2013.10.02
地方からの教育イノベーション
山口県立大学国際文化学部准教授・浅羽祐樹氏、J Institute代表・斉藤淳氏、明治大学政治経済学部准教授・飯田泰之氏によるトークイベント「朝日新聞・WEBRONZA×Synodos主催 地方からの教育イノベーション」。いま地方の教育はどうなっているのか、地方にいながらして教育者はなにができるのか、これから教育はどのように変わるべきなのかなどなどなど、誰もが一家言もつ「教育」をテーマに、縦横無尽に語り合った。(構成/金子昂)
地方だからこそのビジネスチャンス
飯田 本日は朝日新聞・WEBRONZA×Synodos主催「地方からの教育イノベーション」トークイベントにお越しいただきありがとうございます。今日は、日本における教育の現状など幅広く「教育」をテーマに、浅羽祐樹さん、斉藤淳さんとお話したいと思います。
さて、教育社会学がご専門の舞田敏彦さんによると、日本全国の各都道府県で、東大・京大に進学する生徒の割合は、奈良県では約3%、東京都では1%に対して、東北・九州では0.1%台です。
一方で地方の場合は、ナンバースクール(旧制中学校)のような地域の公立のトップ校以外には、なかなか有名大学へのルートがない状態なのではないでしょうか。つまり東京圏や京阪と地方では教育の環境がまったく異なっている。このような違いは、おそらく生徒の興味・関心にも現れてくると思われます。
斉藤さんが代表を務められているJ Instituteは、自由が丘と斉藤さんのご出身である山形県酒田市にあります。やはり自由が丘と酒田市の生徒には、家庭環境や学力、性格など違いが見られるものですか?
斉藤 自由が丘の親御さんは海外経験のある方もいて、学校の英語教育には期待できないし、学習塾で英語を教えている先生も発音がいまいちで、「自分の方がうまいんじゃないか……」とお話になる方が多いですね。そうした方にうちの塾を選んでいただけているのはありがたいことです。酒田市は、帰国子女も海外駐在経験のある親御さんもいません。自分が生まれ育った家庭と同じように、地方のよくある普通の家庭の生徒が通っています。
どちらの地頭(じあたま)が良いのかはわかりませんが、自由が丘の生徒は御三家と言われるような学校に通っていることもあって、中学受験を通して勉強の習慣を身に付けています。酒田市の生徒は、まず勉強をする習慣から指導するので、そこには違いがありますね。
とくに、自由が丘の場合は、英語を身に付けることで得られる期待収益を肌身で感じられる環境にありますが、酒田市は、外資系企業もありませんし、「なんで英語の勉強をしているのだろう?」と不思議に思っているところは特徴的な違いだと思いますね。
飯田 地方で講演をすると感じるのですが、地方の場合、意識の中で海外に行くよりも東京に行くという意識が強いように感じます。
斉藤 確かに東京の子どもたちは数ある選択肢の一つに「海外」があるようですが、地方の場合は、まず東京があり、その先に海外があるというイメージを持っている気がします。
ぼくは教育熱心じゃない地方だからこそ、伸ばす余地があり、ビジネスとしてのチャンスもあるのではないかと思っています。ネイティブの先生と共同でチーム・ティーチングできない環境の中でも、英語教育をサポートできるような仕組み作りをすることを自分に課すつもりで、酒田市で教えているんです。
飯田 酒田市でできる仕組みなら、他の地方でもできる、と。
斉藤 ええ、なんでも東京が最先端というのは大嘘なんですよね。人口統計を見ても、地方から少子高齢化している。東京でこれから起こることは、地方ではすでに起きている、そのような課題もたくさんあるわけです。
目の前の学生になにができるか
飯田 浅羽さんは山口県立大学で大学生相手に授業をされています。おそらくそろそろ就活が終わりつつあるシーズンなのかな、と思いますが、やはり地方の場合、都心に出るための距離・時間、情報格差の面で、都心と環境が異なると思うのですがいかがでしょうか。
浅羽 え”、就活はむしろ始まったばかりですよ。同じタイムラインにいないという取り残された感覚でいっぱいになります。
具体的な数値はアレなので控えますが、この時点で就活が終わった学生はようやく二桁になったくらいです。うちの学生の場合、そもそも東京はまず射程に入っていなくて、最大限出ても広島や福岡で、大阪すら遠い遠い。最初から選択肢が限られた中で就職活動をしている状況です。
情報も埋め難い時間差があります。例えば、今日フロアに来ていただいている瀧本哲史さんの『武器としての決断思考』(星海社新書)が2011年9月に出版されたとき、都心に位置するある程度の規模の大学では、偏差値を問わず、新学期早々に生協で平積みになっていたと思うんですが、山口県立大学の最寄りの書店に並んだのは翌年の2月でした。このとき新書大賞で4位に選ばれてようやく、「そんな本があったのか。そんな新書レーベルが出たのか」となるわけですよ。書店員さんが独自に目利きしたり、むしろ最寄り大学の学生の側から問い合わせしたりしないとこうなってしまいますね。そもそも1000人ちょっとの規模の大学だと生協がありませんから、街の本屋さんが切実です。
飯田 アマゾンもだいぶ便利になりましたが、やっぱり本を買うときは書店に並んでいるものを手に取って考えたいですよね。
