【季刊民族学・シノドス共同運航便】ジェプツンダンバ9世か、ガンダン寺僧院長か?――モンゴル仏教の最高指導者をめぐる相克

『季刊民族学』とウェブ上のアカデミックジャーナル「SYNODOS」とのコラボレーションが実現しました。本特集記事「モンゴル仏教と化身ラマ――あるいは生まれ変わりの人類学」のうち3 編が誌面を飛び出して「SYNODOS」に登場します。ウェブ媒体と紙媒体のマリアージュをどうぞ。(満永葉子訳 / モンゴル語翻訳者)

 

 

遠くを見つめるガチェンラマ寺院の僧院長 撮影:島村 一平

 

 

2人のモンゴル仏教の指導者

 

「モンゴル仏教の長官(ダルガ)は2人いると思います」

 

2017年12月、モンゴル国ウランバートル市で開催された国際会議の際に、ガンダン寺のある僧侶は、こう発言した。1人はモンゴル最大の寺院であるガンダン寺の僧院長のチョイジャムツ師で、もう1人はモンゴル仏教最高位の化身ラマ(活仏)ジェプツンダンバ・ホトクトのことらしい。では、モンゴル仏教には(社会主義時代の言い方をすれば)2人の長官、つまり2人の最高指導者がいるということなのだろうか。

 

社会主義時代のモンゴル人民共和国では、仏教の最高指導者は1人に限られ、ガンダン寺の歴代の僧院長が務めていた。一方、社会主義以前にはジェプツンダンバ活仏がモンゴル仏教の最高指導者と見なされていたのだが、社会主義の崩壊後にジェプツンダンバ活仏の制度が復活したことにより、モンゴル仏教には「2人の長官」が並び立つようになった。言い換えれば、社会主義以前のボグド・ハーン政権時代にモンゴル仏教の最高指導者だったジェプツンダンバ活仏と、社会主義時代のモンゴル人民共和国で仏教の最高指導者であったガンダン寺の僧院長という2人の指導者が、ポスト社会主義時代を迎えてモンゴルに併存するようになり、それが定着してしまったのだ。

 

両者のうちいずれが真にモンゴル仏教の最高指導者かという問題は、2011年に解決されたはずだった。ボグド・ハーン政権の最後の皇帝で、政治および宗教の権威者、ジェプツンダンバ8世(1869―1924)の転生者である9世は、2011年にモンゴル国の首都ウランバートル市のガンダン寺で、モンゴル仏教の最高指導者として即位し、モンゴル仏教の唯一の指導者となったのである。

 

それでは、2017年の会議の際に、上述のガンダン寺の僧侶が「2人の長官がいる」と述べたのはなぜだろうか。すでに2011年に、最高指導者は1人に決まったのではなかったのか。

 

本稿では、社会主義崩壊後の民主化初期における2人の最高指導者の時代(1991年―2011年)、1人の最高指導者の時代(2011年)、再度2人の最高指導者となった時代(2012―2017)という変遷の過程を明らかにしていく。

 

 

1960年代後半のガンダン寺の僧 写真提供:Asian Buddhist Conference for Peace

 

 

モンゴルの民主化と仏教の復興(2人の指導者の時代)

 

1990年3月9日、それまでモンゴル人民共和国の政権を掌握していたモンゴル人民革命党の政治局が総辞職した。これにより、一党制は廃止され、社会主義の政治・経済・教条の仕組みは崩壊し、モンゴル国は新たな国家としての道を歩み始めた。

 

当時、ガンダン寺の若い僧侶たちは、社会主義時代の諸制度を廃止し、民主主義的な社会を建設する運動に積極的だった。例えば、ガンダン寺の僧侶バーサンはモンゴル民主同盟の15名の幹部の1人として活躍し、僧侶ダクワはモンゴル民族進歩党の活動に、僧侶バートルはモンゴル社会民主党の活動に関与していた。

 

