2015.11.02
「物語」は自分と外部とのせめぎあいで生まれる
寂れゆく商店街を舞台にした星野智幸氏の最新作『呪文』が上梓された。小説にとって「物語」とはなにか?「物語」ってそもそも限界じゃないの? 「物語」を切り口に、荒井裕樹氏(障害者文化論)が『呪文』の魅力に迫る。(構成/山本菜々子)
【『呪文』 内容紹介】
それは、希望という名の恐怖――寂れゆく松保商店街に現れた若きリーダー図領。人々は彼の言葉に熱狂し、街は活気を帯びる。希望に満ちた未来に誰もが喜ばずにはいられなかったが……。
「物語」の両面性
荒井 ずっと星野智幸さんにお会いしたいと思っていたのですが、新著『呪文』(河出書房新社)を読ませていただいて、「やっぱり会わなきゃだめだ!」という、一方的な使命感が芽生えました(笑)。
以前から星野さんの作品を追いかけていたんですけど、これまでの星野作品に散りばめられてきたもの、たとえば「呪い」とか「クズ」といった言葉なんかがそうなんですけど、そういったキーフレーズたちが作品の枠を超えて、水脈を辿るように受け継がれてきて、この『呪文』で一つの像を結んだような気がしています。
『呪文』の中身についてもいろいろと伺いたいのですが、その前に、どうしてぼくが星野さんの作品に惹かれるのかを少し説明させてください。
星野さんの作品って、紹介するのにすごく困るんですよね。「これは、こういう小説です」って「あらすじ」を提示するのがすごく難しい。前作の長編『夜は終わらない』(講談社)なんか特に……。
星野 ふふふ。あれは要約不可能ですよね。
荒井 実は、うちの奥さんが書評を書いたんですよ。本当に困っていました。ぼくも同じ頃、川上弘美さんの『水声』の書評を書いていて、あれも「あらすじ」を説明するのが不可能で、物語の主旋律が見えないんですよね。
川上さんの方は日本の雅楽的に主旋律が見えない。星野さんの方はエスニック・ミュージック的に主旋律が捉えられない。
星野 なるほど。
荒井 『夜は終わらない』の、あの混沌とした物語に触れた時の感覚が、ぼくが研究の現場で悩んでいた時の感覚と不思議にシンクロしたような気がしました。
大学院生の頃から、ずっとマイノリティーの表現活動について考えてきて、フィールドワークでいろいろな人の話を聞いてきました。ぼくはあちこちの現場を飛び回るというよりは、一人にじっくりと話を聞くタイプだったので、かなり突っ込んだ話も聞いてきました。
で、そんな経験をしているうちに、「物語」っていう言葉にある種の限界を感じたんです。「物語」といえば、まず語り始めがあって、メインがあって、クライマックスがあって……という、一つのラインみたいなものというか、「整えられたもの」というイメージがありますよね。
星野 そうですね。
荒井 でも、人権問題なんかでずっと差別されてきた人たちの話を聞くと、その人たちの人生の語りって、全然まとまらないんですよ。まとまる話をするのは、人権教育とか、社会の啓発活動なんかで人前に出てしゃべり慣れている方です。
でも、そういう方も自宅までおじゃまして何気なくお話していると、混沌とした語りが湧き出てくる。30年前のことと今のことが一緒になっていたりとか、「その人だれですか?」みたいな人がいきなり出てきたりとか。
人にとって「物語」って、そんなに都合よく収拾できるものではないんじゃないか。人は言葉では飼い慣らせないものを抱えながら生きているんじゃないか。
そういった思いを持っていたので、星野さんの『夜は終わらない』を読んだ時、ぼくはすごく腑に落ちたんです。「ああ、そうだよな」って。自分の中でも「消化できない物語」、「御せられない物語」を抱えて生きて行くのも、アリなんじゃないかと。そして今回の『呪文』で、その思いが決定的になりました。
星野 物語の定型は、文化人類学の分野で原型としていろいろなパターンが研究されています。最初は個人的な身の上話だったり噂話だったりしたものが、共同体の中で何度も語り直されていくうちに定型へと変化していく。そうすると、それは個人を超えて、共同体の物語になります。個人からしてみれば、外部の力ですね。
ともすると自分の話をしているはずなのに、その定型に乗ってしまうと自分から離れていきます。いつのまにか、「共同体が求める形式の話」になってしまうんですね。おそらく荒井さんが限界を感じるのはそっちの「定型の作用」の力のことだと思うんです。
ぼくは、ホームレスの方が作品を投稿する「路上文学賞」(http://www.robun.info/)をやっています。これはなにを書いてもいいことになっています。でも、自分のことを書こうとすると、書き手のホームレスの方自身が「一般の人々」が期待するようなホームレス像――こんな悲惨な目にあっているんですよ――という定型に乗ってしまいがちなんです。
そうやって出てきた物語は、いかにも「ホームレス的」な物語かもしれません。場合によってはそれで泣けるのかもしれない。でも、本当にその人の物語なんでしょうか。自分の言葉じゃなくて、外側の言葉に合わせちゃったものなんじゃないか、って思うんです。
なので路上文学賞では、読む人なんかどうでもいいから、「ホームレスの自分がこんなこと書いちゃまずいんじゃないかと思うようなことも、構わず書いちゃえ!」という姿勢でやっている。