ぼくは、プロジェクトリーダーを務めている「復興アリーナ」の関係で東北によく行くのですが、20万人くらいの都市でも書店の規模は極めて小さく、置いてある本も大半が小説の文庫本なんですね。もちろん文庫が並んでいることに意味がないわけではないのですが、ビジネス書はもちろん、経済学も政治学も、国際関係論の本もほとんど置いていない。
ブルデュー以来、よく使われるようになった「文化資本」という言葉がありますが、これは、家にあるレコードや本なり、休日に親がどこに連れて行くかなどの文化的なものを「資本」と考え、この文化資本が身近にある家庭に育つことで、親から子供に受け継がれていくという考え方です。これに従うと、地方は、文化資本を引き継ぐのに、ハードルがあるのかもしれません。
浅羽 今月末にオープン・キャンパスで高校生に対してゼミ紹介をするんですが、こんな企画を準備しています。
私のゼミでは新書プレゼンをしています。Show & Tell(アメリカでは幼児の頃から何らかのテーマを示しながら(show)語ること(tell)が習慣付けられている)の大学生版ですね。毎週1冊ですから、半年で15冊、1年経てば30冊の新書を読んだことになります。平積みにすると結構なボリュームです。アドレスは非公開ですが、ブログでプレゼンの自己レビューやピア・レビューもさせています。
3年生でゼミが始まるときには本棚がないんです。カラーボックスはあっても、ぬいぐるみや化粧道具しか入っていなかったりするわけですよ。それがゼミに入ると少しずつ自分の本棚に「なり」、4年生になる頃には卒論に関する専門書も揃っていくんですね。この変化を写真で記録してもらって、この1年半で読んだ新書45冊や毎回のプレゼン資料とともに展示しました。まさに「大改造!! 劇的ビフォーアフター」で、一目瞭然です。
学生の頃って本一冊が高いんですよね。それを承知の上で、あえて毎回必ず買ってもらっています。身銭を切るクセを2年間で身に付けてほしいので。そうすると働いて自分で稼ぐようになると本が相対的に安く感じるようになり、先生や同級生がいないところでも自ら買って読み続けることができるようになります。学生の間に読書をする習慣を身に付けられたら、卒業してからも必要や関心に応じて一人でどんどん本棚を充実させていけるじゃないですか。ときどき卒業生が訪ねてきて「いまこんなことをしようとしていて、こんな本を読んでいます」と話してくれると、ちょっと感動するんですよね。
私には山口県に大型書店を誘致する力もありませんし、自費で大学の図書館を充実させるわけにもいきませんが、目の前にいる顔の見える学生に対しては一定のインパクトがあるのだと自覚と責任を持って臨んでいます。
飯田 新書は選択の幅も広がっていて、かつての論壇誌の役割をいま担っているところがあると思います。すると大学生のみならずが、ひとまずは新書を読むという習慣を身に付けることにはとても大きな意味があると思いますね。
生き延びるために「会いに行ける先生」へ
飯田 それはさておき、大教室で黒板やパワーポイントを使って300人の学生を相手にするような授業を担当する先生って、日本に各分野20人ずつもいればいいんじゃないかと思うんですよね。
ぼくは駒澤大学で10年間、経済政策という授業を教えてきました。今年度にうつった明治大学ではマクロ経済学という授業を担当します。経済学部にいらっしゃった方はご存知と思いますが、経済政策もマクロ経済学も教えることって決まりきっているんです。
もちろん先生によって教え癖もあるでしょうし、経済学の場合はケインジアンとかマネタリストとかいろいろ考え方に違いがあるのですが、それなり幅広く先生方を集めて、録画した授業をネットで配信すれば、現在全国の各大学で数え切れない数行われている大教室での授業ってあまり必要ないんじゃないかな、と。
むしろ、少人数の授業で、学生にたくさんアウトプットしてもらいたい。ぼくのゼミでは、学生に課題本についてのプレゼンをやらせるようにしています。学生たちの発表をみていると、テストではわからない学生の実力が測れる。例えばわからないところを発表させると、滑舌が悪くなったり言葉を濁したりする。「そこもう一回説明してみて」というと、案の定説明できないんですよね。そうやって発表の仕方であったり、理解を促したりするようにすると、大教室の授業よりも生産的だと思うんです。おそらく簿記1級よりも必要なものを与えられるんじゃないかな、と。
それこそ浅羽さんがゼミで実践されている授業は、大教室では得られない教育効果だと思います。地方大学は、少人数教育がどうしたって中心となりますが、それは比較優位なのかもしれません。
浅羽 少人数には逆の側面もあります。多様性がなく、似たり寄ったりの学生だけだと陥りがちなのが、例えばグループワークをするときに、次にいつどこで集まるのかだけを決めて解散してしまうような仕事の進め方です。それだと、せっかく集まっても、今とインプットが何も変わらず、ダベるだけで終わってしまって、それこそ「オワタ」になることもあるんですね(苦笑)。
本来、最初にするべきなのは、個別にするべきこととみんなで集まってするべきことを見極めて、次に集まるまでに各自が何をするのかを割り当てることなのですが、残念ながら、そういうポートフォリオの感覚がありません。ポートフォリオとは学修の記録以上に時間や人といったリソースの配分戦略なんですよね。