モンゴル民主同盟の幹部だったアマルサナー氏によると、1989年のモンゴル民主同盟の幹部らは、「祖国と国民の幸福のために、民主主義のために、モンゴル民主同盟の活動に命をかける」と宣言し、その後も「秘密集会(しゅうえ)タントラ」という仏教経典による加持祈祷の儀式をおこなった。この加持祈祷は、1920年にモンゴル独立運動の活動家たちが、仏教の護法神ジャムスランの前でモンゴルの仏教と政治を振興させるために力を尽くす旨を誓った行為とよく似ている。

 

民主化運動に僧侶たちが関与していたことを示すひとつの興味深い事例として、以下のような出来事があった。1990年3月7日に、モンゴル民主主義連盟がスフバートル広場で政治的なハンガーストライキを宣言すると、その翌日の3月8日にガンダン寺の十数名の僧侶がスフバートル広場に集まり、初代ジェプツンダンバ活仏・ウンドゥル・ゲゲーン(1635―1723)が著した『ジャンラヴツォグゾル―当世の平安を祈願する加持祈祷書』の読経をおこなった。そして、その翌日の3月9日には、モンゴル人民革命党の政治局が総辞職した。

 

このようなことが起きた後、同月の末にガンダン寺の僧侶たちが報告会を開催した。この会議では、「社会の変革活動に僧侶たちが積極的に参与する」ことを目的として、ガンダン寺の僧侶たちからさまざまな意見が出された。この報告会の様子については、モンゴル人民革命党の中央報道機関であるウネン紙の1990年3月21日第68号にて、「僧侶たちの意見」という見出しで掲載された。

 

報告会では、「宗教組織の長を全僧侶たちの選挙によって選出する」という案も出された。それまでモンゴル仏教の最高指導者は、モンゴル人民革命党の政治局によって任命されたガンダン寺の僧院長が務めていたが、これに代わって全僧侶による選挙で選出するという案だった。つまり、人民革命党が仏教の最高指導者を任命するのではなく、僧侶たちが独自に選出して任命するという案だが、社会主義時代にはそうした意見を出すことはおろか、思いつくことさえ禁じられていた。

 

従来のヒエラルキーでは、宗教的な最高権力を掌握しているのはモンゴル人民革命党中央委員会の政治局で、その次が閣僚会議直轄の宗教問題管理委員会、さらにその次がガンダン寺の僧院長という序列だった。ところが、この案では社会主義時代に定着していた宗教的なヒエラルキーを廃止し、僧侶たち自身が宗教的な権力を手にすることを意味していた。宗教の最高権力が俗界にゆだねられていた状況を阻止し、宗教者の手に取り戻そうとするものであった。

 

こうした僧侶たちの意見は取り入れられ、1944年のガンダン寺再建以来初めてとなる僧院長選出のための選挙が、1990年4月にガンダン寺の僧侶たちによって実施された。僧院長選挙では、ガンダン寺の31歳の若い僧侶ブルガンが最多票を獲得したが、年齢的に若すぎるということで、次点となった僧侶ダグワドルジが推挙された。こうして彼はガンダン寺の僧院長に就任し、同時にモンゴル人民共和国における仏教の最高指導者となった。なお、1990年には社会主義が崩壊していたが、1992年にモンゴル国憲法が制定されるまでの間、モンゴル国はモンゴル人民共和国という名称のままだったことを付言しておく。

 

 

社会主義時代のガンダン寺僧院長選挙の様子。全僧侶がKh.ガーダン師(任期1980-1990)を満場一致で選出。ガーダン師は、社会主義時代最後の僧院長となった 写真提供:Gandantegchenling Monastery Archive

 

 

ガンダン寺の僧院長は、1991年9月初旬に首都ウランバートルで開催された第1回モンゴル仏教徒会議にて、モンゴル人民共和国の仏教の最高指導者として正式に承認された。この会議には、1990年以降国内で再建された80以上の寺院を代表して、約100名の僧侶が参加した。モンゴル仏教徒センターの規約は、1991年9月5日(旧暦で辛未〈かのとひつじ〉)の年の秋初月27日)の全体会議がおこなわれた記念すべき日に、会議に参加した僧侶たちによって可決された。

