2022.05.12

歴史修正主義とウクライナ戦争――『歴史修正主義 ヒトラー賛美、ホロコースト否定論から法規制まで』(中公新書)

武井彩佳(著者)ドイツ現代史、ホロコースト研究

#「新しいリベラル」を構想するために

歴史修正主義 ヒトラー賛美、ホロコースト否定論から法規制まで

著者:武井彩佳
出版社:中公新書

いま、ロシアによるウクライナ侵攻で、耳を疑うようなやりとりが繰り広げられている。ロシア政府を代弁する人々が、これは戦争ではなく、ウクライナをナチから解放するための軍事作戦であり、民間人の虐殺はウクライナ側による「でっちあげ」であると主張している。通りに放置された遺体も、集団埋葬地も、ウクライナ軍がロシア軍の仕業に仕立てるためにどこかからか運び込んだとさえ言う。

衛星写真やスマートフォンなどによって、世界の片隅で起こっていることが瞬時に拡散する時代に、きわめて根拠のない主張が、例えば駐日ロシア大使のような公人の口から発されている。こうした状況に私たちは絶句し、深い無力感を感じるが、こうしたやりとりに既視感はないだろうか。

これまで、戦争やジェノサイド、大規模な性暴力などの歴史事実が、繰り返し矮小化され、否定されてきた。歴史事実の全面的な否定を試みたり、意図的に矮小化したり、一側面のみを誇張したり、何らかの意図で歴史を書き替えようとすることを「歴史修正主義」と呼ぶ。なかでも特定の歴史の当事者やその家族を攻撃する目的で史実を否認する場合は、「否定論denial」と呼んでいる。代表的にはホロコースト否定だ。否定すること自体が「主義(イズム)」となっているという意味では、フランスでは「否認主義negationism」という言葉が使われている。

日本の場合、歴史修正主義というとまず思い浮かぶのが従軍慰安婦に関する記述など、先の大戦に関するものだろう。大なり小なり、各国にそれぞれの歴史修正主義がある。ロシアに関して言えば、第二次世界大戦中にポーランド人将校が多数銃殺されて埋められたカティンの森事件を、ソ連が長年ナチ・ドイツの仕業と主張してきたことが思い出される。80余年前の犯罪に対する恨みがポーランド人の動脈に流れ続けているというのに、早くもロシアはウクライナに関する事実の否定を積み上げて、現在進行形で戦争のカウンターナラティブを打ち立てようとしている。

本書『歴史修正主義』は、フェイクとファクトの境界線がひどく揺らぐ現代に生きる私たちが、自分たちの立ち位置を確認するための座標軸を提供する意図で書かれた。

2000年代以降、SNSの急速な普及によりネット空間の情報の質が問題視され始めた。インターネットには世論を誘導的に形成するためのボットさえも仕込まれるようになり、真偽の区別はますます難しくなった。特にトランプ時代はファクトに対する攻撃が繰り返された結果、暴徒による連邦議会襲撃という前代未聞の事件が発生した。そして今、私たちは再び、国家的な歴史修正のメカニズムが動き出す過程を目撃している。

本書では歴史を書き替える意図、その政治的効用、これに対する対応の可能性について分析した。まず「歴史修正主義の歴史」を紹介し、19世紀末のヨーロッパで登場した歴史の否定が、二つの世界大戦を経て、戦争責任の転嫁や犯罪の隠蔽の手段とされ、1970年代以降はもっぱらホロコースト否定という形で世界中に拡散した様を追った。1980年代にはアメリカのマーメルスタイン裁判やカナダのツンデル裁判があり、歴史の否定が死者の名誉や当事者の記憶に対する攻撃と認識されるようになった。そして2000年にはイギリスで「歴史が被告席に立たされた」と言われたアーヴィング裁判があり、ホロコースト否定論は完全に断罪されるに至った。

現在、ヨーロッパ諸国の約半数がホロコースト否定を法で禁止している。基本的には、歴史の否定は特定の集団に対するヘイトスピーチであるという理解が規制の根幹にある。本書ではこうした法規制を支える理念や歴史認識を分析する一方で、歴史の司法化の危険性についても指摘した。

さらに、冷戦終結以降に噴出した、東欧の旧共産主義諸国における歴史修正の動きも扱っている。ソ連が東欧の兄弟姉妹をナチ・ドイツの蹂躙から解放したというナラティブに対し、バルト三国やポーランドなどがスターリン支配の方がはるかに悲惨であったと声を上げ、共産主義の犯罪を否認する歴史記述を禁止し始めた。こうした動きに強く反発してきたのが、まさにプーチンのロシアであった。ソ連による解放の物語の唱道者であるプーチンの「歴史戦」は、今に始まったことではないのだ。