大学教育にも同じことが言えます。誰のどの授業を全国に向けてネット配信するか、あるいは個別の大学の教室で少人数に向けて行うかを見極めないといけませんね。私は国際関係論を担当していますが、果たして、飯田さんが言う「20人」に入るかどうか、ガチで心配になります(笑)。
サミュエルソンの講義が世界に配信されるような時代ですから、「会いに行ける先生」としてバリューを示さない限り、月給500ドルのTA(ティーチング・アシスタント)にいつでも転落するという危機感を大学教員は持たないとマズイわけです。教室で、自分にしかできない授業はいったいどんなものか、必死に考え、具体的に示して結果を出さないと生き延びられません。
※編集部註:浅羽氏の授業は「ファースト・ペンギンになってジャンプしよう」や「世界とダンスする」でご覧いただけます。
斉藤 私の塾では実験的に反転授業を取り入れていますね。つまり説明だけでいいものはビデオで授業をして、直接指導しなくてはいけないものは教室で行うようにしています。ただそこで難しいのが、そもそも反転授業のやりかたを生徒に教えるために、個別授業をしないといけないんですよね。
地域づくりにおける大学の役割
飯田 ところで、いつも疑問に思っているのですが、日本の大学っていったい何をする機関なんでしょう。大学の先生にはときどき、あまり熱心に研究しているわけでもなければ、後進の指導を一生懸命やっているわけでもなく、「研究者だから」と言い訳をして授業も真剣にやっていない方がいます。
高校の場合は、やはり大学受験というハードルがありますから、危機感を持って予備校のメソッドをとりいれたりカリキュラムを組み直したりとさまざまな試みを行いますが、どうも大学からはそういった緊張感を感じたことがあまりありません。
浅羽 最近の大学って、教員に対して、教育も研究も学内の雑用、あ”、もとい学務も社会貢献も、うちだとこの順がコレクトなんですが、全部できるスーパーマンを求めているところがありますよね。そのすべてで優や秀をとろうとしたら、破綻してメンタルを病んでしまうような場合もあると聞きます。
飯田 10ある時間のうち、なににどれだけの時間を割り当てるかを考えなくてはいけない。
浅羽 まさにそこにポートフォリオ戦略が問われているわけですよ。例えば学部長や学科長の場合は、学務を5、教育と社会貢献はそれぞれ2で、研究は1にするとか、若手の場合は、研究の比重を上げるといったようにそれぞれに応じて配分させて、教員組織全体としてパフォーマンスが最適になるようなインセンティブ構造にすればいいと思うんです。でないと、個々の教員としても、全体としても、仮にどれもそこそこだとしても、尖がるものが何一つないつまらない大学になってしまいます。
飯田 パンフレットで教育を売りにしている大学ってたくさんありますが、教員側からみるとそうでもないところってたくさんありますよね。
ぼくは学生の時に、「教員教務逆評定」という雑誌をサークルで出していました。でも日本の場合、サークルであれ大学であれ、授業の質を評価されても教員にとっていいことなんてない。それがアメリカとなると、教育が売りの大学は、こうした評価を重視している大学もありますよね。
斉藤 アメリカで、高い授業評価を受けている人は、プロフェッサー・オブ・ザ・イヤー・アワードなどでほぼ確実に表彰されますよね。やはり教育を重視する大学では、教員人事でも教育面での貢献が重要視される。
一方で、イェール大学やハーバード大学のような研究型の大学は、教員人事において教育が重要視されることはほとんどありません。このように大学によって評価されるポイントが全然違うんですね。アメリカの大学をすべて持ち上げるわけではありませんが、研究型大学であれ、教育型大学であれ、アメリカから学ぶところは、いろいろとあります。
日本のこれからの地方の生き残りを考えると、大学や全寮制の高校って有望な産業なのではないかと思います。アメリカのボーディングスクールで有名なフィリップスアカデミーやケネディー大統領が通っていたチョート・ローズマリー・ホールが立地している町ってどのくらいの人口だと思いますか?
飯田 いや、まったくわからないです。
斉藤 せいぜい3万人くらいなんですよ。ニューヨークまで車で2時間半かかる人里離れたところに幽閉されて勉強している。山手線から通える御三家とは全然違う環境なんです。
飯田 幽閉(笑)。
斉藤 大学しか産業のないような地域に世界中から優秀な学生が集まり、その人たちの落とすお金で地域経済が循環しているような構造があるんですね。
浅羽 学生だけでなく教員も、給料や時間でインセンティブがあれば田舎に住みたいという人はいますよね。それがないと、やはり、田舎でいい教員を集め、引き留めるのは難しいですよ。
斉藤 ええ、人里離れたところで、家族と一緒に過ごしながら濃密な研究生活を送りたい研究者もやってくる。
いまの日本の大学では、規模の経済が思いっきり作用していますからネットワークのある東京じゃないと損することが多いですけど、いずれ地域づくりの中で、中学校、高校、そして大学の役割が次第に変わってくるのではないかと思うんですよね。
大学が外国とのパイプ作りに役立つ
飯田 そこで気になるのは、日本で80年代後半から90年代にかけてものすごく流行った大学誘致での町おこしです。その後の、各大学の現在の惨状をみると……。
浅羽 惨状。まーさーにー(笑)。
飯田 それぞれ要因があるのだと思いますが、やっぱり地方にできた大学って得てして苦戦していますよね。成功している大学、あるいは注目している大学ってありますか?