 

この規約によって、モンゴル仏教徒センターはモンゴル人民共和国における仏教の最高機関(モンゴル仏教徒センター規約1.1)として位置づけられ、センターはウランバートル市のガンダン寺を本部とすることが定められた(モンゴル仏教徒センター規約1.3)。また、この規約には「モンゴル仏教徒センターを取り仕切るのは、当センターの大僧正とする。大僧正は、モンゴル仏教全体の最高指導者であり、ガンダン寺の僧院長とする」と記載された。

 

このことは、ガンダン寺にモンゴル仏教徒センターを置き、僧院長を同センターの最高責任者とする社会主義時代の伝統が、そのまま継承されたことを意味する。

 

 

ジェプツンダンバ9世の即位

 

この会議の2週間後の9月20日に、もう1人のモンゴル仏教の最高指導者がインドで認定されるという出来事があった。インドのダラムサラで、59歳のジャンバル・ナムドル・チョイジ・ジャンツァンが、モンゴルのボグド・ハーン政権時代に宗教、政治の最高指導者の地位にあり1924年に入寂したボグド・ハーン(ジェプツンダンバ8世)の転生者として、ダライ・ラマ14世によって認定されたのである。

 

こうして1991年の9月にモンゴル仏教は、モンゴル仏教徒センターの責任者であるガンダン寺僧院長と、ダライ・ラマ14世によって認定されたジェプツンダンバ9世という2人の最高指導者を戴くようになった。そして、ガンダン寺の僧院長とジェプツンダンバ9世のいずれが真にモンゴル仏教の最高指導者なのかという問題が生じたのだ。

 

ダグワドルジ僧院長の後を受けて1991年にガンダン寺僧院長となったダムディンスレン僧院長はモンゴル国籍者であったが、ジェプツンダンバ9世となったジャンバル・ナムドル・チョイジ・ジャンツァンは、チベットで生まれ、亡命者としてインドで暮らしていた。このため、モンゴル仏教の最高指導者の問題には、仏教の中心がモンゴル国内に置かれるべきか、国外に置かれるべきかという問題も付随するようになった。

 

こうした状況下、モンゴルの一部の僧侶たちは、当時社会的な影響力を持ち、モンゴルの仏教徒たちをまとめる組織としての役割を担っていたモンゴル信仰者協会によって、ジェプツンダンバ9世を仏教の真の最高指導者として認定させ、同活仏をモンゴルに招聘してモンゴルの仏教最高指導者に即位させるための活動を展開するようになった。しかし、モンゴル政府は、ジェプツンダンバ9世のモンゴル訪問とモンゴルの仏教最高指導者への即位を許可しなかった。

 

ジャンバル・ナムドル・チョイジ・ジャンツァンがジェプツンダンバ9世として認定された2週間後の1991年9月27日に、ダライ・ラマがモンゴルを訪問した。ダライ・ラマは、社会主義時代には、モンゴル人民共和国を1979年と1982年に2回訪問していたが、モンゴルが民主制度に移行してからは初めての訪問だった。

 

その訪問時には、ダライ・ラマはジェプツンダンバ9世について何も言及しなかったが、1995年にモンゴル国を5回目に訪問(1994年にも訪問)した際に、9世に関する声明を発表し、同活仏をモンゴルに招いて密教の時輪タントラによる加持祈祷の儀式をおこなう必要があると述べた。

 

ジェプツンダンバ9世は1991年に認定され、翌年インドのダラムサラにて即位した。だが、モンゴルの仏教徒たちが崇拝するダライ・ラマからもモンゴルで儀式をおこなうように勧められていたにもかかわらず、モンゴルを訪問できない状態が続いていた。しかし、ついに1999年7月13日、モンゴルを突然訪問したのである。

 

 

インド・ダラムサラにあるジェプツンダンパ9世のラブラン(化身ラマの宮殿) 撮影:島村一平

 

