2014.02.05

せめぎ合いのなか友好的敵対に軟着陸したシリア和平会議

青山弘之 アラブ地域研究

国際 #アサド#シリア和平会議#シリア国民連合#ジュネーブ2会議#アルカーイダ

1月22日からスイスのモントルーとジュネーブで、シリアでの紛争の解決に向けた国際和平会議「ジュネーブ2会議」が始まり、シリア政府と在外反体制組織のシリア国民連合(正式名シリア革命反体制勢力国民連立)が3年余りに及ぶ紛争の政治解決に向けて初の直接交渉に臨んだ。

米露、国連が準備を進めてきたこの会議は、バッシャール・アサド政権の退陣を前提とした「内戦」終結を目的としているようなイメージがつきまとう。だが実際のところ、会議はシリア国民連合を後援してきた米英仏、そしてサウジアラビア、トルコ、カタールなど自称「シリアの友」とシリアとの国際紛争、すなわちアサド大統領が言うところの「真の戦争状態」の幕引きを暗にねらったものだったと言える。

市民の抵抗からテロとの戦いへ

「アラブの春」が波及するかたちで2011年3月に始まったシリアの紛争は、当事者や争点を異にする複数の局面が重層的に展開している点を特徴とする[*1]。ジュネーブ2会議において「真の戦争状態」の幕引きが実質的に進められた背景には、重層的な紛争における二つの変化があった。

第1の変化は武力紛争におけるアサド政権の軍事的優位の確定と反体制武装勢力の変質である。

2012年7月に外国人サラフィー・ジハード主義者の本格参戦を機に激化した武力紛争により、アサド政権は主に国境地帯で支配権を失い、「政権の緩慢で陰惨な崩壊過程が加速している」といった主張が説得力を帯びた。だが同年末から、アサド政権はイラン、ロシア、レバノンのヒズブッラーの民兵、イラクのアブー・ファドル・アッバース旅団の後援を受け反転攻勢に転じ、2013年6月のヒムス県クサイル市奪還以降は支配地域を拡大、同年末にはダマスカス郊外県ムウダミーヤ・シャーム市、ダマスカス県ジャウバル地区などの武装集団に部分停戦を受け入れさせていった。

対する反体制武装勢力は、欧米諸国が支援する在外の自由シリア軍参謀委員会(最高軍事評議会)と一線を画すシリア人と外国人のサラフィー・ジハード主義者が、イスラーム戦線、ムジャーヒディーン軍などを名乗り勢力拡大を図る一方、アル=カーイダの系譜を汲むイラク・シャーム・イスラーム国(通称ダーイシュ)[*2]とシャームの民のヌスラ戦線が暗躍し、テロを繰り返した。

これらの武装集団は当初は戦略的に連携し、アサド政権に対抗していた。だが、外国人戦闘員による厳格な宗教的実践の強要や、人質・逮捕者の斬首に代表される蛮行への反発が強まり、2014年1月になると、ダーイシュとそれ以外の武装集団の間で戦闘が激化、またこの過程で自由シリア軍参謀委員会は国内の主要拠点をサラフィー・ジハード主義者に奪われた[*3]。

その結果、アサド政権と外国人サラフィー主義者が主導する武装集団との衝突が武力紛争の中心を占めることになり、事態は「完全武装の精鋭部隊に対して、時に徒手空拳で立ち向かうシリア人」、「武器の海の中で非武装の市民が毎日死者を出している抵抗」などといった幻想からはほど遠い「テロとの戦い」としての様相を強めていった。

迷走を続ける反体制勢力

第2の変化は権力闘争における反体制政治組織の迷走である。体制転換後の政権の受け皿になることを期待されていたこれらの組織は、紛争当初から組織とヴィジョンの統一を試みてきたが、外国の介入の是非、政権掌握後の国家像などをめぐって四分五裂を繰り返した。

このうち、欧米諸国が「シリア国民の唯一の正統な代表」として承認するシリア国民連合は、欧米メディアが「反体制派の統一組織」と評してきたこともあり、反体制運動を代表しているように思える。だが、彼らは欧米諸国の後援を受けている以外に何の特徴もない在外活動家の烏合の衆で、他の反体制組織を牽引し得るような実力も信用もなかった。

