めんどうな自由、お仕着せの幸福――サンスティーン先生、熟議のお時間です!

『ナッジ!? 自由でおせっかいなリバタリアン・パターナリズム』の編者である法哲学者の那須耕介さんが、ナッジやリバタリアン・パターナリズムをめぐって、同時代の気になる方々と繰り広げた対話連載がスタートします。まずは、ホスト役の那須さんが、自身の「問題意識」を語りました。いま、このややこしい時代だからこそ話ししてみたいと考えたのはなぜなのか、ちょっと意味深なタイトルの意味を含めて、はじまりはじまり――。(勁草書房編集部)

 

 

 

自由という重荷?

 

理不尽な拘束や抑圧を被らないこと、十分な選択肢が与えられていること。昔ながらの「自由」は、いまも私たちの暮らしになくてはならない価値ですが、ともすればこれを恩恵どころか重荷に感じる機会が増えてきたような気がします。

 

私の自由には、やっかいな自己責任がともないます。膨大な選択肢から選ぶこと自体わずらわしいのに、失敗したら一人では負いきれない代償を求められるなんて、割に合わない気がしませんか。勝手にしていいけど、まわりに迷惑かけないでね。結果は自分で引き受けてね。そんなふうに言われるとき、自分の自由は負担を重くするだけのように思えます。

 

いっぽう、他人の自由にはあぶない感じがつきまといます。まわりの人が野放図にふるまえば、害を被る可能性も高まります。「安全・安心のためには、多少のことは我慢してもらわないと」「見通しのきかない時代だからこそ、トラブルの原因は早めに摘んでおくべきだ」。そう身構えるのは不自然なことではないでしょう。いまや、他人の自由は不安をかきたてるリスクそのものなのかもしれません。

 

 

レディ・メイドの幸福?

 

「自由のせいで不幸になってしまうのでは元も子もない」「豊かで安定した生活、気楽で順調な毎日のためなら、少々の不自由は我慢しましょう」。そんな考え方にはたしかにうなずかされるところがあります。ですが、「そうまでして手に入れたいあなたの『幸福』って何ですか」とあらたまって尋ねられると、答えに詰まってしまうような気がします。

 

親や先生から、友人や同僚から、企業や国や“世間”から、「これがあなたの幸福ですよ」と思い込まされているだけなんじゃないの、なんて意地悪く詰問されたら、私の幸福のイメージは途端に色あせ、ぼやけてしまうような気がします。自分で思い描き、自分で選んだのではない幸福は、ほんとうにその人の幸福といえるのでしょうか。

 

レディ・メイドの幸福像を頭から否定しようというのではありません。自分や他人の自由を切り詰めてはじめて確保される幸福というものがありうると考えたとき――あるいはその反対に当人が自由に選びとることが幸福の前提だと考えたとき――、私たちの幸福像の内実にはどんな違いが出てくるのか、考えてみたいように思うのです。

 

 

「自由」と「幸福」のゆくえ:連載のねらいと主題

 

今日の法制度や公共政策のなかで、私たちの「自由」や「幸福」のとらえ方はどう変わりつつあるのか、それにあわせて私たちの社会の仕組み、とくにその舵取りをする政府はその役割をどんな方向にシフトさせようとしているのか。これから始まるインタビュー連載では、それぞれの研究領域の先頭を走ってこられた5人の先生方のお話をうかがいながら考えてみたいと思っています。

 

話題の中心には、キャス・サンスティーン教授の仕事、なかでも彼のリバタリアン・パターナリズムと「ナッジ」の理論をおいてみることにしました。彼はこの30年あまりにわたり、最も多産かつ影響力ある法学者として活躍し、オバマ政権時代には政府の中枢に加わってその活動をリードする役割も担った人物です。大きく変貌を遂げつつある現代の福祉国家と私たちの社会のゆくえを占うにあたり(そしてできればそこから若干の指針を得るには)、近年の彼の仕事ほど、刺激的な示唆を与えてくれるものはないように思えます。

