2011.08.13
斜めからみる「日本のポストモダン教育学」
日本の人文社会科学における「ポストモダニズム」の本格的受容はいつごろはじまったのであろうか? 80年代初頭の浅田彰の華々しい活躍はとりわけ印象深かったが、もちろんそれに先立つ1970年代に、「1968年」の余燼冷めやらぬなか、フランス文学出自の書き手を中心に、雑誌『現代思想』や『エピステーメー』などを拠点としてジャック・デリダやミシェル・フーコーらの紹介が精力的になされてきた。
しかし歴史学や社会学のアカデミック・サークルのなかで彼らの業績が表だって踏まえられ議論されるようになるのは、本格的には1980年代以降のことである、といってよいだろう。流行に弱い社会学では、浅田の本格的デビューにわずかに先立つ1980年に、デリダ、フーコー、そしてとりわけジャン・ボードリヤールを踏まえた内田隆三の「〈構造主義〉以後の社会学的課題」(『思想』676号)、さらにJ・A・オースティンの言語行為論とフーコーの権力分析を比較した亘明志の「M.フーコーの権力分析と社会学的課題」(『社会学評論』第31巻第1号)が出ており、ゆっくりとしかし確実な影響を、その後80年代から90年代にかけての日本の理論社会学全般に及ぼしていく。
さて、そのような状況に、日本の教育学はどう対応していたのだろうか? 日本の教育学における近代批判は、内発的にはたとえば、やはりポスト「1968年」の一環としての反差別運動に呼応するかたちで現われ、すでに70年代に、障害者教育や発達心理学の内在的批判から立ち上がった反発達論(先駆的には山下恒男『反発達論』現代書館、1977年)といった成果を結実させていた。そしてイバン・イリイチの脱学校論やパウロ・フレイレの被抑圧者の教育学の紹介と受容もまた、この時代にはじまっており、79年には教育社会学出身の山本哲士が本格的なイリイチ研究(『学校・医療・交通の神話』新評論)をまとめている。山本は80年代からはピエール・ブルデューの紹介に乗り出しており、その文脈でフーコーを中心にフランスのポスト構造主義へも論及することも多くなる。
もし仮に日本における「ポストモダン教育学・教育思想」の「正史」を描こうというのであれば、このラインをたどっていくのがよい。そしてその後のアカデミックな教育研究——主として教育史学と教育社会学におけるイリイチ、フーコー、ブルデューらの受容の進捗とエスタブリッシュメント化、それと裏腹なかたちでの、実践的な社会批判、教育批判としてのインパクトの弱化を描いていくことが必要であろう。
しかしながら本稿ではそうした正道をとらない。正道をたどる前にその下準備として、ごく少数——具体的にはたった二人の論者の仕事を概観することによって、問題状況の大雑把な見取り図を描くことを目指す。すなわちこの「教育学におけるポストモダニズムのエスタブリッシュメント化と去勢」のプロセスを一身に具現化したかのごときキャリアをたどった一人の研究者と、その反対に、アヴァンギャルドな流行としてそれなりの注目を浴びた「ポストモダン教育学・教育思想」と、少なくとも表向きはまったく没交渉にすごしたもう一人の研究者、この二人の教育学者をクローズアップすることによって、日本教育学におけるポストモダニズム受容の可能性と限界を描き出したいと思う。なお、二人とも故人であるのは、おそらくはたんなる偶然である。
1.森重雄 ——「批判的教育社会学」の退却
山本哲士は1948年生まれ、まさに「団塊の世代」であるが、日本の教育社会学においてはこの世代の影は存外薄く、一回り上の天野郁夫(1936年生)、潮木守一(1934年生)らの世代と、一回り下の苅谷剛彦(1955年生)、広田照幸(1959年生)に挟まれてあまり目立たない。森重雄は1956年生まれ、苅谷、広田らと同世代であるが、まさに山本ら「1968年」のラディカリズムのインパクトを正面から受け止めたうえでアカデミックな教育社会学を革新する、という課題を自らのテーマとしていた。その「批判的教育社会学」の問題意識の概要を、彼自身の言葉をもとに再構成してみよう。
「[20世紀中葉のアメリカ合衆国における——引用者註]教育社会学[ソシオロジー・オブ・エデュケーション]は、一方で規範主義的、他方で応用志向的な、前期的教育社会学[エデュケーショナル・ソシオロジー]の研究スタンスへのアンチテーゼとして台頭した。そのさい批判されるべきスタンスは「教育学的」という形容で一括された。この言葉が批判のメタファーとなった背後には、(真正)教育社会学の学問的自意識、すなわちみずからのアイデンティティを経験的・実証的な社会学に求め、教育社会学を下位社会学に位置づけようとする強烈な自己規定が存在した。」(森重雄「教育社会学小史」『東京大学教育学部紀要』第28巻(1988年)、82-83頁)
このように独立の学として自立して以降の「教育社会学」は「教育」を外的な対象とし、その客観的な分析を標榜する。そしてそのことによって、「教育」に内在し、その従属的構成要素にとどまる伝統的「教育学」に対する学としての優位を主張する。
しかし素朴なタイプの「教育社会学」=「社会学的教育分析」は「教育」という対象の実在性を疑わず、「社会学」によって「教育」を分析しようとする。しかしながら「教育」というカテゴリーは決して自明の、あるいは歴史貫通的に人類普遍の何ものかではない。伝統的な(規範的)教育学はしばしばそのことに盲目であった。
そもそも「教育学」は「教育」という対象を分析する科学ではなく、「教育」という営みの内在的構成要素である。それゆえにこそ教育社会学[ソシオロジー・オブ・エデュケーション]は「規範主義的、他方で応用志向的な、前期的教育社会学[エデュケーショナル・ソシオロジー]」から身をもぎはなしたのであるが、「教育」というカテゴリーの自明性を問わない点においては同断であった——森はそう診断する。
しかしながら「教育」という対象は決して自明なものではない。それは「近代」固有のカテゴリーであり、「近代性(モダニティ)」の不可分の構成要素である。「近代」というコンテクストを無視して「教育」を分析することはできない。
「〈教育〉という単純なカテゴリーはまったく近代的なカテゴリーである。われわれはことを近代的な・実在としての・教育の形式、すなわち〈教育システム〉を通じてはじめて獲得するのである。われわれは近代的実在としての〈教育システム〉さらにその単位である学校や教室の存在によって〈教育〉というカテゴリーを表象するのであって、その逆ではない。われわれは学校や教室や時間割や授業時間やという教育の形式を通じてのみ〈教育〉なるものを諒解する。そしてこの諒解を可能とする経験的実在たる教育の形式は、まったく近代社会に固有のものなのである。」(森「マルクス「主義」教育社会学・批判」『東京大学教育学部紀要』第24巻(1984年)、40頁)
「教育が社会学的に問題となるのはすぐれて近代以降のことである。なぜなら教育が実体をもった固有の社会的領域として・あるいはその反映であるが教育が単純なカテゴリーとして・成立するのは近代以降のことだからである。
なるほどわれわれは〈教育〉という近代的なカテゴリーを得たのち、これによって教育の系譜を問うことはできる。たとえば古代家族やギルドに教育機能あるいは教育作用を求めることができる。しかし、これは近代社会に生きるわれわれの観念的かつ抽象的な表象を通じた作業であって、少なくとも社会学的には主要なものではない。なぜならわれわれは、社会学的な問題とは、その対象が実際に社会的に固有の領域を占めてはじめて成立する種類のものであると考えるからである。けれどもわれわれは、この〈教育〉という単純なカテゴリー・あるいはこれを表示する社会的領域としての教育・の成立自体を社会学的に問題化することはできる。否、むしろ、社会学的な反省(reflection)の論理は、このカテゴリーを常識化し・これを出発点とするのではなく、この常識を常識たらしめる社会学的な条件の検討を通じて〈教育〉の社会的意味を社会学的に問題化せよと迫る。