 

ジェプツンダンバ9世のモンゴル電撃訪問

 

ジェプツンダンバ9世がモンゴル訪問に向けてモスクワから飛行機に搭乗した当時、そのことを知らされていたのはごく僅かな人のみだった。その訪問は、モンゴル仏教徒センター、ガンダン寺、モンゴル政府にとって、突然で衝撃的な出来事となった。ちょうどモンゴル政府は、当時中国の主席だった江沢民氏によるモンゴル訪問の公式訪問を控えているところだった。9世がモンゴルに到着した2日後に、江沢民主席がモンゴルを公式訪問したのである。

 

モンゴルは、「祖国中国からの亡命者」であるチベット人のジェプツンダンバ9世と中国の国家主席を同じ時期に受け入れざるを得なくなった。しかもこのチベット人は、中国が「分裂主義者」と見なすダライ・ラマによって活仏として認定された人物である。当然のことながら、9世は、モンゴル政府にとって突然の招かれざる客だった。

 

一方で、モンゴルの僧侶たちは、ジェプツンダンバ9世をモンゴル仏教の真の主と見なし、モンゴルに招聘してモンゴル仏教の最高指導者に即位させることを望んでおり、ガンダン寺がモンゴル仏教徒センターを兼ねることや、ガンダン寺の僧院長がモンゴル仏教徒センターの責任者、すなわちモンゴル仏教の最高指導者となることを認めていなかった。そのため、その突然の訪問は、またとない好機として受け止められた。

 

中国の江沢民主席が7月17日にモンゴルの公式訪問を終えた後、9世は首都ウランバートルの寺院に招聘され、さらに8月4日にウランバートル市から西に360キロメートル以上の距離にあるモンゴル仏教の由緒ある寺院であるエルデニ・ゾー寺を訪れ、即位の儀式をおこなった。

この儀式で、僧侶たちによって「モンゴル仏教徒たちから与えられる称号」とモンゴル仏教最高指導者の銀の印璽(いんじ)が授与され、ジェプツンダンバ9世ジャンバル・ナムドル・チョイジ・ジャンツァンが「モンゴル仏教の最高指導者」に即位したことが宣言された。

 

 

エルデニ・ゾー寺にておこなわれたジェプツンダンバ9世の即位式

出典: Documentary film on the Ninth Jebtsundamba’s visit to Erdene Zuu

 

 

この儀式には、モンゴルのすべての寺院の僧侶たちが参加できたわけでなく、ガンダン寺のチョイジャムツ僧院長(1992年にガンダン寺の僧院長に就任し、現在に至る)も参加していない。

 

1991年にダライ・ラマが認定したにもかかわらず、当時のモンゴル政府はジェプツンダンバ9世をモンゴル仏教の最高指導者として承認せず、むしろ批判的ですらあったが、それは以下のような理由による。

 

 

モンゴル政府の対応

 

モンゴル政府は、モンゴルの仏教は独立したもので、独自の制度のもとに最高指導者を擁するべきだという方針をとっていた。バガバンディ元モンゴル大統領(1997―2005年在任)は、1998年にモンゴルの旧正月ツァガーンサルの時期に、仏教寺院の長たちを招いて謁見した折に、「皆で協調した行動をとって、共通の最高指導者を擁するように」と述べている。

 

モンゴル政府は、1991年にモンゴルが公式に設置したモンゴル仏教徒センターの責任者であるガンダン寺の僧院長を「唯一の最高指導者」と見なし、国外にいるジェプツンダンバ9世をモンゴル仏教最高指導者とは認めない立場をとっていた。仏教に関するモンゴルの国内問題に、ダラムサラが介入するのを避けようとする政策をとっていたためである。

 