本書は基本的には欧米の歴史修正主義、第二次世界大戦後は特にナチズム/ホロコーストの否定を扱っているが、その分析枠は、欧米に限らず、日本も含めてさまざまな事例に適用可能である。なぜなら、歴史修正主義にはいくつか共通する特徴があるためだ。

まず、歴史修正主義は本質的に未来志向だという点だ。過去に関することが問題とされているようでいて、実はその焦点は現在と未来に据えられている。なぜならその目的は、過去を書き替えることで現在への評価を変え、現在の評価を変えることで、将来的な選択肢、つまり未来を変えることにあるためだ。

また史修正主義的な言説に「~は起こらなかった」「~の事実はない」といった、単純な否認はまれで、むしろ自らの証拠を示さないまま、「本当に~と言えるのか」「そこにいなかったのになぜ分かるのか」と執拗に迫る。実際、歴史的な出来事をその場で目撃したのでない限り、遠く離れた場所で昔に起こったことを確証を持ってこうであったと語れる者はいない。われわれは世界で起こっていること全てを俯瞰する神の目を持ってはいない。つまり書かれた歴史は、起こったことがありのまま記された「真実」であるとは誰にも言えない。

ここに歴史修正主義がつけ込む余地がある。あなたが言っているのはあなたにとっての事実でしかなく、それは私にとっての事実ではない、と言う。議論に一種の価値の相対論を持ち込むのである。また、それを信じる自由は否定しないとも付け足す。まさに、駐日ロシア大使が「現地で民間人に対する犯罪を目撃したジャーナリストがいる」という指摘に、「それはあなたが言うことだ」と反論したのが良い例だ。これは「証拠が『証拠』たり得る証拠を示せ」と要求する永遠の堂々巡りだが、こうした主張が極めて確信犯的になされると、多くの人は反論できない。

こうして事実は解釈によって複数存在するという相対論が頭をもたげ、何を事実として受け入れるかは、各々の好みの問題へと格下げされる。これはトランプ大統領が繰り返した、「オルタナティブ・ファクト」や「ポスト真実」と本質的に同じである。明らかに白に近いものと、明らかに黒に近いものが同じカテゴリーに入れられ、フェイクとファクトの境界線は融解してゆく。

これは今も起こっている。私たちはロシアの主張は荒唐無稽だと思いつつ、ウクライナ側が言っていることにも誇張や虚偽が混じってはいないという確証も持てない。そうすると、あちらの意見もこちらの意見も結局は情報戦であるという、二つを同じ土俵に乗せる相対論に道を譲ることになる。人間の歴史とは、分類し、名を与え、質の違うものに異なる価値を付し、これに基づいて判断することの繰り返しであったが、価値相対論の名の下に、悪しきものをそれとして批判できなくなることが最も悪い。

ロシアによる戦争犯罪はこの瞬間も記録され、今後ウクライナ政府やNGO、国際機関による責任の追及と、可能な範囲で犯罪人の処罰が始まるだろう。しかし記録や証拠があるから歴史が否定されることがないのかというと、それは違う。この戦争の原因についても、その被害についても、今後歴史修正の主戦場となることは間違いがない。歪曲され虚偽入り交じる言説が、今後何十年も政治や外交、国民の教育の場で回遊を続けるだろう。自らの利益になる歴史を求める国家の情念は、尽きることがない。

私たちは、新しい歴史修正主義の種が蒔かれ、肥料を得て、いつか国家的なナラティブとして実を結ぶ、そのメイキングを現在目の当たりにしている。今この場で私たちは何を考えるべきなのか。この切迫した問題に対する答えを見つけるヒントが、この本に見つかるかもしれない。

プロフィール

武井彩佳ドイツ現代史、ホロコースト研究

学習院女子大学国際文化交流学部教授。早稲田大学博士(文学)。
単著に、今回取り上げる著書の他、『戦後ドイツのユダヤ人』(白水社、2005年)、『ユダヤ人財産は誰のものか――ホロコーストからパレスチナ問題へ』(白水社、2008年)、『〈和解〉のリアルポリティクス――ドイツ人とユダヤ人』、(みすず書房、2017年)などがある。

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