2013.02.15

心優しい左派的な人たちこそ日銀に金融緩和を求めなければいけない理由

村上尚己 エコノミスト

経済 #脱成長#金融緩和#ゼロ成長#持続可能性

本業がどうにも忙しく、池田信夫さん(http://bit.ly/XuFTFj)への反論を書けずに恐縮だが、「極東ブログ」のfinalventさんにいただいた2,731文字にも及ぶ超長文の書評の中で(http://bit.ly/XixjgC)、次の感想をいただいた。

だから「競争をやめて、皆が分かち合う温かい社会」を希求する人は、社会全体が成長を止めることを放棄してはいけないのだ。「脱成長」の先にあるものは、「壮絶な奪い合い社会」でしかないのだから。

私もそう思う。 しかしそこに別のタイプの難しい問題がある。(略)アベノミクスを「壮絶な奪い合い社会」と見なし、「競争をやめて、皆が分かち合う温かい社会」を希求する心優しい人たちを、苦笑して通り過ぎてはいけないのだろう。ただ、どうしたら伝えられるのだろうか。本書がその一助になりえるだろうか。 (極東ブログ:[書評]日本人はなぜ貧乏になったか?(村上尚己)http://bit.ly/XixjgC より引用)

このfinalventさんのご紹介により、この部分にとても興味を持っていただいている方が多いことが分かった。そのためここで、拙著の該当箇所を紹介させていただければと思う(finalventさんありがとうございます)。

※文中の「本書」とは『日本人はなぜ貧乏になったか?』(中経出版)のこと。また例によって、ここに引用する文章は、筆者が出版社に入稿する前の元原稿である。池田さんへの反論を書くのは少し時間がかかるが、この記事ならコピペで数分で書けてしまう! 

* * *

☓[通説]「右肩上がりの日本」は幻想。低成長の成熟社会を目指せ

◯[真相]「脱成長」の先に待っているのは、残酷な世界

2012年元旦のある大手新聞社の社説

本書で僕が提唱しているような、「適切な金融緩和による抜本的な景気の回復策」とは、一言で言えば「日本がかつての成長を取り戻し、皆が豊かで、分かち合うことのできる幸福な社会の実現」を希求するものである。

しかし、デフレと不況があまりにも長引きすぎたせいであろう。また震災後の原発の問題とからめて語れるようになったのが、昨今巷でよく見かける「脱成長」や「反成長」という言葉、そして「低成長でも持続可能な成熟社会を目指す」といったような話である。

こういった声の高まりの証左として、2011年11月にブータンのケサル国王が来日した際には、ブータンの国民の幸福度が大変に良いこととして賞賛され、「日本もブータンのような真に幸福な社会を目指さなければならない」といったような話が紙面を飾っていた。そういった話の典型例としてあげられるのが、「ポスト成長の年明け」を掲げて展開された、ある大手新聞社の2012年元旦の社説である。

「ゼロ成長への適応」と「成長への努力」という相反するような二つの課題を、同時にどう達成するのか。 歴史的にみて、経験したことのない困難な道である。そのさい、「持続可能性」を大原則とすることを提案する。(省)財政支出や金融拡大に頼った「成長の粉飾」はもうしない。

(略)取り組むべきは、社会保障と税の一体改革を実現させて、成熟社会の基盤をつくることだ。(略)増税や政府支出のカットはつらい。成長率の押し下げ要因になるが、将来世代のことを考え甘受しなくてはいけない。(略)それは成長から成熟へ、社会を切り替えることでもある。

成長の時代を享受してきた私たちは、変化していく歴史の行方を長い目で見つめながら、いまやるべきことを着実に実行していかねばならない。

本書をここまでお読みいただいた方は、この社説の「財政支出や金融拡大に頼った『成長の粉飾』はもうしない」といった話や、「取り組むべきは、社会保障と税の一体改革を実現させて、成熟社会の基盤をつくることだ」といった話に「???」となったことだろう(*)。

*筆者注:『日本人はなぜ貧乏になったか?』(中経出版)の中で、日本の景気を回復させる金融財政政策の必要性と、デフレと不況下での消費増税の愚を説いている。

「金融拡大で『成長の粉飾』をする」とはまさに「本書で提唱している日本経済の回復のために絶対に欠かすことの出来ない政策を否定すること」であるし、「増税や政府支出削減の話」はさきほど正にその愚を説いたばかりだ。この大手新聞社の元旦の社説からわかることは、やはり大手新聞社でさえも、恐らく自分ではデータを確認せず、経済に関してあまりに誤解したまま、デマといっていいレベルの言説をまき散らしてしまっているという悲しい事実だ。

