【季刊民族学・シノドス共同運航便】化身ラマたちの故郷を訪ねて――モンゴル国 中西部の旅から

『季刊民族学』とウェブ上のアカデミックジャーナル「SYNODOS」とのコラボレーションが実現しました。本特集記事「モンゴル仏教と化身ラマ――あるいは生まれ変わりの人類学」のうち3 編が誌面を飛び出して「SYNODOS」に登場します。ウェブ媒体と紙媒体のマリアージュをどうぞ。

 

 

遠くを見つめるガチェンラマ寺院の僧院長 撮影:島村 一平

 

 

モンゴル国中西部、ザヴハン県。聖なる山・オトゴンテンゲル山が鎮座するこの県には、かつて多くの化身ラマたちの大名跡(みょうせき)があった。その南部に位置するバヤンホンゴル県にも外モンゴルで序列第3位の化身ラマの大名跡があったことで知られる。

 

現在、この地域では、化身ラマの転生者が次々と現れているという。社会主義時代の宗教弾圧を乗り越えて人びとはいかに信仰を守ったのか。そして現在、どのようにして化身ラマが選ばれているのか。2016年9月、筆者は「化身ラマたちの故郷」の現在を訪ねる全行程2,500キロメートルの旅に出た。

 

 

キリスト教か、仏教か――バヤンホンゴル県へ

 

首都ウランバートルから西南西へ620キロメートル。草原を車で疾走し、バヤンホンゴル県に到着した。ここは、外モンゴル最大の化身ラマ、ジェプツンダンバ・ホトクトの三大弟子の1人、ラミン・ゲゲーン活仏の寺院があることで知られる。道路が未舗装のため、数年前まで首都から車で1泊2日かかった旅も今やミレニアム道路(高速道路)が開通したので1日の行程だ。県都バヤンホンゴル市は、ノムゴン山の南嶺に位置する。人口3万人弱の静かな高原の町である[島村 2017b:1518]。

 

我々が投宿したのは、小洒落たロッジ風のホテルだった。モンゴルの地方では、ゴツゴツしたくすんだ灰色のレンガの旧ソ連式の建築がまだまだ多い。こういう「西側」風の建築は珍しいと思って立ち寄ると、「ソウルホテル」という名だった。従業員に聞くと、かつて韓国から来たキリスト教の宣教師がこのホテルを創業したのだが、仏教ラマたちが圧力をかけて宣教師を追い出したので、今の経営者はモンゴル人なのだという。

 

社会主義崩壊以降、モンゴルにはキリスト教福音派が大変な勢いで入ってきたが、その尖兵となったのは韓国人宣教師だった[滝澤 2015]。調査に同行したモンゴル国立大学講師(当時)のハグワデムチグ氏によると、バヤンホンゴル県はモンゴル・キリスト教センターが布教のためのモデル県に指定したのだという。しかしその結果、地元の仏教徒たちが反発し、一種の宗教対立が起きているらしい。前述のとおり、ここは数あまたいるモンゴル化身ラマたちの中でも序列第3位の化身ラマ、ラミン・ゲゲーンのお膝元でもある。

 

 

ラミン・ゲゲーンの転生者の探索

 

ラミン・ゲゲーン1世ロブサンダンザンジャンツァン(1639―1703)は、チンギス・ハーンの血筋を引く貴族ロイグ・エルフ・チュフルの息子として生を受けた。伝説によると彼の生まれる前日、父親はゲルの天井に1羽の大ハゲワシが羽ばたいて留まったのを捕まえて絹糸で結んで飼うことになった夢を見たのだという。

 

17歳になると彼はチベットのラサへ留学した。ダライ・ラマ5世やパンチェン・ラマ6世の指導の下、チベット医学や占星術などを深く学び、7年後の1662年に帰国。その後、モンゴル初のチベット医学の学校「ガンダンダシゲンペルリン学堂」やラミン・ゲゲーン寺院を建立するなど、終生モンゴルでの仏教弘通(ぐつう)に尽力した[Dashbadrakh 2004: 90-99]。

 

 

ラミン・ゲゲーン寺院の本堂。中央にラミン・ゲゲーン1世の像 撮影:島村一平

 

 

1703年、ラミン・ゲゲーン1世が遷化(せんげ)して後、その化身は20世紀の初めまで7代に渡って「転生」していった。そして20世紀最後の転生者が7世ツェレンドルジ(1913―1937)である。彼は寺領内の普通の遊牧民の子どもとして生まれたが4歳のとき、ラミン・ゲゲーンの転生霊童だと認定される。いわば庶民の子どもがいきなり領主になったわけである。しかしそれもつかの間、モンゴルは社会主義化し、1937年の宗教弾圧によって逮捕されてしまう。そして24歳の若さで銃殺刑に処されたのだった。

 

そのラミン・ゲゲーンの現世が現れたとの情報を得た。2009年に新たに認定された現世(8世)も普通の牧民の子だった。興味深いことに街で出会った人びとから、生まれ変わり探索のイニシアチブを取ったのは、バヤンホンゴル県政府だったとの情報を得る。県庁へ向かい、情報を収集してみた。なんと2009年7月8日、バヤンホンゴル県政府は、県議会議長と県知事の名で、ダライ・ラマ14世に対して、ラミン・ゲゲーン8世の認定を要請する公文書を送っていた。