反体制政治運動の本流をなしてきたのは、民主的変革諸勢力国民調整委員会、シリア国家建設潮流など国内で活動する組織で、彼らはアサド政権の弾圧に曝されつつも、欧米諸国の介入を強く拒否するその姿勢ゆえにシリア国民連合とは一線を画した。

一方、これらの組織とともに国内で活動を続けてきたクルド民族主義政党の民主連合党は、欧米諸国の干渉を嫌ってシリア国民連合と反目するだけでなく、アサド政権との戦略的パートナー関係のもとに北東部に支配地域を確保、民兵(人民保護部隊)を動員してサラフィー・ジハード主義者や自由シリア軍参謀委員会を放逐していった。アサド政権は欧米諸国の経済制裁と長期化する武力紛争のなかで疲弊してはいたが、反体制政治勢力が迷走を続けるなかで、その優位を揺るぎないものとしていったのである。

[*1]シリアの紛争の重層性については、拙稿『混迷するシリア:歴史と政治構造から読み解く』(岩波書店、2012年)のほか、末近浩太「シリア「内戦」の見取り図」(Synodos、2013年8月28日)を参照されたい。

[*2]英語名(Islamic State of Iraq and Syria、Islamic State of Iraq and the Levant)を略して「ISIS」、「ISIL」などと呼ばれる組織。「ダーイシュ」(داعش)はアラビア語名(الدولة الإسلامية في العراق والشام)の頭字語。

[*3]ダーイシュとそれ以外の武装集団との対立は、外国人戦闘員とシリア人戦闘員の対立だと思われがちである。だが実際のところ、これらの武装集団はそのいずれもが外国人とシリア人の双方から構成されており、メンバーの構成員の国籍を基準として分類することは妥当ではない。

化学兵器攻撃がもたらしたアサド政権の正統性

ジュネーブ2会議は、シリア国内での武力紛争が激化する直前の2012年6月30日にスイスのジュネーブで開かれた「シリア作業グループ会合」(ジュネーブ1会議)にその起源を持つ。

この会合には、「人道」的立場からアサド政権打倒を主張する「シリアの友」の米英仏、カタール、クウェート、トルコと、主権尊重の立場からシリア人どうしによる紛争解決を支持し、アサド政権の存続を認める露中、イラクが出席し、シリア国内での暴力停止に向けて協議し、「ジュネーブ合意」を採択した。ジュネーブ2会議の基本原則となるこの合意の要点をまとめると以下の通りである[*4]。

1.  現下の紛争を平和的対話と交渉のみを通じて解決する。

2.  すべての当事者は、あらゆる形態の武力行使の停止、逮捕者釈放、国際機関および報道機関の活動の自由の保障などを骨子とするコフィ・アナン国連・アラブ連盟合同特使(アフダル・ブラーヒーミー国連アラブ連盟共同特別代表の前任者)の6項目停戦案(2012年3月)を遵守する。

3.  現政権、反体制組織、それ以外の組織のメンバーから構成され、完全なる行政権を有する移行期統治機関(移行期政府)を当事者の総意のもとに発足させる。

4.  シリア社会のすべての成員が国民対話プロセスに参加し、憲法改正および法改革を再検討、その結果を信任投票に諮る。新憲法制定後、自由選挙を準備、実施する。

5.  国際社会(シリア作業グループ)は、シリアの独立、主権、領土を尊重しつつ、暴力停止と移行プロセス開始に向けて行動し、紛争のさらなる軍事化に反対する。

ジュネーブ2会議に関して、欧米メディアでは、アサド政権退陣の是非をめぐる当事者間の解釈の違いを指摘しつつも、「アサド政権に代わる」移行期政府の樹立が目的とされているとの報道が目立った。

だが、上記の3.に「現政権、反体制組織……から構成され……当事者の総意のもとに発足させる」と記されていることに着目すると、アサド政権が同意しない政治解決はそもそも想定されておらず、その存続が含意されていることは明らかである。実は、この文言は、アサド政権存続を認める露中、イラクの強い意向を受けて盛り込まれたもので、米英仏などは2012年半ばの段階でアサド政権の存続を認めさせられていたのである。