モンゴル国が公式に要請しなかったにもかかわらず、1991年にチベット亡命政府の宗教文化省の要望により、ダライ・ラマがジェプツンダンバ9世を認定したため、モンゴル政府はそれを国内の宗教への介入と見なした。こうした認定行為は、1928年に社会主義体制下のモンゴル人民共和国が、モンゴルの活仏、特にジェプツンダンバ活仏8世の転生者を認定することを禁止した決定にも逆らったものだった。別の見方をすると、チベット亡命政権は、社会主義時代以前に存在していたゲルク派の宗教的な上下関係、つまりダライ・ラマとパンチェン・ラマがジェプツンダンバ活仏を認定するという掟を、1991年のポスト社会主義のモンゴルに復活させたのである。

 

1999年にジェプツンダンバ9世がモンゴルを突然訪問したが、その1年前の1998年には、当時大統領だったバガバンディが大統領直属の宗教問題委員会の委員と面会し、モンゴルの各仏教寺院に対して以下のような通達を出した。すなわち、「それぞれが競うようにしてインドやチベットを訪れて、ダライ・ラマやジェプツンダンバ9世から指示や助言を仰ぐ状態が生じている……我々は、いかなる問題であっても、宗教的な問題も国内で話し合って解決し、調整していくべきだ。そうしてこそ、政策的にも伝統的にも相応しい」と述べ、仏教に関するモンゴルの国内問題に国外からの影響が及ぶのを抑えようとする方針を明らかにした。

 

 

モンゴルの政教分離原則と中国

 

宗教的な問題への内政干渉を抑えることは、モンゴルの国益にかなうだけでなく、ダライ・ラマの影響力がモンゴルに及ぶのを好まない中国の政策にも合致していた。中国からの圧力も、ジェプツンダンバ9世を認めない状況を生み出す一因であったことは明白である。1999年当時、バガバンディ元大統領の宗教顧問だったツェレンダンバは、ノルウェーに本部があるForum18という団体の調査員に対して、2003年のインタビューで以下のように語っている。

 

「中国の江沢民主席が訪問する前にジェプツンダンバ9世がモンゴルに到着したことについて、中国側は『組織的な行為とみなし、(モンゴル政府に対して)24時間以内に取り調べをおこなうよう要求』したんです」

 

ここで、ひとつ確認しておくべき点がある。モンゴルの「国家と寺院の関係に関する法律」では、「国家と寺院、宗教との間の関係は、モンゴル大統領が調整する」と定められており、モンゴル大統領はモンゴルの国家安全保障委員会を統率する立場にある。モンゴル大統領が先に記したごとく述べていたのはこうした理由による。

 

上記の法律を根拠として、代々のモンゴル大統領は、ジェプツンダンバ9世を承認するべきか否かを決定してきた。オチルバト元大統領(1990―1997年在任)が同委員会を統率していた時期には、国家安全保障委員会により、モンゴル入国のビザを発行しない決定が出されていた。

 

当時、モンゴル政府がその受け入れを許可しなかったのは、こうした根本的な理由による。結局、ジェプツンダンバ9世は1か月の観光ビザを1か月間超過して滞在し、1999年9月17日にモンゴルからロシアに向けて列車にて出発した。しかし、その後は10年間に渡って、再度のモンゴル入国は許可されなかった。

 

ジェプツンダンバ9世は、1959年に生誕の地チベットからインドに亡命し、難民同然の生活を余儀なくされていた。1999年にモンゴルの仏教最高指導者として即位したものの、モンゴルに再入国する権利がないまま10年間をインドで亡命者として過ごしていた。とはいえ、モンゴル仏教の最高指導者の印璽は所有していた。その印璽を根拠として、インドのダラムサラにあるチベットの亡命政権にて、モンゴルの活仏たちを認定する行為を続けていたのである。

 

 

ジェプツンダンバ活仏、モンゴル仏教の最高指導者になる

 

2005年にモンゴルで大統領選挙が実施され、モンゴル人民革命党から立候補したエンフバヤルがモンゴル大統領に選出された。ジェプツンダンバ9世は、モンゴルの新たな大統領が自らのモンゴル訪問を許可してくれるのではと期待したが、それは叶わなかった。

 

