2022.04.12
思想家がみた時代と思想家からみた時代──『ジョン・ロールズ 社会正義の探究者』(中公新書)
はじめに――二つの視線
「真理が思想の体系にとって第一の徳であるように、正義は社会の制度がまずもって発揮すべき効能である」。政治哲学者のジョン・ロールズ(1921〜2002)が『正義論』でこう宣言したのは1971年のことであった。いまやロールズは高校の教科書にも出てくる名前であり、この記事の読者には、「無知のヴェール」や「正義の二原理」といった言葉を知っている人も少なくないだろう。つい先日には、第二の主著である『政治的リベラリズム』(初版1993年)の待望の翻訳も公刊された。
もっとも、教科書レベルをこえて、浩瀚なロールズの著作を直接手にとるのは簡単ではない。2021年末に公刊された本書は、生誕100年ならびに『正義論』から50年という節目の年に、その思想を一般の読者にわかりやすく解説することを目的として書かれた。ロールズの生涯と著作を辿りながら、彼による探究──リベラル・デモクラシー(後でみるように、これは「ソーシャル」の要素も含む)の正当化と擁護──を説明・考察したものである。
本書はまた、この手の本としてはめずらしく、共著でもある。基本的には扱う時期や著作での役割分担であるが、本として出来あがって読んでみると、筆者二人の視線の違いのようなものがあることに気づいた。最初に断っておくと、私たちはロールズ解釈についてはコンセンサスがある。これは、私が齋藤先生(以下、敬称略)のゼミ出身であり、長年にわたって、ロールズの本を含むさまざまなテクストをともに読み、議論していたことも関係しているだろう。細かなところで違いがあるとしても、多くの解釈は共有されている。
では、「視線の違い」とは何か。私のパートは、評伝に紙幅を割いていることもあり、ロールズがどのような時代に生き、いかなる影響を受け、その思想を形成し発展させていったかに焦点が合わせられている。対して、齋藤のパートは、ロールズ思想を説得力あるものに再構成したうえで、その現代的意義や残された課題にまで鋭く切り込むものとなっている。以上のことは、「思想家がみた時代」と「思想家からみた時代」の違いといえるだろう。以下では、二つの視線の違いに注目して、本書についての簡単な解題を試みたい。
思想家がみた時代
評伝(critical biography)とは、批評を含む伝記である。それゆえ、たんなるエピソードの羅列は評伝とはいえない。ある人をまさにその人たらしめた出来事や体験とは何か。それらはいかに統合され深まっていったのか。そして、思想として結実したのか。ひとりの人間が生涯をつうじて練りあげた言葉の響きと魅力を伝えること。あえていえば、それが評伝の目的のひとつである。
ロールズについては、従来からきわめて多くの研究が存在していた。だが、彼は慎ましい性格であり、基本的に大学の外に出ず、素性を積極的に語ることもなかったため、その生涯や人となりは謎につつまれていた。ただしロールズは、友人や知人との書簡、講義や研究用のノートを大切に保管しており、今日これらはハーバード大学でアーカイブ化されて公開されている。さらに、こうした資料に基づく思想史的研究が次第に発表されるようになってきた。
本書でも、そのような新しい研究成果のおかげで、ロールズのささやかな評伝を書くことができた。彼が『正義論』を公刊したのは50歳の時だが、その前半生は、信仰や戦争の体験、さまざまな学問上の交流、そして時代との向き合いによって形成されたものでもあった。なぜ、どのようにして、彼が社会正義の探究をライフワークとしたのか。そのことについて関心のある方は、本書の第一章を参照されたい。そこでは「ロールズがみた時代」を私なりに浮き彫りにすることを試みた。彼の思想についての理解が深まるとすれば、そして興味を惹かれてその著作を手にする読者がいたとしたら、筆者としてはとてもうれしい。
もっとも、評伝を書くことには一定の危険性がある。端的にいえば、書き手がもつバイアスを対象に投影してしまうことである。また、人物や思想の魅力を伝えようとするあまり、欠点の指摘がおざなりになることも少なくない。これらは悪い意味での「神話化」といえる。それゆえ、思想史研究には、対象を時代の文脈に位置づけなおすことで、その限界の指摘や、他にもありえた(だが実現されなかった)可能性の発掘を目的とするものもある。専門的な思想史研究では、むしろこちらのアプローチの方が主流かもしれない。
永井均のタームを用いるなら、歴史叙述の仕方として、「解釈学」と「系譜学」を区別できる(永井均「解釈学・系譜学・考古学」『転校生とブラック・ジャック』岩波現代文庫、2010年、終章)。永井によれば、「解釈学的探求は自分の人生を成り立たせているといま信じられているものの探求である」。これを踏まえていえば、評伝のスタイルとは、書き手が対象に代わってその思想の解釈学的探求を行うことだといえるだろう。対して、「系譜学は、現在の生を成り立たせていると現在信じられてはいないが、実はそうである過去を明らかにしようとする」。
