2014.11.07
ニセモノの父、ホンモノの父――悪魔のしるし「わが父、ジャコメッティ」劇評
ジャコメッティのアトリエに通いつめた矢内原伊作
小劇場演劇で「父」という存在は目立たない。もちろん登場人物として出てくることがないわけではないが、日本の家庭での「父」を反映してか、存在感が薄い。そもそも小劇場は、父親のことなど敬遠したい年頃の若者が中心の文化。「父」の居所はあまりないのである。
そんなわけで、「悪魔のしるし」(というのが団体名である)の「わが父、ジャコメッティ」には大いに期待した。タイトルにまで「父」とうたい、いわば主題として宣言しているわけだ。本当に珍しい。小劇場演劇の中における家族像を探ろうとしている私としては、どうしても見にいかなければなるまい。芝居を見に行く動機としては多少変わっていると自分でも思うが、構うものか。そして実際、これは作品としても面白かったし、「父」のことについても考え抜かれた公演だった。
「悪魔のしるし」は危口(本名は木口)統之が主宰する団体で、演劇にとどまらずパフォーマンス、建築、美術などにまたがる活動を続けているとのこと。今回の「わが父、ジャコメッティ」は危口が実の父親を舞台に上げた作品だ。そこにジャコメッティが絡む。
アルベルト・ジャコメッティ(1901‐1966)はスイス出身の彫刻家・画家で主にパリで活動した。細長い人物像は有名なので、写真等でご覧になったことのある方も多いだろう。「わが父、ジャコメッティ」は矢内原伊作著『ジャコメッティ』『完本 ジャコメッティ手帖Ⅰ,Ⅱ』(みすず書房)を「原案」としてクレジットしている。矢内原(1918‐1989)は哲学者・評論家で、1950年代に哲学研究のため渡仏したが、あまり机に向かうことはなく、ジャコメッティのアトリエに通いつめ、モデルを務めつつ、あらゆる話題について意見を交わした。その時期の膨大な記録に基づいて書かれた上記の著書は、世界的にジャコメッティ研究の基本資料と見なされている。
開演間近に客席に座って舞台を見ると、危口の父の木口敬三(以下、敬三)らしき年配の男性が奥に置かれたピアノのそばの椅子に座り、2人の女性(1人は若く、1人は年配)と話をしている。内容は忘れたが、何か芸術に関することだった。舞台はいろいろなものが置かれ、雑然としている。中央にはカンバスが立てられ、下手と正面奥に大きなスクリーン。右奥にソファーベッドのようなもの。上手手前にマイクがあり、危口がここで上記の本を読むなどする。あちこちに油彩画が置かれ、ピアノの手前にほぼリアルタイムの時計の文字盤が見えるのが印象的だった。全体としては芸術に関わる人の暮らしぶりを彷彿とさせるセットである。
舞台に置かれているのは大部分、危口の実家から持ち込んだものだという。事実、敬三は武蔵野美大卒業後、パリ留学の経歴もある画家である。作品の中で危口が言うことによれば、敬三はふだん絵画教室などで教えながら2年に1度、地元の倉敷で個展を開いている。個展ではほとんどの作品が売れ、そのたびに家の電化製品などが新しくなった。「立派なものだと思う。ぼくは父の絵は好きです」(記憶に頼っているので、正確ではない。以下、本稿に引用されるセリフは全て同様)と危口は言うのだが、地方レベルにせよ、十分な成功を収めた芸術家であるわけだ。
この作品はそんな父を舞台に上げつつ、ジャコメッティと矢内原の関係を自分たちに重ねていく。敬三と危口はパフォーマンスのうち半分ほどは、紙で作ったジャコメッティ風の仮面をかぶっている。そのまま敬三が危口を座らせて絵を描いたりなどする。
現実の父(画家)を舞台に上げた息子(演出家)
矢内原の著作に登場するジャコメッティは、分かりやすい言い方をすれば「芸術の鬼」のような人である。朝から晩まで製作に没頭するが、自分の作品に満足できず、いつまでたっても完成することがなかった。「完成のためには断念が必要なのに、断念せずに完成させることが可能だと信じていたのが、ジャコメッティの変なところです」と危口は言い、「マティエールのせいで続けられない」というジャコメッティの言葉を紹介する。