 

そこには「法王猊下と以前にお会いしたときに話し合ったラミン・ゲゲーンの転生者認定事業に関して、バヤンホンゴル県政府は公式に賛同を表明いたします」と書かれていた。そして最後に「ここに差し出した名簿の中から厳選の上、この中にいないのかも含めてご教示いただきたく存じます」と締めくくられていた。

 

霊童の認定にかかわったある県の幹部職員によると、要請書を受けたダライ・ラマはその認定の占いをボグド・ジェプツンダンバ・ホトクト9世(1932―2012)に託したのだという。ジェプツンダンバ・ホトクトはモンゴル最大の化身ラマの名跡である。8世はモンゴルが清朝から独立するとき君主に推戴されたが、その死後モンゴルが社会主義化すると、今度はチベットの都ラサに転生した。9世は、一度は還俗(げんぞく)するもインドに亡命後、ダライ・ラマから本物の化身として再認定を受けている。

 

ともあれジェプツンダンバは、ラミン・ゲゲーンの転生霊童の候補者として3人の子どもを選んだらしい。そしてその3人の名前を書いた紙きれを壺の中に入れて、1枚を引き抜き、転生者を決定したのだという。一説によると、名簿の中に女の子の名前も混入しており、あわや女子が化身ラマの候補者になりかけるという「間違い」もあったのだという。話の真偽は不明だが、少なくとも化身ラマが女性に生まれ変わるのはチベット・モンゴル仏教的に「間違い」であるらしい。

 

こうして選ばれたラミン・ゲゲーン8世は、ダライ・ラマの座する北インドのダラムサラ(チベット亡命社会の中心地)で即位式をおこなったのち、今は修行のため南インドのチベット仏教の大学堂であるゴマン学堂で学んでいる。夏休みや旧正月休みの頃にモンゴルに一時帰国するのだという。

 

 

インド留学準備に励む少年僧たち

 

市内のラミン・ゲゲーン寺院を訪ねてみた。この寺は県の仏教寺院の総本山でもある。

 

寺の境内の中央に鎮座するのは、真っ白なラミン・ゲゲーン1世の大理石座像。そのまま境内を北に進むと奥に学校のような建物があった。中に入ると赤い袈裟を身にまとった数十人の幼い少年僧たちがチベット語を学んでいる。教えているのは、チベット人の僧侶だ。彼らはインドのゴマン学堂に留学するための準備をしているのだという。

 

この寺の僧院長に会ってみた。チベット・モンゴル仏教の大寺院では、化身ラマを座主としてその下にハンバ・ラマと呼ばれる僧院長の役職が置かれることが多い。若い座主の不在を護る僧院長B師は、齢(よわい)40歳。やり手のラマとして地元では有名な人物だ。

 

チベット医でもあるというB師は、僧院長に就任して5年になる。教室でチベット語を学ぶ少年僧たちのことを尋ねると、現世ラミン・ゲゲーンが「寺院建設よりも学問のある僧侶が育たなければ意味がない」と言ってモンゴルの子どもたちのインドへの仏教留学を提案したことがきっかけなのだという。

 

そこでラミン・ゲゲーン寺院は、南インドにあるチベット仏教の大学堂、ゴマン学堂と契約を結び、2012年より毎年数十人の少年僧たちをインドに留学させている。そのために僧院長がバヤンホンゴル県内のすべての郡を回ってインド留学を含めて仏教に関心がある少年たちを毎年集めているのだという。

 

 

ラミン・ゲゲーン寺院でインド留学のためにチベット語を学ぶ子どもたち 撮影:島村一平

 

 

驚いたことに学費や食費といった諸経費は、すべてチベット側、すなわちゴマン学堂持ちらしい。ゴマン学堂といえば、チベット仏教ゲルク派において最大の学問寺であり、ここで16年以上の学問と修行を積んだ者だけがゲシェー(博士)の位を得ることができる。ちなみにこのゴマン学堂には、2017年現在、300人以上のモンゴル人少年僧が学んでいるのだという。

 

それにしてもラマ養成にこれだけ熱心なのは、なぜだろうか。このモンゴル人少年僧のインド留学プログラムは、モンゴル側はもちろんだがチベット人ラマの活躍があるようだ。ラミン・ゲゲーン認定のときから、モンゴル語が堪能な一人のチベット人ラマが視察に来ていたことを人びとは証言している。どうやらダラムサラもモンゴル人のインド留学を積極的に奨励しているようだ。しかしそれだけではあるまい。

 

 

宗教対立の最前線バヤンホンゴル

 