本書でも参照した、カトリーナ・フォレスタの『正義の影で』は画期的な思想史研究だが、彼女のアプローチは系譜学的である(Katrina Forrester, In the Shadow of Justice: Postwar Liberalism and the Remaking of Political Philosophy. Princeton University Press, 2019)。フォレスタが描く歴史の主人公はロールズというより『正義論』だが、資料の博捜により、これまで見落とされてきたさまざまな事実を明らかにしている。たとえば、『正義論』は「大きな政府」を支持すると通例は思われがちだが、実はその淵源のひとつは「小さな政府」にあった。このような鋭い指摘は、本書を執筆する際にも大いに参考になった。
フォレスタはさらに、1950〜60年代──順調な経済成長のもとでの福祉社会へのコンセンサスがあった時代──に書かれた本であるゆえに、『正義論』は今日もはや有効ではないとまで論じている。ロールズ理論は多くのものをもたらしたが、他にもありえた可能性を閉ざすものでもあり、結局は現状肯定に陥ってしまった。彼女は『正義論』の光というよりも影の側面を強調する。『正義の影で』は、思想史のかたちをとったイデオロギー批判の書とすらいえるだろう。
評伝や解釈学は、何らかの目的に向かう大団円としてストーリーを語りがちである。だがそれは、時として都合のよい物語を作りあげてしまう。系譜学は、そうした既存の自明性に揺さぶりをかけ、現在の状態が実は必然ではなかったことを明らかにする。この意味で、フォレスタの試みは重要なものだ。しかし私たちは、彼女の結論──ロールズ理論を過ぎ去った時代のものとして位置づけ、距離をとったうえで学ぶこと──に、全面的には同意しない。なぜならば、『正義論』をはじめとする彼の著作は、今なおアクチュアルな洞察を含んでいると考えられるからである。
節をあらためて論じ直す前に、一点だけ、ロールズとモンペルラン協会をめぐる物語について補足しておきたい。この協会は、フリードリッヒ・ハイエクたちによって1948年に設立された、小さな政府を支持する国際的な政治団体である。『正義の影で』では、ロールズがミルトン・フリードマンの勧誘によって68年に入会した後、71年に脱退したと語られている(In the Shadow of Justice, pp.109-110)。だがこれは、フォレスタが「勧誘リスト」を「会員リスト」に取り違えたゆえの誤認であり、本書でも説明したように、ロールズは一度も会員になっていないのが実情であるようだ(『ジョン・ロールズ』43頁)。
私がこの経緯を知ったのは、英語圏の研究者たちのツイッターでのやり取りをつうじてであった。思想史、とりわけ近い時代の歴史をとらえることの難しさと危うさを考えさせられる。
思想家からみた時代
それでは、ロールズ理論のアクチュアルなものとは何か。これは「思想家からみた時代」の問題であり、齋藤のパートで主に考察されている。端的にいえば、二種類の社会的分断への対処である(『ジョン・ロールズ』213-214頁)。すなわち、①一方での包括的な価値観ゆえの分断、②他方での不平等ゆえの分断、いずれをも切り捨てることのない、統合された視点に立つ正義の理論を構想したこと。これこそロールズ思想のもっとも重要な点だと思われる。
①の例としては、原理主義のかたちをとった宗教戦争や文化戦争、「自分たちだけが人民を代表する」と標榜するタイプのポピュリズム(J-W・ミュラー)をあげることができる。この分断に対しては、みずからの価値観を絶対視せず、関連するすべての人にとって受け入れ可能な仕方で、公共的な正当化を試みることが重要となる。人びとがこの意味での「シヴィリティの義務」を実践するかぎりで、正義にかなった社会は安定したものであることができる。
②はさまざまな格差にかかわる問題である。この数十年ほどで社会的・経済的な不平等が一段と進行したことは広く知られている。さらに、人種やジェンダーによる格差も、昔に比べると改善してきているとはいえ、依然として深刻なものであることに変わりはない。この分断に対しては、どのような立場にあるとしても、不当な抑圧を受けることなく生きていけるような社会の設立が求められる。すなわち、自尊(self-respect)の社会的基盤の保障が課題といえる。
簡単にいえば、①は寛容を、②は平等を要請する。しかし、ともすると両者は対立する。寛容は多元性を肯定するが、それが相互無関心にまですすむと(たとえば自己責任論)、不平等の放置をまねく。平等は何らかの同質性を必要とするが、それが論争的な価値で実体化されると(たとえば人種による一体化)、途端に抑圧的なものとなる。「平等なき自由」も「自由なき平等」も魅力的なヴィジョンとはいえない。ロールズが探究した社会正義は、そうではなく、「平等な自由」を目指すものであった。
