2022.12.05

将来世代にツケは回せるか――防衛費の「倍増」について考える

中里透 マクロ経済学・財政運営

経済

世の中には一見もっともらしく見えるが、よく考えると不思議な議論というものがしばしばある。「マイナス金利政策が導入されると、銀行は日銀に積んであるお金を引き出して貸出に回す」というのがその典型例だ。

※上記の「通説」のどこがおかしいのか、マイナス金利での取引が実際はどのようにして広がっていくのか、ということについては下記の記事をご参照ください
信用乗数論は信用できるか――マイナス金利について考える
https://synodos.jp/opinion/economy/24113/

財政をめぐる議論にしばしば登場する「将来世代にツケを回すな」というフレーズも、これとよく似たところがある。もちろん、子や孫に借金を残すようなことをしないというのは「個人としては」大事な心掛けだが、社会全体で考えたときに、「将来世代にツケを回す」ことがはたして実行可能なのかということは、ひとまず立ち止まって冷静に考えてみるほうがよいだろう。いくら真面目に議論をしても、その内容が「あさっての方向」になっているとなれば、そのような議論に時間を費やすことの費用対効果は著しく低いということになってしまうからだ。

そこで、以下では「将来世代にツケを回す」ということが実行可能なのか、もし可能だとしたらそれはどのような形で実現することになるのかを具体的に考え、それを踏まえて防衛費の「倍増」をめぐる議論について論点整理を試みることとしたい。

防衛費の「倍増」をめぐっては、いつの間にか議論が「税か国債か」という二択の問題になる傾向がみられたが、これはいったいなぜなのだろう(よく考えると不思議なことだ。なお、最近は「埋蔵金」探しも進められている)。防衛費の「倍増」は、いつの間にか「防衛力の強化に資する各省庁の予算を増やすこと」に転化しつつあるようだが、これは東日本大震災の復興予算において被災地以外の事業への「流用」が行われるようになるまでの経過を想起させる(防衛費でもまた同じことが繰り返されるおそれはないのだろうか)。

以下ではこれらの点について順をおって考えていくこととしたい。

1.将来世代にツケは回せるか

道徳律と素朴な公債観

一般に財政運営をめぐる議論では、税による資金調達と公債(国債)発行による資金調達は明確に区分される。増税が正道で公債発行は邪道とされることも少なくない(課税平準化の理論はしばしば無視される)。有識者から「支出を増やすなら財源の確保を」という提案がなされるときに「財源」とされるのは税のことであり、国債は「財源」とはならないようだ。このような提案をする人が住宅ローンを組んで家を買っていたりもするから、世の中は複雑で面白いが、ここではそのことは忘れることにしよう。

現在発行されている赤字国債(特例公債)は「財政運営に必要な財源の確保を図るための公債の発行の特例に関する法律(平成24年法律第101号)」を根拠法として発行されているものであり、そうなると「国債は財源ではない」という扱いはどうしたものかというところもなくはないが、この法律の存在も「不都合な真実」としてひとまず無視することとする。

ある家庭を考えた場合には、親が多額の借金を残して死んだら子や孫はその返済のために塗炭の苦しみを味わうことになるから、「子や孫にツケを回さない」というのは自らの行動を律するうえでの大事な心掛けということになる。財政に関して有識者から「将来世代にツケを回さない」という発言がなされる場合も、同じ発想のもとで「道徳的説得」がなされているのだろう。「将来世代にツケを回さない」は、日常生活を安定的に営んでいくうえでの個々人の心掛けともよく合うから、道徳律としてはとても親しみやすいものだ。

「貸し手(資金の出し手)は誰か」を考えよう

だが、ここで考えなくてはならないのは、国(政府)が国債発行という形でお金を借りるときに、そのお金を貸すのは誰なのかということだ。日本国債は円建ての内国債として発行されており、その9割以上が日本国内の居住者によって保有されているから、政府にお金を貸している主体の大半は日本の個人や企業ということになる(そのほとんどは金融機関を通じて保有されているため、個人や企業は預貯金などを通じて間接的に国債を保有していることになる)。

そうなると、国債という「国の借金」(納税者が負担すべき債務)は、日本国内に居住する個人や企業の資産でもあるということになり、納税者が償還財源を負担すべき債務として国債が将来世代に引き継がれる場合には、個人や企業が保有する金融資産としても国債が将来世代に引き継がれることになる。「将来世代にツケを回さない」は、このうち前者のみに着目するものだから、そこには重大な見落としがあるということになる。

