歴史のなかの日中関係――清末から現代までの120年間の歴史を振り返る

西洋列強や日本に蚕食されてきた19世紀半ばから、「恥辱」を受ける以前の「輝かしい過去」への回帰を目指してきた中国。そしていま、大国となった中国は「中華民族の偉大なる復興」を掲げている。『中国ナショナリズム』の著者、小野寺史郎氏に、清末から現代までの120年間の歴史を振り返っていただいた。(聞き手・構成/芹沢一也)

 

 

「中華」と西洋文明

 

――最初に、伝統的な中国王朝について教えてください。「中華」とはどう理解すればよいのでしょうか?

 

私が本来専門とする時代は19世紀末から戦前辺りまでなのですが、昨年出版した『中国ナショナリズム』で一番批判をいただいたのが、序章の「伝統中国の世界観」に関する説明でした。「伝統」と一口に言っても、実際には当然ながら、時代ごとに世界観も変化してきました。それをごく簡単にまとめると次のようになります。

 

儒教が国教となった漢の頃から、有徳の天子(皇帝)が「天の命」によって天下の統治を委ねられた、というのが統治を正当化するロジックとなります。そこで皇帝が実際に官吏を派遣して統治する範囲が「中華」、その外部が「夷狄」とみなされました。

 

ただ、この「中華」と「夷狄」の境界は、現実の政治状況の影響を受けるかなり曖昧・可変的なものです。ですので、ある政権が「中華」とみなされる条件としても、漢人のエスニック的な要素が強調される時代、あるいはエスニック的な出身にかかわりなく、儒教に代表される「文明」の受容度合いが重視される時代など、さまざまでした。

 

 

――「中華」の境界と内実は、近代的な国境によって画されるわけでも、また主権や国民のようなユニットによって実体化されているわけでもないということですね。

 

そうです。こうした世界観の下では、対外関係も、主権国家間の対等を前提とする近代西洋の国際関係とは異なるものでした。近隣の諸外国が中華の皇帝に使節を送り、臣従を示す儀礼を行うというもので、これが「朝貢」と呼ばれます。この朝貢によって、皇帝は自らの徳の高さを証明することができた。また諸外国の側も、中華との関係を安定させることができた。そうすることで、ともに統治の正当性を得ることができたわけです。

 

ただ臣従と言っても、これはあくまで形式上のものです。国家間関係を君臣関係に見立てたフィクションという面が強かったと言えます。また、中華の王朝と関係をもった国や地域がすべて朝貢の形式をとったわけではありません。たとえば、朝貢を伴わない貿易もあり、これは「互市」と呼ばれました。このように、中華の王朝と諸外国との関係にはさまざまな形式があり、まとまった一つの体制やシステムとして説明するのは難しいと言えます。

 

また、モンゴル人の元や満洲人の清をどのように理解するかも、非常に難しい問題です。現在では、これらの国は中央アジアの遊牧国家としての性格を強く持ち、いわゆる中華の王朝の原理では説明できないのではないか、という議論がなされています。

 

 

――アヘン戦争から義和団事件に至る事件を経験した清朝中国にとって、西洋文明とはいかなる意味をもったのでしょうか?

 

非常に大きくて難しい問題です。ただ、現在の歴史研究者のほとんどは、アヘン戦争(1840-1842年)によって清の体制や社会に何か大きな変化が起こり、中国の前近代と近代を画す契機となった、とは考えておりません。

 

また、かつては第二次アヘン戦争(1856-1860年)後に「洋務運動」(西洋の科学技術を導入して清の国力増強を目指す運動)が開始されたものの、体制は変えず西洋の技術のみを輸入するという「中体西用」思想のために失敗に終わった、という説明がなされていたのですが、こちらも現在では否定されています。

 

実際、かなり早い段階から議会など、西洋の政治制度の有用性を認識していた知識人もいましたし、受け手の置かれた状況や立場によって、西洋に対する理解や反応にはかなりの多様性があったようです。

 

 

――となると、何が中国が前近代から近代へと移行する契機となったのでしょうか?

