2020.06.05

なぜいま、民主制の再設計に向かうのか――めんどうな自由、お仕着せの幸福(2)

大屋雄裕×那須耕介

情報 #新刊インタビュー#「新しいリベラル」を構想するために

ナッジやリバタリアン・パターナリズムをめぐる対話シリーズ、本格スタートはやはり慶應義塾大学の大屋雄裕さんから。レッシグにはじまり、これからの社会に求められる“規範起業家”まで、幅広い視点からの、そしてきわめてクリアな議論の刺激をどうぞご一緒に。(勁草書房編集部)

那須 大屋さんはずいぶん早い時期から、いろんなところでサンスティーンやリバタリアン・パターナリズムをめぐる議論のスポークスマン的役割を担ってこられました。ですから今回一番心配したのは、ご自身がこの話に飽きてしまっておられないかということです(笑)。

大屋さんのこの問題へのご関心は、ご自身の研究の文脈のどのあたりから浮かび上がってきたんでしょうか? 最初のご著書は言語哲学と法解釈の基礎理論でしたから、いくらかずれがあるように思えます。両者にはつながりがあるのか、あるいは、まったくちがった文脈に属する問題なんでしょうか。

売れないウィトゲンシュタインとわかりやすい情報化社会論の連関性

大屋 まず私自身についていうと、もともとは助手時代から言語哲学論、法解釈の言語哲学の議論を、ウィトゲンシュタインを使ってしていたんですが、もう一方で情報化社会論の研究をしていました。活字になったのはむしろ後者が先で、日本法哲学会の報告や、『思想』(岩波書店)の論文でも触れています。

その時点では、サブテーマとして情報化社会論をやっているつもりでした。なぜかというと、ぶっちゃけウィトゲンシュタインは売れない。それだけで身を立てるのは大変なので(笑)、世間にわかりやすいテーマをやらないといけなくて。そこで私のなじみ深かった情報化社会、コンピュータ・ネットワーク、インターネットを舞台にしてまず研究を展開させました、というのがかなり即物的な事情です。

ただ、やりこんでみると、内的な連関性がじつはあったのかなと思うようになってきました。『法解釈の言語哲学』(2006年、勁草書房)では結局、「法解釈を含めた規範的な体系はすべて人為的である、われわれの決定にしか依存できないものである」というようなことを言おうとしたんですね。情報化社会はそれまでの世界になかった新しいもので、ガバナンスやコントロールが白紙の状態から立ち上がって、しかも往々にしてわれわれが当たり前だと考えている法秩序、国際法、主権国家体制における国内法の秩序とはまったくちがう。これまでになかったあり方で社会をコントロールする対象として、インターネットやコンピュータの世界が出てきた。だからこそそこに関心をもったのかなぁというのが、あとになってみると思いついたことです。

大屋雄裕氏

入り口はローレンス・レッシグ

那須 一般に法哲学や政治理論の文脈の中では、ナッジ論やリバタリアン・パターナリズム論はどんな位置におかれるべきだとお考えですか。

大屋 法哲学・政治理論における意議・独自性については、私自身はサンスティーンではなく、やはりローレンス・レッシグから入っているんですね。レッシグの重要な問題提起のしょっぱなは『CODE』(2001年、翔泳社)であり、そのあとミッキーマウス保護法――著作権の保護期間を著者の死後70年に延長した1998年の著作権延長法のことで、ちょうど1928年に発表されたミッキーマウスの保護期間切れが迫っていたタイミングだったせいでこう皮肉られたわけですが――そのあたりの著作権の問題を展開し、コンピュータやネットワークの話、特に大企業の独占的な支配の問題を指摘していました。