このように書くと、不自然な論理展開に乗せられて騙されているように感じられるかもしれないが、次のことを想起すれば、これはおかしな話ではないということがすぐにわかる。償還までの期間の長い国債(たとえば40年債)での資金調達を考えると、償還財源の確保のために税負担をするのは子や孫の代というイメージになるから、あたかも子や孫(将来世代)からお金を借りてくるような錯覚に陥るが、1年債であるか40年債であるかにかかわらず、国債を発行するときに政府にお金を貸す(国債を買う)のは、いまの大人(現存世代)である。

もしタイムマシンが発明されていれば、100年後にタイムスリップして将来世代からお金を借りてくることもできるが、残念ながら現時点ではタイムマシンは発明されていないから、そうなるとお金の貸し借りは、いま世の中にいる大人どうしで行うしかない(タイムマシンが発明されていれば、1990年の日本にタイムスリップして不動産融資の総量規制の発動を止めることもできるから、そうなるとそもそも国債残高は積みあがらずに済むかもしれない)。

この意味において、「将来世代にツケを回す」は「おととい来やがれ」と同じように実行不可能な「無理ゲー」ということになる。

「望ましくない再分配」は生じるか

このように、国債発行による資金調達が世代間の貸し借りではなく同一世代内の資金の移転(あるいはそれに伴う経済資源の移転)であるというのは、アバ・ラーナーの機能的財政論に由来する伝統的な見方であるが、そのことを認めた場合にも、将来世代の間で望ましくない再分配が生じるのではないかという見解がある。次にこの点について考えてみることとしよう。

この議論は将来世代を「国債を保有している人(国債保有層)」とそれ以外に分け、国債の償還と償還財源確保のための課税を通じて世代内で不公平が生じると指摘するものだ。課税によって償還財源が確保され、満期を迎えた国債の償還が行われると、国債を保有している人は償還によって現金を受け取ることができるが、国債を保有していない人は償還に必要な税負担のみを負うことになるから、両者の間に不公平が生じるというのがこの議論のポイントである。

この話も一見するともっともらしいが、よく考えるととても不思議な話だ。国債の償還があると、国債を保有している人は償還によって現金を受け取ることができるが(ここまでは正しい)、これはその人の資産の中で国債が現金(実際は現預金)に振り替わるだけで、別にその人の経済力が高まるわけではない。国債が現預金に置き換われば流動性は増すが、流動性そのものは償還前に国債を売却することによっても確保できる。

国債を保有していない人はたしかに税負担を求められることになるが(ここまでは正しい)、国債を保有している人も同様に税負担を求められることになるから、この面においても特に不公平は生じない。

もちろん、両者の間に経済力の差がある場合、税負担の配分が適切になされないと、国債を保有していない人に過重な負担が生じるおそれがあるが、どのように税負担を求めれば公平性が確保されるのかということは所得税制そのものの制度設計の問題であって、国債の償還をめぐる議論との直接的な関係はない(国債は預貯金や株式など他の資産とともに家計資産の一部を構成するものであり、ことさら国債のみに着目して負担の公平を論じることはできないことに留意)。

さらに現実に即して考えると、日本において家計が直接的に保有する国債の割合は発行残高の1%程度であり、9割は金融機関(日銀を含む)と機関投資家によって保有されているから、満期の到来した国債について償還をする際の相手方はほとんどが金融機関ということになる。となると、「国債保有層への望ましくない再分配」というものがはたして実質的な意味をもつ概念なのかという点についても、慎重な再考が求められるということになるだろう。

「国債は財源ではない」と「税金は財源ではない」のあいだ

このような形で「将来世代にツケを回すな」という主張に対して否定的なことばかり書いていると、「税金は財源ではない」、「政府の負債は国民の資産」と主張する側に立って拡張的な財政運営をすべきという議論を展開したいのかと思われるかもしれない。

だが、ここで伝えたいのは、将来世代の負担を考えるうえでは財政支出の内容が適切なものになっているか(財政支出が非効率なものとなっていないか)ということが大事なのであって、その支出を税と国債のいずれで賄うかというのは二次的な話に過ぎないということだ。というのは、財政支出の追加分を税と国債のいずれで賄ったとしても、その時点で民間部門から公的部門に資源を移転させることに変わりはなく、そのようにして賄われた財政支出が非効率なものであれば、税で財源を確保したとしても「将来世代にツケが回る」ことになるからだ。