 

この問題に関して一つの契機となったのは、1900年の義和団事件ではないかと考えています。西洋的な事物の排除を訴える宗教結社義和団が、既存の社会秩序や文化的慣習に帰属意識をもつ民衆の支持を得て勢力を拡大しました。列強がその取り締まりを要求すると、清政府はこれに反発して列強に宣戦しますが、8か国連合軍に大敗を喫しました。

 

これによって清政府と知識人層は、最終的に西洋に倣った近代化政策に転じます。しかしそれは民衆の世界観や伝統的習俗を置き去りにすることでもありました。そのためこれ以後長期にわたり、政府や知識人と民衆のあいだに乖離を生じる一因となったと考えています。

 

 

「中華民族」の起源

 

――清朝中国は多民族で構成され、近代的な国境観念もなかったなかで、どのようにしてネイションを構築していったのでしょうか?

 

1898年にドイツ、イギリス、ロシア、フランスが相継いで清国内に租借地(ある国が条約で一定期間、他国に貸し与えた土地のこと)を設けました。そして、租借地周辺の鉄道敷設権・鉱山開発権などを獲得して、そこを「勢力圏」と見なすようになります。

 

この勢力圏はそれ自体としては非常に曖昧なものだったのですが、列強の勢力圏に塗り分けられた清の地図が印刷メディアを通じて広まったことで、清が列強に分割されるという危機感が広まりました。

 

ここから逆説的に、元来はさまざまなエスニック集団や統治方式から成り立っていた清の領域を、一様かつ一体不可分の「領土」と見なす認識が生まれたという指摘がなされています。

 

 

――西洋列強に浸食されるというネガティブな経験を媒介に、一体のものとしての「領土」という観念が浮かび上がってくるんですね。そこからナショナリズムが生まれてくるのですか?

 

ナショナリズムの訳語である「民族主義」が、日本から中国に紹介されたのはその後になります。ただ、清の領域がさまざまなエスニック集団からなるものだったこと、清の統治者が人口で大多数を占める漢人ではなく、少数者の満洲人だったことから、深刻な問題が生じました。

 

孫文(注1)ら革命派は当初、清を打倒して漢人国家を建設することを主張しました。しかしその場合、清の領域のうち、漢人以外の満洲人、モンゴル人、チベット人、回民(テュルク系ムスリム)などが居住する地域はどうなるのかが問題となります。

 

(注1)1866~1925年。中国の政治家。反清武装蜂起の失敗後、亡命先の日本で中国同盟会を組織。辛亥革命に際して帰国し、中華民国臨時政府の臨時大総統に就任したが、直後に軍事実力者の袁世凱に政権を譲った。後、政権奪取を目指して広州に政府を組織し、中国国民党を結成。ソ連・中国共産党との提携方針を定めた。

 

そこで同じ漢人でも梁啓超(注2)ら立憲派は、先に述べた「領土」を前提として、その内部の複数のエスニック集団を融合し、一つのネイションにするという主張を行います。これが現在の中華人民共和国が主張する「中華民族」の考えの始まりです。

 

(注2)1873~1929年。中国の啓蒙思想家、ジャーナリスト、政治家。戊戌変法失敗後、亡命先の日本で雑誌『清議報』や『新民叢報』を出版。日本経由で得た西洋の知識を平易な文章で大量に紹介するとともに、清の立憲君主制改革を唱え、革命派機関誌『民報』と論争を展開した。

 

ただ問題は、こうした議論がほぼ漢人内部で行われたことです。モンゴル人、チベット人、回民などには共有されていませんでした。「外モンゴル」が1920年代に中国から独立して独自のネイション・ステイトを形成し、またチベットや「内モンゴル」、新疆などで、現在に至るまで、ネイションの範囲に関して中国政府と異なる認識が存在するのはそのためです。

 

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中国ナショナリズムと日本

 

――中国ナショナリズムにおける日本の位置づけはどのようなものだったのでしょうか?