いまから振り返って思うと重要な観点は、社会の規制手段として4種類のモード、法・社会規範・市場・アーキテクチャを並列的にみて、これらは単なる代替可能性や優劣関係ではなく、また、法はその一種でしかないと述べたことです。つまり、レッシグは、「旧シカゴ学派は市場と法のあいだに互換性があると指摘した上で、市場の方が効率性に優れていると主張したけど、おれはちがうんだ」と言ったんですよね。旧シカゴ学派は市場と法を単純な優劣で考えるから、可能な限り法を削って市場で代替する新自由主義的な政策が完全に正しいということになる。でも自分は新シカゴ学派で、さまざまなモードのあいだの相互依存性や、「われわれ市民の側からみたらそれぞれのコントロールの総和として自分の自由の空間があるんだよね」ということを指摘したいんだと。そこが非常に新しかった。

それは、「法の哲学」としての法哲学の枠をはずれるものだったかもしれない。だけれども、インターネットは法なき空間として出発した。しかも法秩序の世界の分け方と全然ちがうところから出発したので、私自身もそこをどうコントロールしていくかという問題意識でみていたから惹かれたのかも、というふうに思っています。

那須 どちらかというと大屋さんはむしろ論争に火を付けた側だと思いますが。

大屋 あはは。

ディストピア・スポークスマン?

那須 レッシグの翻訳が出て、日本にアーキテクチャ論が入ってきたとき、独特の受け止められ方をした気がします。ディストピアというか、極端な管理社会化が始まるような……。レッシグを含めた研究者たちの意図とは、ちがっていた。ちがいはどのあたりで生じたんでしょう? 日本での独特な受け止められ方はなにに由来しているんでしょうか。

大屋 ちがいはあったと思います。実際、レッシグとサンスティーンのあいだでもけっこうなちがいがあります。

レッシグの『CODE』の最後はたしかにかなりペシミスティックです。いろんな脱出口を探してみるんだけれども、「どれも簡単にはいきそうにないよね」と並べ立てている。対してサンスティーンは、「いや、そんなことはない。これはちゃんと使えるものなんだ」、と。

行動経済学的な分析を善用するナッジがある、というのがサンスティーンですが、一方、ペシミスティックにみえるレッシグも単なるディストピア論で延々と絶望するのではなくて、活動し続ける。たとえばクリエイティブ・コモンズ、知的財産の活発な相互利用・再利用を促進するために、著作者の意思表示をあらかじめ定型的に行なえるようなシステムを考えて、それを展開するためのNPOまで作って、「世界的にこういう対策をすればいいんじゃないか」と具体的にやる。

あるいはミッキーマウス保護法のような法廷闘争をして、うまくいったかどうかわかりませんが最後は大統領選に打って出る。その意味で、レッシグにはピープルズパワー、「最後は人民がこの国を動かすんだ」という、人民への訴えが残っているはずです。そこへの信頼感みたいなものは強固にあると思います。

日本社会でペシミスティックな面が強調されたとすれば――、実際、そういうところもあったと思いますが、理由のひとつは私の書きぶりだったかもしれない(笑)。『自由とは何か』(2007年、ちくま新書)はけっこうそんな感じでした。

ただ、最後に反転して、自由な人格といったものが実在するものではないとしてもわれわれの社会を支えるフィクションとして、この社会を生み出すための前提として受け止めればいいと書いたつもりではあるんですけれども、日本では民主制に対する信頼が薄いのかもしれない。あるいはアーキテクチャ的なものを善用するという発想が――、これはじつは微妙で、私自身はあの本を書いた直後から講演ではそういう話をしています。

那須 なるほど。

大屋 たとえば、核燃料工場は完全なアーキテクチャでコントロールすべきと言っています。ただ、その視点が必ずしも受け止められなかった。それは私の力不足です。

レッシグとサンスティーンの対比後に残る「自由」とは?