このことは、政府が全国津々浦々に巨大なイカのモニュメントを整備するという計画を立てて、その財源を税で賄うことにしたらどのようなことが起きるかを考えるとわかりやすい。この場合、「国債は財源ではない」(新たな支出の財源確保は必ず増税で)という基準はきちんと満たされているが、だからといってこの財政支出に問題がないということにはならないだろう。

この点を踏まえると、「将来世代にツケを回さない」ということを望むのであれば、素朴な公債観を振り回して陳腐な道徳のような話を展開するのではなく、財政支出が効率的なものとなっているかを冷静に検証するほうがよいということになる。この作業を疎かにして「税か国債か」という議論をしても、その議論そのものが時間の無駄遣いということになってしまうだろう。

なお、同じ規模の支出を税ではなく国債で賄った場合、将来の増税によって可処分所得の減少が生じることが適切に認識されないと家計の消費支出が過大になる(その分だけ貯蓄が過少になって資本の蓄積が過少になる)可能性があるが(このことは生産力の低下を通じて将来世代に負担をもたらすことに留意)、有識者から「将来世代にツケを回さない」という主張がなされる際にこのことが明確に意識されていることは少ないので、この点にはこれ以上立ち入らないことにしよう。

2.「お花畑」の財政理論

新聞の社説や有識者のコメントなどをながめていると、国債発行よりも増税で支出を賄うほうが、負担感が適切に認識されて予算が効率的に使われるようになるという見解をしばしばみかける。税を負担することでさまざまな問題を「自分ごと」と考えるようになり、政治に対する参加意識が高まって、行政の活動に対する規律付けが働くようになる、というのがその理由のようだ。

もしこの見方が妥当なものであれば、「税か国債か」を論じることには一定の意味があるということになるが、はたしてこの見解はどの程度妥当なものといえるのだろうか。

「日本がもし100人の村だったら」という想定の妥当性

住民どうしの顔の見える小規模な自治体であれば、銀行から借り入れを起こすより(地方債)、税金で支出を賄ったほうが、住民の監視の目が働いて非効率な財政支出を抑えることができるかもしれない。自分の住んでいる町や村の役場が無駄なお金の使い方をしていたら、そのツケはすぐに自分のところに回ってくる(コストが適切に認識される)からだ。

だが、自治体の規模が大きくなるにつれて、そのような効果は次第に薄れていく。人口が1億人の村ともなれば、そのような効果はさらに働きにくくなるだろう。行政の活動をモニタリングするためのコストは村の規模が大きくなるにつれて嵩むようになるが、非効率を指摘して行政コストを下げることで自らが得られるメリットは次第に小さくなっていくからだ。

小さな町や村であれば首長(町長・村長)に直接文句を言うこともできるかもしれないが、総理大臣や各省大臣に直接声を届けることはほとんど不可能だから、この点でもガバナンスは効きにくい(しかも、行政の各部局の指揮監督において首長が発揮し得る影響力に比べると、総理大臣や各省大臣はいたって非力である)。

「お花畑」の財政理論

公務員は全体の奉仕者だから(日本国憲法第15条第2項、国家公務員法第96条)、行政が国民全体の利益を考えて行動してくれるということがあるとよいが、実際にはそのようなこともなかなか期待しにくい。税を徴収する場(税務署)と各種の事務事業を企画立案する場(各省各局各課)は遠く離れているから、国民の「痛税感」を意識して事業の企画を立てたり、予算要求をしたり、といったことも想定しにくい(東日本大震災の復興予算においてどのようなことが起きたか、具体的に後述する)。

行政監視の活動を職業として専門的に担うのが政治家の役割のはずだが、政治家にとって最も大事な仕事のひとつは次の選挙で当選することだから、このチャネルを通じた規律付けも働きにくい。地元の要望を各省の担当部局に伝え、より少ない地元負担で実施できるようにするのがよい政治家となれば、なおさらだ。

これらのことを踏まえると、「国債発行よりも増税で支出を賄うほうが、負担感が適切に認識されて予算が効率的に使われるようになる」というのは、残念ながら現実的な相場観のない「お花畑」の財政理論ということになる。

税を負担する人(納税者)と事業を企画し実施する人(政治家・公務員)、その事業によって恩恵を受ける人(行政サービスの受益者)が乖離する場合にどのようなことが起きるのか、複雑に入り組んだ現実の行財政制度のもとで事務事業のモニタリングを適切に確保することができるのかといったことへの考察を欠いたまま、素朴な公債観に基づいて「将来世代にツケを回さない」ことを訴え、「自分ごと」の奨励を提案しても、そのコスパ(費用対効果)はあまり高くないだろう(「自分ごと」の推奨は善意によるものと思われるが、同じように「素朴」という訳語があてられる言葉でも、naiveとdown-to-earthの間には相当の距離がある)。

