2018.06.27
なぜオーストラリア北部準州ではアボリジニへの飲酒規制がおこなわれているのか?
飲酒規制のはじまり
オーストラリアに暮らす先住民、アボリジニ。人口こそ全体の約3%だが、オーストラリアにおいてその存在感は大きい。アボリジニの文化や言語は国家レベルで積極的に保護されており、それを後押しするための支援やサービスも充実、オーストラリアを代表する建築物には彼らの描いた絵画が飾られていることも多い。
そんなアボリジニが最も多く居住するのが北部準州だ。オーストラリア中央部から北部にわたる広大な土地には自然豊かな景観が広がる。北部準州の半分はアボリジニの土地で、慣習法にもとづいた自治が行われている。
ところが、その北部準州において、2007年、アボリジニを対象とした飲酒規制が行われることが決まった。この飲酒規制は、連邦政府による介入政策ともとれる「北部準州緊急措置Northern Territory Emergency Response」の項目の一つで、アボリジニ・コミュニティ内での酒のやりとりを一切禁じるというものであった。アボリジニの権利を尊重し、先住民政策の先進国として知られるオーストラリアにおいて、なぜこのような「人種差別」ともみられかねない飲酒規制が行われることになったのだろうか。
きっかけとなったのは、アボリジニの子どもたちへの性的虐待を取り上げたTV番組である。2006年5月、ABC(オーストラリア国営放送)は『レイトライン』という番組の中で、中央砂漠のアボリジニ・コミュニティで小児性愛者がアボリジニの少女たちとの性交渉を代価としてシンナー吸引に用いるガソリンを取引している、という衝撃的な内容を報道した。
この報道を機に、辺境のアボリジニ・コミュニティに蔓延る失業、アルコール依存、家庭内暴力、育児放棄といった負の現象に注目が集まり、「アボリジニの子どもたちを救え」という感情的な議論が新聞や雑誌を中心に盛り上がった。連邦政府はこうした世論に後押しされる形で、翌2007年、北部準州のアボリジニ・コミュニティへの強制介入を発表した。
介入政策の施行までのプロセスは完全なるトップダウン方式であり、1975年に制定された人種差別撤廃条約の一時停止などのアボリジニの自主性を奪うような内容も含まれていたことから、アボリジニをはじめ、研究者、マスコミ各所から強い反発の声があがった。しかし、そうした批判が吹き荒れる中で、飲酒規制に反対する声はほとんどあがらなかった。
その理由の一つに、飲酒トラブルに悩まされてきたアボリジニたちが「規制もやむなし」という状況に置かれていたことがあげられる。酒が蔓延しているアボリジニ・コミュニティでは酒に酔っぱらった人からの暴力や虐待が日常化していた。その矛先となっていたアボリジニの女性たちからは批判どころか、「規制されて本当に助かった」という喜びの声があがったのである。
アボリジニと飲酒問題
なぜ飲酒規制だけが歓迎されるような状況が起きたのか。何が彼らをそこまで悩ませていたのか。その答えの一片を、オーストラリアにおけるアボリジニと酒の歴史の中にみることができる。
アボリジニは、オーストラリア大陸に約5万年前から暮らしているといわれる。今では「アボリジニ」とひとくくりにされてしまうことが多いが、18世紀に白人が入植した当初には自律的な地域集団の存在が600以上報告されている。それぞれの地域集団は独自の言語体系、神話、儀礼、婚姻規則をもち、狩猟採集をしながら季節性の移動生活をおくっていた。白人入植以前のアボリジニ社会には、酒を飲む習慣はなかったといわれている。
アボリジニ社会に酒が持ち込まれたのは1788年、南西沿岸部を皮切りにはじまった英国系白人によるオーストラリアへの入植以降のことである。18世紀、英国でおきた産業革命は、酒の大量生産を可能にした。英国からオーストラリアに持ち込まれた酒は、入植者たちのあいだで貨幣代わりに使われ、アボリジニとの物々交換の道具にもなった。
当初、規制もなにもない状況で、際限なく持ち込まれていた酒。まもなく入植者たちの間で健康障害や治安の悪化が問題となり、植民地政府は酒の管理をはじめた。ただし、対象は白人のみで、アボリジニへの関心は低かった。当時、入植者たちはアボリジニたちを人間とみなしておらず、病気や殺戮によってアボリジニの社会生活は甚大な被害を受けていた。