那須 レッシグとサンスティーン、この二人の対比は象徴的で、重要だと思います。レッシグがやや悲観的な、警告をともなう議論だったのに対して、サンスティーンは自由を損なうことなく規制を達成できると返答した。しかし、それでほんとうに返答になっているのかという問題がもちろん残るでしょう。

理論的に考える人たちからみると、サンスティーンの返答は十分な答えになっていない。「その自由ってほんとに自由なの?」と聞き返したくなる。

大屋 ふふふ。

那須 サンスティーンは「選択肢を用意してやるから、その範囲内で選びなさい」と言っているにすぎない。「それで自由といえますか?」という問題は残っていると思います。

ただ、サンスティーンだったら「それは根拠のない疑問だ」と答えるでしょう。しつらえられた選択肢の枠の外に出られると考えること自体が誤謬で、そんな幻想を捨てたところから話を始めなければいけない、と。大屋さんはそこを考えてこられたわけですが、いまあらためてレッシグの疑問に権利があるか、あるとしたらどのようにありうるのか。どうお考えでしょう?

大屋 たしかに。ひとつめの話は、サンスティーンの関心と、たとえば理論家としてのわれわれの関心がちがうところにあるかもしれない。理系の比喩でいうと、理学部と工学部の差というんですかね。「理屈としてどうなっているかわかんないとイヤなんだよ」という人に対して、「ある程度わかっていなければコントロールできないから困るけど、動けばいい」というのが根本にある人たちがいます。

サンスティーンが立ち向かっている問題は「アメリカの肥満」で、あきらかに明確な危機がそこにある。核燃料工場の例もそうですが、明確に致死的な結果を回避する場合に、どこまで議論を詰めなければいけないか。そういうことと、オープンな、たとえば私がどんな本を買うかという選択状況とはちがうだろうと言ってくるでしょう。

もちろん、通常でも、われわれがあらゆる対策の安全性を詰めきることはできないので、「ワークすればいい」――、ちょっとバズワード的な言い方ですけどね。その対応がワークしているかどうかは、最後は進化論的にその社会が全体としてうまくいくかどうかで示されるんだという返答があると思います。

私にも実務家的な側面があるので、社会の現実的な対応を考える局面ではよくわかります。ただ一方で理論家としてはそこに残っている問題があることもわかる。結局すべては人工的に選択しなければならないという話ではあるんだけれども、選択肢が可視化されつつ強調されてくるときと、不可視化される、見えないようにされるのはかなり状況がちがう。

サンスティーンはここで、「強調の側面」を強調するんです。推してくる。その点では毒性が少ない。だけれども、同じことがわれわれの見えないところで、知らないあいだに選択肢が除去される方向に使われる可能性が十分にあって、これでは社会が「いざとなったらコントロールできる」という範疇からはずされてしまうことになる。ひとつ格のちがった危険性です。そこに無警戒である、あるいは無警戒であるかのように見せかけているところは危険なのではないか。自由が結局仕切られたもののなかでしかないといっても、仕切りが見えているか、仕切りが可動的なものだと理解されているか、そのへんが非常に重要なんじゃないかとは思います。

規制主体の一元化と多元化が孕む問題点:移動可能性

那須 レッシグはそういう問題を実生活上の自由の剥奪と結びつけ、強い危惧をもって考えていますよね。一方、サンスティーンは「規制の皇帝(ツァーリ)」と言われてもそれを甘んじて受け容れて、オバマ政権で仕事をした。

最近のサンスティーンにはその経験をベースに、「いかにうまくやったか」と宣伝するような話が多い。一方で、アーキテクトの活動が不可視化すると陰謀論に結びつきやすいので、手回しよく陰謀論批判もやっている。でも彼自身認める通り、ここには、アーキテクトの活動の制御、という「統治の統治」の問題がありますね。

ここには2つ問題があると思います。一つは、レッシグが告発するように、大企業がわれわれの生活を見えにくい仕方でコントロールしている、という問題。規制主体が多元化することには、もちろんネガティブな側面がある。中間団体の暴走ですね。近代のはじめには、これを制御するために政府が出てきたはずなのに、今また中世的な世界に戻ってしまっている。

これはたしかに歓迎すべからざる事態なんですが、他方で、ここには一元化された統治を相対化する可能性もある。政府を含めた複数の規制主体どうしが規制しあうことには、ポジティブに考える側面があるのではないか。サンスティーンは口先では「ナッジの担い手は政府でなくてもよい」と言いますが、彼が実際に想定しているのはあきらかに「政府による規制」です。

ナッジの主体は一元化するがいいのか、多元化していく方がいいのか、あるいは多元化は避けられないのか、それにどう対応すべきなのか。この点、どうお考えですか?