われわれはこの後者の問題提起が社会学的な批判的反省を通じてのみ得られるという理由から、この問題を定立し、これの解題と解明をめざす社会学的努力を〈批判的教育社会学〉とよびたい。これの分析対象は〈教育システム〉である。これの解明点は単純なカテゴリーとしての〈教育〉の系譜を問うことではなく、このカテゴリーを成立せしめる当のものである社会的実在、すなわち〈教育システム〉の系譜を社会学的にあとづけることである。」(同上、41頁)
それでは森のいうところの「批判的教育社会学」とは具体的にはどのような営みとなるのであろうか? まず彼によれば、その分析対象としての「〈教育システム〉とは、実体としては近代公教育であり近代的学校制度である。」(同上)すなわち、「教育」というカテゴリーを「学校」に先行させ、「学校」を「教育」を行う機関として位置づけるのとは逆に、具体的な制度・施設たる「学校」をこそ、抽象的な理念・イメージとしての「教育」に先行しそれを生み出しつつ、そうした因果関係それ自体を抹消して「教育」を自明化する「教育システム」の中軸とみなすのである。
たとえば森は、17世紀末葉イングランドでジョン・ロックが学校に説き及んだ二つの論説、『教育に関する考察』と、議会に提出された『貧民子弟のための労働学校案』に着目する。前者は上流人士の子女に対して、学校外での、家長の監督下での家庭での教育を推奨する論説ながら、標準的な教育法としての「学校」の存在は強く意識されている。他方で後者はエリザベス(旧)救貧法体制下での救貧実践の一環としての、貧民子弟の授産施設としての「労働学校working school」についての提案の一例だが、森はそこでロックが「教育education」の語を使っていないことに注目する。そこにはよりはっきりと「教育」と「学校」との間の切断がみられる。この切断がすっかり忘れ去られていくなかで、「教育」は自明化していく。森はこのプロセスをイバン・イリイチに学んで「学校化としての近代化」と捉える。
「イリイチの脱学校論=学校化論は、学校教育そのものが近代社会にたいして直接の指示連関関係をもつことに、わたくしたちの目を向けさせる。すなわち、「近代化と学校教育」ではなく「学校化としての近代化」。このユニークな観点によれば、学校教育の本質をなす〈学校的なるもの〉−質的・能動的な価値追求(学習・発達)を制度的ケアの量的・受動的消費(学校教育)に変換して人間精神を去勢する儀礼一こそ力:近代社会を形成する当のものであり、それは病理の治療薬であるどころか、近代社会のまさしく病巣なのである。この議論には、学校教育に中心的独立変数の地位を与える特異な近代分析の可能性がうちだされている。」(森「モダニティとしての教育」『東京大学教育学部紀要』第27巻(1987年)、109頁)
「しかし、イリイチはここにとどまらない。かれは学校悪役/教育善玉論という二項対立の構図を発展的に解消し、やがて〈教育〉そのものの歴史性に言及するにいたる。すなわち、〈教育〉とは近代になって誕生した生活の−分野である、と。かれは「普遍的に善である神聖な〈教育〉が、近代社会では学校によって汚されている」とする脱学校=学校化論の枠組承から、「〈教育〉そのものが近代社会を生成する、あるいは〈教育〉は近代社会を他の社会—たとえば伝統社会—から区別するアイデンティティにほかならない」とする議論に傾斜をみせるのである。ここには、「学校化としての近代化」から「〈教育化〉としての近代化」へのテーマの深まりがある。」(同上)
すなわち、「教育」というカテゴリーを歴史貫通的に存在する実体とみなし、その来歴を描こうとする教育史学、そして「近代」という時空間のなかでのその位置取りと機能を卒然と分析しようとする教育社会学とは異なり、森の構想する教育社会学は、「学校」を中心とする「教育システム」をたんなる時空間ではない、複雑なシステムとしての「近代」の不可欠の構成要素とみなし、そのなかでの構造連関を明らかにしようとする。「教育」と「近代」は切り離しえない。そして「教育」は「近代」の下位システムである。森はやがてイリイチにならって「教育」という言葉自体に使用にさえ消極的となっていく。
しかしながら森によるこうした「教育」の自明性の解体は、じつは不十分なものに終わっているのではないか。何となれば森はここで「教育」という対象の存在を自明視し、それを卒然と分析する営みとしての「社会学」には就いていないが、「教育」という対象の自明視を解除し、それを生み出す「学校」という仕組み、そしてそれを取り巻く「近代」というコンテクストの実在性について、そしてそれを分析する営みとしての「社会学」の可能性に対しては、それほど深刻な懐疑を見せてはいないからだ。その早すぎた晩年において森は「批判的教育社会学」の立場を捨て、「社会学的教育分析」の立場へと移行してしまう。そして彼は「教育」という語自体の使用を、イリイチにならって括弧に入れるが、「近代(性)」そして「社会学」は放棄しない。
森の理論的到達点はおおむね1999年頃の諸論文(「教育言説の環境設定」『教育社会学研究』第54集、1994年、「近代・人間・教育」田中智志編『教育の解読』世織書房、1999年、「教育の〈エートル〉と社会構造のモダニティ」『教育学研究』第66巻第1号、1999年、「〈人間〉の環境設定」『社会学評論』第50巻第3号、1999年)にみることができるが、フーコーの影響がとりわけ濃厚なこれらの論文はしかし意地悪くみれば「批判的近代化論」の一バージョン、つまり「伝統社会」と「近代社会」の対比と「近代社会」の異常性を強調するタイプの、いまとなってはじつにありがちな議論のバリエーションである。後知恵を承知でいわせてもらえば、もちろんその先駆性は明らかであるが、早晩行き詰まりになることを運命づけられてもいた。
もちろんそれは「素朴な近代論」とは異なり、「近代性」の内在的な構成契機のなかに人間性、フーコーが『言葉と物』のなかでその出自の新しさを指摘し、やがては消滅すると予言した「先験的=経験的二重体」としての「人間」をも含み込んでいる。「教育」が近代固有のカテゴリーだというのは、その系論にすぎない。すなわち、「教育」とはこのフーコー的な意味での「人間」の形成に関わる概念なのであり、その意味で徹頭徹尾特殊近代的である。
しかしながらここで森が看過している問題がいくつかある。ひとつには、「教育」いわんやその上位概念たる「人間」が特殊近代的なカテゴリーであるならば、「社会」もまたそうなのではないのか。そうだとしたら、それを対象とすると称する社会諸科学、なかんずく「社会学」もまた、特殊近代的なカテゴリーであるのではないか。(この問題につき拙著『社会学入門—“多元化する時代”をどう捉えるか』NHKブックス、2009年。また「社会的なるもの」を社会学が自明視することの問題性については市野川容孝『社会』2006年を参照のこと。)
われわれは「社会学」もまた「近代」の所産であり、「近代」固有の知である、と考えるべきではないのか。となれば「社会学」という営みは「近代性」の自己省察でなければならない。そのことに無自覚な「社会学」は、素朴で無自覚な「教育学」が「教育」のたんなる内在的構成要素であるのと同様に、「近代性」のたんなる内在的構成要素にすぎない。「社会学」は「近代性」についての自覚的な科学であらねばならないが、その課題は「近代性」の外に脱出することによっては達成されえないのである。何となれば、「近代性」からの脱出によって社会学は定義上「社会学」ではない何者かに変じてしまうだろうから。
このように考えるならば、もし仮に「批判的教育社会学」というものが可能であるとするならば、それは「近代性」の内在的構成要素としての「教育」についての、たんなる外在的客観的分析というよりは、「近代性」の内省的省察であるがゆえに、自身が必ずしも「教育」に外在してはいない——まったくその下部に包摂されはしないまでも、不可分の関係にある——ことを自覚してなされる、つまり「近代性の一端としての教育についての自省的省察」として遂行されなければならない。
しかしながら「教育」の自明性を括弧に入れるための足場としての「社会学」をもまた括弧に入れるのだとすれば、ここで(「批判的」であろうがなんだろうが)教育社会学の、(「教育」カテゴリーを自明視し、そのかぎりで「教育システム」の内在的共犯者たる)教育学に対する、学としての優位性もまた根拠を失うといわざるを得ない。