3.この道はいつか来た道 

来年度予算の編成に向けて、このところ防衛費の「倍増」をめぐる議論が盛り上がりをみせている。この動きは5月の日米首脳会談において岸田総理が防衛費の「相当な増額」を表明したことや、同月の安倍派(清和政策研究会)の会合において安倍元総理が「7兆円を視野に増額を」と発言したことなどを起点とするものだ。

防衛力を強化することの是非や、防衛費の増額の規模感についてはこの分野の専門家による精査が必要となるが(内閣官房に設置された有識者会議については、「安全保障や軍事についての知見がある専門家の参加が不十分」との指摘が自民党内でみられる)、財源の確保の仕方や財源の使途の範囲については、あらかじめきちんと詰めておく必要がある。「負担を先送りしない」という趣旨で進められてきた「防衛増税」が「当面先送り」という結果となったのは、ネタとしては面白いが、あまり笑ってばかりはいられないだろう。

ここで留意が必要なのは、防衛費の「倍増」が、防衛省の予算だけでなく、他の省庁の防衛費関連の支出も含めて算定されることになっているということだ。たとえば、科学技術振興費や公共事業費の中で防衛力の強化に資するものがあれば、それは「総合防衛費」の枠において支出されることになる。この枠組みは、歳出全体が抑制基調で推移している間は防衛関連経費の増加を実質的に抑えるものとして機能することになるが、増税によって財源が確保され支出を拡大させる余地が生まれると、「防衛力の強化」にかこつけて本来の目的とは異なる支出が膨らむ原因となる。

このような目的外使用による予算の「流用」が生じることは杞憂ではなく、東日本大震災の復興予算において実際に生じた出来事だ。

東日本大震災の復興予算において起きたこと

東京スカイツリーの開業前イベント開催経費、山口県のゆるキャラのPR経費、鹿児島県の水田のタニシの駆除費、ウミガメの保護観察費、原子力機構の核融合エネルギー研究費、反捕鯨団体(シー・シェパード)対策費。これらはいずれも東日本大震災の復興予算において、適正な事業として実施されたものだ。

なぜこのようなことが起きたかというと、東日本大震災の「復興基本方針」において「活力ある日本の再生」ということが謳われ、被災地の復旧・復興とは関係ない事業が「その他の東日本大震災関係経費」(2兆4,631億円)という形で2011年度の第3次補正予算に盛り込まれたためだ。

東日本大震災からの復旧・復興については、震災の発生から1か月後に開催された東日本大震災復興構想会議において、五百旗頭真議長から早くも増税(震災復興税)の提案がなされた。同年6月に公表された同会議の提言には「復旧・復興のための財源については、次の世代に負担を先送りすることなく、今を生きる世代全体で連帯し、負担の分かち合いにより確保しなければならない」とあるが、そのようにして確保された財源の一部は上記のような形で被災地以外の事業に「流用」されたことになる(なお、法人については当初の予定よりも早く2014年に復興特別法人税の徴収が終了したが、個人については現在も復興特別所得税の賦課徴収を通じた定率増税が実施されている)。

このエピソードは「国債発行よりも増税で支出を賄うほうが、負担感が適切に認識されて予算が効率的に使われるようになる」という有識者の見解が「お花畑」の議論であることを示すよい例となっている。復興予算の「流用」の原因となった2011年度第3次補正予算案は、復興財源を確保するために所得税や法人税の税率を引き上げる(実務上は付加税を徴収する)ことを定めた復興増税法案とともに同時期に国会に提出されたが、それにもかかわらず、必要性や効率性に疑問符のつく事業を数多く含むものとなってしまったからだ。

防衛費の「流用」は起きないか

防衛費の「倍増」をめぐる議論のこれまでの展開をながめていると、その経過は東日本大震災の復興予算・復興増税と同じような展開をたどっているように見える。

内閣官房に設置された有識者会議(国力としての防衛力を総合的に考える有識者会議)の参加者からは、財源を増税で賄うべきとの発言が相次いだ。同会議の報告書には「防衛力の抜本的強化のための財源は、今を生きる世代全体で分かち合っていくべきである」との記述があるが、これは復興構想会議の提言にある「復旧・復興のための財源については、次の世代に負担を先送りすることなく、今を生きる世代全体で連帯し、負担の分かち合いにより確保しなければならない」とよく似ている。