斉藤 賛否両論あるようですが、ぼくが直接おとずれたことのある大学では、国際教養大学は成功している方なのではないかと思います。
飯田 国際教養大学は、「巨大な語学大学でしかない」という批判をときどき耳にします。そのことがなぜ問題になるのかぼくにはわかりません。大学って、「こうあるべきだ」というモデルが強い気がします。とくに旧帝大系のモデルと早稲田大学のようなモデルが強い。地方にこうしたモデルのミニチュア版を作っても、なかなかうまくいきません。新幹線の通っている地方の駅に降りると、たいがい人のいないミニ東京になってしまっているような地方の町づくりと一緒です。
斉藤 試行錯誤しながら新しいモデルをつくっているところなのかもしれません。
新潟の国際大学は、アメリカのダートマス大学の経営大学院であるタックスクールと協定を結んでいますよね。インドネシアの開発庁に行くと、幹部の3割が国際大学で修士を取っている。このように外国とのパイプ作りに役立っている大学もあるんですよね。だから必ずしも惨状とは言えないんじゃないかな、と。
大学の範囲の経済と規模の経済
飯田 先ほどの教育型の大学と研究型の大学の話に戻しますと、研究型の大学ってそれほど多くは必要でないと思うんです。その理由のひとつは、人口1億人の国には、おそらくそこまでたくさん優秀な研究者がいないから(笑)。
だからこそぼくももっとまじめに研究しなくちゃいけないなあと思い始めているんですが(笑)、教育について考えると、実は地方にある小規模校っていい条件がそろっているんだと思います。
浅羽 ただ、規模が一定程度を下回ると、学生の組み合わせが一気に少なくなっちゃうんですよね。
ちょっと変わった学生が50人に1人くらいいるとして、ある程度の規模の大学だと、5~6名にはなり、大学院進学を目指した勉強会や、原著を読む読書会を開いたりできます。私は立命館大学国際関係学部の出身ですが、そんな学生の一人でした。でも小規模校になると、勉強したい学生が一人ぼっちになってしまうんですよね。しかも周りがほとんど女子だと、「○○ちゃん、そんなに勉強ばかりしていたら女子力下がるよ!」みたいなことを言われて、ずるずる引きずられてしまうんですね。
私は高校まで人口50万ほどの金沢にいましたが、自宅で受験勉強をしていたら、通学路を歩いている出身中学の後輩に「ガリ勉!」と言われたり、石を投げられたりしました。「お前だけ都会に行ってイチ抜けするのは許さんぞ」というわけです。まあ、私も石を投げ返しつつ、だからこそここから離れないとヤバイと逆に確信しました(笑)。
飯田 なるほど、その意味では、ある程度の規模が必要なのかもしれませんね。
斉藤 なぜ大学に集まって勉強するかというと、やはり範囲の経済と規模の経済が必要になるからですよね。
再びアメリカの例になりますが、アメリカでいい教育を施している大学は、やっぱり1000人くらいの規模は必要としている。小規模のエリート教育を施している実験校もありましたが、結局評価が確立できなかった。
飯田 大学の規模の話になると、東京にあるマンモス大学って就職活動のときが顕著ですが、授業で習ったことよりも大学のOB・OGや校友会といった組織のほうが強力な武器になるんですよね。
だから「大学はもっと役に立つことをやらなくてはいけない」というリクエストが学内からも学外からも出てしまう。そして結局、資格予備校がやっているような資格試験講座ばかりが開講される。資格試験対策も重要だとは思いますが、本当にそれでいいのかぼくは疑問です。
浅羽 冒頭の斉藤さんのお話で、自由が丘とは違って酒田の生徒のみなさんは英語を学ぶことの期待収益が見えないというのが印象的です。
何か新しいことを始めるとき、例えば「英語ができるようになったら、こんな本が読めて、こんな仕事につながり、こんなに稼げるようになるんだ」という期待って、はっきり見えるクラスタもいれば、ちっとも想像できないクラスタもいますよね。後者だと、英語の勉強はせいぜい英検に合格したり、TOEICの点数を上げたりすることだと思ってしまいます。
大事なことは、期待収益が計算できないといった、手持ちのスケールがまったく通用しないときにこそ、単なるボリューム・アップではなく、スケールそのものの変化、スケール・アップをしないといけないということです。それこそ斉藤さんの塾に通ったら「英検の点数が上がる!」じゃなくて、「斉藤さんみたいな今はまだわけが解らないけど何かとっても気になるスゴイ人に自分もなりたい!」という予感とそれに賭ける勇気が問われていると思います。
斉藤 確かに英検とかTOEFLとは違った目標を見せたいとは思いますね。
飯田 学生に「どのくらい英語を勉強すればいいですか」と聞かれると、ぼくは考え込んでしまいます。中堅大学からサラリーマンになるときって、仕事で英語を使う機会ってほとんどないですよね。
斉藤 そうなんですよね。
飯田 「英語ができると給料のいい外資系に務めることができます」って真に受けちゃいけないと思うんです。
斉藤 外国語を勉強すると自分の好きなことがもっと広げられるんだということをある程度わかるようにしないとは思いますね。