マティエールというのは絵具など画材の物質性のことだそうだ。危口は「絵画というのは絵具というモノによってイメージを表現するわけですが、モノであるがゆえに思うようにいかないこともあります」といった趣旨の解説を加える。『完本 ジャコメッティ手帖』を読むと、ジャコメッティは製作に行き詰っては「マティエールのせいで何もすることができない」「マティエールのせいで筆がうまく動かない」などとマティエールのせいにしている。「マティエールの困難さとは、あまりにも狭い部分が多いのと、太すぎる筆のためだ」(上記書の引用は、表記を分かりやすく改めた。以下同)などと言っており、要は「絵具が自分の思うように動いてくれない」ということだ。
ジャコメッティ=父、矢内原=息子というのがこの作品の枠組みだが、ジャコメッティが矢内原にとって父的存在であったことは確かだ。私がそう思う最大の理由は、作品内で紹介される、矢内原がジャコメッティの妻アネットと不倫関係にあったという事実である(「わが父、ジャコメッティ」の3人目の出演者が、このアネットを演じる大谷ひかるであり、冒頭敬三と話していた若い女性である)。矢内原がジャコメッティに深く心酔していたことは、膨大な記録そのものが物語っている。それなのにジャコメッティの妻に手を出すのは矛盾のように思えるが、そうではない。むしろ、ジャコメッティに対する同一化願望の現れだったのだろう(「わが父、ジャコメッティ」の中では明かされないが、上記書によると、アネットと矢内原の関係はジャコメッティ公認のものであり、それどころかそもそもジャコメッティが「自分は不能者だ。アネットが困るなら、誰かいい青年とアネットを共有してもいい」などと2人のいる前で口にして、明らかにそそのかしている)。
母との関係が、母の身体から生まれるという、生物としての根本的かつ具体的な事実に基づいているのに対し、「父」との関係ははるかにあいまいである。今でこそDNA鑑定が可能になり、100%に近い確実さで生物学上の父を確定できるようになったが(それはある意味、「父」の「母」化でもあるが)、そうでもなければ確定はできない。事実、伝統的な生活を続ける部族の中には、性交と妊娠の関係を知らず、「父」という概念がない、ないしは薄い部族もあるという。
要するに「父」とは「母」よりもはるかに人工的で抽象的な存在だ。社会によってはなくてもいい程度のものでしかない。極端に言えば、私たちは誰が自分の「父」なのか、自分で決めても全く構わないだろう。自分にモデルを与えてくれる人が「父」である。矢内原伊作はそもそも実父が矢内原忠雄(東大総長を務めた経済学者で、戦前から戦後にかけ、学問の自由を守ろうとした信念の人として歴史にその名を遺している)という、偉大すぎるほど偉大な存在なのだが、それとは別に、ジャコメッティにも「父」を見ていたのだ。ジャコメッティの妻に手を出したくなるほど、彼と同一化したかった。そしてそれは、西洋の文化・芸術に対する憧れと表裏一体の感情だったに違いない。
二つの「父」の落差の中にある日本の「芸術」
危口の父・敬三もパリに留学し、地元で尊敬される画家である。だが、はっきり言えば、芸術家として大成したわけではない。父のパリ日記の一節を読みながら危口は言う。「芸術家としての木口敬三はもっと大成する可能性があったのかもしれません。家族を持つことがなければ、ひょっとして」。敬三はジャコメッティのようにどこまでも芸術を追求していくことはできなかった。その断念が、自分を存在させているのではないか、という危口の認識は苦い。
なぜなら、危口自身がアーティストだからだ。芸術家としての危口にとって、どこまでも芸術を追求したジャコメッティの姿勢は貴い。その意味で、真に「父」とすべきはジャコメッティかもしれない。しかし現実の父は、大成しなかった不徹底な芸術家・敬三であり、自分はいわば、敬三の不徹底さが生んだ存在なのである。
敬三は、いわば「マティエール」のような存在だ。イデアとしての「父」がジャコメッティだったとしても、危口を形作った「マティエール」としての父・敬三は確固として存在して、アーティスト危口が現実離れした夢に飛翔することを妨げるのである。危口が「父の絵は好きです」と言うとき、そこにあるのは、父の芸術家としての断念を、共に生きてきた歴史でくるんだ羽二重もちのような感情である。それを「家族愛」というのだと私は思う。
イデアとしての「父」ジャコメッティと「マティエール」としての父・敬三。その落差の中にあるのが、欧米から学ぶことで近代化を成し遂げてきた日本の歴史であり、その中で自ずと形作られた、西洋と日本との「師弟関係」である。