バヤンホンゴル県では、民主化以降、急速にキリスト教徒が増えている。「仏教をどう守っていくかは、我々の手に掛かっています」そう語るB僧院長は、中学校や公民館で仏教の教えの講義を開始するなどの手を打った。また県内の仏教寺院のラマたちに「ゼド」(本来は供物のことだが、事実上の給料)を支払うことにしたのだという。モンゴルの地方では、せっかく社会主義崩壊後に再建された寺院が、僧侶が生活苦を理由に還俗し、閉鎖されるというケースが跡を絶たない。しかしバヤンホンゴル県では、この県の本山が郡レベルの小寺院の住職たちにも給料を払う制度を確立させたのである。「僧侶だって生活しなくちゃいけないからね」と僧院長は語った。しかし「キリスト教の牧師に比べると、全然安いんですよ」と付け加えた。

 

ラマははっきりとは語らないが、ここでは仏教やシャーマニズムを信じる者とキリスト教信者の間で諍(いさか)いやけんかが頻繁に起こっているらしい。

 

 

キリスト教福音派の牧師たち

 

我々はキリスト教の牧師たちにも話を聞くことにした。バヤンホンゴル県のモンゴル福音派連合のセンターで牧師を務めるS氏は41歳。立派な体格に人懐っこい笑顔が印象的である。「現在、県内には洗礼を受けた信者が2,000人おり、県内のすべての郡に福音派の集会組織があります」と彼は誇らしげに話した。とりわけ40歳以下の若い信者が多いそうだ。

 

かつて彼は、ウランバートルで高校の世界史の教師をしていた。しかし酒とタバコが好きで「生徒にタバコを勧めるぐらい悪い教師だった」と語る。そんな中、キリスト教徒の妻の必死の説得に屈し、2003年に洗礼を受けた。「聖書は人を変えるんです」と言って笑う。

 

洗礼後、酒とタバコを卒業した彼は、故郷にキリストの教えを広めるべくバヤンホンゴルに帰ってきたのだという。その後、韓国への牧師の研修旅行にも参加した。

 

彼は直接、仏教を批判したりはしなかった。しかしその語り口から他宗教・他宗派に対する排他性と独特のキリスト教解釈がうかがえた。

 

「聖書は愛国主義を教えてくれます。だから間違った宗教や宗派は入れてはならないんです。チンギス・ハーンは神から世界を治めることを許された人だと思います。だからモンゴルはキリスト教国となったとき、再び強大になりますよ」

 

つまり彼の中では、チンギス・ハーンはキリスト者であるようだ。もちろん実際は、「異教徒」である彼とその子孫は、ルーシ(古代ロシア)やヨーロッパのキリスト教徒の国々を蹂躙し甚大な被害を与えたのであるが。

 

一方、バプティスト教会の30代の牧師は「仏教徒は困ったときに寺院に行って厄除けの経を読んでもらいますが、日常生活に信仰というものがありません」と主張する。牧師によると、バプティストは2013年に韓国人牧師によって同県に布教の先鞭がつけられた。現在、モンゴル国内で6,000人、バヤンホンゴル県内には40人ほどの信者がいるのだという。「私は全県民4万人を皆救ってあげたいと思っています」と言って目を輝かせた。

 

その一方で、ここでの布教は容易ではないらしい。とりわけシャーマニズム信者や民族主義者、酔っ払いなどによる乱暴狼藉が跡を絶たないのだという。彼は仏教に対してはとりたてて悪く言おうとはしなかった。ゼミナールの最中に乱入して信者を引っ張り出したり、窓ガラスをたたき割ったりされたことも一度や二度ではなかった。また同じキリスト教でもモンゴル福音派連合とは折り合いが悪く、信者の奪い合いも起きているのだという。別れ際に「来週、時間があれば韓国料理でも食べながら、神について語り合いませんか」と爽やかな笑顔で誘われた。どうやらモンゴルではキリスト教と韓国文化はパッケージ化されているようだ。

 

道を急いでいたので、丁重に断り、バヤンホンゴルを後にした。

 

 

孤独な化身ラマ

 

化身ラマの郷・ザヴハン県に向かう前に、私には1か所、寄っておきたい寺があった。バヤンホンゴル県北東部のエルデニツォグト郡にあるパンデンチョイホルリン寺院である。かつてこの寺にはガチェン・チョグブル・リンポチェ(通称ガチェン・ラマ)という称号の化身ラマが座していた。ガチェン・ラマはパンチェン・ラマのヨンゾン(大活仏の教育係のラマ)という高僧の名跡である。とりわけ7世はパンチェン・ラマ9世(1883―1937)の命により、20世紀初頭、ジェプツンダンバ8世の側近(ジェヴトゥイ)となるため外モンゴルに派遣されたことで知られる。そこでモンゴルにこの寺院を建てたわけである。

 

その現世であるガチェン・ラマ9世と私は以前、ウランバートルで会っていた。彼は、首都の社会主義時代の集合住宅の一室で独り座って、仏教哲学の研究に励んでいた。チベットのアムド地方(中国青海省)のグンブム寺院やインドのダラムサラへの留学経験もある。十分修行を積んだはずに見えるが、故郷バヤンホンゴルにある自身の寺院に戻らず、部屋に籠って禁欲的な修行生活を続けていた。彼はなぜ故郷に帰らないのだろうか。

