疑者となっている。そして、その判決に呼応するかのように、2013年頃よりイスラーム武装勢力によるものとみられる襲撃事件が増加していた。殺害された日本人は、ODA(政府開発援助)事業で同国を訪れていたことから、外務省やJICAは援助事業従事者の安全対策の強化に乗り出している。

バングラデシュとは

バングラデシュは、ベンガル語で「ベンガル人の国」を意味し、1971年にパキスタンから独立した。独立に際し、日本が早い段階で承認の意思を示したことに加え、二国間援助では、日本が最大の援助国ということもあり、対日感情は極めて良い国である。人口の9割をムスリムが占めており、イスラームがバングラデシュの社会規範や人々の行動様式に大きな影響を与えている。貧困や災害といった負のイメージが先行しがちだが、1990年代より縫製業を中心として好調な経済成長を維持しており、2016年度のGDP成長率は7.11%と過去最高を記録した。世界第8位となる1億6000万の人口に加え、ベンガル湾を有し、大量輸送にも優れた地理的特性から、テロ以降も同国へ進出する企業は増加傾向にある。また、2006年にムハマド・ユヌス博士がグラミン銀行とともにノーベル平和賞を受賞したことがきっかけで、「ソーシャル・ビジネス」といった新たな援助手法やビジネスモデルでも注目を集めている。

安定した経済成長とは裏腹に、政治状況は混迷を深めている。バングラデシュでは、1991年に実質的な民主化がなされて以降、バングラデシュ民族主義党(Bangladesh NationalistParty:BNP)とアワミ連盟(Awami League: AL)の二大政党が交互に政権を担ってきた。2008年の総選挙ではALが大勝したが、同党が実施した選挙制度改革や、独立戦争時の戦争犯罪を裁く国際犯罪法廷に野党が反発し、ホルタル(ゼネスト)や抗議デモが頻発する事態となった。最近では市民がこれら野党の動きに同調することも少なくなってきたが、依然として与野党間の対話は進んでおらず、ALによる一党支配体制が続いている。

アワミ連盟による戦争犯罪裁判の実施

現政権与党で、1971年のバングラデシュ独立を牽引したALは、1991年の民主化以降一貫して、独立戦争でパキスタンに協力した者を戦争犯罪人として処罰することを主張してきた。これにより、戦争を経験した世代の支持を集めると同時に、ゲリラ兵として戦った者も多い党員をまとめ上げ、党内の結束を強めてきた。

同党は、2008年12 月の国会総選挙でも戦争犯罪裁判(以下、戦犯裁判)の実施を選挙公約に掲げて戦い、3分の2以上の議席を獲得して地滑り的勝利を収めた。そして、この圧倒的な議席数を背景に、2010年3月に、3人の裁判官と7人の検察官、12人の調査官を任命し、戦犯裁判のための国際犯罪法廷を開く体制を整えた。国際と名付けられているが、1973年にALが制定した国内法である「国際犯罪[法廷]法(International Crime[Tribunal]Act)」に基づく裁判であることから、その中立性には国内外から疑問符がつけられた。特に被疑者となったイスラーム主義政党の指導者と関係の深いパキスタンやトルコなどの中東諸国、死刑に反対の立場をとる欧州諸国は裁判の実施に強い懸念を示した。

裁判の対象は、1971年のバングラデシュ独立戦争で、独立運動を弾圧したパキスタン軍に協力した者や虐殺行為に荷担したとされる者たちである。独立戦争に際しては、一部のイスラーム指導者やイスラーム協会(Jamaat-e-Islami:JI)を中心としたイスラーム主義政党が、親パキスタンの立場から「和平委員会」と呼ばれる組織を結成し、独立に反対した。そして、イスラーム主義政党の地方・学生団体としてラザーカールやアル・バダル、アル・シャムスといった組織を編成し、和平委員会の下、ALの活動家や独立を支持する知識人、ヒンドゥー教徒を虐殺した。反独立派はバングラデシュ独立による東西パキスタンの分断と、それによってヒンドゥー教徒が多数を占めるインドの影響力が南アジアで拡大することを恐れ、パキスタンに加担したとされる。