またしても、次の大統領選挙を待たなければならなかった。2009年にモンゴル大統領選挙が実施され、民主党から立候補したエルベグドルジがモンゴル大統領に選出された(2009―2017年在位)。彼は、就任後の外遊をインドから開始した。その訪問時にモンゴルの外務大臣バトボルドは、ジェプツンダンバ9世をモンゴルに招待する旨をその長子トゥグスライ・リンブチ(9世には7人の息子と2人の娘がいた)に告げた。この口頭の約束が交わされた後、モンゴル仏教徒センターの責任者であるガンダン寺のチョイジャムツ僧院長が自ら公式の招待状をダラムサラ市に届けた。

 

モンゴル大統領選挙が実施された5か月後の2009年10月に、ジェプツンダンバ9世は1999年以来10年ぶりとなる第2回目のモンゴル訪問をおこなった。さらに、2010年8月18日にはモンゴル国籍を取得し、2011年11月2日にモンゴル仏教徒センターの取り計らいによって、ガンダン寺にて正式にモンゴル仏教の最高指導者として獅子の椅子に座すことになった。モンゴル仏教の最高指導者の即位については、モンゴル仏教徒センターの責任者を務めていたガンダン寺のチョイジャムツ僧院長によって公に通知された。

 

 

ジェプツンダンバ9世とチョイジャムツ・ガンダン寺僧院長に挟まれ写真に納まるTs.エルベグドルジ大統領 2010年8月18日 写真提供:O. Batsaikhan

 

 

ジェプツンダンバ9世の入寂

 

こうして1991年以降続いていた、モンゴル仏教の最高指導者はだれかという論争は、2011年に決着がつけられたのである。1932年にチベットにて誕生し、78歳でモンゴル国籍を取得したジェプツンダンバ9世が名実ともにモンゴル仏教の最高指導者に即位した5日後の11月7日に、ダライ・ラマがモンゴルを訪問した。

 

しかし、即位した4か月後の2012年3月1日(旧暦では春初月の8日)に9世は入寂となった。チベットで生まれ、インドで亡命生活を送り、チベットとモンゴルの政治に翻弄された大活仏は、モンゴルで胸中に深遠なる奥義を抱いて入寂したのである。

 

その当日、モンゴルのエルベグドルジ大統領、デンベレル国会委員長、バトボルド総理大臣は合同で弔文を送った。弔文の末尾は、「モンゴル国民ジェプツンダンバ9世様、今後は毎度モンゴルの地に転生して、比肩する者なき転生者として奇跡をお示しください」という一文で締めくくられていた。すなわちモンゴル政府は、ジェプツンダンバ10世がボグド・ハーン政権時代のジェプツンダンバ8世の転生者として、モンゴルに転生することを前もって宣言したのである。

 

 

 

 

それでは、ジェプツンダンバ10世がモンゴル国で必要とされるようになったのはなぜか。1991年から2009年にかけての18年間、モンゴルの3人の大統領がジェプツンダンバ9世を承認しなかった一方で、エルベグドルジ大統領が承認したのはなぜか。それ以前の大統領とエルベグドルジ大統領では、異なる方針をとるようになったのだろうか。こうした疑問について、以下に明らかにしていきたい。

 

エルベグドルジ大統領とジェプツンダンバ9世は、いわば旧知の間柄であった。1999年に中国の江沢民主席がモンゴルを公式訪問した際に、その当時、国会議員かつモンゴル民族民主党(現在の民主党)の党首だったエルベグドルジは、ウランバートルから離れたアル・ブンバトという場所に潜伏しているジェプツンダンバ9世のもとに出向いて会談をおこなっていた。エルベグドルジは布施(1,000万トゥグルグ、4,000万トゥグルグ、2,000万トゥグルグなど諸説あるが、1994年当時の為替レートでそれぞれ、約250万円、約1,000万円、約500万円に相当)を捧げ、そのお金は、9世がエルデニ・ゾー寺院でモンゴル仏教の宗教最高指導者に即位する儀式の際に、銀の印璽のために使用されたといわれている。

 