「空を自由に飛びたいな」
飯田 話は変わりますが、大学生に限らず大人になってもレポートと感想文、論文とエッセイの区別がついていない人はたくさんいます。
作文や手紙が書けなくなった理由として、型がなくなったことがよくあげられます。戦前の手紙を見ると、決して知的水準が高いとは思えない兵士たちの手紙も非常に綺麗に書かれている。それはテンプレに、最近気になっていることと名前と季節をはめているだけだから。そうするうちに、だんだんと工夫できるようになってくるんですよね。
斉藤 受験というインセンティブがあるなかで、日本語の書き方を学ぶことにどれだけ生徒が真剣に考えるかという問題がありますよね。
英語に関しては、アメリカで大学院、そして教壇に立った身からすると、日本で習った和文英訳は、まったく役に立ちませんでした。日本語を英語に訳す作業は知的トレーニングの一環として一度は経験してもいいとは思いますが、あまり意味がないと思います。中学、高校でやる長文読解も、細切れのパラグラフを2つ、3つ集めて読ませている程度で到底長文とはいえない。
だとしたらもっとアウトプットを前提とした勉強を小さい頃からした方がいいと思うんですよ。これは英語に限らず、ですが。そうした訓練を積んでいれば、東大であれ京大であれ、難なく突破できるくらいの実力はつく気がしてなりません。
飯田 日本はいまだに英語を間接法、つまり日本語を使って教えていますが、日本語教育の世界で、現地の言葉にあわせて教えているところなんてほとんど聞いたことがありません。日本語を使って日本語を教えるという直接法を取っている。語学教育は直接法が適しているということは随分前に決着がついたと思うんですけど、いまだに間接法で英語を教えてしまっている。
斉藤 それはなかなか難しいんですよね。うちの塾は英語でシラバスを作っています。シラバスを読み間違えた生徒は、宿題の範囲を間違えてしまうなどの形で、そのペナルティが具体的に自分に加わるので一生懸命読むだろうと前提していました。でも、生徒からも保護者からも評判がよくなくて、最近は妥協しつつある自分がいます(笑)。
日本の語学教育の病理に、原典を読ませないことがあると思います。アメリカでは中学校から、古典を読んで議論をするというプロセスを繰り返している。日本でも自主的な読書会や勉強会が開かれているようですが、大学の授業でそういった作業を丁寧に行っているという話はほとんど聞きません。灘高の国語の先生が一冊の本を丁寧に読むという授業をやっていると聞きましたが、それでも甘っちょろい。そんなの当たり前なんですよ。
飯田 国語の教科書も典型ですけど、例えば夏目漱石の『こころ』を10ページ分切り出して載せても何の意味もないですよね(笑)。
斉藤 そう、英語はそれよりも酷いんです。
浅羽 国際関係論であれマクロ経済学であれ、われわれ教員が直接法の教授法の学習を怠っていて、ぶっちゃけ楽チンだから、間接法で教えすぎているのかもしれません。学生が理解できるレベルまでこちらから先に下りて翻訳・通訳をある意味巧みに行っているんですよ。その結果、学生に「いま持っているスケールでも通じるんだ」、「ボキャブラリーやスキルのボリュームを増やすだけで足りるんだ」と勘違いさせているのかもしれません。
そうではなく、大学以降の学習は高校までのお勉強の延長線上にはなく、まったく異なったスケールだということをいかに伝えられるのかだと思うんです。1年生の必修科目である国際関係論の授業を前期に教えているんですが、入学当初の4月の第1回目には「ドラえもんのうた」を繰り返し聞かせています。「空を自由に飛びたいな」という曲ですね。
「のび太」が「空を自由に飛びたいな」と願ったからこそ、タケコプターが生まれたんですよね。「ドラえもん」が秘密のポッケの中から出してくれたわけではありません。馬車の時代に、「もっと速く走れる馬が欲しい」では、車は生まれませんでした。車は、馬車というスケールのままボリューム・アップしたからではなく、スケールそのものを変化させることではじめてこの世に出たんです。
高校までは、勉強時間や努力といったXを増やせば学力Yも比例して増えたのかもしれませんが、大学はその同じ直線の延長線上にはなく、新しい変化の関数を自ら生み出す、つまりスケール・アップが問われているということを最初に強烈なかたちで示したいんです。学生一人ひとり、「のび太」にとって、いろんな「空を自由に飛びたいな」があるはずです。
飯田 いまの浅羽さんの話は、いわゆる「努力主義」とも関係する話だと思います。
学校教育って、努力すればいい、という態度を取りすぎだと思うんですよね。もちろん努力することは重要ですし、結果が出なくては意味がないと強調しすぎるとブラック企業みたいになってしまいますが(笑)、頑張ったから偉いのではなくて、頑張ると結果が出ることも多いから偉いんだということをちゃんと教えないといけないんじゃないかな、と。
少しずつ、そしてドカンと
飯田 斉藤さんは今後なにをやりたいと思っていますか?