国際犯罪法廷によって、2013年から2017年にかけてJI幹部6人と最大野党BNP幹部1人に死刑が執行された。これに対して、JIとその学生組織であるイスラーミー・チャットラ・シビルが激しい抗議運動を展開し、暴徒化した一部のメンバーが治安部隊と衝突した。また、各地でヒンドゥー寺院や仏教寺院が破壊され、ヒンドゥー教徒の家屋や商店が焼かれるなど、治安が急速に悪化した。ALは、暴動を主導したとして2013年8月にJIの選挙資格を剝奪した。これにより、イスラーム主義層は、代表を議員として国会に送り込むことにより、自らの主義主張を合法的に伝えるすべを失った。同時に、イスラーム武装勢力は、ALをイスラームの明確な敵として認識するに至った。

イスラーム武装勢力による襲撃事件の増加

戦犯裁判に社会の注目が集まりはじめた2013年初頭より、イスラーム武装勢力によるものとみられる襲撃事件が増加した。襲撃の対象は、反イスラーム的であるとされたブロガー、外国人、宗教マイノリティに大別される。

ウェブ上で政治的意見を発言するブロガーは、バングラデシュにおけるインターネットの普及によって、急速にその存在感を増してきている。特に、ALが戦犯裁判を推し進めることにより、戦犯推進派や保守的かつ武装主義的なイスラーム思想に対して批判的な立場をとる人びとが政権のお墨付きを得た形となり、活発に発言するようになった。また、自らの意見を誰からも精査されることなく容易にウェブ上で流布することができるようになったことから、イスラームに関する議論が過激な批判の応酬となって、互いの憎悪を高め合う結果となった。

これらを背景として、2013年頃から過激なイスラーム思想を批判する書き込みを行っていたブロガーや、戦犯裁判で被疑者に厳罰を求める運動をウェブ上で展開したブロガー、彼らの著作を発行する編集者、LGBT(性的マイノリティ)の権利を求める活動家などが、何者かに襲撃される事件が続いた。これに対してIS(イスラーム国)やインド亜大陸のアルカイーダ (Al Qaeda in the Indian Subcontinent: AQIS)は、彼らをイスラームの伝統的な教えに反する「無神論者」や「世俗主義者」であるとして犯行を認める声明をだした。

宗教マイノリティに対しては、シーア派宗教施設における無差別発砲事件や、イスラームの少数宗派であるアフマディヤのモスクにおける自爆テロ事件、ヒンドゥー教徒や仏教徒、キリスト教徒、イスラーム少数宗派に対する襲撃事件などが発生し、ISからの犯行声明がだされた(表参照)。

表 2016年にISのバングラデシュ支部を称する組織が犯行声明を出した少数宗教に対する襲撃事件

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(出所)テロ続発が脅かす安定成長への道(日下部 2016 p.467)

また、2015年には外国人をターゲットにした襲擊事件が3件発生し、イタリア人2名、日本人1名が死傷した。外国人に対する襲撃事件がISの犯行声明の下、立て続けに発生したことに加え、ISの広報誌「ダービク12号」において、バングラデシュにおけるテロ活動の強化を示唆したことから、政府、各国大使館は警戒を強めた。

ダッカ襲撃テロ事件の発生

このような襲撃事件が断続的に発生するなか、2016年7月1日午後9時過ぎにダッカの外国人高級住宅街であるグルシャン地区のレストラン「ホーリー・アルチザン・ベーカリー」で、日本人7人を含む民間人20人が殺害されるという、大規模かつ計画的なテロ事件が発生した。事件は、武装した5人の若者によって引き起こされ、実行中にISからの犯行声明が出された。彼らはいずれも25歳以下で、バングラデシュにおいては富裕層・高学歴の部類に入る。事件当日はラマダン(断食月)の最終金曜日で、レストランは外国人客が多数を占めていた。実行犯は、殺害にあたりコーランの一節を朗読させたとの証言もあり、非ムスリムを狙って犯行に及んだことが予想される(事件の詳細については、広島修道大学の高田峰夫教授のブログが詳しい)。

事件に対してハシナ首相は、国内にISの拠点は存在しないとの発言を繰り返し、ジャマトゥール・ムジャヒディン・バングラデシュ(Jamaat-ul-Mujahidin-Bangladesh:JMB)など、国内のイスラーム武装勢力による犯行の可能性を示唆した。政府としては、ISへの脅威から同国に対する投資や援助が減少することに対する危機感に加え、国内のイスラーム武装勢力と関係が深いとされるイスラーム主義政党とその支持者に対する攻勢を強めたいという思惑があったと考えられる。しかし、ISへの勧誘容疑で逮捕者も出ていることに加え、犯行声明や広報誌の一部がベンガル語で出されていることからも、ISメンバーのなかにバングラデシュ人がいるのは明らかだ。