 

 

ガチェン・ラマの玉座 撮影:島村一平

 

 

生まれ変わりをめぐる逡巡

 

ガチェン・ラマ9世リンチェンサンボー。1979年バヤンホンゴル市生まれ。モンゴル民主化と同時に祖父に従って、ガチェン・ラマの寺院でラマとなったのだという。2005年、彼が留学先のダラムサラで師事したのは、かのジェプツンダンバ・ホトクト9世だった。当時、ジェプツンダンバ9世の下で修行をするモンゴル人僧侶が20人ほどいた。中にはバヤンホンゴル出身の同郷の者たちもいた。

 

そしてダラムサラに来て1年。モンゴル出身の学僧に召集がかかった。師匠がガチェン・ラマの転生者を選ぶのだという。生前、モンゴルで遷化した7世は、今度はモンゴル人として生まれ変わると遺言を残していたのだった。

 

その前日の夜、リンチェンサンボーは多くの動物や妖怪が自分に礼拝するという不思議な夢を見た。最後に純白のデール(民族衣装)を着た男性が自分に純白の絹布を捧げるところで目が覚めた。それを同郷の兄弟子に話したところ、「君が転生者なんじゃないか」と言う。

 

果たして占いの結果、選ばれたのはリンチェンサンボー本人だった。その直後より、他のモンゴル人修行僧の仲間たちの態度が一変したのだという。今まで掃除や洗濯、炊事をともにしていた仲間たちが距離を置き、自分とすれ違うと手を合わせて深々とお辞儀をする。最初は得意になったが、そのうち孤独になっている自分に気がついた。

 

1週間後、思い余った彼は師匠であるジェプツンダンバ9世に面会を申し出た。そこで彼は泣きじゃくって師匠に自分の心の内を未整理のまま話し始めた。偉大なラマの化身と言われても、前世の記憶も何もないこと。そして自信もないこと。仲間たちとの関係のこと。何時間もひたすら語った。彼が話し続ける間、師匠は話を聞いているのか、聞いていないのか、机に座って経典を整理したり書き物をしたりしていた。そして彼が一通り語り終わって落ち着いたのを見計らい、こう言った。

 

「忙しかったので、あなたの話がよくわかりませんでした。明日の昼頃、もう一度お出でなさい」

 

翌日、師のもとを訪ねると意外なことを聞かれた。「あなたは昨日話したことを全部覚えていますか」。いいえ、と答える彼に師匠は続けた。

 

「人間は死と生と中有(死と生の間の中間生)を繰り返して生き続けます。昨日のことすら思い出せないのに、前世のことなど覚えていられると思いますか?」

 

ジェプツンダンバ9世の説明によると、化身ラマは別に人より上の存在でもなんでもない、普通の人間なのだという。ただ転生を繰り返して徳を積む中で、それが少し仏教を学ぶアビヤス(才能)という形で継承される。その程度に過ぎないらしい。これを聞き、リンチェンサンボーは自身の運命を受け入れることを決意したのだという。「だから化身ラマは、あなただってなれるし、特別な存在ではないんです」静かにそう語った。非常に謙虚なガチェン・ラマ9世だった。

 

 

谷間の古刹の社会主義

 

その彼の故郷の寺に今、向かっている。ゴツゴツとした岩山の谷を越えると草原の向こうに寺院が見えてきた。20世紀初頭の中国式建築の経蔵とチベット式建築の本堂、そしてゲルの僧坊。立派な伽藍(がらん)配置である。実はモンゴルでは20世紀初頭に800以上あった寺院のほとんどが社会主義の宗教弾圧期(1930年代)に破壊されている。これだけ立派な建物が残っているのは非常に珍しい。

 

 

ガチェン・ラマ寺院 撮影:島村一平

 

 

出迎えてくれたのが、この寺の僧院長を務める、ガチェン・ラマ9世の兄弟子D師(45歳)だった。D師によると、この寺は、かつて社会主義時代にはデールや靴を作るアルテーリ(手工業の工場)として利用されていたのだという。ラマたちは還俗し、工場の職人として働くことになった。しかし人びとは子どもが病気になるたびに職人となった還俗ラマたちを密かに訪ねつづけたのだという。すると元ラマは占いをして「名前が良くないから、名を変えたほうがよい」と言うのが常だった。「そういうわけでここの郡の人びとはみな、名前を2つ、3つ持っているんです」僧院長は、笑いながらそう語った。また葬式も、密かに還俗したラマが読経や儀式をおこなっていたそうだ。

 

つまり「工場と呼ばれる旧寺院」という空間で、かつて僧侶だった職人たちが、作業の片手間に占いや名づけといった呪術的活動をしていたわけである。結果的に言うと社会主義以前と以降では、仏像のあるなしと僧侶に髪の毛があるなしくらいの違いだけだったのかもしれない。そして仏教は、仏像や法具や経典の要らない、厄除けや名づけといった呪術的なものに特化していったに違いない。

 

 

兄弟子が語った悲しい運命

 