斉藤 選挙にでたときから、日本の教育を変えたいとずっと思っていたんです。
ぼくは尾崎豊の世代です。当時は校内暴力やら体罰やら、盗んだバイクで走りだすやら校舎の窓ガラスが割れているやら、そんなことがいっぱいありました。そうしたなかでぼくが満足いく教育を受けていたかというとそうではない。恨み節はたくさんでてきます。
学校の先生と生徒っていろいろなものにがんじがらめでお互いに嫌な思いをしていると思うんですよね。学校の先生は文部省のカリキュラム通りに授業をしなくてはいけない。生徒は高校受験、大学受験という自分の人生を左右する死活問題について、思い通りに勉強できない憤りを感じている。先生がカリキュラム通りの授業をして頑張れば頑張るほど、生徒は損をしてしまい、そうしたなかで生徒が受験のために自分なりの勉強を頑張ると先生が嫌な思いをしてしまう。こういう状況を政治を通して変えたいと思ったんですね。
政治の世界に入ってから、道の険しさと果てしなさに気がつきました。それからアメリカの大学で学んで、教えていく中で、企業家として実践するほうが早いということに気がついた。いまでも、あの頃の借金を少しずつ返しているような気になります(笑)。
飯田 国から変えるのではなく、斉藤さんがモデルケースを作る。
斉藤 そうそう、ぼくは成功したものはどんどんノウハウを公開したいと思っています。その事例って、東京だろうが地方だろうが構わないわけですよね。ぼくは英語教育界のユニクロでありたいと思っています。英語教育界のデフォルトスタンダードを設定する役割を果たしたいんです。
仮に儲け第一だったら、いくらでもやり方はあると思います。それこそ「ぼくは昔、イェール大学で教えていたんですよ、ワッハッハ」みたいに偉そうにして、お金持ちしか対象にしないような塾だっていい(笑)。
一同 (笑)。
斉藤 「いくら払えるんですか?」みたいな(笑)。でもぼくがやりたいのはそういうことじゃなくて、誰でも、ある程度のお金を払えばアクセスできるようなものです。
別に英語教育でなくてもいいんですよね。ただぼくが一番不満を感じていたのが英語教育だったから、英語塾を開いたんです。日本語だって、数学だって、変えていかなくちゃいけないものたくさんあるのだと思います。
飯田 次に浅羽さんにお聞きしたいのですが、大学教育について、「システムを変えないといけない」というのは誰にでも言えることだと思います。システムを変える必要もあるのかもしれませんが、現実的に変えられるもの、例えば先ほどお話になっていたゼミでの取り組みは、浅羽さんお一人で変えられるもののひとつでしょう。その他に、これからやりたいこと、いままでやってきたもので、そういった可能性を感じるものはありますか?
浅羽 山口県立大学は向こう5~10年でキャンパスを移転するんですね。現状は高校みたいな教室なのですが、すっかり変わる教室や情報のインフラのあり方に関する素案をつくるワーキング・グループのメンバーなんです。そこで、マス向けの授業はすべてビデオで流して、教室ではそこでしかできない授業だけをすることになり、そのバリューを提供できない教員はどんどん居場所がなくなる「とも」読める指針を作文しました。
飯田 霞ヶ関文学みたいですね(笑)。
浅羽 #そんなこと言わない、#本当のこと言わない(笑)。ここからはあくまでも一般論ですが、いまポストに就いていて、業界が激変する前に定年で逃げ切ることもできる人たちと真っ向からやりあっても空しいし、効果的ではないですね。そもそも数も、意思決定の力も、ステイクも、あまりに違いがあります。だから、ステイクが大きい分、長い見通しを持って、ハードにビルトインしておいて、後でドカンとさせられるような仕掛けをしれーと準備しておきたいですね。
これからなにをするか
飯田 今日は質疑応答の時間を長く設けたいと思っています。質疑応答に入る前に、斉藤さん、浅羽さんから一言ずついただければ。
斉藤 大学教育は頻繁にバッシングの対象になりますが、中学校、高校でも変えていかなくてはいけないことはたくさんあると思います。受験のことばかり気にするのではなくて、中学校、高校で学問をする機会を充実したものにするための工夫はいろいろできるはずなんですね。学習塾という形態のほうがいいのか、いまの学校の形態のほうがいいのかといったものも含めて、いろいろな可能性を模索していきたいです。
浅羽 昨年、ゼミの3年生が外務省主催の「大学生国際問題討論会」というディベート大会に参加して、予選で落ちてしまったんですが、決勝戦を聴講しに引率しました。
聴講した後、国際関係論の授業に講演しに来てもらったことがある友人のキャリア外交官(その記録「『航行の自由』と陸での『船』造り」(PDF))やディベート本のベストセラーの著者とも一緒に月島でもんじゃ焼きを食べたんですよね。そのとき、個々のディベートの善し悪しだけでなく、大会運営のフォーマットも含めてアレコレ盛り上がっているぼくら3人に対して、「何を言っているのか分からない。どうして自分たちにも分かるように話してくれないのか」という反応と、「いつか話に加われるように、自分が言葉や振る舞いを変えていかないといけない」という反応に分かれました。後者の学生はその後劇的に伸びました。
あえて抽象的に言うと、学生には、いま手元にあるスケールでは通じない経験をしてほしいと思っています。教員や大人の側が翻訳・通訳をしすぎて、学生の分かる言葉だけで講義をしてしまうと、「ちょっとボリュームを増やせばいいだけなんだ」と思ってしまいます。そうではなくて、いまのままでは通用しないという強烈で悔しい思いをしてほしいですね。
反転授業の難しさ
飯田 ありがとうございました。それでは、皆さんからの質問を受け付けたいと思います。
横田 千葉大学で教員をしております、横田明美です。
途中で斉藤さんから、反転授業のやり方を教えるのが難しいというお話がありましたが、どういった点が難しいのかをお教えいただけないでしょうか? また、現在の授業のあり方からビデオ教育や少人数教育へと変えていくステップの中でいろいろと問題が出てくると思うのですが、それについて御意見をいただけますか。
斉藤 そもそも反転授業は、家庭でビデオを見ることに時間をコミットしないといけません。中高生は、部活だったり友達とLINEでおしゃべりしていたり、とにかく機会費用が高い子たちなんですよね。その中で、家での学習時間を取らせて、さらに教室での議論にコミットさせるような仕掛けを考えないといけないんですよね。
さらに学校と違って4月でなくても、学期の途中で新規に入塾してくる生徒はたくさんいるという学習塾固有の問題もあって、反転授業は難しいんですね。
浅羽 ステップをいかにつけるかですが、まず全体を把握した後で、何にどれだけの時間を割くかとか、どこにどれだけの人数を付けるとか、そういう発想が切実ですよね。これは受験勉強をどれだけきちんとやってきたかにかなりの程度左右されると思うんです。受験勉強は、限られた期間の中で、限られた自分のリソース、特に時間を効率よく配分して一定の成果を出すゲームの一種とも言えますよね。このゲームで勝利した経験があるかどうかの差は、じわじわとボディーブローのように効いてくると思いますね。仕事も、リソースの配分ゲームの側面があるじゃないですか。
斉藤 断捨離のできる子ってことですよね。
地方でイノベーションを起こすトリガーとは?