このように、ISによる犯行声明の下、襲擊事件が増加していたにも関わらず、あくまでも海外の武装勢力の関与を認めない捜査方針や、国外からの武器流入を止められない不徹底な国境警備、イスラーム主義政党やBNPを追い詰めるALの強権的姿勢、不十分な情報分析と治安対策が、ダッカ襲擊テロ事件の惨劇を招いてしまったといえる。治安当局は、その後の捜査から、JMBの分派「ネオJMB」の犯行であると断定した。同組織は、ISのバングラデシュ支部も名乗っており、国際的な武装勢力と国内グループの関係性の解明が今後の課題となる。

バングラデシュはなぜISのターゲットになったのか

東パキスタン時代(1947-1971)から、バングラデシュにおいてはイスラーム主義を全面にだす主張は国民の支持を得られておらず、イスラーム主義政党も強い影響力をもっていなかった。イスラーム主義は、西パキスタンによる東パキスタン支配を肯定するものだという認識が強かったからである(佐藤 1993 p.160)。加えて、独立後の建国期には、パキスタンへの荷担を追及されたイスラーム主義保守層のリーダーたちが政治の表舞台から姿を消し(1970年代後半より徐々に復帰)、インドの政治的影響力や日本・欧米諸国からの援助のもと世俗的な国家建設が進められた。これらの経緯から、バングラデシュはこれまで穏健、もしくは世俗的なムスリム国家と評されることが多かった。

また、91年の民主化以降初の二期連続政権党となったALは、インド、中国、ロシア、日本などの非イスラーム諸国と密接な関係を築いてきた。2015年には、インドとの長年の懸案事項であった地上国境線画定の合意をとりつけ、インフラ支援も約束するなど良好な二国間関係をアピールした。また、中国からは潜水艦をはじめとする軍装備品を、ロシアからは原子力発電所を購入するなど、小国ならではの全方位にわたる外交を推し進めた。

日本も2014年のハシナ首相訪日、安部首相訪バを経て、「ベンガル湾産業成長地帯構想」を打ち出し、総額6000億円の支援を実行に移すなど、積極的な外交姿勢を見せている。日本による多額の支援の背景には、2015年の安全保障理事会非常任理事国選挙で、バングラデシュの支持を取り付けたいという思惑があった。結果として日本とともに一枠を争っていたバングラデシュが立候補を取り下げたことから、対立候補のない中で日本が当選する結果となった。

このように、援助を通じた欧米社会との親和性の高さに加え、世俗的な政治方針のALによる戦犯裁判の実施、非イスラーム諸国とも良好な関係を築く積極的な全方位外交から、バングラデシュは徐々にISなどの国際的なイスラーム武装勢力の戦略的ターゲットになっていったと考えられる。ISは、2014年に広報誌「ダービク6号」で、AL総裁であるハシナ首相を「暴君」と表現し、現政権を敵視する姿勢を明確にしていた。

テロ後の安全対策

現地警察は、今回の事件を外国人をターゲットにしたテロ事件と断定し、事件の首謀者とみられる男をはじめ、イスラーム武装勢力のメンバー200人近くを殺害、拘束するなど取締まりを強化した。また、若者が過激思想に感化されるのを防ぐことを目的とした広報CMや看板を作成するなど、一般の人の目に見える形で武装主義の問題を提起した。これにより、イスラーム武装勢力によるものとみられる襲撃事件は減少したが、2017年3月にはダッカ国際空港近くの検問所が自爆攻撃を受けたり、武器製造工場が摘発されるなど、依然として緊張状態が続いている。

事態を重く見た日本の外務省は、JICA とともに「国際協力事業安全対策会議」を設置し、ODA(政府開発援助)従事者の安全確保の強化策を取りまとめた。昨年8月に発表された報告書には、NGO や民間企業も含めた広範囲な緊急連絡網の構築や訓練の実施、通信機器・防弾車などの安全対策機材の増強、安全対策の予算措置が困難な中小企業に対する負担軽減策などが盛り込まれた。