大屋 水平的な選択可能性の問題ですね。本のオススメのナッジであれば、アマゾンにすべてを握られるのはいやだから、楽天ブックスを併用して使い分けることが可能です。そういう意味で多元化することがわれわれの操作可能性とか、あるいは離脱可能性、移動可能性を担保してくれるのではないかというのは、ビジョンとしてある。

ただ2つの前提が必要です。その可能性は当然むこうもわかっているので、ロックインするように動いてくるはずである。そのロックインに大きなメリット、あるいは他に移動しにくい属性をつければ、移動可能性をなくせる。

那須 最近、ビジネス用語でエコシステムという言葉を聞きますが、そういうことですよね。

大屋 そうそう。

那須 特定のエコシステムに取り込まれてしまう。たとえばアップルの製品ばかり使っていると、だんだん他社製品に手が伸びなくなる。

那須耕介

現代の独占禁止はいかにして可能か:複数性

大屋 それがひとつめです。もうひとつは複数性ですね。つまりロックインだけが必ずしも原因ではないけれども、デファクト・モノポリーが成立してしまえば逃げ出しようがない。シェアで大きな見劣りをしない複数の事業者が同一セクターで競い合っていることが重要になる。たとえば経済法で注目されている情報市場です。

古典的な独占は、商品販売の問題だと想定されてきました。独占が生じると商品価格が上昇する。ところが典型的なネットワークビジネスは無料なんですよ。Gmailにロックインする動きが生じたとしても、上昇する価格がない。価格がないからそのロックインは問題がないのかというと、全然そうではなくて移動可能性がなくなってしまう。多元性が収束する問題が発生しうる。なので、多元的であることを保障するなにかが必要になってきて、その典型的な主体として想定されるのが国家です。

典型的には最近話題のGDPR(EU一般データ保護規則)におけるデータポータビリティへの権利ですね。ある事業者、たとえばGmailからデータを引き出して、他のサービスに移動できるようにする。そういうことを国家が義務づけないと、移動可能性は進まないでしょう。

国家が独占禁止の主体となるためのハードル:覇権主義とデジタル・レーニン主義

大屋 もうひとつは、情報市場における独占禁止を国家的主体がやらないといけない。ところがここにも問題が2つある。世界的にはGAFA(ガーファ)――、グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップルという情報巨大企業に言うことを聞かせるだけの実力のある国家(群)はどれだけあるのかと聞かれると、下手すると3つしかないかもしれない。中国もあるか。アメリカと日本とEUと、中国。あと、ロシアぐらいはなにかできそうだけれども、ラオスやカンボジア、あるいはASEANがそれだけの圧力を行使できるかと言われると、よくわからない。GDPRが怖いのはEUだからであって、EU市場から離脱することはさすがのガーファもできないので、その規制に従わざるをえない。けれども、必ずしもそこで勝負を挑めない国家が出てくる。

さきほどのデータポータビリティも、EU規制の域外適用可能性によって多元性を担保する、みたいな話です。つまり、世界的に影響力のある規範を形成し、強制するような機能をもった国家と、その恩恵でかろうじてある種の実効性を担保できる国家に分裂するかもしれないし、日本もそこで生じる圧力から自由なわけではない。

別の言い方をすると、新たな覇権主義国家体制です。EUに覇権主義があるかどうか知りませんが、結果的には統治する能力をもった帝国的存在の陰で、ほかの小さな国家がなんとか生きていくということになってしまうのかもしれないですね。

2つめは、EUはGAFAのような事業者と対抗する立場をとっていますが、そこで大きな問題として登場するのが中国です。そういった情報事業者をいわば権力の代理人として統合し、一元的に支配しようとしている。最近、デジタル・レーニン主義という言葉が出てきました。一元的に統合された支配の一環としてナッジやアーキテクチャが使われる、と。ここでは多元性も離脱可能性もなくなってしまう。