一部のモンゴルの僧侶は当時を回想して、エルベグドルジが銀の印璽用に布施をおこなったため、モンゴル大統領選挙で2度も勝利できたと語っている。また、2017年のモンゴル大統領選挙に民主党から立候補して勝利したバトトルガ大統領も同様に、2011年のガンダン寺での正式即位の際の印璽用に布施をおこなったと僧侶たちは述べている。ロシア人の内弟子カトヤグによると、ジェプツンダンバ9世は、2009年にモンゴルの大統領選挙に立候補したエルベグドルジのために祈りを捧げており、エルベグドルジが勝利したとの知らせを聞いて感涙したとのことである。

 

このように旧知の間柄だったとはいえ、エルベグドルジがモンゴル大統領かつ国家安全保障委員長としてとった行動は、それ以前の3人の大統領たちと真逆だったわけではなく、むしろそれ以前の3人の大統領の方針をそのまま受け継いでいた。異なっていた点としては、別の角度から解釈をおこない、承認をおこなわなかった理由を明確にしたことである。

 

 

国際政治としての活仏の後継者問題

 

エルベグドルジ大統領は、モンゴル国の仏教は独立した制度を持ち、社会を率いていくべきだとするモンゴル政府による政策を引き継いでいたが、社会主義の時代に成立した僧院長を最高指導者とする制度を廃止して、社会主義以前のジェプツンダンバ活仏の制度を復活させる方針をとった。

 

言い換えるならば、モンゴルの仏教問題への国外からの介入を避けるという政策はそのままに、近い将来にチベット亡命政府と中国でそれぞれ認定される可能性が高いダライ・ラマ15世、および中国が認定した現在29歳になるパンチェン・ラマ11世(1995年にダライ・ラマ14世が認定したパンチェン・ラマは、現在は消息不明)らによる国外からの影響を阻止するため、モンゴル仏教の最高指導者を転生予定のジェプツンダンバ10世とする政策をとったと見なすことができる。

 

ジェプツンダンバ10世の存在によって、将来的にダライ・ラマやパンチェン・ラマからの影響を回避できるだけでなく、モンゴルに国境を接する中国内モンゴル自治区、ロシアのブリアート共和国、トゥバ共和国に居住するゲルク派の僧侶や信者たち、9世に師事していたロシアの信者たちに対して、10世が影響を及ぼすことになる可能性もある。その影響力は、モンゴル民族の仏教の範囲にとどまらず、中国領内のチベット仏教のチョナン派を信奉する20万人以上の僧侶、信者たちにも及ぶものとなるだろう。

 

なぜなら、チンギス・ハーンの血統の初代ジェプツンダンバ活仏である聖ザナバザル(1635―1723)の前代は、チベットのチョナン派の最高指導者ジェプツン(至尊)・ターラナータ(1575―1634)と見なされているからだ。このため、1997年にはダライ・ラマが、ジェプツンダンバ9世をチョナン派の最高指導者とすることを公に宣言している。つまり、活仏10世は、モンゴル仏教(モンゴルで多数派のゲルク派とその他の宗派を含めて)の最高指導者となるのはもちろんのこと、中国にてチョナン派の最高指導者と見なされる可能性があるのだ。

 

ジェプツンダンバ9世は、入寂する直前の2012年2月6日に遺書を残し、自分の転生者についてふたつの原則を言い残している。ひとつ目は、転生するならばモンゴルに生まれること、第2に転生者の認定は「私が転生する度に常に師と仰ぐダライ・ラマ上人」が認定をおこなうことと遺言している。このふたつの原則は、モンゴル政府、ダラムサラ、ジェプツンダンバ9世の希望、共通の目的を表明したものとなっている。

 