現世ガチェン・ラマの認定のことについて尋ねると、D師は少し顔を曇らせながらも真摯に答えてくれた。「彼と私は子どもの頃から、この寺院で過ごした兄弟みたいな関係でした。ですから先生(バクシ)(ジェプツンダンバ9世のこと)が彼を選んだときは、正直辛かったです。かわいがっていた弟が師匠(化身ラマ)になるということですから」

 

D師は、意外なことを教えてくれた。

 

「彼だって辛かったんだと思います。ガチェン・ラマ9世に認定された後、彼はモンゴルで待たせていた妻と離縁したんです。子どももいたはずです」

 

そもそもチベットでは僧侶は妻帯を禁じられているが、モンゴルでは妻帯者であることが多い。ダライ・ラマ14世がモンゴルを初めて訪れたとき、モンゴルの僧侶たちが妻帯者であることに驚き、それを厳しく批判したのは有名な話だ。おそらくガチェン・ラマ9世は、仏教者としての修行を極めるために妻と別れるという道を選んだのであろう。そして修行が完成されていないという理由でガチェン・ラマ9世は、自らの寺院に帰ってきていない。一方、兄弟子は僧院長となって、座主たる弟弟子の帰りを谷間の古刹で待ち続けているのだった。

 

 

モンゴルのミラレパ

 

我々は車を北に進めた。ザヴハン河を渡ると「化身ラマの故郷」の領域だ。ザヴハンといえば、清朝時代、かのジェプツンダンバの三大弟子の1人であるジャルハンズ・ホトクトや「ハルハ十三大化身ラマ」の1人であるナローバンチェン・ホトクトが寺院と領土を持っていたことで知られる[Vreeland III 1973(1962)]。実はこのあたりは18世紀、清朝の仇敵であったジューンガル帝国との境に近い最前線だった。清朝皇帝は、この地に化身ラマを領主とする寺院領を置くことで、宗教の力で辺境の人心を慰撫しようとしたのである。

 

 

ザヴハン河。バヤンホンゴル県とザヴハン県の県境の河撮影:島村一平

 

 

多くの化身ラマを有し、仏教信仰が盛んだった同県では、社会主義時代でも密に仏教が信仰されていたといわれる。また、社会主義崩壊以降、キリスト教福音派の台頭が顕著なモンゴルにあって、ザヴハン県は、2016年9月現在、国内でキリスト教の教会がない唯一の県なのだという。その南部に位置するシルーステイ郡に、還俗して社会主義を生き抜いた「化身ラマ」がいたと聞いた。多くの化身ラマが社会主義時代の宗教弾圧で銃殺された中、こうして生き残って還俗した例は、非常に珍しい。

 

この還俗ラマ、ツェレンドンドブ(1919―1996)は、11世紀後半から12世紀にかけて活躍したチベットの高名なヨーガ行者ミラレパの4代目の転生者だとされていた。ミラレパは、チベット仏教四大宗派カギュ派の宗祖でもある。そういうわけで現地では、この還俗ラマはモンゴル語でミラレパを意味するミロ聖人(Milo bogd)と呼ばれることも多い。また社会主義時代、アーゲント(エージェントのロシア語)すなわち物資配給担当者の仕事をしていたことから、「アーゲントさん」とも呼ばれていた。

 

ミラレパといえば、空を飛び、極寒の中で裸の修行をしたという伝説や、財産を簒奪(さんだつ)した叔父一家を呪殺してしまうというエピソードで有名である。彼は殺人の悪縁を断つために仏道に入り、洞窟で断食瞑想をするなど密教の苦しい修行を修めた。そうして悟りを得たミラレパは、宗教詩人として遊行しながら数々の神通力を示していく。最後は村に蔓延していた伝染病を治すという奇跡を起こすが、法敵に毒殺されるという激烈な生涯を送っている[渡邊 2015]。

 

これに対してモンゴルのミラレパは、チベットのミラレパのような神通力のある宗教者というよりも、むしろ有徳の地域社会の貢献者だったようだ。

 

「ミロ聖人」ツェレンドンドブが化身ラマとなったのは、4歳のときである。ディロワ・ホトクトという大活仏に見出され盛大な即位儀礼をおこなった。しかし社会主義化するモンゴルの中で生き残るため彼は還俗し、なんと軍人になる。ゴビの国境近くで軍務に服し、第2次世界大戦が終わると故郷へ帰った。そこで人民革命党員に選ばれ「流通アーゲント」という地方の要職に就いた。これは、地方における家畜の徴収と物品の牧民への配給・販売の担当者である。とりわけ首都ウランバートルからやってくる小麦粉や茶、生活必需品などを販売したりするのが彼の役目だった。こうして地方幹部として一生を過ごすが、晩年に社会主義が崩壊すると、彼は信仰を取り戻している。再び袈裟を着ることはなかったが、民主化以降、多くの人びとが訪ねてきて彼に占いを依頼するようになった。大統領が訪問してきたこともあったという[Batsaikhan 2014]。化身ラマから人民革命党員を経て今度は俗服の占い師へ。なんと数奇な運命であることか。

 