飯田 他に質問のある方がいらっしゃいますか?
瀧本 先ほど浅羽さんにご紹介をいただきました、瀧本哲史です。
今日皆さんがお話になっていた話って、東京ではすでに選択肢があるんですよね。例えば数学ではSEGですし、英語では平岡塾がある。問題は地方で。県立大学も、秋田の国際教養大学みたいにコンセプトを立ち上げることに成功していればうまくいくんでしょうけど、規模も小さいので、おそらく多くの大学はあまりうまくいっていないんですね。
そうした状況の中で、地方でイノベーションを起こすために、あるいは集積するために必要なトリガーっていったい何なのかが気になりますね。
斉藤 うーん、トリガーがなにかわかっていたら、いまこんなことしていないんですが(笑)。だからいまはまだ探している段階で、そのためにあえて現場に立っているんだと思います。
飯田 東京に限らず地方の大都市には、ある程度、学校とは違ったかたちで教育の機会を得ることができるのだともいますが、人口規模が小さくなればなるほど、そうした機会が失われてしまう。
日本の人口がこれからどんどん少なくなると、いま成立しているものも、いずれ維持できなくなってしまうかもしれません。最近よく耳にするのが、教育についても、企業規模についても、関西が危機的な状況にあるという話です。かつて関西にはお金持ちのコミュニティがあって、そうした環境で成り立っていた業界がいくつもあった。京都の祇園なんて典型的な例でしょう。それが関西経済の縮小に伴って危機的になっている。これは、いずれ東京でも起こることでしょう。すると、頭数という意味での規模が小さくても続けられる方法を考えなくちゃいけないんじゃないかな、と。
浅羽 個別にはいろいろ試みてきたんですけど、孤軍奮闘というより孤立無援な感じもします。「エイヤ!」と最初に海に飛び込んでも、誰もフォローしてくれないと、ファースト・ペンギンはそのうちアザラシに食われますし(公開授業「ファースト・ペンギンになってジャンプしよう」)、ファースト・フォロワーが出ないと馬鹿踊りする奴は単なる「バカ lone nut」のままですよ(デレク・シヴァーズ「社会運動はどうやって起こすか」)。ゲリラ戦を各地で仕掛ける人たちが戦歴を公開して横に繋がっていけたらムーブメントを起こすことができるんじゃないでしょうか。
飯田 いまの規模を活かしきるためにも、せめて単位互換を緩くしてほしいですよね。東京や京阪圏の大学は協定が結ばれていてわりと自由になっていますけど、地方の大学はあまりないしあっても利用されていない気がするんですよね。
浅羽 ほとんど利用されていませんね。しかもどの大学にもあるような科目を提供している場合すらあり、エッジが効かず、シナジー効果なんて生まれません。山口県立大学の場合、単純に物理的なアクセスが芳しくないので、ますます他大学に行かないし来なくなります。こういう環境にいればいるほど、オンラインでクリック一つで何でもダウンロードできるユニバーサル・アクセスが保障されるようになればいいと私自身も切に願っていますが、制度的なサポートが必要です。韓国に出張するたびに、国会図書館でコピー焼けしたくありません(苦笑)。
飯田 例えばマクロ経済学の単位を互換するくらいなら、ゼミを互換すればいい。
浅羽 でも、ゼミで何をやっているのかこそ「聖域」で、同じ学科の中でも「治外法権」みたいなところがまだまだあって、それはなかなか難しい気がしますね。本当はゼミこそが各教員にとって一番エッジになるはずなんでしょうけど。
学生に踏み絵を踏ませる教育実習
飯田 なるほど。最後にもう一方、お願いします。
矢内 矢内と申します。わたしは教育ジャーナリストをやっております。中学校と高校の現場をどう変えていくかという問題意識を持っているのですが、教育養成系の大学、学部が非常に曲者で、ここを変革しないといけない、それこそここにトリガーがあると思っているんですね。教育養成系の大学について、どういったご意見をお持ちかをお聞かせいていただければ。
斉藤 教えることのプロフェッショナルであることは大切なことだと思いますが、教えるコンテンツについてある程度、最先端とは言わないまでも、その一歩手前くらいまでは見ていて欲しいですよね。最先端って、やっぱり知的興奮があるんですよね。その感動がわかっていて、伝えられる人が教壇に立つかどうかは大きいと思いますね。
世界史だって、山川の一問一答をすべて暗記しましょうという形でなくても勉強はできる。例えば民主主義国と非民主主義国が戦争をすると、民主主義国が圧倒的な確率で勝つという統計的な結果について、なぜこうなるのか、という問いかけをするとか、民主主義国同士は戦争をする確率が低いとか、面白い議論はたくさんある。そこから世界史に興味をもったり、政治学に興味をもったりできるわけで、そのほうが勉強するのが面白いと思います。