「シリアの友」はその後、ジュネーブ合意を実現するには「現地のパワー・バランス」を変え、アサド政権を退陣に追い込む必要があると主張し、サウジアラビア、トルコ、カタールが外国人サラフィー・ジハード主義者の潜入支援、武器兵站支援、資金供与を加速させ、ダーイシュやヌスラ戦線の台頭を誘発した。

一方、欧米諸国は、事態に対処するため、シリア国民連合や自由シリア軍参謀委員会といった世俗的な「穏健な反体制派」の強化を試みたが奏功せず、泥沼化する混乱のなかでなす術を失っていった。

こうしたなかで2013年8月21日にダマスカス郊外県グータ地方で発生したのが化学兵器攻撃だった。2012年半ば頃からシリア国内でシリア軍、反体制武装集団双方による使用がとりざたされていた化学兵器をめぐる国際社会の対応については、紙面の制約上本稿では割愛するが、米露は事件に対処するなかで化学兵器の全廃をアサド政権に求めることで合意し、米英仏は計画していたシリアへの限定的な軍事攻撃を見送った[*5]。

「シリアの友」はこの経緯を政治的勝利だと鼓舞したが、介入の根拠を「人道」から安全保障へとパラダイム転換させる契機となったこの米露合意によって、アサド政権は化学兵器廃棄プロセスを実施する「正統な代表」としての存在と、同プロセスを安全かつ円滑に進めるための措置、すなわち反体制勢力の掃討を認められた。

[*4]2012年6月のジュネーブ合意全文(英語)は「シリア・アラブの春顛末記」2012年7月1日を参照。

[*5]詳細な経緯については拙稿「シリア 武力紛争の二年半は何だったのか――欧米の思惑と跋扈するジハーディスト――」(『世界』第849号、2013年11月、236~242ページ)を参照されたい。

和平会議開催によって骨抜きとなった反体制勢力

ジュネーブ2会議開催に向けた準備は、米露、およびブラーヒーミー国連アラブ連盟共同特別代表のイニシアチブのもと、2013年5月に本格化し、アサド政権は6月には早々に参加の意思を表明した。だが、劣勢を強いられるようになった「シリアの友」とシリア国民連合は会議の実効性に疑義を呈し、対話のテーブルに着こうとはせず、6月開催予定だった会議は幾度となく延期を余儀なくされた。化学兵器問題はこうした膠着状態を打破するきっかけを与えた。

化学兵器廃棄をめぐる米露合意は、9月27日に採択された国連安保理決議第2118号[*6]によって国際承認された。この決議は、化学兵器使用を「国際社会の平和と安全への脅威」と位置づけ、8月21日のダマスカス郊外県で化学兵器攻撃を「もっとも強い言葉で非難」する一方で、「現下の危機は、ジュネーブ合意に基づくシリア人主導の包括的な政治プロセスを通じてのみ解決される」、「シリアに関する国際会議を早急に開催する必要がある」と明記し、紛争解決を化学兵器廃棄プロセスとパッケージで推し進めることを支持した。

しかし、「自由」や「民主化」を振りかざし、アサド政権の正統性を一方的に否定してきた「シリアの友」が、安全保障を基軸とする新たなパラダイムにのっとってジュネーブ2会議に臨むこと容易ではなかった。なぜなら、「内戦」の文脈において安全保障を考慮しようとすれば、アサド政権が主唱する「テロとの戦い」に一定の理解を示さざるを得ず、そのことは「人道的」観点から政権打倒をめざしてきた従来の外交方針の自己否定につながりかねなかったからである。

苦境に立たされた「シリアの友」に「助け船」を出したのは反体制勢力だった。紛争当初より対立が絶えなかった反体制勢力は、ジュネーブ2会議をめぐっても足並みの乱れが目立った。

国内で活動する民主的変革諸勢力国民調整委員会、民主連合党は、在外のシリア国民連合とともに統一代表団を結成し、会議に参加することをめざし、ロシアからの後押しを受けた。だが「政権との交渉を拒否する」(結成合意第5条)ことを基本原則としていたシリア国民連合は参加に難色を示し、国内の反体制政治組織との共闘にも消極的だった。シリア国民連合の総合委員会(最高意思決定機関、定数121人と言われる)は11月10日、「シリアの友」の説得に応じるかたちで、ジュネーブ2会議への「参加準備を行う」ことを決定したが、その後もアサド政権の退陣を参加の前提条件として要求し続けた。