ロールズのライバルでもあったジェラルド・コーエンは興味深いことを述べている。彼は、遺作となった『正義と平等を救出する』で、百花繚乱ともいえるロールズ批判を一冊まるごと費やして展開しているが、同時に『正義論』の偉大さを讃えている(G. A. Cohen, Rescuing Justice and Equality, Harvard University Press, 2008, p.10)。すなわち、『正義論』をはじめとするロールズの著作においては、アメリカ的な意味での「リベラル」、ヨーロッパ的な意味での「ソーシャル」、両方の重要な要素がデモクラシーに首尾よく統合されている。これはまさに、寛容と平等という二つの価値を統合したデモクラシーの理念をうまく言い表すものといえる。コーエンはさらに述べる。ロールズは彼の時代のリアリティを思想において把握した。つまりその著作は、リベラルかつソーシャルなデモクラシーが、いわば自己を意識するにいたった産物なのだ(これは、ヘーゲル哲学を意識した言い回しである)。
ひとつの時代の産物である以上、ロールズ理論がさまざまな限界をもつのはたしかだ。齋藤が正しく指摘するように、人格を有するメンバーをめぐる線引き、構造的な不正義、グローバル・イシューといった問題に対しての考察は、今日の観点からすれば不十分なところがある(『ジョン・ロールズ』99-100、166-167頁)。とはいえ、フォレスタが『正義の影で』で述べたように、『正義論』が完全に過去の時代のものになったとは、私たちは考えない。なぜならば、寛容と平等を両立させるデモクラシーの理念は、今なお(あるいはロールズが生きた時代以上に)アクチュアルなものだと思われるからである。
ロールズは、理念や理論と社会の状況とが相互に関連していることに意識的だった。すなわち、一方で理念が社会に影響を及ぼすこともあれば、他方で状況の変化が理論に再考を迫ることもある。熟慮された判断と原理とは相互に照らし合わせられる。先述した不十分な問題も、この「反照的均衡」のプロセスをつうじて、ロールズ理論に内在する仕方でさらに理解を深めることも可能だろう。この意味で、彼の思想は、私たちの時代を考えるにあたってなおひとつの指針たりうる。少なくとも、「平等な自由」をめざすデモクラシーのプロジェクトがつづくかぎり、『正義論』や『政治的リベラリズム』はその意義を失わないだろう。
おわりに
なんと立派な理想論! そう思われた人もいるかもしれない。同時に、いささかの皮肉や冷笑の感覚を覚えた人もいるだろう。というのも、現実に目を向ければ、理念がどれほどの効力をもつのか疑わしい出来事には事欠かないからだ。実際、ロシアによるウクライナ侵攻のニュースを耳にしつつこの文章を書いている私にも、そうしたネガティブな感覚がないといえばウソになる……
とはいえ、歴史的にみれば、そもそも「平等な自由」のプロジェクトはつねに挑戦を受けてきたものだった。ロールズが生まれた一世紀前の時代も例外ではない。第一次世界大戦後のこの時期、ドイツ・ワイマール共和国は苦境にあった。そうしたなか、若き公法学者カール・シュミットは、『現代議会主義の精神史的状況』(初版1923年、第二版1926年)で、リベラリズムとデモクラシーを区別したうえで、前者──彼の理解では議会主義──の終焉を説いた。いいかえれば、「自由なき平等」としてのデモクラシーを支持した。他方、合衆国は繁栄を謳歌していたが、その果実を享受したのは都市部の人びとであり、農民や移民は排除されていた。こちらは「平等なき自由」としてのデモクラシーといえる。
どことなく既視感のある光景だが、世界恐慌後、どのような帰結がもたらされたについては説明する必要はないだろう。
ロールズは、いかにそれが遠回りでゆるやかな影響しか及ぼさないとしても、リベラル・デモクラシーの理想理論がもつ重要性を、生涯にわたって探究しつづけた。
さて、そろそろ頃合いである。本書の評伝部分は、やはり一世紀ほど前に書かれた、スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』(1925年)冒頭部分の引用から始めた。ラスト一文の引用をもって、このささやかな解題の結びにかえたい。
だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも(So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past)。
プロフィール
田中将人
1982年生まれ。高崎経済大学・拓殖大学・早稲田大学非常勤講師。専門は規範的政治理論ならびに政治思想史(より詳しくは、https://researchmap.jp/tj-pl/)。2005年、早稲田大学政治経済学部卒業。2013年、早稲田大学大学院政治学研究科博士課程単位取得退学。2015年、博士(政治学)。主要業績として、『ロールズの政治哲学──差異の神義論=正義論』(単著、風行社、2017年)『ジョン・ロールズ──社会正義の探究者』(共著、中央公論新社、2021年)。