したがって、中間団体による利用と国家による利用のあいだには大きな差があって、そこで国家のナッジを非常に簡単に、気軽に活用しようとするサンスティーンの姿勢は気になるところです。

サンスティーンなら「われわれはアメリカ、民主制国家であって、むしろプライベートセクターを押さえ込むために政府の効率性を確立しなければならないのだ。だから必要なのだ」と言うかもしれないし、そんな気もします。けれど、民主制国家でもそんなに国家の手がきれいだと前提にしていいのかな、というのはちょっと気にかかります。

一周まわって人民の選択、大丈夫?

那須 民主制という話が出ましたが、『談』(No.111、2018年、たばこ総合研究センター)のインタビューで、大屋さんが最終的にはナッジの主体をチェックする人民の働きが必要になってくるんだと、民主政の役割を強調されるくだりを読んで、ちょっとのけぞりました(笑)。

大屋 ふふふ。

那須 大屋さんには、どちらかというとサンスティーンのような行政官の視点にちかい人だという印象が強かったんです。サンスティーンは共和主義者として登場したはずなんですが、そこからどんどん後退していって、最近の『賢い組織は「みんな」で決める』(2016年、NTT出版)は行政機関内部の熟議の話に絞って、立法過程には関心がないようでした。

ただ、民主政の可能性を強調する場合、リバタリアン・パターナリズムやアーキテクチャ論は、「人民には合理的な選択能力が欠けている」というところから話がスタートしたはずではないか、ここで舵取りを人民に投げ返すことにどのくらい説得力があるのか、という疑問が出てきませんか。「もういちど民主政の役割を見直しましょう」というのは、聞こえはいいですが、いままでの文脈と齟齬をきたしかねない。そこはどうお考えですか?

大屋 『法解釈の言語哲学』のころから、私は反基礎付け主義なんです。で、基礎はないんだから、結局人民の行為しかない。自然法を信じていれば、「最後はそれが勝つ」でいいんだけど、そうではないから結局われわれの手で秩序はつくるしかない。その意味では、「最後は人民しかいない」というのも、私のなかでは不整合ではないと思っている。最初から私はそれしか言っていないんです。

他方で「自由と幸福の19世紀システム」といって、「それが一致するところからスタートしたんだけどダメだったんだよね」みたいな話をしているわけですよね。にもかかわらず、そこに投げるのは整合性があるかというご指摘なのだと思います。

そこについては、たぶん2つのことを言わないといけない。ひとつめはさっきの理論的な問題としても、また現実的にも、たどり着く先はそこにしかない。最後は人民の自己決定にしか正統性がないんだから。そこに戻すしかないんだ、と。

2つめは、だからこそ、人民の決定がうまく行われるような組織化が必要ではあるのだ、と。重要なのは、「I、私」の自己決定可能性や自律性は相当に疑わしいとしても、「We」はもうちょっとちがうはず。ばらばらの「I、私」の決定なり、行動なり評価なりが、なんらかのかたちで社会的に組織化されることによって「We」が出てくる。そのもっとも典型的な形態は市場です。その市場で個々の消費者が選択することの集合的な決定として、なにかが滅びたり栄えたりする。この市場原理というのが、組織化の重要なメカニズムの一つです。

だけれども、市場と違ってわれわれが政治で追求している目的は効率性の改善や利得の増大だけではなくて、分配の公平性とか基本的人権の保障とか、それとはだいぶちがったものが入っている。だから当然のことだけど、市場原理だけでは適切な結果が選べないわけで、それとはちがった組織化の方法が必要になってくる。典型的に言えば選挙というのは一人一票というきわめて特殊な分配をしたトークンを使って集合的決定をつくっていきましょうという発想で、そこに市場とは異なる理念や目的が隠れているはずだよねと。