1990年代以降、教育社会学者のみならず、(規範的)教育学者まで含めて、ニクラス・ルーマンが広く注目を集めたのは、こうした「社会学そのものの自明性を解体しようとする社会学」を彼が構想しており、その立場から既存の社会学による規範的教育学や法解釈学への批判を痛打した——教育学や法律学がドグマティックであらざるを得ないことには理由があるのに、素朴な社会学はそれに気づかない——からであろう。
そして森が足をとられたいまひとつの問題は、以下のようなものではないかと私は推測する。
「教育の自明化」の罠から脱出した森は、その反対の「近代の特権化」の罠に陥っていた可能性がある。近代特有の何ものかを歴史貫通的・人類普遍的な何ものかと勘違いするという罠を回避した一方で、「近代性」を実体化し、それが「近代」という時代固有の何ものかである、という錯覚に陥ってしまった可能性が。
しかし「近代性」とは「近代」において目立つようになった何事かではあるにしても、決して「近代」固有のものではなく、古代にも中世にもまたあるいは「ポストモダン」においても発見されうる契機であろう。「教育」や「人間」が己の特殊近代性を隠蔽して歴史的に普遍的なカテゴリーたることを僭称しているのだとすれば、ことに社会学が強調するところの「近代性」は逆に、己の特殊性、「伝統」との断絶を強調することによって何かを隠蔽しているのではないか、と問うことはできないだろうか。
たとえば近代以前は拡大家族が主流であり、単婚小家族、あるいは核家族世帯が一般化するのは近代以降、というかつて広く信じられていた俗説は、少なくともヨーロッパなどいくつかの地域においては覆されて久しい(たとえばいわゆる「ケンブリッジ・グループ」の歴史人口学の研究成果をみよ)。となれば問われるべきは、「にもかかわらず「核家族イデオロギー」とでもいうべきものはたしかに比較的新しく、かつては実態から乖離した「大家族イデオロギー」的なものがたしかに成立していた。それはなぜか」ということになるだろう。
しかしこうした事情に無自覚なままに「近代性」にこだわることは、自らを「近代」という閉域へと追い込むことに他ならない。
死者に鞭打つようで酷な指摘となるが、晩年の森は教育史学者の寺崎弘昭に対して、「自分の仕事を剽窃した」との誹謗を投げつける。実際には寺崎が反論した(『教育学研究』第66巻第3号)ように、この誹謗は基本的には事実無根の被害妄想であるといわざるを得ない。ただし森の側にはそれなりに痛切な「根拠」があったといえる。
森が問題とした寺崎の作業は、主に西洋を対象とする「教育」「養育」の概念史とでも呼びうるものであった。一見したところそれは森が批判したような、「教育」というカテゴリーを自明視し、その来歴を近代以前、中世古代にまでさかのぼるという倒錯にみえかねない。
しかしいうまでもなく寺崎の作業がその程度のものであるならば、森が彼を剽窃のかどで告発する必要などはない。そうではなく寺崎の作業は、近代の、われわれの「教育」という概念、というより言葉の来歴を過去にさかのぼっていくと、そこには近代とは別様の思考様式、言葉の意味連関が存在していて、「教育」の祖先にあたる言葉・概念は、そうした近代とは構造的に異質な意味世界のなかで、近代とは異なった——しかしまったく無関係でもない——意味を担い、別のはたらきをしていること、を示している。これは少なくとも森と同程度には洗練された問題意識に導かれた作業である。しかも森とは異なり、その射程は近代を超え、中世、古代にまで伸びている。ここに森は無意識のうちに脅威を感じ、防衛反応として「剽窃」とのいいがかりをつけたのではないか。
「近代性」の学としての社会学は、恣意的という意味で「自由」な選択として「近代性」を対象とするわけではない。社会学は否応なく「近代性」の一部なのであり、むしろ社会学とは「近代性」によって語らされているのである。むろん誰しもが「近代性」によって語らされているのであり、社会学とはせめてそうした拘束を自覚しようという運動である。そのような意味での社会学の一環としての「批判的教育社会学」においては、「教育」という対象もまた当然、恣意的という意味で「自由」に選ばれているのではない。われわれは好むと好まざるとにかかわらず「教育」によって規律訓練され、「教育」によって語らされているのであり、「教育」から自由ではありえないのだ。
——だが以上のような認識の緊張に人はどれほど耐えられるのか? 森はおそらくはその晩年において、教育から逃避しようとした——とはいわないまでも距離をとろうとしたのではないか。しかしながら彼はおそらく、「近代」からは逃げられなかったのである。
2.佐々木輝雄——職業教育という辺境から
このように考えたとき、森の没する(2006年)そのさらに20年ほど前(1987年)に倒れた職業教育研究者、佐々木輝雄の到達点はきわめて興味深い。森については、その活躍時期のみならずその仕事の内容についても「先駆的ポストモダニスト社会科学者」と呼ぶことに異論は出にくいだろう。しかし華麗で攻撃的なレトリックを駆使する(そして勇み足をしでかす)森とは対極的に、一見したところ佐々木はいかにも地味で伝統的で、しかも周辺的な教育学者である。
しかしながら、おそらくは普通の意味での、つまりは最先端の流行思想としてのポストモダニズムなどまったく意に介しなかったであろう佐々木だが、「ポスト中等教育」という言葉遣いを苦笑とともに引き受けていた彼もまた、「ポスト何々」といった物言いの存在は十分に感知しており、そのかぎりではポストモダン的状況についての、デファクトな自覚はあっただろう。そして彼の直面していた課題は、私見ではまさしく「ポストモダン」状況下での職業教育の可能性そのものであった。そしてそれはある意味で、森の入り込んだ隘路に対するひとつの処し方を例示するものでもあったのである。
没後編まれた全3巻の著作集の第1巻の題名『技術教育の成立』はミスリーディング、を通り越して間違いの域に達しているとさえみえる。本書では普通の意味での「技術教育technical education」あるいは「職業教育occupational/vocational education」については(著者自身の主観的希望はどうあれ)論じられていない。そもそも「教育」について書かれているのかどうか自体、定かではない。教育に関心のある読者よりも、むしろ救貧法・福祉国家、社会政策に関心のある読者の方が、この本を楽しむことができるだろう。偏ってはいるが見通しはきわめてよく、イングランド救貧法体制についての入門書としても使うことができる。
本書の実際の主題は、先にも触れた、イングランドのワークハウスworkhouse制度、つまりは後期旧救貧法体制である。house of correction, poorhouse, working schoolなど、さまざまな呼称で呼ばれたこの時代の貧民収容施設には、労働能力ある貧民や児童を強制的に働かせ、必要とあれば職業的技能や一般的教養を伝習することも行なった。
おおむね内戦=市民革命期の混乱以降に発展したワークハウスに先立っては、貧困児童の救済制度としては、通常の場合と異なり、親=家族がではなく、コミュニティである教区が、親方商工業者に依頼して、そのもとで児童を徒弟修業させる教区徒弟制が存在していた。しかしこの制度は、ギルド的な徒弟制全般の衰退にともなって機能不全となり、保護者のいない貧困児童の救済と授産の主体もワークハウスに移行していった。しかし産業革命期に、工場における未熟練の児童労働への需要が増えてしまうと、ワークハウスの孤児のみならず両親とともにある子どもも含めての児童労働一般が社会問題となる。児童労働一般の規制(工場法)と、庶民の子ども一般に対する公教育が政策課題となったがゆえに、ワークハウスでの規律訓練は一般児童の初等学校教育に吸収・解消されていく。
ところでよく知られているようにそもそもイングランドにおいては、今日的な普通の意味での「技術教育」「職業教育」、徒弟制の延長のlearning by doingではない、システマティックな職業的技能・知識の伝習は、せいぜいのところ19世紀末からのことである。だとすれば、本書の題名は羊頭狗肉で、著者がしばしば「技術教育」なる語を用いているのは不用意な過ちなのか?