20世紀に差し掛かる頃、アボリジニたちの置かれる境遇があまりに悲惨であるという声が宣教師らからあがった。アボリジニにも人道的なあつかいが必要であるという理解が広まり、保護隔離政策がとられるようになる。結果、アボリジニは強制的に保護区に移され、その行動は保護官の監視下に置かれた。その後、白人との混血が進むと同化政策へと移行し、白人への同化のための教育が施されていった。
一方、開拓が遅れた中央砂漠や北部では狩猟採集や儀礼といった伝統的な生活が続いていたことから「最期のアボリジニ」を保護しようと、キリスト教ミッションや行政がアボリジニを管理下に置いた。保護区ではアボリジニは「伝統」的な生活を送ることが求められ、酒を飲むことは禁じられた。
長く白人の管理下に置かれていたアボリジニ社会。その生活が大きく転回したのは1960年代、先住民の権利回復運動が起きてからである。アボリジニたちは当時、当たり前に行われていた差別的扱いに対する抗議運動を展開していく。この抗議運動はマスコミを通じて注目を集めるようになった。
次第にアボリジニに対する差別的対応を改めるべきだという世論が拡大していき、1967年アボリジニは正式なオーストラリア市民としての権利を得た。さらに1976年には北部準州でアボリジニ土地権法が成立し、準州の約50%がアボリジニ信託領となった。連邦政府も対アボリジニ政策を自律自営政策へと転じ、アボリジニは先住民として、そしてオーストラリア市民として生きる道が保障されるようになった。
ところが、急激な社会変化は皮肉にもアボリジニの暮らしに新たな影を落とした。それまで酒を禁じられていたアボリジニだったが、これを機に自由に酒を飲めるようになった。その喜びは「citizen!」という乾杯のかけ声が流行したことからもうかがえる。ただ、喜びとは裏腹に「負のサイクル」も生じた。アボリジニの平等賃金の適用により牧場で働いていたアボリジニの多くが解雇されたが、同時に生活給付金を受給できるようになり、十分な現金収入と余暇を手に入れた。給付金に頼って暮らす人々が作り出す飲酒環境は、酒の消費を増大させ、その速度を加速させた。それにともない暴力や虐待といったトラブルも急増した。
アボリジニ・コミュニティの中には自主的に禁酒をおこなうところもあったし、酒とうまく距離をとっている地域もあった。しかし、一旦負のサイクルに巻き込まれてしまった地域では、状況は悪化の一途をたどった。特に悲惨な状況に陥っていたのが中央砂漠である。中央砂漠の都市ではアボリジニ女性たちを中心とした禁酒運動が起きたが、アボリジニ男性を中心に自分たちの問題は自分たちのやり方で解決するという声が大きく、局所的な展開にとどまった。
政府はというと、自律自営政策のもとアボリジニ社会に積極的に介入せず、基本的にはアボリジニに委ねる方針であった。そんな折のTV報道、そして強制介入。アボリジニたちは繰り返される支配に強い戸惑いや怒りを見せたが、飲酒規制についてはこれで暴力から解放されると安堵の表情を見せる人が多かった。こうした様子に、長い抑圧の歴史の末の自律とそれに付随して起きた様々な問題のはざまで、頭を抱え身動きがとれなくなったアボリジニたちの複雑な心境がうかがえるのである。
飲酒規制のその後
では飲酒規制がはじまったことで問題は解決したのだろうか。残念ながら、そんなことはない。アボリジニ・コミュニティから酒が消えても、ロードハウスや観光地にいけばいくらでも酒はある。北部準州ではアボリジニ・コミュニティ以外でも酒屋の営業時間の短縮やテイクアウトの監視がはじまったが、酒の流通自体は制限されることもなく、それまで通り酒は出回っている。
酒を飲むのが当然の権利と考える人たちが多数派である限り、そして政府がアルコール産業を保護し続ける限り、オーストラリアの禁酒が実現するわけもなく、アボリジニ・コミュニティを出ればどこでも酒は飲めてしまう。結局のところ「アボリジニ・コミュニティ内の禁酒」というルールは飲酒問題を根絶するもののではなく、村からロードハウスへ、ロードハウスから都市へ、酒を求めて移動する人々の動きを促進する装置になったにすぎなかった。