 

以下では連載をはじめるにあたり、なぜ私がそう考えるに至ったのかを簡単に説明させてください。

 

 

「社会問題」の発見と福祉国家の誕生

 

冒頭に挙げたような自由への疑いや危惧は、今日突然に始まったことではありません。本家本元の西欧社会においてさえ、「すべての人に最大限の自由を等しく保障することこそ、平和と繁栄の条件なのだ」という近代自由主義の楽観を丸ごとくつがえすような疑いが突きつけられた時期がありました。

 

「最初のポストモダン」とでも呼ぶべきこの風潮は、19世紀半ばに生まれました。産業革命を経た当時、急速な都市化と工業化のなかで大都市を中心に失業と貧困が広がり、衛生状態や治安も極度に悪化していました。ここに生じている問題は、特定の個人に責任を負わせても解決にはつながらない、したがって社会全体で取り組んでいくほかない問題なのではないか――そんな風に感じた人も多かったようです。今日私たちが「社会問題」と呼びならわしているもの――いくつもの要因が構造的にからみあっているため、たくさんの人びとの継続的な協力を必要とする課題――への感受性は、このなかで深められていったのです。

 

この問題をゴルディアスの結び目よろしく一刀両断にしようとしたのが社会主義者たちでしたが、福祉国家はそのようなラディカルな方策をとらず、既存の自由主義的な法制度に弥縫的な修正をほどこし、種々の社会政策を接ぎ木しながら形成されていきました。経済成長をめざしつつ競争的市場を操縦し、人びとの生存・生活を保障、改善する責任を、政府が率先してひきうけることになったのです。

 

そこでは、自分たちの暮らしの安寧や向上のためならば、それまで認められてきた自由の制限もやむなしと考えられました。とりわけ、野放図な経済活動こそが種々の社会問題の元凶であり、人びとの幸福を守るにはその適切な管理が不可欠だとされたのです。

 

 

国家による幸福のお膳立て

 

こうして、19世紀的な夜警国家があくまでも人びとの「自由な幸福追求」の条件整備に徹してきたのに対し、20世紀に確立された福祉国家は、一人ひとりの幸福をじかに保障することを任務とするようになりました。自分の幸福像をめいめいで思い描き、その実現方法もみずから選びとる(政府はその過程が邪魔されないことだけを保障する)社会から、政府が人びとの幸福が何であるかを見定めてこれを保護し、実現していく社会へと踏み出したのです。

 

もちろん、幸福それ自体と幸福の条件との区別は一筋縄ではいきません。恐怖と欠乏を免れて平穏な毎日を送ることは、誰にとっても幸福な生活の一部分ですが、それなしには自分の幸福像を思い描き、追求することのできない不可欠の前提でもあります。また仮に政府の役割をあくまでも「幸福の条件=選択の自由」の保障だけに限定したところで、十分な選択肢が、あるいは必要な知識や能力が欠けている場合には、結局のところ政府が手厚い援助をさしのべてこの「自由」を下支えしなければならないでしょう。

 

いずれにせよ、20世紀における福祉国家の発展は、個々人による「自由な幸福追求」の前提条件の整備から、それが空手形になってしまわないための支援、そして「誰もが求める幸福」の保護促進へと、政府の任務を広くきめ細かなものにしていきました。それ以降、私たちの「幸福」は、多かれ少なかれ政府の手助けなしには考えられないものになったのです。

 

 

福祉国家の苦境とその救世主?