必ずしもそうとばかりはいい切れない。もし仮に著者の「技術教育」「職業教育」研究がここで終わっていたとしたら、そういってしまっても構わなかったかもしれない。しかしながら(旧)労働省所轄の特殊法人雇用職業事業団(1999年廃止、職業訓練業務は特殊法人→独立行政法人雇用・能力開発機構に承継)が運営する職業訓練大学校(現・職業能力開発総合大学校。2011年10月の雇用・能力開発機構廃止に伴い、独立行政法人高齢・障害・求職者雇用支援機構に移管予定)に職を得て、その後一貫して(学校での)職業教育と(公共施設・企業での)職業訓練の研究をつづけた結果、おそらくはからずも著者は、ワークハウスにおける訓練——「授産」とでも呼ぶのがもっともふさわしい営みが、まさに現代の公的職業訓練の原点に当たるという結論にたどり着いてしまっているからだ。
最晩年の講義「職業訓練の歴史と課題」は本来公開を目的とされたものではなく、公共職業訓練関係者という「仲間内」で行われたものであるがゆえの異様な迫力があり、本来なら決して(語られこそすれ)書き残されなかったであろうこと、普通の意味では「語りえずただ示されるのみ」であるようなことがあっさりと活字になってしまっている、という意味で、丹念な読解に値する稀有な言説群である。
佐々木はここで自らの研究のみならず、広く近代日本教育史研究の常識を踏まえて、以下のように展望する。
「先ず、これは明治一○年段階、一八七七年段階で、我々の先祖は、一番金をつぎ込むのに、(中略)西洋科学・技術文明の移入消化をする窓口として東京大学をつくり、そこに必要な人材を集めた、お雇外国人も雇いました。チャチな研究者を雇った訳ではございません。当時、明治初期に日本に招聘された科学・技術者というのは、最先端の人達だったと云う事をよく聞きますね。その代わり、相当高い金を払っている訳です。さっきも申し上げた、大臣以上の金を払っていた。で、最先端の人から、最先端のものを日本人に教える、そういう大学を創ろうとしたのですが、当時の日本人の数学とか、物理とか、外国語能力がございませんから、東京大学の水準を落とす訳にまいりませんから、当時のヨーロッパの大学の持っている水準と同じものを設定しますから、その教育に耐え得る人材はいないもんですから、外国に留学に出すと同時に、そういう大学に入れる予備校を下に造った、こんな形になる。そして一般庶民に画一的に、全国画一的に読み書き算盤の教育組織をつくる。この間はまだつながらない訳です。高等教育と、初等普通教育にエネルギーを注ぎました、とこうなる。職人養成だと云うのは、必要でもそこに国の金と時間は割り振られなかったと云う事になる。
それが次の段階、(中略)明治の二五年段階になりますと、(中略)東京大学に入って、外国の教科書を使って、外国の教師から、数学・高等数学・物理・工学を教えられこれを理解できるような人材がつくられたのですが、これがこういう大学に入るための旧制の中学校であり、旧制の高等学校ですね、そして大学となります。それと同時に初等教育が横に普及していく。横に普及していくと同時に、ここにつながってきた。これが大体、二○年段階の中頃に現れた。この段階でもなお且つ、職業というような教育について、具体的に、国がそんな教育に金を投入することはない。つまりこれが先ず一つの主要幹線コースとなる訳です。ここに金が集まります。
次の段階になりまして、ようやく、明治三三年、二○世紀になりまして、初めて、ここに、所謂、当時の言葉で云いますと実業学校というようなものが、二○世紀になって初めて、そういう人材養成の教育システムが創られた。これは、近代産業社会の機械制工業の所謂工場の中の中堅を担う人達の、現代風に云うと工業学校に当る、そういう部門に教育のシステムが創られた。で、こっち側が新幹線コースであれば、これは地方の主要幹線に当る。中堅者、軍とこれが士官養成で、これが下士官養成で、ここが兵隊に当る。ここの人は、何の知識・技能も持たないで現場で働く。そういう形になる。
で、職業訓練について、国の金が投入された段階は、(中略)大正時代になって、初めて、(中略)金が割り振られるようになる。なぜ、そうなったか。つまり、今云った、日本の人材養成の中で、職業人の養成だとか、所謂職業訓練が担うような部分の教育と云うのは、日本の人材養成の要求度からすると、必要度があってもランクが低いと、いうことです。いいですね、これは歴史的事実です。必要性があればもっと早くからできただろうと思いますが、必要性があっても必要度が低かったと云う事です。」(佐々木輝雄「職業訓練の歴史と課題」『佐々木輝雄職業教育論集 第3巻 職業訓練の課題』多摩出版、1987年、335-337頁)
日本国家近代化の過程のなかで、政策的優先度が低いからこそ、いわゆる「職業訓練」は後回しにされたという。ではこの大正時代という時点において、いかなる理由で、公共職業訓練は導入されたというのか?
佐々木のみるところではこうだ。
「歴史的には大正十年位に、一九二○年代位になって初めて、国がこう云う授産だとか補導施設という現在の職業訓練と云うものに金と時間を割り振るようになった。そう云う、割り振らざるを得なくなったという云い方をしてもいいですが、何故そうなったか、と云いますと、先ほどの見ていただきたいんですが、国民の大半は、初等教育だけで、生産現場に働く、と云う形になっている。そうすると、この人達は、知識とか技能というのは、知識・技能はないと。」(同上、337-338頁)
「こう云う人達は、こういうコースだとか、こういうコースを歩んだ人達よりも、世の中の変動に対して弱いという。何故なら彼等は、知識・技能を身に纏うチャンスを与えられなかったから。裸のままに、寒い冬の中にポイと出されたから。だから、彼等が、自分の身を守る為に、職業としての知識・技能と云うのは職場の中で、生産しながら身につける以外に術はなかった。術はなかった。で、そう云う人達が、国民の八割位がそうだった訳ですが、変動が、ここに、日露戦争、それから第一次世界大戦、これからはもう先生方にこんな事説明する必要はない。日本の産業が膨張していくプロセスで、変動の巾は益々激しくなりますから、この人達は知識・技能がないから、彼らは、常に失業という問題にすぐ当面して来る、と云うことですね。」(同上、340頁)
「よーく歴史的な事実として、公共職業訓練は失業救済としてスタートしてきたと、それは誰でも云う訳です。現象はそうあったんですから。そうではなくて、何が問題なのか、これは何を意味しているかと云うと、知識・技能を持たないと云う事は、人間として生き働く事を常に危険な状況に置いている事と同じだと云う事です。で、世の中と云うのは不平等ですから、常にそういう集団を抱え込んでいると云う事です。そういう集団に対して初めて彼等が生き、働く事を、彼等に何とかしようとした時、失業救済という言葉に置き替えたっていいですよ、置き替えた時、教育訓練と云う事を、好むと好まざるとに係わらず、これを忍び込ませないと成り立たないと、いいですか。もう少し学問的に、格好良く云うと、人間的にとこう云う。人間的にと云うと、何でも説明できますからね。職業訓練って何ですか、と偉い人に云われたら、人間的にーと、こう云い出すとね、演説ぶったようになりますから、うまい言葉ですから、適当に帰って……。で、人間的に彼等が生き、働く事を彼等に保障する、せざるを得ない立場に立った時に、教育訓練、当時の言葉で云うと授産とか、補導とか、そういうものを社会が、ここに金を投入せざるを得ないと。」(同上、341頁)
そして彼はこう畳み掛ける。
「さて、そう云う今云った動機で出てくる教育訓練と、先程云った近代日本のスタートで支えられた学校教育に代表された教育システム(中略)とは、A同じなのか、B思想的に違うのか、C佐々木の云ってる事は分らん、A、B、Cどれですか。」(同上)
「私は、職業訓練と云うのは、立身出世だとか、国が必要不可欠としている人材養成とか云う側面よりも、一人の佐々木という人間が、生きるか死ぬかの瀬戸際に当面した時に、そのコアとなる、中核となる教育訓練が、職業訓練そのものなんだと、考えてる訳です。もう少し学問的に云うと、生きることはこれは生存権、働くことは勤労権、これは、教育権、これは学習権と云ってもいい。で、職業訓練の存在そのものは、私的に云うと、生き、働くという事と、学ぶと云う事が、三位一体、不即不離、どれが上でどれが下とかでなく、それが三位一体で成り立つのが職業訓練なんだと。歴史的事実としての職業訓練はそうなんだと。失業救済として公共訓練はスタートしました、と云ってる言葉の背後にあるものは、だからそれは、近代学校教育のような、人材養成だとか選別機能とは異質なものなんだと、ここでの営みは。」(同上、342頁)
つまるところ公共職業訓練とは、社会的弱者の救済のための社会政策であり、その尊厳を守り権利を保障するための防波堤なのだ——と佐々木は言わんばかりである。しかし彼はそこで話をやめるわけではない。
「きて、そういう事から、今度は、現実の動きを見て行きたいと思います。例えば世の中と云うのは、私が申し上げたような発想はそうであっても、現実に葉っぱを出し実を成らせると云うものは、真空ではなく、現実の中では利害関係があります。先生方が訓練費用を貰う為には、今、総訓の先生方が養成訓練が必要だととうとうと喋ったって、何を云っとんのか、こう云われるでしょうね。向上訓練をやっています、在職者訓練に非常に評価が高こうございます、とうまい事嘘云って(笑い)金を貰う、という形になる訳です。いいですか。先生方の立場からは全部そうです。(中略)手練手管、左に行ってはこう云う、右に行ってはこう云う〈笑い)。そして銭取ってくる、と。これが先生方の役割だと、私は思っている。純真だから、あの先生はいいんだが、なんて云うのはバカにされているという理解を今後はせなきゃいかん(笑い)。その為に、だけど、魂まで売ってしまったら駄目なんで、確固たる職業訓練観、教育観が必要だと、こう云っている訳です。」