私が2012年から通いつづけている中央砂漠のアボリジニ・コミュニティでは、飲酒規制がはじまってからも、ロードハウスや都市に出かけていって相変わらず酒を飲み続けている人たちがたくさんいる。たいていの場合、複数名で移動しているアボリジニたちはどこにいっても視線を集めやすい。酒を飲んで騒いでいたらなおさらである。ロードハウスや都市へ流れ込む人々への監視が強化されるようになると、非先住民に比べてアボリジニの検挙率は右肩あがりであった。今では中央砂漠の刑務所に収容されている囚人の9割以上がアボリジニで、ついに収容人数の限界に達してしまった刑務所もでてきている。
結果的に飲酒規制はアボリジニと警察の「いたちごっこ」を加速させただけという指摘が出ているように、介入のあり方自体が疑問視されている。2012年、連邦政府はまだ解決の糸口がみえていないという理由から、当初5年間という期限が設定されていた介入政策の継続を決定した。2022年まで延長される介入政策。この決定にも「やむなし」と反応をせざるを得ないのが、アボリジニ社会の現状でもある。
辺境の土地でみえてくるもの
アボリジニ社会の飲酒問題はこれからどうなるのだろう。一部を除いて、大半のアボリジニ・コミュニティは「酒はよくない」という意見で一致しているようだ。だとすれば(現実的ではないが)入植前のように、大陸から酒がなくなってしまえばいいのかもしれない。2008年、アボリジニに公式に謝罪したオーストラリア政府は、その責任を果たす義務があるだろう。
しかし残念ながら、多文化共生を目指すオーストラリアという国では、それも無理な話だ。差異を尊重しあいながら国家統合を目指すオーストラリアにおいて、アボリジニはマイノリティであり、統合という国是のために「管理される側」にすぎない。結局、折衷案として繰り返されるアボリジニの自律と包摂のシーソーゲーム。そんなシーソーゲームのさなかで、アボリジニは「オーストラリアの象徴」として美化されたり、問題を起こす「困った先住民」と揶揄されたりする。そうした主流社会からの一方的な「先住民」ラベリングに対して反発も高まり、アボリジニのスポークスマンたちの中には主流化を掲げて、「オーストラリア市民」として主流社会で生きる術を模索する者も現れている。
「先住民」か「オーストラリア市民」か。二重社会に生きるアボリジニたちはどこに向かい、どのような未来を切り開いていくのか、その複雑さは増していくばかりだ。ねじれにねじれが重なる状態で、先の道筋を描くことも容易ではない。そんなアボリジニ社会の末端である辺境の土地で垣間見られるのは、「先住民」とも「オーストラリア市民」とも語らない人たちの日常である。
現状を憂いつつ子供たちの未来を案じながら、飲酒規制をかわして手に入れたビールを分け合い、ごくごくと飲み干す人々の姿はここではありふれた風景だ。酔っぱらって問題をおこした人は、周囲から責められ肩身を狭そうに過ごしている。トラブルは日替わりで、今日怒られていた人が、明日は怒る側に転じることもある。刑務所の出入りも頻繁だ。
拘留されている家族に会いに週末は刑務所に通い、面会時間ぎりぎりまで村のうわさ話で盛り上がる。悲喜こもごもの暮らし。そんな日々に彼ら自身、決して満足している様子もないし、楽観視もしていない。それでも、トラブルが起こる度に顔をつきあわせて「困ったことが起きた」と言葉を交わす人々の関係は、ニュースで流れるような殺伐な雰囲気とはかけ離れ、どこか人間味があって、温かさがあったりもするのだ。
プロフィール
平野智佳子
神戸大学大学院国際文化学研究科博士後期課程在籍。甲南女子大学非常勤講師。2003年、神戸大学医学部保健学科卒業後、看護師として勤務。2012年、神戸大学大学院国際文化学研究科博士前期課程修了。現在、オーストラリア先住民アボリジニの飲酒問題を切り口に、酒に関する法的規制と人々の動態について民族誌的研究を行っている。著作に「北部準州アボリジニ社会における「先住民」「非先住民」関係の構図」(2013年、『文化人類学』78巻2号)、「アボリジニコミュニティ出身者の集団意識」(2016年、白川千尋・石森大知・久保忠行編著『多配列思考の人類学』)。