1月6日と17~18日、シリア国民連合総合委員会は、ジュネーブ2会議への対応を協議するための会合をトルコのイスタンブールで開催したが、6日の会合では、「シリアの友」の要求に従おうとするアフマド・ウワイヤーン・ジャルバー議長ら執行部の再選に抗議し、代表メンバー44人が辞意を表明し、彼らが所属するシリア・ビジネスマン・フォーラム、シリア公務員国民自由連合、そして地元評議会ブロック、シリア革命司令最高評議会、自由シリア軍参謀委員会[*7]といった会派が脱会した。

総合委員会は、最終的には17~18日の会合において出席者73人中58人の賛成でジュネーブ2会議への参加を承認したが、この決定の背景には、参加を拒否した場合、支援を打ち切るとする米英の圧力があったと囁かれた。しかも、この採決結果を受け、当初から会議参加にもっとも強く反対してきた最大会派のシリア国民評議会(総合委員会メンバーは25人とされる)が脱会を発表したのである。

かくして「シリア国民の正統な代表」だったはずのシリア国民連合は、欧米諸国の圧力によって基本方針さえも修正することで名実ともに傀儡と化し、また会議直前に半数以上の代表メンバー・組織が脱会したことで、シリア国民はおろか、反体制勢力、さらには自分たち自身も代表できない存在になりさがった。

一方、会議への参加を表明していた反体制政治組織も試練に直面した。1月7日、国連の潘基文事務総長は関係当事者に会議への招待状を送付したが、反体制政治組織のなかでこれを受け取ることができたのはシリア国民連合だけだった。これは、米国が国内の反体制政治組織をシリア国民連合メンバーとして参加させることを主張し、ロシアがこれを承諾したためだと報じられた。だが、こうした国連の対応に憤慨した民主的変革諸勢力国民調整委員会は参加を拒否し、政治解決に向けた交渉から自らを排除してしまった。

また民主連合党にいたっては、ジュネーブ2会議開催の前日にあたる1月21日、かねてから準備していた「西クルディスタン移行期文民局ジャズィーラ地区行政評議会」(暫定自治政府)[*8]の樹立を宣言し、会議において審議が予定されていた移行期統治機関の存在意義を奪おうとした。このほか、国内で武装闘争を続けるサラフィー・ジハード主義者たちも早い段階から会議への参加を拒否する一方、シリア軍とサラフィー・ジハード主義者の戦闘の間隙を縫って自治を担ってきた地元の活動家は一連のプロセスから疎外され続けたことで、会議は国内でアサド政権に対抗するいかなる勢力も事実上不在のままに開催されたのである。

[*6]国連安保理決議第2118号の全文はhttp://unscr.com/en/resolutions/2118を参照。

[*7]ただし、参謀委員会のサリーム・イドリース参謀長は1月18日にビデオ声明を出し、「シリア革命は平和的に始まり、武装を余儀なくされた。我々は今日、政権の政治的移行を保障し、勇敢なシリア国民の革命の目的を実現するあらゆる解決策を支持する」と表明し、ジュネーブ2大会へのシリア国民連合の出席を支持した。

[*8]「ジャズィーラ地区」とはシリア北東部のハサカ県を意味する。なお民主連合党は1月27日、アレッポ県のアイン・アラブ市でコバーニー(アイン・アラブのクルド語呼称)地区執行評議会を樹立した。

誰のための和平会議だったのか

1月22日にモントルーで始まったジュネーブ2会議は、初日の全体会合にシリア政府、シリア国民連合のほか、米英仏露中、サウジアラビア、カタール、トルコ、イラク、レバノン、ヨルダン、アラブ連盟、国連など合わせて45の国と機関の代表が出席し基調演説を行った後、2日目以降、ジュネーブの国連本部に会場を移し、ブラーヒーミー合同特別代表主催のもと、シリア政府とシリア国民連合の代表団が直接・間接の交渉を繰り返した。しかし、交渉は、双方が持論をぶつけ合うだけで平行線をたどった。