こうしたもとで確保された財源は防衛力の強化に充てられることになっているが、「総合防衛費」には公共事業費や研究開発費も含まれる。これらの支出も「総合的な国力」を高め、防衛力の強化に資するものとされているからだ。防衛費をめぐるこのような整理の仕方は、「全国防災」や「活力ある日本の再生」という名のもとで、沖縄の道路整備費や原子力機構の核融合エネルギー研究費に復興予算が充てられた過去の経緯を想起させるものだ。

現時点においては、総合防衛費の創設は防衛費の「倍増」が歳出の大幅な増加をもたらさないようにするための工夫とされているが、防衛増税によって財源が確保されると、その分だけ財政に余力が生じたという認識が生まれ、復興予算と同じように「流用」が生じてしまうおそれがある。各省の事業の中で「防衛力の強化に資する」と説明のできる事業を総合防衛費のほうに回し、それによって浮いた分を別の使途に充てれば、防衛増税で確保された財源の実質的な「流用」が可能となるからだ。

「税か国債か」という不思議な二択問題

防衛費の「倍増」をめぐる議論をながめていて不思議に思うのは、財源の確保をめぐる議論が「税か国債か」という二択の問題になりがちなことだ。有識者の中には防衛費の増額に世論の支持があることをもって、増税による財源確保が妥当とする見解もみられるが、これは自分の主張にとって都合のよい部分だけを恣意的に抜き出した発言となっている。

これまでに行われた世論調査の結果などをながめると、防衛費の増額のための財源確保は既存の政策に充てられている予算の削減を通じて確保すべきとの意見が多い(10月に行われた日本経済新聞社の世論調査とロイター企業調査)。つまり、防衛費の財源確保は増税と国債発行と歳出改革の三択(あるいはこれら3つの組み合わせ)の問題として取り扱うべきものであり、もし仮に「世論の支持」を基準にするということであれば、既存の政策の見直しによって財源を確保することを基本とすべきという筋合いになる。

東日本大震災復興構想会議については、初回の会合で五百旗頭議長がいきなり震災復興税の話をしたことなどもあって、「復興増税会議になっているのではないか」との指摘もみられた。増税が実現するとあたかも財政に余裕ができたかのように考えて歳出を増やそうとする動きも強まるから、防衛増税についてはくれぐれも慎重な態度で臨むことが求められる。

この点については、復興増税の議論の際に片山善博総務大臣(当時)から、「どこかの国が攻めてきた時に、戦費調達のために増税を決めなければ一切応戦しないと言えば、みなさん笑うでしょ」という発言があったことも思い出される(「復興会議は最初からゼイゼイ」 片山総務相が苦言(2011年7月13日付朝日新聞))。「国債は財源ではない」ということで、日露戦争のときに当時の政府が借金による戦費の調達を忌み嫌い、高橋是清(当時は日本銀行副総裁)がロンドンに行ってポンド建ての外債による資金調達を行なっていなかったら、日本の歴史は変わっていたかもしれない。

ここまで、「将来世代にツケを回すな」という言葉の意味するところについて点検を行うとともに、防衛費の「倍増」をめぐる議論について論点整理を行ってきた。

毎年恒例のように数十兆円規模の経済対策が策定され、Go To トラベルやマイナンバーカード、キャッシュレス決済のキャンペーンなどに兆円単位の予算が投じられてきた国で、数兆円程度の財源確保をめぐって大きな議論が展開されているのはそれ自体が不思議な光景のようにも思われるが(防衛費は毎年継続的に支出されるものだという指摘があるかもしれないが、大型の補正予算の編成も毎年行われていることに留意)、復興予算・復興増税と同じような批判を受けることのないよう、落ち着いた環境のもとで誤りのない政策対応が求められる。

プロフィール

中里透マクロ経済学・財政運営

1965年生まれ。1988年東京大学経済学部卒業。日本開発銀行(現日本政策投資銀行)設備投資研究所、東京大学経済学部助手を経て、現在、上智大学経済学部准教授、一橋大学国際・公共政策大学院客員准教授。専門はマクロ経済学・財政運営。最近は消費増税後の消費動向などについて分析を行っている。最近の論文に「デフレ脱却と財政健全化」(原田泰・齊藤誠編『徹底分析 アベノミクス』所収)、「出生率の決定要因 都道府県別データによる分析」(『日本経済研究』第75号、日本経済研究センター)など。

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