折しも筆者がザヴハン県シルーステイ郡を訪れたとき、ミロ聖人が建てたオボー(積み石塚)祭が開催されようとしていた。草原はまさに「黄金の秋」の名にふさわしく紺碧の空の下、光輝いていた。オボーの周囲には、一見すると人口1,800人のこの郡のほとんどの人が集まっているかのようだ。ラマたちはもちろん、五体投地をしている人びと、そしてモンゴル相撲大会も催されており、秋の草原はすっかり祝祭空間となっていた。このオボーは、1992年、ミロ聖人が自分の生地に白い石を積み上げてオボーとしたのが始まりなのだという。すなわちオボー祭は、ミロ聖人への感謝祭であるといってよい。

 

この祭りで集まっていた7~8人の老人たちに、「皆さんの中にミロ聖人に名前を付けてもらった方はいるか」と尋ねたところ、なんと声をそろえて「全員だよ!」と答えた。一人一人に名前を尋ねると、なるほどチベット名である。

 

 

ミロ聖人(アーゲントさん)の思い出を語る老遊牧民。アーゲントさんは彼自身の名づけ親でもある 撮影:島村一平

 

 

社会主義時代の呪術

 

次にミロ聖人の社会主義時代の宗教的な活動を尋ねてみた。生前のミロ聖人を知るある70代の老人は、「無口な人だった」「子どもが病気になると、黙って角砂糖をくれて、『これを飲んでおきなさい』とだけ言ったが、本当に元気になった」などと語った。あるいは、別の老人は、物品販売時に「おまえは病気だから、毎日これを1個ずつ飲みなさい。それでよくなる」と言っていくつかの角砂糖を握らせてくれた話を披露した。また、年寄りに対しても「1日1つ角砂糖を食べなさい」と言って配っていたのだという。どうやらミロ聖人は角砂糖で人びとを病から救っていたらしい。

 

角砂糖と言えば、モンゴルの人びとが社会主義時代に初めて口にしたものである。本来、遊牧民であった彼らは、20世紀に始まる社会主義による近代化を迎えるまで、肉と乳製品のみの食事に親しみ、野菜はもちろん穀類や砂糖といった糖質をほとんど摂ってこなかった。おそらく調子の悪いとき、貴重な糖分を摂ることで人びとは、栄養ドリンクを飲むがごとく、体力を回復させていたのであろう。そうした「角砂糖」がこの地域では、元化身ラマによってもたらされていたのだった。

 

ある老婆(64歳)は、聖人の病気治しについて、社会主義時代、聖水を秘密裡に人びとに渡して病気を治していたという話をした後で、「例えばね」といって次のような話をした。

 

「(ミロ聖人は)郡のアーゲントをしていたので、県からやってくる食料品を、人を遣わして取りに行かせていた。しかし途中でそれをくすねる人間は誰もいなかった。いても最後は(彼に)告白していたものさ。(県から)配給されてくる商品は、デールに使う木綿の生地や砂糖、小麦粉、米、お茶といったものだけだった。彼自身も党や政府に対して忠実だったから、県や郡の政府関係者も彼に対しては好意的だったのさ。秘密でやってきて占ってもらったりしていたという話さ。だから彼が亡くなったときは、ブリヤートからも弔問者が来たくらいさ。私たちはそれほどすばらしい人を崇拝していたから、現在の化身ラマたちをそんなに評価しないんだよ」

 

老婆が語るミロ聖人の能力は、化身ラマというよりも、むしろ行政手腕に富んだ地方官僚のそれである。どうやら、このような巧みな行政手腕が、モンゴルのこの地域では呪術―宗教的な能力と重ねあわせて理解されていたらしい。事実、ミロ聖人の親戚だという女性(40代)も以下のように語っている。

 

「みんな(ミロ聖人が)アーゲントをしていることを崇拝していたのよ。彼が持ってきてくれた小麦粉、砂糖は『アーゲントさんが呪文を唱えて人びとに配っているよ』『魔法の力がある』と言って喜んで買っていたんだよ」

 

こう考えると、ミロ聖人の「病気治し」や「未来予知」といった呪術は、彼自身が意図的に行為する以上に、人びとが「呪術」として理解した結果、呪術となった可能性が高い。しかも人びとが感謝していた「角砂糖」や「小麦粉」「米」といったものは仏教がもたらしたものというより社会主義的近代がもたらしたものであった。つまり社会主義による近代化は、意図的ではないにせよ、人びとによっていつの間にか仏教的な呪術にすり替えられていったのではないだろうか。理由を問うてはいけないという点において、社会主義ドグマと呪術は似ている。いずれにせよ、ザヴハン県では、社会主義的近代が呪術として受容されていった可能性が高い。

 

一方、還俗ラマは意図的に呪術をかけていたのだろうか。あるいは意図的に社会主義を呪術として利用したのだろうか。おそらくモンゴルのミラレパは、確信犯的にソ連型の近代を利用した可能性が高いと思われる。というのもミロ聖人は社会主義時代を通して、自らの法具や重要な経典は密かに隠し持っていたからである。

 

 