浅羽 在日フィンランド大使館のツイッター・アカウント「フィンたん」が人気ですよね。その中で、「ムーミンたちは実はスウェーデン語を話していた」とか、「ロシアを挟んで日本とフィンランドは隣国」といったツイートがありますが、これだけでもいろんな読み方や広げ方ができます。
山川世界史だけでも、北欧ではスウェーデンが大国で、フィンランドは植民地にされたことがあるとか、ノーベル賞の中で平和賞の授賞式だけがストックホルムでなくオスロで開かれるのはその二カ国間の歴史が関係しているとか、ロシアは西に拡大してフィンランド、南に拡大して日本と衝突したとか、一つひとつのピースはバラバラでも、全部がつながると、パッと「一枚絵」が見え、ゾクゾクします。
飯田 いまの教員養成系の大学に限らない話かもしれませんが、教育実習の期間がいま3週間になっています。6月に3週間も教育実習に時間をとられてしまうということは、大企業への就職活動を諦めろと言っているに等しいんですよね。民間企業に勤める気があるかないか、踏み絵を踏ませてしまっているんですよ。
本来であれば、サラリーマンをやって、28歳くらいで教員になる人がいてもいいと思います。もちろん最初から教員を選ぶ人をいてもいい。そういういろいろなルートを確保すればいいのにと思いますね。
斉藤 部活と一緒ですよね。ひとつの種目しかやらせないのではなくて、シーズンスポーツみたいにいろいろな部活を循環してもいい。
飯田 ぼくたちの世代では2週間くらい教育実習に行くのはそこまでの負担にならなかったんですよね。それが就職活動が前倒しになったことと文部科学省が何も配慮しなかったせいで民間企業とバッティングするようになった。結果、教員の多様性が減じているのではないか。教育実習を9月10月に変えるだけでも、解決する問題はいろいろあるんじゃないかなと思ったりします。
誰もが教えられる側になったことがあり、さらに今日はぼくを含めて皆さんが教える側に立っている。「教育」についてはいくらでも話したいことがあると思いますし、おそらく今日参加してくださった皆さんも同様かと思います。今後も同じような機会を設けることができればと思っています。その際にはどうぞ再びご参加いただければ幸いです。今日はありがとうございました。
プロフィール
浅羽祐樹
新潟県立大学国際地域学部教授。北韓大学院大学校(韓国)招聘教授。早稲田大学韓国学研究所招聘研究員。専門は、比較政治学、韓国政治、国際関係論、日韓関係。1976年大阪府生まれ。立命館大学国際関係学部卒業。ソウル大学校社会科学大学政治学科博士課程修了。Ph. D(政治学)。九州大学韓国研究センター講師(研究機関研究員)、山口県立大学国際文化学部准教授などを経て現職。著書に、『戦後日韓関係史』(有斐閣、2017年、共著)、『だまされないための「韓国」』(講談社、2017年、共著)、『日韓政治制度比較』(慶應義塾大学出版会、2015年、共編著)、Japanese and Korean Politics: Alone and Apart from Each Other(Palgrave Macmillan, 2015, 共著)などがある。
飯田泰之
1975年東京生まれ。エコノミスト、明治大学准教授。東京大学経済学部卒業、同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。著書は『経済は損得で理解しろ!』(エンターブレイン)、『ゼミナール 経済政策入門』(共著、日本経済新聞社)、『歴史が教えるマネーの理論』(ダイヤモンド社)、『ダメな議論』(ちくま新書)、『ゼロから学ぶ経済政策』(角川Oneテーマ21)、『脱貧困の経済学』(共著、ちくま文庫)など多数。
斉藤淳
J Prep 斉藤塾代表。1969年山形県酒田市生まれ。山形県立酒田東高等学校卒業。上智大学外国語学部英語学科卒業(1993年)。エール大学大学院 政治学専攻博士課程修了、Ph D(2006年)。ウェズリアン大学客員助教授(2006-07年)、フランクリン・マーシャル大学助教授(2007-08年)を経てエール大助教授 (2008-12年)、高麗大学客員助教授(2009-11年)を歴任。これまで「日本政治」「国際政治学入門」「東アジアの国際関係」などの授業を英語 で担当した他、衆議院議員(2002-03年、山形4区)をつとめる。研究者としての専門分野は日本政治、比較政治経済学。主著『自民党長期政権の政治経済学』により第54回日経経済図書文化賞 (2011年)、第2回政策分析ネットワーク賞本賞(2012年)をそれぞれ受賞。近著に『世界の非ネイティブエリートがやっている英語勉強法』など。