心優しい人々が貧しい人をさらに貧しくする不幸

そしてこういった「脱成長」「ブータンのように低成長だが幸福な社会」といった話をしてしまい、受け入れてしまう人(この社説を書いた人もそこに含まれるのであろう)が最も不幸なのは、そういった人たちがすごく心優しい人たちである場合が多いということだ。

こういった人は、「もう成長はいいじゃないですか。これまで日本人は、十分成長を謳歌してきたじゃないですか。結果として格差も広がっているし、競争によって経済的弱者に追い込まれた人たちが困窮している。そういった人たちのためにも、もはや成長は諦め、身の丈にあった生活でも心豊かであればそれで幸せじゃないですか……」といったことを言っているのだ。

確かにそう聞くと、それはすごくいいことで、心優しくて温かいことのように感じる(そして実際に温かく、心優しい人たちなのだと思う)。しかし、そういうことを言っている人たちは――本当にそれで困っている人は助かるし、皆が幸福に生きていけるようになると信じておっしゃっているわけだろうから、鋭く指摘するのは大変に心苦しいが――こういった人たちは「自らが唱える『脱成長』『ゼロ成長甘受』の先に、どのような社会が待っているのか? を、極めて残念ながら全く想像できていない人たちである」と断罪せざるをえない。

経済の問題を考える時、それは社会全体のダイナミックな動きを捉えるということだから、「ある経済事象の動きのその先の……その先のその先のまたその先で……結局本当は、何が起こるのか?」まで深掘りして考えなければいけない。なぜなら、経済は回っているのだから。世界は、あなたも、僕も、あなたの恋人も友人も親も、そしてこれから生まれくる子どもたちも、世界中に生きとし生けるすべての人たちが、マクロ経済という名の鎹(かすがい)によって繋がれているものなのだから。

例えば仮に「脱成長」が実際に達成されてしまった場合、日本にはどのような未来が待っているのか? 本当に競争のない、皆が温かくわかちあう社会が待っているのか? 本当に残念ながら、そんなことは一切ないというのが現実なのだ。

それはなぜか? 「脱成長」とは、「経済成長をやめること」「ゼロ成長・マイナス成長を助長すること」である。それは、今まさに日本が陥っているこの不況を「更に加速させること」だ。

その先に待っているものは? 「皆が温かくわけあう競争のない社会」なんかでは決してない。あるのは「不況が進展し、企業は更なる価格引き下げ競争を強いられ(=競争の激化)、そして多くの国民は、減り続ける職を求めて、他を蹴落とす凄惨な社会」である。

「脱成長」の先には「残酷な世界」が待っている

「脱成長」を掲げる人たちは、「三丁目の夕日」で描かれたような、昭和30年代の戦後の復興期であり、東京タワーや東京駅が建設中だった時代を想像し、「あの頃はよかった。皆貧乏だったが、夢に満ち溢れ、皆が助けあいながら生きていた」といったような、牧歌的な時代を求めて「脱成長」といったフレーズを掲げているのかもしれない。

しかし、あの頃というのは、まさに日本は高度成長期のまっただ中――経済全体は年率10%前後の勢いで成長し、皆の給料も同様に総じて年率10%増え続けているといった超右肩上がりの時代――だった。一言で言えば、あの頃というのは確かに、豊かな経済成長を背景として「皆が、増え続けるパイのわかちあい」を行えていた時代だった。あの頃は、皆貧乏だったのは間違いないが、皆が「明日は俺も!」と未来を信じることのできる希望に満ち溢れた社会だったのだ。

だから、「競争をやめて、皆が分かちあう温かい社会」を希求する人は、社会全体が成長を止めることを、決して放置してはならない。「脱成長」の先にあるものは、「凄惨な奪い合い社会」でしかないのだから。

自殺するほど仕事がないのに、過労死するほど仕事がある不幸な社会

凄惨な削り合い社会という現実は、現在の日本ですでに起こりはじめていることである。「ゼロ成長」「低成長」を放置するという態度は――皆が日々の生活に汲々とし、社会全体がギスギスし、心に余裕がなくなり思いやりの心を持ちづらくなり、格差が広がり、自殺者も増えるような悲しい社会を助長すること――に違いないのだ。