「ほんとに関連性があって、ナッジの問題を扱ったのか」と問い詰められると困るんですが、私自身は選挙制度や議会制についても話をしている。これらが「私」と「われわれ」をつなぐ組織化のメカニズムだからです。ここをうまくコーディネートしてやることによって、「We」は十分に力強く決定をすることができるかもしれない。

もちろん、そのときなにが媒介として必要かということは課題です。それなりにここががんばってくれないと困るんだよね、と、現実と規範との両方にかけて言っているんですが。

たとえば政党です。ばらばらの個人をひとつの政治的な意思決定と結びつけていく。集約していくし、結合していく。「おれの所属しているあの組織が決めたんだからしょうがねえな」というレジティマシー(正統性)をつくりだす機構としての政治をうまく動かすためには、政党で組織化される必要がある。なので、地方議会の選挙制度における政党の役割がもっとアクティブになるように、選挙制度のほうをかえてみたらなんとかならんか、というようなことを言ってみているという結合関係はあるのです。

フォアキャストからバックキャストへ

那須 市場と政治という対比での「We」の成立――。難しい問題ですが、反映型の民主制と熟議型の民主制に、ぼくは簡単に優劣をつけられないと思うんですよね。最終的にはビッグデータを通じて「We」をとらえることもできる。これは市場との類比だけれど、統計の中から「We」の姿がたちあがってくる。

その一方で、はっきりと自覚的で選択的な行動としての政治参加を通じて、集団としての選択を自覚的に下す主体としての「We」が存在しなければいけない。この「We」を生み出すにはたぶん熟議が不可欠です。政党や選挙システムはそのための仕組みで、「やっぱりこれが私の社会だ」というコミットメントが生じる仕組みがなければならない。

この2つの関係ですね。住民投票と議会決定のどちらを優先するかという問題よりも、こっちの方が重大でしょう。この2つの民主制の関係、そのプロセスをどう考えていったらいいのか。現時点のお考えを聞かせてもらえますか。

大屋 理論的にはよくわからないところがあるんですけど、実感としてががっと言うと、両側面のバランスをいかにとるかの問題だと思うんですよ。

典型的にはデータベース政治です。たとえば、東浩紀さんの『一般意志2.0』(2011年、講談社)ですが、あの方法論はフォアキャスト(forecast)ですよね。「これまでの現状を踏まえて先を読むととこうなります」という話で、そして「集合的無意識にすべてを投げてしまえ」。こういう議論に有効性があるのはわかります。けれども、創発性はない。われわれは、それまで知らなかった何かを、ある日、素敵だと思うことがあります。セレンディピティと呼ぶわけですが、それまでの社会に存在しなかったものに対する需要はゼロだったけれども、新製品がでてみたら爆発的に売れるということがありうる。そういったものがとらえられないという決定的な問題が、データベース政治にはある。

他方に、アントレプレナーの仕事があります。「みんな気づいていないけど、これが社会が求めるものなんだ」というのを出してくる。商品の場合はそれを市場の選択にさらし、たいがいは外れなんですが1割か2割のあたりが生き残る構造になっている。

ところで規範起業家、ノーム・アントレプレナーという言葉があります。「みんな気づいてないけど、これが社会に求められる価値だ」ということを提唱する人がやはりいる。そういうゴールの側から逆算して、「なので、われわれはいまこれをしなければいけないのだ」という社会的意思決定を行っていくのがバックキャスト(backcast)のやり方で、これが創発性をとらえるためには非常に重要です。

ただし、往々にして「それが理想だけど、たどり着く道がないです」ということが発生します。要するにパスが見つからない。ですから、フォアキャストとバックキャストがうまく組み合わさったところに、民主的な意思決定が、特にわれわれ人間をパーツとして組み込む社会的な意思決定が行われる可能性が開けるのだと思います。

今後、フォアキャストがものすごく強化されることは目に見えているんです。データベース政治であり、ビッグデータであり、AIである。だからこそそれに対抗するバックキャストの能力を意識的に強化しなければ、われわれは既存の枠組みの流れ着く先に押し流されていって終わる。だからバックキャストによるコントロール可能性を強化しなければいけないというのが、いまのところ雑ぱくに考えていることです。