いきなりここで佐々木は下世話な本音トークを切り出した、とみえる。しかしそこで「魂まで売ってしまったら駄目なんで、確固たる職業訓練観、教育観が必要だ」と念を押すことを忘れない。では、その「確固たる職業訓練観、教育観」とはなんであるのか? 先ほどの「生存権、勤労権、学習権の三位一体」のことか? もちろんそうなのだが、ことはそれにはとどまらない。重要なことはもちろん、この「魂」を大事に抱え込むことではなく、それを重しとして抱え込みながら「手練手管」を尽くすことであり、「魂」と「手練手管」もまた不即不離でなければならない。
さらに具体的にみていこう。
戦前までの歴史を回顧したうえで、佐々木は戦後、高度成長期に目を転じ、有名な経済審議会答申『経済発展における人的能力開発の課題と対策』(1963年)に触れる。
「人材養成訓練というのは、人ではないんですよと、正直に経済審議会は云っているんですよ。自分達は労働力を云っているんですよ、労働力の教育訓練を云っている、いいですね。そう云ったもんですから、今度は、当然、いや教育訓練というのは、人の教育訓練であって、何も労働力の教育訓練ではないよと、いう論が出てきます。これをつなぐ為の理論武装をしなければならない、当然。この理論武装が実は非常にむずかしい理論武装で、これに文部省も、労働省もまいっちゃった訳です。(中略)。で、理論武装をどうしたらいいか、と云いますと、その理論武装をしたのがですね、この人的能力部会のですね、養成訓練分科会がですね、その理論武装をやった。」(同上、346頁)
「[以下カギ括弧「」内は経済審議会答申、人的能力部会養成訓練分科会報告からの佐々木による引用——引用者註]「このような産業界の動向に対して要請されるマンパワーを養成する教育訓練の体制は、従来のままでは必ずしもこれに即応する姿にならないと考えられ、このことは将来の経済発展、ひいては国民の福祉の向上に重大な問題を提起するものと考えられる。本分科会は、以上のような観点からこの経済成長との関連において問題となる人の養成訓線の諸問題を検討し、」その人の「その方向づけを行なってきた。」と云ってる。
つまり、経済審議会の総括答申では、経済と教育とは労働力の教育訓練だとこう云ったんです。しかし、養成訓練分科会の人は、理論的武装をせんなん為に、ここでは経済成長と関連のある問題となる、ここでは人の、人の養成訓練の諸問題だ、と、こう云った。そこの説明が以下です。(中略)
「もちろん教育の究極の目的は人格の完成であり」、勿論教育、職業訓練の究極の目的は人格の完成であり「人間形成を通じて個人の福祉の向上を計ることである。人間はすべての政策の究極の目標であって、手段ではない。」労働力の、国のために人間があるのではない。「したがって産業界から与えられる教育面への要請を検討する際も、教育本来の目的との間の関係について正しい認識が」いる。
いいこと書いてますね。さてその後です。
「ところで、人間形成と経済の方向に見合った教育ということは」、人間形成と経済の方向に見合った教育、あるいは職業訓練というものは、「対立する概念ではなく、密接に関連しているものである。人間の孤立した生活は考えられず、社会経済の仕組の中の一員として生きていくものである以上、人間形成とは社会人として、経済人としての人間の形成を重要な要素として含むものである。そして、経済の高度成長それ自体が国民の福祉の向上を究極の目的としている以上、その経済のためのマンパワーの養成は教育目的」であり八人間形成、人格の完成という教育目的と「一体の関係にあるといえよう。」と。
こういうように、二つの文章をつないでくれたんです。これで一安心、我々の職業訓練は、だから、これに乗っかつて、どんどんと普及させていけばいい。学校教育もどんどんと普及させていけばいい。こうなった訳です。」(同上、351-353頁)
「正に僕が云いたいのは、職業訓練と云うものが、学校教育と同じ人材養成に役に立ちますよという所に身をにじり寄せて、初めて職業訓練が社会的に、量的に普及するんだと、こういう風になる。だけど、職業訓練、特に公共職業訓練の元々の基本的な性格はそこにはないんだと、むしろそういう風なんであれば学校の方が本丸なんです、昔から。そこで、僕達の職業訓練の混乱と云ったらいいんでしょうか、非常に難しい立場が僕達に置かれている。いいですか。(中略)本質はどっちかと云うと、余り国の富の増加に役に立たないところの教育訓練というところがほんとうの職業訓練の良きのところなんですが、それを前面に出しますと、世の中は、そんなに許してくれない訳です。全く社会行政、厚生行政に徹すれば別ですよ。ああ気の毒だと、徹しきればいい。しかし、そんなこと厚生省がやってくれる。労働省はそれに徹しきれない。じゃ、産業の担い手を養成しますと云ったら、文部省の方が先です。通産省からの計画がボンと行ったら、文部省は膨大な予算使ってやる訳です。で、労働省がやると、通産省の下請省的な事をやらざるを得ない。銭も少い。非常に僕達が、こういう矛盾の狭間にずーつと、今迄もいたし、これからも、僕はこう云う立場に置かれると思います。」(同上、354-355頁)
佐々木は結論として、公共職業訓練がマージナルな存在であり、そのようなものでしかありえないことを認めてしまっている。学校教育の中心が職業教育ではなく普通教育であり、職業訓練の中心が企業内訓練であること、労働市場と学校教育とはそのようなかたちでそれなりの均衡をつくり上げてしまっていること、それゆえに公共職業訓練とは、そこから零れ落ちる弱者の救済の仕組みでしかありえないことを認めてしまっている。
そのようなものとしての公共職業訓練を佐々木は肯定するのだが、すでにみたとおりその肯定のそぶりは一筋縄ではいかない。パラフレーズしよう:
あなた方、公共職業訓練の推進者たちは、決してそのような、公共職業訓練に関する真実を口にしてはならない。そうではなく「公共職業訓練は——ただ単に弱者救済としてではなく——役に立つ!」と声を大にしていわなければならない。社会の後衛ではなく、前衛であると強弁しなければならない。そうしなければ公共職業訓練は、その本来の役目さえも果たすことができないだろう、と。
「近代性」のメインストリームは学校であり、企業である。もちろんそこからおちこぼれてしまう人々は存在し、それを救うことは必要である。あるいはときに人びとは「近代性」に倦んでしまい、その周縁に対して優しいまなざしを向けることもあるだろう。しかしながらいずれにせよ、大勢としては世の中は「近代性」に支配され、学校と企業を中心に回りつづけるのだ。そこからこぼれおちる人びとを救う営みは、決して主流にはなりえないだけではない。自らもまた主流への忠誠を誓ってみせさえしなければならない、と。
これはある意味、恐るべきシニシズムでありニヒリズムである。だがそうしたシニシズムとニヒリズムを情熱と共存させるのが、「プロ」というものだ。佐々木はそう語っている。
公平を期していえば、もちろん佐々木もまた弱音を吐いている。講演の最後に佐々木は、マーティン・トロウの大学論、「エリートからマスへ、マスからユニバーサルへ」という高等教育普及の段階論を踏まえて、ある意味で「ポジティブ」な展望を語ってしまっている。
「大衆化してきますと、(中略)高卒後ストレートに大学に進学して、中断なく学習し、デグリーを取得する、これがエリート型の大学。ところが、マス型になると、ノンストレート、ストレートではない。ドロップ・アウトの比率が高い。それから更に進んでいきますと、特に高卒からすぐに入る訳でもない、入学時期の遅れや成人が増加する。ストッピング・アウト、途中で一時休止する、又、現場に戻って、又勉強したくなったら戻ってくる。そうシステムができる。で、現代の学生は勉強意欲がないという現象で説明するんではなくて、実は僕達の教育観、そのものが過去の教育観では抱えきれない状況にきているんだと云う理解をするのかしないのか。今、申し上げたのは、資料を見たのですが、いくつかを見ていきますと、実は職業訓練がいまだに、エリート型価値尺度から見られた時に、うさん臭く、安かろう悪かろう、そのような教育・訓練のように見えましたけれども、実はそこで僕達が身に付けた知恵とノウハウは実は今正に、今正にこの大衆化された社会の中で、とても大切なノウハウを僕達は持っているのではないだろうかと。
失業者の教育訓練について、各種学校はやってくれるんでしょうか、文部省はやってくれるんでしょうか。ただ出来るんでしょうか、文部省系各種学校の人材が。あるいは在職労働者の教育訓練を東京大学はやってくれるんでしょうか。多分、混乱するからかなわん、と云うと思います。そうじゃないでしょうか。そう云う、在職者の教育訓練のノウハウはどこが一番日本では持っているでしょうか。私は職業訓練校だけとは云いませんけれども、訓練校はたくさんそのノウハウを私達は持っている。」(同上、362頁)
これをあえて「弱音」と呼ぶ理由は、ここで佐々木はシニカルな強弁ではなしに公共職業訓練のポジティブな意義についてアジテートしてしまっているからだ。もちろんそれは完全な欺瞞などではなく、相応の真実を含んでいるのだが、それでも「職業教育こそがこれからの主役だ」ととられかねない点において、佐々木はそこで踏み越えてしまっている。シニシズムをこえてまっすぐ語ってしまっている。「魂」と「手練手管」が矛盾することなく一致する理想の境地があるかのごとくに。
3.教育のポストモダンとは?