聖山オトゴンテンゲルと美青年の化身ラマ

 

シルーステイ郡を後にし、我々は聖なる山オトゴンテンゲルへ向かった。オトゴンテンゲル山(標高4008メートル)は、ハンガイ山脈の最高峰である。この山は、古来より聖なる山として遊牧民たちの信仰を集めてきた。オトゴンテンゲルのオトゴンとは、中世テュルク語で「火の継承者」を意味する。あるいは、「オトゴン」は、突厥(とつけつ)帝国(552―744)の本拠地ウテュケン山の音便化したものであり、ウテュケンとは「大地の主」という意味であるという説もある。「テンゲル」とはモンゴル語で天空や神を意味する語である[島村 2017a:278]。

 

 

聖山オトゴンテンゲル山。この山自体、金剛手菩薩の化身として崇拝されてきた。ザヴハン県オトゴン郡 撮影:島村一平

 

 

1779年、この山は、清朝皇帝の勅令によって「イヒ・ボグド・オチルワン山」すなわちチベット仏教の「菩薩」の住まう聖山として、毎年夏季にチベット仏教による祭祀をおこなうことが定められた。このような国家によるオトゴンテンゲル祭祀は、王侯貴族や名だたる化身ラマたちの参加の下でおこなわれていたが、1924年、社会主義政権が成立すると、政教一体のオトゴンテンゲル祭祀は廃止されるにいたる。山の名称も一時期、宗教性を排した「エンフタイワン山(平和の山)」に改められた[島村 2017a:278]。

 

しかしその後、社会主義体制の崩壊後、2004年4月、大統領令によって、オトゴンテンゲル山は「国家祭祀聖山」に選ばれ、大統領参加のもとで大規模な祭祀がおこなわれている。

 

地元の人びとによると、民主化間もない1993年、この山のふもとに住む遊牧民の家に「不思議な能力を持つ子どもが生まれた」のだという。子どもの頃から、牧民の手刀を指でねじ曲げてしまったり、天気を当てたりしていたという。無口な少年だったが、あるラマに見出され小学生になると首都ウランバートルでモンゴル化身ラマ序列第二位ザイ・ゲゲーンに預けられた。普通に大学生にもなったが、大学生のとき彼はザヴハンの大名跡ナローバンチェン・ホトクトの転生者だと認定される。少年は、ナローバンチェン・ホトクト7世ダンザンルフンデブという法名が与えられた。前世プレヴジャブは1937年の宗教弾圧の凶弾に倒れている。

 

ちなみに20世紀前半の宗教弾圧を避けてアメリカに亡命したディロワ・ホトクト5世(1884―1965)は、モンゴルの国連加盟のためにロビー活動を展開したことで有名な人物である。彼はナローバンチェン・ホトクト5世の次席の化身ラマとしてナローバンチェン寺院を拠点としていた。

 

現世である7世は現在、インドのダライ・ラマの傍で修行に励んでいるということだった。旧正月や夏休みに一時帰国すると、彼は大勢の若い女性の「信者」に囲まれると聞いた。というのも7世猊下は大変なイケメン、もとい美青年で、彼に握手をしてもらって気絶した女子すらいるのだという。彼のインスタグラムのフォロワーは4,600人を超えている。人口300万人のモンゴルで、彼はもはやセレブ扱いだといってよい。

 

そんな話を地元の牧民たちに聞きながらオトゴンテンゲル聖山を礼拝し、我々は最後の目的地、古都ウリヤスタイに車を急ぎ北へ進めた。モンゴル国の化身ラマ序列4位のジャルハンズ・ホトクト9世がインド留学から一時帰国してウリヤスタイの自身の寺院に滞在しているとの情報を得たのである。

 

 

イケメンの化身ラマ、ナローバンチェン7世(現世)。モンゴル科学技術大学卒業のエリートでもある。ダラムサラ、2017 年(ナローバンチェン7世のInstagram: narobanchen)

 

 

古都ウリヤスタイで若き化身ラマに会う

 

県都ウリヤスタイは、首都ウランバートルから西へ984キロメートル離れたところに位置する。人口16,000人ほどの街である。20世紀以前、ほとんど定住都市のなかったモンゴルにおいて、同市は、宗教都市イヒ・フレー(現ウランバートル)と並んで社会主義による近代化以前に存在した「古都」であった。この町の起源は、モンゴル系のオイラト人が建てたジューンガル帝国に対抗して清朝が築いた兵営にある。1696年、清の康煕帝は、たびたび漠北に侵入を繰り返すジューンガル帝国に対して、1733年(雍正(ようせい)16年)、西部外モンゴルの要衝であるウリヤスタイに常駐の兵営、定辺左副将軍府を置いたのである[島村 2017a:229]。

 