 

清末のナショナリズムにもとづく運動には、東三省(現在の中国東北部)に駐兵を続けたロシアに抗議する1903年の拒俄運動(俄はロシアの意味)、アメリカの排華移民法に反対する1905年の米製品ボイコット、1908年の第二辰丸事件(清政府が武器密輸の疑いで日本船籍の商船を拿捕したが、日本政府が謝罪と賠償を要求した)に反発して開かれた「国恥記念会」などがあります。そのため日本はあくまで清に利権を求める列強のうちの一つという位置づけでした。

 

一方、日清戦争の敗北以降、清では日本を近代化のモデルとする考えが生まれ、多くの留学生が来日し、日本を通じて西洋の知識を学ぼうとしました。そのためこの時期の人々にとって、韓国併合などに対する警戒感をもちつつも、日本には相対的に親近感を覚える部分もあったのではないかと思います。

 

 

――それが第一次大戦後の二十一か条要求によって変わるわけですね。

 

はい。それまで対中政策において、日本は他の列強との協調を重視してきました。ところが、第一次世界大戦で他の列強が東アジアに関与する余裕を失うなか、二十一か条要求によって単独で在華利権の拡大を図ろうとします。そのため中国側からは、日本は数ある列強の一つから、突出した「主要敵」と見なされるようになります。

 

その後に成立した段祺瑞(注3)政権に対し、日本が西原借款に代表される援助を行ったことも反発を生みました。1918年に日中共同防敵軍事協定が結ばれると、これに抗議して日本にいた多くの中国人留学生が帰国するという事件も起きています。

 

(注3)1865~1936年。中国の軍人・政治家。安徽派の領袖。袁世凱の死後、北京政府の実権を握る。日本の寺内正毅内閣の援助を受け、第一次世界大戦に参戦。1920年、直隷派との内戦に敗れ勢力を失った。

 

ただ、これ以後、日中関係がつねに悪化し続けたというわけではありません。とくに1920年代半ばには、対中不干渉・対英米協調を旨とする幣原外交の下で、中国の対日感情は相対的安定の時期を迎えます。1925年には空前のナショナリズム運動である五三〇運動が起きますが、その「主要敵」は日本よりイギリスでした。

 

こうした状況を大きく変えたのが1928年の済南事件です。

 

北京政府の打倒と中国統一を目指す、蒋介石(注4)率いる国民革命軍の北伐が進行すると、東三省利権への影響が及ぶことを危惧した田中義一内閣は第二次山東出兵を行います。そして、山東省の省都の済南で日本軍と国民革命軍の軍事衝突が起こりました。市民を含む多数の犠牲者が出たことで、ふたたび日本が中国ナショナリズムにとっての「主要敵」と位置づけられることになったのです。

 

(注4)1887~1975年。中国の軍人、政治家。国共合作の下で組織された国民革命軍の総司令に就任、中国統一を目指す北伐を実施。孫文の死後、実権を握り、クーデターで共産党を排除。南京国民政府を樹立した。最高指導者として対日抗戦を完遂したが、中国共産党との内戦に敗れ、中華民国を台湾に移転して存続させた。

 

 

――1930年代には、いわゆる「国恥図」が作成されています。

 

中国の学校の地理教科書などでは、1910年代から「失われた領域」を記した地図が掲載されています。ロシア領となった沿海州や中央アジア、かつて朝貢国だった朝鮮・琉球や、インドシナ半島、マレー半島、日清戦争で日本に割譲した台湾などです。

 

これは、先にお話ししたように、中国の領土認識自体が、列強に分割されるという危機感のなかで形成されたことに関わっています。とくに1931年の満洲事変以後、奪われた領土を回復するという意識は非常に強く表われるようになります。

 

ただし、このように現行領土を越えた範囲を「本来の領土」とみなす主張は中国にかぎったことではありません。たとえば同時期のタイなどでも、同様の「国恥図」が作成されていたことが知られます。【次ページにつづく】 

 

 

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