それを象徴する場面がある。危口は「ジャコメッティは偉大な芸術家で、祖国スイスの100スイスフランに肖像が印刷されているほどです」と言って、100スイスフランを取り出す。「これは日本円では1万円に相当します。1万円の肖像画は福沢諭吉。『脱亜入欧』を唱え、西洋の芸術は素晴らしいと言いました。これにより、日本の芸術は西洋をお手本にすることになりました」。そうして危口は100スイスフラン札を敬三の顔に貼り付ける。敬三はお札のジャコメッティの顔を仮面のようにかぶって舞台の上を歩く。
この場面は、日本の芸術の、近代化のための「制度」としての側面を危口が明確に認識していることを示す。この制度による限り、ホンモノの文化・芸術は常に西洋にあり、日本人の芸術家は「本場」に留学することで箔をつけ、それによって日本でも芸術家として社会的認知を得ることになる。敬三もその制度に乗ってパリに留学し、芸術家として生きることができている。芸術家ではなかった矢内原も、パリを中心とした西洋の芸術に惹かれ、それを体現する本物の芸術家ジャコメッティとの思い出を終生大切にした。これにより本場の芸術家の創造の場を知る評論家としての自負を持ち、また他からも認められて生きていくことができたのである。
生粋の西洋人であるジャコメッティにとって芸術とは自明のものだった。だから彼は、自分の信じる芸術を、疑問一つ持たず追い求めていくことができた。敬三もまた、彼なりに真剣に芸術を追求したのだろう。だが日本人である彼にとって芸術は、近代化のために西洋から導入された制度であり、社会的認知を得て生活を成り立たせていく、国家公認の手段でもあったのだ。敬三はその二重性を生きてきた。それは確かに欺瞞だが、日本社会が今も大々的に維持している欺瞞であり、それをいちいち批判していたら生活の邪魔にしかなりはしない。
ただ、そうである以上、日本で芸術(だけではないが)の道を歩む人たちは、イデアの「父」を常に西洋に見出さざるを得ず、現実の「父」とのギャップに悩まされることになる。「わが父、ジャコメッティ」というタイトルは、日本で生きることに必然的に伴うそんな困難を吐露したものとも思えるのだ。
最後に少しだけ「母」の話をする。前回劇団サンプルの「ファーム」を取り上げた評で私は、男性作家による小劇場演劇の作品で、家族を扱ったものはほとんど全て、仮に見えないとしても、母が中心にいる、という趣旨のことを書いた。それでは、今回の「わが父、ジャコメッティ」では母はどこにいたのか。
公演が終わって、出演者3人が客席に向かって並んだ時、舞台の奥の、3人の真後ろに当たるところに1人の年配の女性が立って、3人と同じタイミングでぺこりと頭を下げた。開演の前に敬三と話をしていた女性である。危口が彼女に気づき、舞台手前へと連れてきたが、もう1回頭を下げると、恥ずかしげに引っ込んでしまった。名乗ることも紹介されることもなかったこの女性が危口の母であることは明らかだろう。画龍点睛とでも言ったらいいのだろうか、「見えない中心」がちらっと姿を見せたこの瞬間に、「わが父、ジャコメッティ」という作品は完成した。優れた作品は自ずと、全てつじつまが合うようになっているのである。
(2014年10月19日、京都芸術センターにて観劇)
◆上演記録
わが父、ジャコメッティ
2014年10月11日〜13日 横浜公演@KAAT神奈川芸術劇場 中スタジオ 主催:悪魔のしるし×KAAT神奈川芸術劇場
2014年10月16日〜19日 京都公演@京都芸術センター 講堂 主催:Kyoto Experiment
2014年11月4、6、11日 スイスツアー 主催:CULTURESCAPES
プロフィール
水牛健太郎
1967年12月静岡県清水市(現静岡市)生まれ。高校卒業まで福井県で育つ。東京大学法学部卒業後、新聞社勤務、米国留学(経済学修士号取得)を経て、2005 年、村上春樹論が第48回群像新人文学賞評論部門優秀作となり、文芸評論家としてデビュー。演劇評論は2007年から。小劇場レビューマガジン ワンダーランド スタッフ。http://www.wonderlands.jp/ 2014年10月より慶應義塾大学文学部講師。