 

しかしながら今日、福祉国家は慢性的な財源不足と深刻な社会の分裂、そして増殖する「社会問題」への対応に苦しめられています。20世紀後半以降、政府はしばしば、何が国民の幸福であり、そのためにどんな手を打つべきなのか、それらの間にどんな優先順位を設けてどれだけの財源を割り振るべきなのか、そしてこれらの選択すべてについてどうすれば国民からの支持を得られるのか、途方に暮れているようにみえます(そのあげくに逆ギレすることもしばしばです)。

 

サンスティーン教授は、まさにこの窮状に大胆でユニークな処方を与える人として登場しました。2000年代以降、彼は行動経済学の知見を応用しながら、強制にも社会的合意にも頼ることのない、また膨大な予算をつぎ込む必要もない政策手法を編み出し、これを学者業界のみならず広く一般に提唱しはじめたのです。実際この手法は、またたく間に米国のみならず各国政府の採用するところとなりました。

 

彼の着想はある意味とてもシンプルです。私たちの日常の認識や判断には広く共通のくせ、傾向がそなわっている。これをタイミングよく正してやるか、うまく利用してやりさえすれば、人は自分から進んでより賢明で合理的な行動を選ぶようになるだろう。そのための刺激となるのが「ナッジ(さりげない示唆と誘導)」だ、というのです。

 

彼はさらにこう考えます。――従来マーケティングの分野で活用されてきたこの種の手法を政府がもっと自覚的、体系的に活用するならば、高圧的な強制に訴えなくても、補助金をばらまかなくても、あるいは反対派の説得に東西奔走しなくても、おのずと多くの人びとが「社会問題」の解決に向けて協力しはじめるはずだ。社会制度や公共政策は、人びとの選択の自由を過不足なく保障しながらも、つねにその自発的な選択が総体としては各人の幸福、社会全体の福利をもたらすように設計されなければならない。

 

サンスティーン教授が描き出すのは、お金も権力も浪費することなく政策上の諸課題に効果的かつきめ細やかに対応できる、スマートでフットワークのいい政府像です。これが現代福祉国家の行き詰まりに呼応するものであることは、誰の目にも明らかでしょう。

 

 

というわけで、熟議の時間です!

 

とはいえ、彼の提案がすべての人に諸手を挙げて歓迎されてきたわけではありません。それは結局のところ、政府お手盛りの「幸福」像の押しつけにならないか。ナッジ的な誘導は、かえって政府の活動を見えにくく、批判しづらくしてしまうのではないか。それが許容する「自由」は、すでに愚かな(政府の都合に合わない?)選択肢を排除した、まやかしの自由なのではないか? ナッジはサンスティーン教授のふれこみ通り、人びとの幸福のためだけに用いられる道具なのか?

 

私自身もこれらの疑いや不安の多くを共有しています。しかし他方で、もう後戻りはできない、パンドラの箱は開けられてしまった、とも感じています。少なくともこれからしばらくは、ナッジのない世界はありえないでしょう。あるのはおそらく、ひどいナッジが野放しにされた世界か、比較的ましなナッジが生き延びるようにしつらえられた世界かのどちらかです。現実を少しでも後者の世界に近づけるためにも、ナッジとリバタリアン・パターナリズムの功罪に対する眼力を身につけ、これからの「自由」と「幸福」についての洞察力に磨きをかけながら、すぐれたナッジを考案していく必要があるのではないでしょうか。

 

というわけで、大屋雄裕先生、若松良樹先生、瀬戸山晃一先生、成原慧先生、田村哲樹先生、ちょっとお話聞かせていただいてもいいでしょうか?

 

対話ホスト那須耕介さんによるご案内、いかがでしたでしょうか。次回は、慶應義塾大学教授の大屋雄裕さんをゲストに、法哲学者二人の対話です。この話題に欠かせない大屋さんのご登場、どうぞお楽しみに。

 

知のネットワーク – S Y N O D O S –

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.276 

・橋本努「新型コロナウイルスとナッジ政策」
・三谷はるよ「市民活動をめぐる“3つの事実”――「ボランティア」とは誰なのか?」
・五十嵐泰正「『上野新論』――「都市の時代」が危機を迎えたなかで」
・倉橋耕平「メディア論の問いを磨く――言論を読み解く視座として」
・山田剛士「搾取される研究者たち」
・平井和也「コロナ情勢下における香港と台湾に対する中国の圧力」