ジェプツンダンバ9世、すなわちジャンバル・ナムドル・チョイジ・ジャンツァンがチベット民族だという事実は、モンゴルで受け入れられなかった理由のひとつでもあった。だが、モンゴルの地で10世がモンゴル人として転生すれば、清朝の政策によってジェプツンダンバ2世(1724―1758)より後の転生者がチベットで認定されていた因習を廃止するだけでなく、清朝以降に設けられた転生者認定の諸規則をゲルク派の伝統だと主張する現在の中国の政策も、間接的に阻止することができる。こうして、清朝以来の「伝統」を廃止して、10世以降は、ジェプツンダンバ活仏の転生者はすべてモンゴルに生誕するという新たな「伝統」を生み出したわけである。10世が認定されれば、18世紀以降、200年ぶりにモンゴルに転生した活仏で、モンゴル人としては3人目のジェプツンダンバ活仏となる。

 

 

ミイラ化したジェプツンダンバ9 世。ガンダン寺、2017 年 撮影:ジャダムビーン・ハグワデムチグ

 

 

ジェプツンダンバ9世による「私が転生するたびに常に師と仰ぐダライ・ラマ上人」によってのみ認定されるという遺言は、そもそもジェプツンダンバ活仏は伝統的にパンチェン・ラマもしくはダライ・ラマによって認定されていたという伝統に則ったものである。一方で、中国の中国仏教協会の副会長、かつ中国人民政治協商会議の委員であるパンチェン・ラマ11世が10世の認定に関与することは、モンゴル国とチベット亡命政権の双方とも禁じている。しかし中国側は、当然のことながらモンゴルでのダライ・ラマの影響を抑え、代わりにパンチェン・ラマの影響力を高めることを画策していた。

 

 

密かに認定されたジェプツンダンバ10世

 

モンゴル国としては、将来に渡ってパンチェン・ラマ、ダライ・ラマのいずれからも干渉も受けずに、代々のジェプツンダンバ活仏を認定していくための基礎を確立することができた。9世がモンゴル仏教の最高指導者に即位した後、エルベグドルジ大統領は、彼がモンゴル仏教の最高指導者であることを承認する大統領令を出している。これは、今後はジェプツンダンバ活仏の転生者がモンゴル政府によって承認される、つまりモンゴル政府が転生者の認定をおこなう権利を掌握することを明示する命令だったともいえる。

 

ジェプツンダンバ9世の死から4年後の2016年11月18日にダライ・ラマが日本を経由してモンゴルを訪問(この訪問の前にも、2011年に日本を経由してモンゴルを訪問している)した。訪問の最終日11月23日の朝に開かれた記者会見にて、ダライ・ラマは10世がモンゴルに生誕している旨を公に宣言した。モンゴルに10世が転生したことになる。

ただし、記者会見の際にダライ・ラマは、「まだ幼いので公にはできませんが、モンゴルでお生まれになったのは確実です。数年後に明らかになるでしょう」と述べている。

 

 

記者会見にてジェプツンダンバ10世の誕生を発表するダライ・ラマ。その向かって左隣が著者。2016年11月23日  写真提供:The Office of His Holiness the Dalai Lama

 

 

ジェプツンダンバ活仏の制度は400年の歴史を有しているとはいえ、10世がまだ幼いのと同様に、モンゴル国での制度はまだ黎明期にあるといえる。数年後には10世が公にされるが、その際に社会主義の時代に設けられた僧院長制度を廃止して、ジェプツンダンバ活仏の制度を定着させることができるかどうかは、今のところは何ともいえない。

 

こうした事情があって、冒頭のガンダン寺の僧侶は、「長官は2人いると思います」と発言したのであろう。モンゴル仏教は、それまで2人だった最高指導者が2011年に1人として決着していたが、2012年にジェプツンダンバ活仏が入寂したことによって、ガンダン寺の僧院長になり、現在10世の認定により再び2人の最高指導者が併存する状況が生じたのである。2011年までは、その2人の最高指導者は誰であるか公にされていたが、現在は1人がモンゴル仏教徒センターの責任者を務めるガンダン寺の僧院長であることが明らかなだけである。そして、ジェプツンダンバ10世はモンゴルのどの家庭で生まれた誰の子どもであるか、現時点では明らかにされていない。

 

 

 

 

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