佐々木のスタンスを「ポストモダン」的と見なすべき理由はすでに明らかであろうが、念のために説明しよう。
森の教育批判が、あたかも超歴史的かつ普遍的であるかのごとき「教育」更には「人間」というカテゴリーが、実は近代社会システムが生み出した特殊歴史的な仮構であり、近代の学校教育とはそうした仮構的規範へと人々を規律訓練していく権力機構に他ならないことを告発するものだとしよう。しかし森はもちろん、そこからの脱出路は示さない。更には、こうした近代への批判・告発、それを支える社会学的知それ自体が、他ならぬ近代社会システムの所産であり、それゆえ「教育」「人間」と同様に近代によって先回りされ、囲い込まれてしまっていることに気付いているかどうかも定かではない(おそらくは気付いてしまったがゆえに晩年の沈黙がある)。
もう少しだけ詳しく言い直そう。いまやよく知られているように、『監獄の誕生』においてフーコーは、「人間の内面は、あらかじめそこにあって、それが監獄や学校といった装置によって抑圧されたり成形されたりするのではなく、まさにそれらの装置のはたらきを通じて創出されるのだ」と語り、『性の歴史1 知への意志』において、「いわゆる「性の抑圧」は自然にそこにあるセクシュアリティを押さえつけていたのではなく、まさに押さえつける身振りを通じて人々の間にそれへの視線、それへの関心、それへの欲望を煽り立て駆り立てていた、つまりセクシュアリティそれ自体を構築していたのだ」と論じた。このような意味において「権力はポジティブで生産的」なのである。そしてこの意味での「人間」を対象とする人文諸科学、人間科学(もちろんそこには教育学も含まれる)は権力の構成要素に他ならない。
しかしながらこのように権力が「人間」、近代的な意味での人間性を生産しているというのであれば、近代的な意味での「社会」もまた権力による生産物であるとはいえないだろうか? 素朴に考えれば、「教育」そして「人間」が近代社会システムとその権力作用の所産だとすれば、それらを捨てて別の社会システムに移行することによって「教育」「人間」と縁を切ることが可能である、ということになるかもしれない。しかしながらそこで前提とされている「社会」についての思考が、構造的に「人間」と全く同型で、いわば二の轍を踏んでしまっている可能性はないだろうか?
「人間」が「経験的=先験的二重体」であるとは、現実存在としての人間が特定の性質、個性をそなえた生身の具体的=経験的存在であると同時に、理念としての人間が「理性」とか「自由」といった観念を体現する超越論的(先験的)地平、あれこれの具体的な実在を超えた可能性の織り成す空間でもある、ということだ。たとえば「宇宙人」という概念のことを考えてみればよい。他の天体から来た、明らかに人間ではない生物でありながら、人間にとって理解可能な知性を備えた存在を「宇宙人」、つまりは何らかの意味での「人間」であると定義するならば、そのとき「人間」という言葉の意味はどうなっているのか? ここで「人間」という言葉は、個体であれ類であれ、何らかの具体的な存在を指すものとしてははたらいてはいない。
さてここで言いたいのは、近代、ことに社会学の成立以降の「社会」という概念もまた、同様に「経験的=先験的二重体」になっている、ということだ。先に「「教育」そして「人間」が近代社会システムとその権力作用の所産だとすれば、それらを捨てて別の社会システムに移行することによって「教育」「人間」と縁を切ることが可能である」という素朴な思考を例示してみた。ここでは「社会」を巡る思考は、あれこれの具体的な社会システム、そこでの人々の生活とそれを律する規範や慣行の具体性のレベルと、そうした具体的な社会システムが多種多様にありえるという可能性のレベルの両方を往還している。社会学的思考とはまさにこの往還のことであり、それが市民社会レベルに浸透した局面をアンソニー・ギデンズにならって「再帰的近代」と呼んでもかまわないだろう。
「学校」のうっとおしさから逃れようとしても、それが「学校が教育を歪めている」という思考の枠内でのことであれば、問題の核心は取り逃がされている。そこで「教育」それ自体から逃れよう、と問題設定を変えたとしても、それが「教育が人間性を歪めている」という思考の枠内にとどまっているのならば、やはり「人間」という理念の権力装置の下にあることになる。そこでいっそ「人間」から解放されよう、と別の社会システムの構想に賭けてみたところで、この思考もまた、「社会」という強迫観念の下に拘束されてはいまいか――と意地悪く言えば言える。
このような森のポストモダン的堂々巡りに対して、佐々木はそもそも「教育」からの脱出路など示さないのはもちろんだが、そのようなことを求めてもいない。もちろん佐々木も教育に対して無批判ではない。佐々木は日本近代の教育システムの基軸が、先端的な学術研究教育機関としての大学を頂点とする序列構造であることを認めてしまっている。それはあからさまなヒエラルキーであり、そのもとで差別され排除される人々を生み出す。佐々木が考える職業教育とは、そうしたヒエラルキーに押しつぶされ、あるいはそこからこぼれ落ちた人々を救済する取り組みである。
しかしそれは決して近代学校教育に対するオルタナティブなどではない。それはあえて言えば、近代学校教育の下位システムであり、補完物である。職業教育もまた、近代学校教育が抱える「教育」「人間」というカテゴリーを受容し、その規範に合わせて人々を調教していくシステムの一環ではある。ただしそれは「教育」「人間」の普遍的かつ抽象的な規範だけでは、生身の人間を規律訓練しきれない、という現実から逃げないし逃げられない領域で活動している。
メインストリームとしての学校は、現実には選別と排除の機構を備えており、そこに適応できない人間をある程度は排除しても許されるし、また排除することなしには十全に機能できない。しかしその一方で、規範的にはそうした排除は望ましくないことである。学校を駆動するのは「教育」による「人間」の完成可能性、という理念であるからだ。このギャップを素直に批判するのが、最も素朴なタイプの批判的教育学であり、それはもちろん「教育」による「人間」の完成可能性を素直に信じる(振りをする)点においてメインストリームの教育学の一翼を担う他はない。これに対して森がその一例である「批判的教育社会学」は「教育」による「人間」の完成可能性の鼓舞と追求が、マッチポンプであることを指摘し批判する。これは典型的な「フーコー左派」「左翼ポストモダニズム」の作法である。しかしながらそうした批判の所作は、意地悪く言うなら「批判」による「社会」の変革可能性という理念を抱えてのマッチポンプなのかもしれない。
佐々木はそのような夢から、極力距離をとろうとする。
「教育」による「人間」の可能性という理念が抑圧的で暴力的である理由の一つは、それが抽象的で具体性を欠いているからだ。理性的で自由でありさえすれば、その限りで自分の能力を望むままに発揮しさえすれば、人がどのような存在となり何をしようとも肯定する、という形式的には極限的に寛容なその建前が、そうした寛容さからもこぼれる人間がいるという事実、あるいはその建前を掲げる現実の人間や制度が、実際にはどうしてもその建前を貫徹できないという事実を認めがたくする。あるいはそのような理念の暴力性を批判したとしても、そうした暴力性を廃した社会を建設できる、という理念が、同様の問題をはらみうる。