「皆が分かちあう心優しく温かい社会」というものは、「成長の先にしか生まれ得ないもの」である。なぜなら、経済的・社会的弱者を救済するための福祉政策を充実させるためにも、どう考えても財源が必要ではないか。

その財源は、政府の税収なわけである。本当に「脱成長」が実現され、どんどん政府の財源(=税収)が減っていってしまったら、その先で何が起こるか? 起こることは、どんどんそういった手当が削られる社会になってしまうということだ。現に、既にいまでも「生活保護費の全体での1割カット」の話などが出てきてしまっている状態だ。

「競争社会は嫌だ」と思った人が、一旦会社をやめて田舎暮らしをできるような選択ができる社会というのは、不況が浸透している「脱成長」の先にあるものでは決してない。なぜなら不況が浸透してしまった社会では、「失業率が高まり、職自体が減り続ける社会」なわけだから。「誰もが一度就いた職にしがみついてでもいつづけなければいけない」となる社会だ。だからこそ現在の日本では、自殺したいほど仕事がないのに、過労死するほど仕事をしなければいけないような凄惨な社会になってしまっているのだ。

そして労働者側の力が弱まっていることを背景として、ブラック企業と呼ばれる労働者の権利を意にも介さない劣悪な企業がのさばってしまっているのである(と同時に、この不況の進展によって、経営者の側も余裕がなくなり、会社自体がギスギスすることに拍車をかけてしまっている)。

どうすれば皆が分け合う温かい社会を取り戻せるのか

だが、経済成長がまた起これば状況は180度一変する。その社会は「失業率が低下し、職が増え続けている社会」なわけだから、「もし一旦就いている職を辞め、またその後に戻ってきたいと思っても、他の何かの職には就きやすい社会」であるわけだ。

その社会が到来するということは、人間の人生の選択の幅を広げることであり、人間の生きる尊厳を取り戻すことに他ならない。

かくして、経済成長が実現し、パイの増えつづける社会では、「多くの人が経済的に豊かになるため、困っている人を個人的に助ける余裕も出てきて、真に皆が助け合える社会になる」のだ。

僕は、減り続けるパイの奪い合い競争の中で、皆が心のゆとりを失い、ブラック企業がはびこり、皆が絶望していて、自殺が横行し、僕の乗った通勤電車がバンバン止まるような社会はまっぴらごめんだ。だからこそ、皆に心の余裕があり、真に温かく分け合う・持続可能な社会を希求するために、政府と日銀に「景気を回復させるための適切な金融緩和政策」を心から求める。それが達成されるまで、何度でも。それによって僕が批判の声に晒されようとも一切構わない。 (引用ここまで)

……といった形で、拙著『日本人はなぜ貧乏になったか?』(中経出版)のなかでは、なぜ経済的弱者と呼ばれる人たちのためにも、日本銀行に適切で大規模な金融緩和を求め続けなければいけないのか? をはじめとして、「日本人はなぜ貧乏になってしまったのか?」にまつわる「21の通説」とそれに対する「真相」を分析し、「日本をいままた世界の経済大国へと返り咲かせるチャンスである『アベノミクスとはなにか?』」を可能な限りわかりやすく、詳細に解説させていただいている。

今回の記事に引きつけて言えば、経済的弱者の方々に手を差し伸べるべく、「再分配政策をまともに行えない経済状況を、どう改善すればいいかわからない」と、日々歯がゆい思いをなさっている左派的な考えをお持ちの方にこそ、ぜひご一読いただきたい本であり、そういった方々の考えるヒントになることができれば幸いだ。

プロフィール

村上尚己エコノミスト

米大手資産運用会社アライアンス・バーンスタイン マーケットストラテジスト(兼エコノミスト)。1994年東京大学経済学部を卒業後、第一生命保険相互会社に入社。(社)日本経済研究センターへの出向と第一生命経済研究所を経て、2000年よりBNPパリバ証券日本経済担当エコノミスト、2003年よりゴールドマン・サックス証券シニアエコノミスト、2008年よりマネックス証券チーフ・エコノミストとして、グローバルな景気動向、経済政策、金融市場の分析に従事。2014年5月より現職。著書「日本人はなぜ貧乏になったか」(中経出版)など多数。

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