また、進出している250社以上の日系企業も、警備員の増強や避難路の確保、防犯カメラの設置など、援助関係者同様に安全対策を強化している。テロ以降も進出企業は増加しており、バングラデシュ経済に対する高い期待がうかがえる一方で、長期的なテロとの戦いにどこまで対処すべきなのか、リスクとコストのバランスの判断が非常に困難な状況にある。

イスラームと政治をめぐる社会的分断

バングラデシュは、2016年度のGDP成長率が過去最高の7.11%となった。好調な経済成長は既存の社会の価値観や社会のヒエラルキーにも大きな変化を生じさせる。これまでの社会ではあり得ないような立身出世を成し遂げるものや、宗教的な価値観よりも新自由主義的な価値観を全面に押し出す人々も現れはじめる。現実として広がる貧富の格差や、伝統的価値観の崩壊などに接して、人びとが懐古主義的なイスラームの言説やISなどの国際的な武装勢力の語る「正義」になびくこともあるだろう。このような社会変化の渦中で実施された戦犯裁判は、バングラデシュにおけるイスラームと政治の関係をあらためて「政治化」し、「見える化」した。

バングラデシュの独立に反対し、虐殺行為を行ったイスラーム主義政党の指導者層が、独立後もその罪を問われることなく政治的な権力を握ってきたことに対する国民の不満は大きい。その一方で、物的証拠に乏しい40年以上前の犯罪に対して極刑をもって望む姿勢や、野党政治家を徹底的に追い詰めるALの政治手法に対する批判は、イスラーム保守層のみならず、一部の知識人エリート層においても高まりを見せている。

イスラームがバングラデシュ政治にどのような影響を与えてきたのか、また、その時々の政権はイスラームをどのように取り込んできたのか。イスラームと政治の関係は、バングラデシュの歴史やバングラデシュ人のアイデンティティを考える上で重要な論点であり、建設的な議論が求められる政治問題だ。しかし、身の安全を考えれば、公の場で強権的な現政権を非難したり、テロとの関連が疑われるイスラーム主義層を批判したりすることもできないのが現状で、平和裏に議論を展開することもできない。そのため、戦犯裁判によって「見える化」されたバングラデシュ社会の分断を結い直す方策は見えず、そこにイスラーム武装勢力が入り込む余地ができてしまっている。ダッカ襲擊テロ事件の実行犯全員が射殺されたことにより、結果として個々人がISの理念に共鳴するにいたった経緯は藪の中となったが、今後バングラデシュにおけるイスラームと政治の関係がどのように変遷し、それがイスラームと社会、そして宗教と個人の関係にどのように影響していくのか、今後の動向を注視する必要がある。

参考文献

アジア経済研究所編『アジア動向年報』各年版、アジア経済研究所

日下部尚徳(2016)「テロ続発が脅かす安定成長への道」『アジア動向年報 2017年版』アジア経済研究所(編)、アジア経済研究所、pp.463-488

佐藤宏編(1990)『バングラデシュ─低開発の政治構造』アジア経済研究所

佐藤宏(1993)「イスラムとマイノリティ問題」『もっと知りたいバングラデシュ』臼田雅之・佐藤宏・谷口晋吉(編)、弘文堂、pp.159-169

高田峰夫(2006)『バングラデシュ民衆社会のムスリム意識の変動』明石書店

高田峰夫(2017)『滔々訥々』

http://toutoutotsutotsu.blog.fc2.com/blog-category-2.html

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歴史としてのレジリエンス: 戦争・独立・災害 (災害対応の地域研究)
川喜田敦子 (著), 西芳実 (著)

プロフィール

日下部尚徳国際協力論、南アジア地域研究、開発社会学

東京外国語大学講師。文京学院大学助教、大妻女子大学専任講師を経て、現職。国際協力論、南アジア地域研究、開発社会学の視座から、バングラデシュの社会経済動向や貧困・災害などに関する調査研究を行う。主な著作は、「脆弱な土地に生きる─バングラデシュのサイクロン防災と命のボーダー」(共著『歴史としてのレジリエンス』京都大学学術出版会、2016 年)、「バングラデシュにおけるNGO の活動変遷─援助から社会変革へ」(共著『学生のためのピース・ノート2』コモンズ、2015 年)、「NGO と平和構築─バングラディシュ、チッタゴン丘陵問題におけるジュマ・ネットの活動を事例に」(共著『現場〈フィールド〉からの平和構築論─アジア地域の紛争と日本の平和関与』勁草書房、2013 年)など。

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