この軍事都市ウリヤスタイに辺境の人びとを慰撫すべく勧請された大名跡がジャルハンズ・ホトクトである。とりわけジャルハンズ・ホトクト8世ダムディンバザル(1874―1923)は、20世紀初頭、ボグド・ハーンの西域辺境鎮守大臣を務め、モンゴル人民政府が成立すると、首相(1922年3月―1923年6月)すら務めている[Dashbadrakh 2004: 137-144]。そのジャルハンズ・ホトクト現世を訪ねた。多忙なジャルハンズ9世は、30分との条件でインタビューに応じてくれた。寺院の玉座に腰かけた化身ラマは、肉付きの良い快活な若者だった。彼は、1993年、ザヴハン県の草原の遊牧民の子どもとして生まれたのだという。子どもの頃から馬が好きで、ナーダム祭で競馬の騎手も務めていた。「やんちゃな性格でしたが、ラマになって変わりました」と振り返る。

 

彼の化身ラマ認定は、突然の出来事だった。2006年、彼が13歳のときウリヤスタイの寺院の僧院長が高僧を引き連れていきなり彼のゲルに現れたのである。そしてジャルハンズ・ホトクトの生まれ変わりであることが伝えられた。どうやら寺院のラマたちが前もってダライ・ラマやジェプツンダンバ9世に探索の依頼を出していたらしい。そこで該当する地域の子どもたちの名前が書かれた紙片が入れられた壺の中から引き当てられたのが彼だったのだという。つまり一夜にして一介の遊牧民の息子は大活仏の生まれ変わりになったわけである。

 

彼は草原から秘密裡にウリヤスタイの寺院に連れてこられ、そこで1週間かくまわれた。そしてウランバートルに行くと、1人のモンゴル語が堪能なチベット人ラマが待っていた。彼のもとで3か月ほどチベット語の基礎を学ぶと、そのまま南インドのゴマン学堂に連れて行かれ、修行が始まった。ゴマンでの修行は16年~25年かかるといわれる。彼は現在、そこで学んで10年目になるのだという。

 

キリスト教について尋ねてみた。「世界中にいろんな宗教があります。それを私が化身ラマだからといって仏教を強制するべきではないと思っています。そして別の信仰を持つものと口論する必要もないと思います」そうてきぱきと答える彼にやんちゃな遊牧民少年の雰囲気は微塵もなかった。「それから―」彼は続ける。「現代、人びとはさまざまなイド・シド(神通力や魔術)といったものを化身ラマに期待します。でもそんなに期待しないよう願っています」と語った。彼によるとラマの役割は神通力ではなく、仏教教義を正しく伝えることなのだという。こうした人びとの神通力のみを期待する風潮を嘆かわしく思っていると話した。しかし化身ラマがときに「活仏」とも呼ばれ信仰されるのは、まさにこうした神通力、つまり呪術的能力が期待されているからであろう。

 

あっという間の30分であった。我々の後ろにはザヴハン県知事が供の者をしたがえて待っていた。知事とともに黒塗りの車に乗ると、若き活仏は県庁の方向へ去っていった。

 

旅を終えてわかってきたのは、社会主義時代、宗教の制度化された部分(寺院、経典、宗教的職能者など)が公的空間から排除された結果、仏教は、呪術的な部分(観念も含む)に特化して社会空間の中で生き残っていったということである。しかも、ガチェン・ラマの寺院やミロ聖人の事例からわかるように、人びとは社会主義近代を仏教呪術であるかのように理解していた。つまり仏教の呪術と社会主義イデオロギーは、ぶれた二重写しの写真のように重なり合って現象化していたといえよう。

 

翻って現在、モンゴルの人びとの神通力あるいは呪術的能力への渇望にチベット側が応える形で化身ラマを生み出している姿も見えてきた。こうしたチベットの対応は、むしろ戦略的にとでもいうべきであろうか。いずれにせよ化身ラマ誕生をめぐるチベット・モンゴルの駆け引きの内実が知りたくて、我々は翌2017年夏、インドのダラムサラを訪ねることとなる。それはまた別の機会に報告しよう。

 

 

参考文献

島村一平 

・2017a「ウリヤスタイ」「オトゴンテンゲル山」「ザヴハン県」竹内啓一・熊谷圭知・山本健兒ほか編『世界地名大事典 1 アジア・オセアニア・極Ⅰ〈アーテ〉』朝倉書店。

・2017b 「バヤンホンゴル県」竹内啓一・熊谷圭知・山本健兒ほか編『世界地名大事典 2 アジア・オセアニア・極Ⅱ〈トーン〉』朝倉書店。

滝澤克彦

・2015 『越境する宗教 モンゴルの福音派――ポスト社会主義モンゴルにおける宗教復興と福音派キリスト教の台頭』新泉社。

渡邊温子

・2015 『チベットのロックスター――仏教聖者ミラレーパ 魂の声』風響社。

Batsaikhan, P.

・2014 Gegeen Khuvilgaadyn Aman Tsadig, Ulaanbaatar: Mönkhiin Üseg.

Dashbadrakh, D.

・2004 Mongolyn Khutagt Khuvilgaduud, Ulaanbaatar: Shinjlekh Ukhaany Akademi Tuukhiin Khureelen.

Vreeland III, Herbert Harold

・1973(1962) Mongol Community and Kinship Structure, Westport, Conneticut: Greenwood Press Publishers.

 

 

 

 

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