軍事、外交の両面で優位を回復したアサド政権は、紛争の政治解決を実現するためには「テロとの戦い」が必要だと主張し、「シリアの友」による「テロ支援」とサラフィー・ジハード主義武装集団の暴力を批判、ロシア、中国、イラク、レバノン、IPSA諸国がこれに同調した。一方、シリア国民連合は、移行期統治機関の設置を最優先議題として位置づけるとともに、アサド大統領と政権幹部の退陣がその前提条件となると訴え、「シリアの友」がこれを後援した。

両者の歩み寄りが見られないなか、ブラーヒーミー共同特別代表は、シリア軍が包囲を続けるヒムス市旧市街への人道支援物資配給を目的とした部分停戦や、逮捕者・捕虜釈放を実現すべく調整を続けた。しかし、シリア国民連合の代表団が「武装集団に対して何らの権威も有さず、連絡経路があるだけ」と吐露した通り、彼らは実務的な交渉において政府代表団とわたり合えるだけの実行力を持ち合わせていなかった。言い換えると、ジュネーブ2会議が成果をあげるには、アサド政権に譲歩を強いるような圧力、ないしは「英断」を促すための「見返り」が不可欠で、それを提示できるのは会議への出席をシリア国民連合に強要した「シリアの友」だけだった。

ジュネーブ2会議は1月31日に一旦閉会となり、シリア政府とシリア国民連合の双方を歩み寄らせるべく、米露が中心となって水面下での折衝が続けられているとされるが、同会議が「内戦」や「真の戦争状態」の抜本的な解決策を導出しないままに失速するであろうことは、誰の目からも明らかである。

そして、紛争当事者が明確なコンセンサスに至らないままでの交渉の継続は、現下の紛争におけるアサド政権の優位を既成事実化するとともに、シリア国民連合をはじめとする反体制政治組織や武装集団の無力を露呈させることになっている。つまり、ジュネーブ2会議は、アサド政権主導のもとでの「内戦」の軍事的解決に向けた動きを加速させる一方で、国際紛争のレベルにおいては、政権打倒をめざしてきた「シリアの友」の影響力低下という結果をもたらしたと言える。

しかし、「シリアの友」、なかでも欧米諸国が外交的な敗北を被ったかのようにも見えるこの結果は、これらの国々の政府にとっては歓迎に値するものかもしれない。なぜなら、欧米諸国は、非妥協的なかたちで政権打倒を追求するシリア国民連合や自由シリア軍参謀委員会への支持を継続することで、「人道」的観点からアサド政権をバッシングしてきた従来の姿勢を引き続き正当化できる一方、これらの反体制組織が無力であることで、政権による「テロとの戦い」を妨害せずに済むからである。

欧米諸国は、反体制勢力への支援が意味をなさないことによって、「自由」や「民主」といった理念に抵触することなく、ヌスラ戦線やダーイシュなど、シリアだけでなく、イラクやレバノンでも活発な動きを見せるようになっている「テロ組織」の封じ込めに寄与できるのである。

米国をはじめとする欧米諸国とシリアの関係は、「友好的敵対」、ないしは「敵対的友好」とでも呼ぶべき関係を特徴としてきた。これは、中東地域のさまざまな問題をめぐって表面上は対立しつつも、水面下では双方の国益を極大化するために協調し合うさまを指す。「友好的敵対」は、2005年2月のレバノンでのラフィーク・ハリーリー元首相暗殺事件や2006年7月のレバノン紛争(イスラエルとヒズブッラーが主導するレジスタンス勢力の戦闘)の発生以降、長らく低迷していた。だが、化学兵器問題を機にパラダイム転換が生じるなか、シリアをめぐる紛争は「友好的敵対」関係の復調という曖昧なかたちで最終決着しようとしているのかもしれない。

サムネイル「Geneva International Conference on Syria」UN Geneva

http://www.flickr.com/photos/unisgeneva/12121229343/

プロフィール

青山弘之アラブ地域研究

1968年東京生まれ。東京外国語大学教授。東京外国語大学卒。一橋大学大学院修了。JETROアジア経済研究所研究員を経て現職。専門は現代東アラブ政治、思想、歴史。編著書に『混迷するシリア――歴史と政治構造から読み解く――』(岩波書店、2012年)、『「アラブの心臓」に何が起きているのか――現代中東の実像――』(岩波書店、2014年)などがある。またウェブサイト「シリア・アラブの春顛末記」(http://syriaarabspring.info/)を運営。http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/aljabal/index.htm

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