2024.12.26
『亡命ロシア料理』(ピョートル・ワイリ、アレクサンドル・ゲニス[沼野充義訳])
『亡命ロシア料理』はレシピ集である。全44章には、家庭でのロシア料理の作り方が紹介されている。1970年代にソ連からアメリカに亡命した2人のロシア人著者は、祖国を思慕し、ロシア文学風の生真面目さと深刻さ(ゴーゴリ、ドストエフスキー、ソルジェニーツィン…)を逆手にとって、ロシア料理についての蘊蓄を、軽妙に熱っぽく披露する。SNSを時折賑わせる書籍のひとつであり、紹介されている料理を実作するファンも多い。
◆「『亡命ロシア料理』(未知谷刊)に寄せられた熱い感想 「これは料理本ではないね。詩篇だ」「雑に例えるとユリシーズより面白い」ほか」(2014年12月11日)
https://togetter.com/li/756296
◆「名著『亡命ロシア料理』に掲載されている「作ってる最中に掃除なり愛なり独学などに精をだしてもよい」素晴らしい料理「帰れ、鶏肉へ!」を作ってみた皆様」(2021年6月14日)
https://togetter.com/li/1730679
『亡命ロシア料理』はレシピ集である。しかしこの場合、レシピとは単なる技術的な手順ではなく、亡命者たちが故郷の食文化を異郷の地で再構築し、アイデンティティを維持・再定義しようとする営みの記録でもある。ボルシチやペリメニといった伝統料理の作り方を語りながら、著者たちは同時に、ソ連時代の日常生活、アメリカでの文化的衝突、そして「本来の」ロシア料理と亡命先での代替的実践との間の緊張関係を描き出す。それは単なる郷愁の表現ではなく、新しい生活の場での食文化の再創造と適応、自己を再定義するプロセスを示すものでもある。
『亡命ロシア料理』はレシピ集であり、レシピがどれだけ豊潤なフードスケープを封じ込めうるものかを示す。日常にちょっとうんざりしていたら、『亡命ロシア料理』を開いてみる価値がある。そして、紅茶の淹れ方一つとってもすぐに文化の衰退と文明の荒廃を嘆いてみせる著者たちと一緒に、温かい料理を作って食べよう。「いい料理とは、不定形の自然力に対する体系の闘いである。おたまを持って鍋の前に立つとき、自分が世界の無秩序と戦う兵士の一人だという考えに熱くなれ。料理はある意味では最前線なのだ」(46頁)。
プロフィール
太田和彦
専門は食農倫理学、環境倫理学、シリアスゲーム。主な業績に、『〈土〉という精神』(ポール・B・トンプソン, 農林統計出版, 2017年)、『食農倫理学の長い旅』(ポール・B・トンプソン, 勁草書房, 2021年)など。