それに対してたとえば古典古代的な立場、とでもいうべきものを考えてみよう。先の「教育」による「人間」の可能性という理念は言い換えれば近代ヒューマニズムであり、現代政治哲学・道徳哲学のボキャブラリーに置き換えれば「リベラリズム」のそれだということになる。この意味でのリベラリズムは人格の尊厳の絶対性にコミットするがゆえに、人格それ自体を――いわば無限大の価値をはらむがゆえに――評価の対象としない/できない。それが評価するのはただ行為のみである。それに対して、リベラリズム批判として20世紀末以降注目を浴びるコミュニタリアニズムは、古典古代的な「徳」の倫理学への回帰であり、行為よりも人格それ自体を重視し、人格それ自体の評価を回避しない。
徳倫理学のスタンスからするならば、リベラリズムとの場合とは異なって「理想的市民」「立派な人」の具体的なイメージが明確に結ばれると同時に、それが具体的であるがゆえに、人間の無限の完成可能性という理念はむしろ放棄される。理想的な人間像から外れざるを得ない人間、人格において低劣であったり弱かったり人間が存在することは避けようのない事実として認められ、そうした人間の救済や規律訓練は、できればないことにしておきたい汚い裏仕事ではなく、不可避の課題として引き受けられる。規律訓練とケアとは表裏一体で不可分であり、それを担う力が「徳」と呼ばれてきたのである。
「ポストモダン」状況が上で述べたような意味での「近代」的な理念の無理、それを押し通そうとすることの弊害が強く意識され、そうした理念が人々にとって欺瞞的に思われてしまう状況のことであるとしよう。そう考えるならばコミュニタリアニズムとは、「ポストモダン」的な思想であることは疑いない。ただそこに伝統回帰へのモメントが看取されることが多いため、「ポストモダニズム」の一種とは認められないことが多いだけである。
ただしもちろん、近代以前の伝統の再評価がしばしばなされるとはいえ、現代の徳倫理学は単なる伝統回帰の立場ではない。まず理想的な人間像は具体的であるため、歴史的に特殊で複数ありうることが正面から認められる。だとすればそのような多様な人間像がそれぞれに相対主義的に居直り的絶対化されることを避けるためにも、リベラリズム的に薄っぺらく抽象的な「無限の可能性」としての「人間」理念もまた捨てることはできない。
更にまた、徳倫理学が提示する理想的な人間像の内実であるところの「徳」、人間のさまざまな能力・性質は、必ずしも実体化されない。というよりされえない。
たとえて言うなら、リベラリズムが道徳の本態を、行為を統制し導く普遍的なルールとして捉えがちであるのに対して、徳倫理学はそれをむしろ、様々なルールを具体的な現場で自在に運用する実践的技能、として捉える。あるいは乱暴に言えば、前者がマニュアルであるとすれば、後者はマニュアルを使いこなすスキルであって、それ自体はマニュアル化できない。だから徳倫理学は、「ルールとしての道徳」観の不十分さを指摘するものではあっても、それに対する完全なオルタナティブではありえない。
ここまでくれば、佐々木による職業教育、なかんずく公共職業訓練の、メインストリームの学校教育に対する位置づけは、コミュニタリアニズム、現代的徳倫理学の、リベラリズムに対する位置取りとのアナロジーにおいて考えることができるのは明らかだろう。それは近代を批判しつつ、そのうちに踏みとどまり、その外側に脱出しようという夢を見ない。
佐々木の著作を今読む者は、20年以上、せいぜい臨教審の時代まで、「生涯学習」が叫ばれ始めて頃までの仕事であるにもかかわらず、それが現在の職業教育、更には教育全般についてもなお通じうる問題提起をしていることに驚くだろう。しかしそれは同時にまた「ポストモダン」の問題でもあることに気付く者は、どれくらいいるだろうか?
生前の佐々木は、職業教育研究の狭いサークルの外ではほぼ無名に終わり、その死はあまりにも早かった。一方森は1980年代後半から90年代にかけて、これも狭いサークルといえばそれまでだが、東京大学の教育社会学研究室、更には教育社会学会の理論部会においてリーディングな論客として注目を浴びていた。しかし彼は「学力低下論争」に端を発する、実証的政策科学としての教育社会学の2000年代におけるブーム――苅谷剛彦、広田照幸、本田由紀がその「主役」である――においてはほぼまったく何の役割も果たさないまま世を去る。
しかしながらこの今日の教育社会学「ブーム」の射程は、実のところ森と佐々木の切り開いた地平をさほど出てはいない。
詳細な検討は他日を期さねばならないが、せめて概略なりとも示しておこう。
イリイチ的脱学校論に代表される、新左翼的学校教育批判(管理教育批判や能力主義批判)と、石油危機以降の低成長時代に勢いを得た「規制緩和」「民営化」「小さな政府」を唱道するネオリベラリズム(これをある種の新右翼、新保守主義ととらえることもできる)の政策論の合作として、20世紀末の学校教育の相対化――公教育に対する規制緩和や自由化、学校外の教育チャンネルの正規化等々を位置づけることができる。むろんそうした流れは、まさに他のネオリベラリスト政策と同様に、社会的な格差の拡大やコミュニティの破壊の咎で、新旧の左翼からの批判に晒されることになる。そうした批判の少なからずはもちろん「蓋を開けてみれば……」という、局面が一定程度進行してからの後知恵的なものであったが、当初からネオリベラリズムとの「事実上の」「暗黙の」共闘への警鐘をならす声はあった。
それではなぜこのような、ネオリベラリズムとの――「敵(ケインズ主義的福祉国家体制の一環としての20世紀公教育体制?)の敵は味方」的マキアヴェリズムを前提とした?――「事実上の」「暗黙の」共闘がなりたってしまったのか? その要因の一つは、この時代のラディカルな学校教育批判の中で、学校教育無用論――「公的な学校教育は抑圧的で暴力的であるのみならず、実践的にも役に立たず非生産的である」という類の議論が一定の説得力を発揮してしまったことである。
単純化のために、その経済学的側面に限定して乱暴に要約すると、オーソドックスな教育の経済的正当化論は、人間の能力を一種の生産設備、資本財と解釈して、学校を始めとする教育サービスを、その能力、生産性を向上させる設備投資と考えるものであった。このアイディア自体は少なくとも19世紀からあったが、1960年代には農業開発経済学者のセオドア・シュルツ、理論経済学者のゲイリー・ベッカーらによって、単なる比喩を超えた実証研究のための道具立てとして整備され、途上国開発や教育政策の指針や評価基準としても用いられるようになる。
しかしながら研究が進んでくると、公的な教育投資が所期の成果を上げない――具体的に言えば、貧困者や社会的弱者の子弟への教育支援が、彼らのキャリアを思ったほど改善できず、貧困の世代間連鎖=「貧困の罠」をなかなか解消できない――ことも明らかとなってくるなかで、「学校教育には生産的な投資としての効果はなく、人を選別する――既にある能力・性質を識別する効果くらいしかない」という代替仮説(経済学的に言えば「シグナリング」「スクリーニング」仮説)が影響力を増してくる。その社会学的なコロラリーとして、ラディカルな経済学者のサミュエル・ボールズ、ハーバート・ギンタスらの「対応理論」やピエール・ブルデューらの「再生産理論」等、識別の対象を個人的能力よりも個人の社会的・階級的出自と考え、学校教育を既存の社会的階層構造の再生産の仕組みと理解する議論を考えることができる。これらはイリイチの脱学校論と並んで、森の言う「批判的教育社会学」の原点というべきものである。