那須 たいへんおもしろいです。サンスティーンあるいはリバタリアン・パターナリズムの理論が、今後の日本社会でどんな役割を果たしうるか、果たす必要があるかをおうかがいしたかったのですが、これはまさにそのひとつですね。かつてサンスティーンには『民主制の再デザイン』(Designing Democracy, 2001)という本もありましたし。ぜひその先のお話をうかがいたいです。

統治エリートのサンスティーン

那須 大屋さんはご自身をノーム・アントレプレナーだと考えておられないかもしれませんが(笑)、しかし具体的な提案も積極的にされている。サンスティーンはむしろそのためのサブテキストだったのかなとも感じました。

大屋 どうなんでしょうね。サンスティーンには明確な危機があると言いましたが、私も日本社会の明確な危機は見えていると思っているし、実務家としてはそういう仕事を延々と、それこそサンスティーンのようにやっています。あんな偉くないですけど(笑)。

ただ、サンスティーンは統治エリートの顔が強すぎるんですね。レッシグは逆で、実効性を考えているかどうかよくわからない(笑)。言い方が悪いけれど、あの二人には、統治の憲法学と抵抗の憲法学みたいな気配が漂う。「いや、バランスとらないとまずいんだよね」というのが、私の考え方です。一方でGAFAの暴走を懸念しないといけないのは事実だけれど、彼らが提供している巨大な利便性もある。それを敵視してもしょうがない。で、GAFAを押さえ込むためには国家も強化しないといけない。国家だけ強化すればいいかっていうと、それではデジタル・レーニン主義にいく。

レッシグとサンスティーンの相互関係みたいに、誰かが片方をやってくれればいいんですけど、「とりあえず全部自分でがんばってやります」みたいな感じで、あちこちでいろんなことを言っている、というのが自己認識ですかね(笑)。

那須 最新刊の『裁判の原点』(2018年、河出ブックス)でも、一方が突出しすぎているから、ともう一方から引っ張っておられる。一人でかわりばんこにやってらして大変だなぁと。

大屋 一貫してへそ曲がりという特徴がある。

那須 嫌われ役をやっていただいていて(笑)。

大屋 はっはっはっは。

那須 そういうところで仕事をしてくださってありがたいです。いつお話をうかがってもクリアで質問する余地もないんですが、たいへん啓発的なお話をありがとうございました。

[2018年7月27日、慶應義塾大学にて]

【対話の〆に by 那須耕介】日本の法哲学・政治理論の世界にアーキテクチャやナッジの議論を紹介した先導者の一人ですから、連載の口切りは大屋さんでないと。今回もグローバルな統治をめぐる問題提起など、明晰かつ刺激的なお話をいただきました。特に後半部分はご注目。従来のナッジ論、アーキテクチャ論はどこで民主制の再設計というもう一つの課題に結びつくのか、新たな戦場がせり上がってくるようでなかなかスリリングでした。今後の展開が楽しみですね。

――次回は、那須耕介さんが学習院大学の若松良樹さんと語り合います。どうぞお楽しみに。

プロフィール

那須耕介法哲学

1967年生まれ。京都大学教授。法哲学。著書に『多様性に立つ憲法へ』(2014年、編集グループSURE)、『現代法の変容』(共著、2013年、有斐閣)、共訳書に『メタフィジカル・クラブ』(ルイ・メナンド著、2011年、みすず書房)、『熟議が壊れるとき』(キャス・サンスティーン著、2012年、勁草書房)ほか。

この執筆者の記事

大屋雄裕法哲学

1974年生まれ。慶應義塾大学法学部教授。法哲学。著書に『法解釈の言語哲学』(勁草書房)、『自由とは何か』(ちくま新書)、『自由か、さもなくば幸福か』(筑摩選書)、『裁判の原点』(河出ブックス)、共著に『法哲学と法哲学の対話』(有斐閣)など。

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