2010.10.20
問題はデジタル教科書ではなく教育
デジタル教育は日本を滅ぼす?
いま、デジタル教科書が各所で話題になっている。
デジタル教科書とは、簡単にいえば、これまでの紙の教科書を代替ないし補完するような、デジタル情報端末に保管、配信して利用される学習コンテンツだ。アマゾンのKindleやアップルのiPadなど新端末の登場で、今話題の電子書籍の教科書版、といえばイメージしやすいかもしれないが、必ずしもそうしたタブレット型情報端末を用いるものだけを指すとはかぎらない。
諸外国でのデジタル教科書導入の動きなどを背景に、日本でも、文部科学省が今年8月に発表した「教育の情報化ビジョン(骨子)」では、2020年までに一人一台の情報端末とデジタル教科書が使える環境を実現する方向性が打ち出されている。先進的な取り組みを行う韓国その他の諸外国ではさらに動きは早く、日本はそれら諸国からは大きく遅れをとった格好になっている。
こうした動きに対して、反対の声を上げる人たちがいる。なかでも評論家の田原総一朗氏は、近著「緊急提言!デジタル教育は日本を滅ぼす」(ポプラ社、2010年)で、デジタル教科書を「コミュニケーション能力が育まれず、想像力や創造力が封じ込められ」ると批判した。
よく聞かれる主張で、一見もっともな批判にみえるかもしれないが、実際のところあまり説得力はない。この手のものを、最近、自分のブログで、「影踏み論法」と名付けてみた。要するに、本体とちがう虚像(影)を勝手に想定し、それを批判する(踏む)ことで「本体」に対する悪いイメージを与えようというやり方だ。(http://www.h-yamaguchi.net/2010/10/post-9db7.html)
そもそもその本のなかで、田原氏がデジタル教科書についてとりあげた、あるいはそれと直接関係のある部分はほんのわずかしかない。内容の大半は一般的な戦後日本の教育批判、社会批判だが、それらはデジタル教科書など想像すべくもない、ずっと以前から存在していたものだ。
懸念事項としてかなりのスペースをとって書かれているネット批判や家庭内のコミュニケーション不足も、対照として好意的に取り上げられている国内外の先進的教育の事例も、そもそもデジタル教科書をめぐる論点とはほとんど関係がない。
デジタル教科書を使うことによって教育の場でのコミュニケーションが減るとか、教育にかけるコストが減るとか、正解だけを追うようになるとかいう批判が、第1章および最終章のそれぞれ一部に、とってつけたように登場するにはする。
しかしそれがまさに「影踏み論法」であり、「デジタル教科書は誰とも話さず1人で勉強するためのもの」「デジタル教科書は教育予算の削減をはかるためのもの」「デジタル教科書は過程を省略し正解だけを教えるもの」といった、デジタル教科書の悪いイメージを勝手に想定し、現在の教育が既に抱えている問題点をその「悪いデジタル教科書」に投影して批判しているだけで、まともな主張とはとうていいえない。
デジタル教科書導入をめぐる最大の課題
デジタル教科書は、これまでできなかったことを可能にし、これまで必要とされてきたコストの一部を不要とするが、別に万能でもなければいいことずくめでもない、ただの道具だ。
どんな意図で何が検討されているかについては、文部科学省の「教育の情報化ビジョン(骨子)」や、中村伊知哉・石戸奈々子著「デジタル教科書革命」(ソフトバンク・クリエイティブ、2010年)に詳しく出ているのでここでは紹介しないが、きちんと読めば、デジタル教科書導入をめざす人びとの意図がむしろ、教育の場でのコミュニケーションをより強化していくべき、教育の実質的な中身にもっと時間やコストをかけていくべき、何より教育を今の不満足な状態から少しでも改善していくべき、といったものであることがわかる。田原氏の批判とは逆方向だ。
もちろん、課題はある。デジタル教科書自体をどのようなものとするかはその大きなひとつだ。単純に今の紙の教科書をデジタルに置き換えただけでは、わざわざデジタル化する意味は乏しい。デジタル技術を活かした、より効果的な教科書のあり方を考えていかなくてはならないのは当然だ。おそらく、現場を巻き込み、試行錯誤しながら改善していくことになるだろうから、誰かがどこかで考えてくれればいいというようなものではない。
しかし、それに劣らず重要なことがある。デジタル教科書にかぎらずデジタル技術の活用全般にいえることであり、かねてより指摘されてきた大きな課題のひとつでもあるが、それは、どうやれば新たなやり方を現場がスムーズに受容し、活用していけるようになるかだ。
現状でも、現場の多くの教師たちには時間の余裕がなく、充分な予算も与えられていない。改善の意欲が充分でない人も少なからずいるだろう。そうした課題への対処が不充分なままでデジタル教科書に性急に移行すれば、大混乱を引き起こし、結局活用されず、かえって教育の質を悪化させ、使った資金が無駄になるという結果になりかねない。
してみると、デジタル教科書導入をめぐる最大の課題は、デジタル教科書自体もさることながらその周辺領域、すなわち、実際の教育現場でそれを活用していくために必要なコストや努力を払う覚悟が、わたしたちの社会にはたしてあるのか、という点にあることになる。
もちろん、それがそのコストや努力に見合う成果をあげるのか、という点も同時に問われようが、問題はデジタル教科書がいいか悪いかではなく、わたしたちが教育をどのくらい重要と考えるかなのである。
その意味で、田原氏の懸念もまったく意味がないとまでは思わない。国際競争の観点を無視するものではないが、準備不足でかたちだけ整えるような性急なアプローチは、この問題にはふさわしくないからだ。
今はまだ、デジタル教科書が具体的にどんなものであるべきかについての議論もはじまったばかりだ。政府目標とされる2020年度が早いか遅いかは議論の余地があるだろうが、いずれにせよ、慎重に検討や検証を重ね、学校のあり方や、社会全体の資源配分まで必要な調整を行いながら、導入をはかるべきではないかと考える。
推薦図書
本文中で本を2冊取り上げているが、そのうちの1冊。デジタル教科書をめぐるさまざまな状況を幅広くコンパクトにまとめている。なぜ今デジタル教科書が注目されているのかについて本文ではあまり触れなかったが、本書はそのよいとっかかりになるだろう。
本書の主眼は、デジタル教科書が新しいからではなく、よりよい教育のために有効であると思われるから導入すべきとする議論であり、その力を有効に活かすためには教育現場も変えていくべきとの主張である。田原氏の著書におけるデジタル教科書批判に対する反論も書かれているから、どうしても読み比べたいとか、田原氏の教育論・社会論や思い出話に興味があるとかいうのでなければ、本書だけでも十分かと思う。
プロフィール
山口浩
1963年生まれ。駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部教授。専門はファイナンス、経営学。コンテンツファイナンス、予測市場、仮想世界の経済等、金融・契約・情報の技術の新たな融合の可能性が目下の研究テーマ。著書に「リスクの正体!―賢いリスクとのつきあい方」(バジリコ)がある。