フーコー的に言えば、学校は生徒の学力、能力を向上させていなくとも、学力、能力への欲望を喚起することによって、社会的な理念としての「学力」「能力」を生産していることになる。脱学校論的、あるいはフーコー左派的な学校教育批判は、そうした学校教育のありようを、自己の存立根拠、正当性根拠を自己に先行して存在する「学力」「能力」更には「人間性」への奉仕に求めつつ、実際にはそれらのカテゴリーを自ら生産する自己正当化のマッチポンプとして告発するものであったが、そこには暗黙の裡に、「学校教育はイデオロギー的な自己正当化以上の積極的な機能を持っていない」という前提が含意されていた。
こうしたラディカルな教育批判者からの学校教育無用論は、公教育の弱体化に積極的に加担したかどうかはともかく、少なくともネオリベラリストによる公教育批判に消極的に加担してしまったといえる。しかしながら結果的に見れば、そこにはいくつもの錯誤が存在していた。
ひとつには、人的資本論=教育投資論とシグナリング/スクリーニング論は相互に矛盾するものではない。そして現実世界においては、どちらのメカニズムも現実に作動しており、そのどちらが強いかは状況次第で一概には決まらないらしい。学校教育はもちろん選別もするが、選別しかしないわけではない、ということだ。とりわけ20世紀終盤以降のIT革命は、教育投資のプラス効果への関心を改めて強く引き起こしている。
単純に考えれば大学進学率の上昇は、大卒者の労働供給を増やし、その賃金を引き下げる――高卒以下層に対する優位を減らす効果を持つはずである(理論的にそうであるというだけではなく、歴史的な実例が確認されてもいる)。しかしながら20世紀終盤から(おおむね1980年代以降)の先進諸国のいくつかでは、大学進学者の増加にもかかわらず、大卒以上層と高卒以下層との賃金格差が縮まらず、むしろ拡大するという現象が観察されている。
もう一つ重要なことは、そもそもシグナリング/スクリーニング論は「学校は非生産的で無用だ」などという含意を持たない、ということである。仮に学校教育が、生徒の能力を向上させたり、その性質を変えたりする機能を全く持たず、ただ単に生徒の能力・性質を識別する機能しか持たなかったとしても、そのことは学校が経済的に無用で非生産的であることを全く意味しない。ここで学校は、「誰がどの程度有能か」という社会的に有用な情報を生産するという機能を果たしている。(それはちょうど金融業者や商人が、自分自身ではモノを作り出さなくとも、社会的に有用なはたらきをしているのと同じことである。)
以上みた如く、学校教育は必ずしも、イデオロギー的自己正当化に特化した無用な存在ではなかったがゆえに、ネオリベラリズムの影響下での部分的脱学校化――公教育の特権剥奪、相対化は、社会全体の脱学校化というよりは、公的統制のもとにあった学校教育の規制緩和と民営化を促進することになった。規律訓練の暴力性は、「選択の自由」の大幅な導入によってところによっては緩和されたかもしれないが、多くの場合それと対になっていたはずのケア、後見的保護の後退という副作用を伴わずにはいなかった。
ではこの時代、職業訓練はどのように展開していたのだろうか? とりあえず日本に限定してみるならば、佐々木の晩年、臨調と臨教審の時代はまさに日本の職業訓練行政の転換期でもあり、「職業訓練」に代わる行政用語としての「職業能力開発」もこの時期以降急速に人口に膾炙する(1969年制定の「(新)職業訓練法」が1985年に「職業能力開発促進法」に改称される)。そして職業訓練=能力開発政策の考え方自体にも転換が生じた。
それまでの職業訓練行政においては、職業訓練政策の中心は国・地方公共団体の公共施設における行政サービスとしての職業訓練と、学校における職業教育の強化充実にあり、企業レベルでの従業員への教育訓練や、労働者の自己啓発はあくまでも周辺的な位置づけであった。しかし85年の職業訓練法=職業能力開発促進法改正において明確に「事業主」、つまり雇用者、企業が職業訓練の主体として位置づけられる。これはもちろん、職業訓練行政が、直営の公共施設での職業訓練のみならず、企業レベルでの従業員への教育訓練の支援と規制もその対象とすることを意味するが、のみならず、そもそも日本の産業社会における労働者の能力開発の主役を、「官」から「民」へ――労働行政と職業教育から、企業と(個人としての)労働者へと位置付け直す、ということをも含意していた。技術革新の高度化に対して公共職業訓練は敏速にキャッチアップすることは困難であるがゆえに、職業能力開発の主体は技術を現場で実践する企業と労働者であり、行政の仕事はその条件整備、ならびにそこからこぼれる周辺部――具体的には在職者や新卒者にではなく、中途退職や解雇による失業者やその他求職者へのサービス提供にあることになる。またそうした直接のサービス提供においても、公共の訓練施設のみならず、各種学校その他民間の教育訓練サービス企業の活用が積極的に行われるようになる。
少なくとも60年代までは官民挙げて、そしてまだ70年代においても、職業訓練の理想はあくまで、公教育、学校教育の下での職業教育と、公共職業訓練の充実にあり、そうした理想に照らしてみたとき、公教育における普通教育の偏重と、企業の採用行動における職業教育課程の軽視、人材育成における企業内教育中心主義はむしろ「逸脱」とされた。しかしながら70年代から80年代にかけて、こうした現状は追認――というより積極的に肯定されるようになる。この方向性は何を意味するのか? ひとつの可能性は、この時期以降、職業訓練行政が「密教」としての弱者救済を急速に忘れ去り、「顕教」としての教育訓練=人的投資の論理を馬鹿正直に受け止めるようになっていったのではないか、ということである。
実のところ上のような路線は、完全雇用、労働市場における売り手市場基調が続く限りにおいては、それほど深刻な副作用を生み出しはしなかった。規律訓練とケアが「民営化」されていこうとも、その分を「自己責任」でフォローする余裕が人々のうちにある間は。しかしながら日本では間の悪いことに、90年代以降の長期不況がこうした余裕を削り取り、潜在していた問題を顕在化させていってしまう。それはさしあたりは苅谷剛彦による「ゆとり教育」が階層間での学力格差、更には意欲格差(苅谷の印象深い用語法によれば「インセンティブ・ディバイド」)をもたらしつつあるのではないか、という問題提起に典型的な如く、「格差」の問題としてまずは認識された。つまりは、有用な財、資本としての教育、教育という富の分配の不平等の問題として。しかしながら「意欲格差」は既に富の格差とは別次元の問題へと踏み込んでいることは言うまでもない。つまりそれは、人々に対して様々な資源や機会をどのように分配するか、つまり人々の置かれた外的環境にいかに介入するかのみならず、人々の性質と能力をどのように規律訓練し、人々の生に配慮するか、つまり人々の身体と精神そのものにどのように介入するのか、の問題でもある。
*本稿は明治学院大学社会学部付属研究所2010年度研究プロジェクト「戦後日本の労働問題研究 ―学説史・思想史的探究」(代表者:稲葉振一郎)、ならびに平成22~24年度日本学術振興会科学研究費補助金・基盤研究(B)「社会理論・社会構想と教育システム設計との理論的・現実的整合性に関する研究」(研究代表者・広田照幸日本大学教授、課題番号:22330236)の研究成果の一部である。
プロフィール
稲葉振一郎
1963年生まれ。明治学院大学社会学部社会学科教授。専門は社会哲学。著作『社会学入門』(NHK出版)、『オタクの遺伝子』(太田出版)など多数。