第二回の大賞受賞者は「ホームレスギャンブラー」というタイトルで、競艇に狂う喜びを描いた人が受賞しました。
荒井 それは面白い(笑)。
星野 これは本当に面白かったです。でもお会いしたら、ものすごく真面目な初老の方で、やっぱり文学が好きだったとおっしゃっていました。受賞したがゆえに「文学をちゃんと勉強したいから」といって、いま源氏物語から読み始めたらしくって……。人の人生を背負ってしまった重みに打ちひしがれました(笑)。
物語とは、常にその自分の中から出てきた私的で個人的な言葉と、それをあるパターンに押し込めようとする外側からの力との、せめぎ合いの現場だと思うんです。それをできるだけ小説にしようとしたのが、前作の『夜は終わらない』ですし、それを一人称の語りじゃないように、物語にしない形でできるだけ精緻に出来事を追っていく形で書いたのが『呪文』です。
「君は物語が書けないから諦めなさい」
荒井 フィールドワークでインタビューをしてた時、初めのうちはICレコーダーを持っていったんです。でも、これを回すとダメなんですね。なにがダメって、こっちが「期待」しちゃうんですよ。
たとえば、医療施設の中に何十年も隔離されてきた人のところに通っていたことがあるんですが、長く入り組んだ人生は当然うまくまとまりなんかしません。話している本人も、話しているうちに収拾がつかなくなる。
で、レコーダーを回すと、ぼくの中で、悪い意味での研究者スイッチが入ってしまって、心のどこかで「早く話まとめてくれよ」って思ってしまったり、「論文で引用しやすいようなキーフレーズ」を待ってしまったりする。そうすると、その人の「語り」が全然頭にはいってこない。
それがいやになっちゃって、ある時から「レコーダーも持っていかない」「取材メモも取らない」「手ぶらで行く」ことにしました。
そうやって無目的に話を聞いたら、収拾がつかない混沌とした話がものすごく面白いんですよね。こんなに豊かなものを、イライラして聞いてた自分ってなんだったんだろうって愕然としました。
収拾がつかないものを面白いって思えた時、なんだか自分の中で道が開けたような気がしました。
星野 自分を白紙にして聞けたんですね。読む、聞くっていう行為は、自分の守備範囲から一歩外側に出て、相手の言葉に身をさらすことですもんね。
荒井 星野さんが作り出す物語も、すごく混沌としていて、これからどちらのほうに進んで行くのか分からないつくりになっています。レコーダーを捨てて話を聞きに行っていた頃のことを思い出しました。
でも、混沌とした世界は「小説」として雑誌に載せたり、本にしようとすると、「ここからここまで」という形で切り取って、強引にでも「はじめ」と「おわり」を作らなければならないですよね。
「物語がはじまる予感」や「物語がおわる予感」というのでしょうか、「はじめ」と「おわり」を区切る目安って、何かあるんですか?
星野 昔はそれができなかったんですよ。で、大学の創作科の先生にも、「君は物語が書けないから諦めなさい」って言われたんですけども……(笑)。それぐらい、はじめとおわりをつけるのが苦手だったんですよね。まあ、当時はコンプレックスであったんですが、実際にデビューして、こういうのが自分にとっての小説でいいんだな、って思いはじめました。
ぼくは、小説はストーリーではなく、現実と拮抗しているもう一つの完結した世界を描くものだと考えています。だからストーリーではなく、世界全体なんです。
もちろん世界全体を言葉で覆い尽くすことはできないので、その一部分を言葉にすることで、その世界全体を感じさせるようにする。そう思ったので、物語にあんまりこだわらないで書けるようになったし、そうしたら「自分で小説を書いている」っていう実感が持てるようになったんです。
まあ、最近はそれでも世界像を描くのにストーリー的な要素も入れられるようになってですね。「ぼく、物語も書けますけど」ってかつての大学の先生に言いたいところもあるんですけど……(笑)。
でもそれはあくまでも、言葉をどう展開していくかっていう技術的な問題です。小説も、自分の中の言葉に向き合ってすくい取る要素と、もう半分は修行してれば上手くなる職人的な要素もある。
だから、だんだん、「ここからスタートするとピッタリくるな」とか、感覚としてわかるようになってきました。でも、おわりはやっぱり、書きはじめの時にはわからなくて、まあ「一応の終わり」は想定するんですけど、「あっちに向かって書いていきますよ」っていう、あくまでも方向を示しているだけであって、本当にそれがおわりにはならないんですよね。
で、半分とか展開していくうちに、書きながらどんどん道が作られていきます。今回の「呪文」なんかも、4分の3くらい書いたところで、ようやく最後の場面が浮かんできました。ここでこの小説は着地できるなってホッとしたんですけどね。
「狭い世界」に働く感情のドライブ
荒井 『呪文』という小説、何がすごいかというと、人間の感情にドライブがかかった時の歯止めが効かない状態の迫力です。
「松保商店街」というさびれた商店街に、図領という一人のカリスマがあらわれて、彼の主導で商店街が活気づいていく。と同時に、彼を慕う若者たちが「松保未来系」という自警団を結成する。そこに、同じ商店街でトルタ屋(メキシコ風サンドウィッチ)をやっている霧生が巻き込まれていく
「未来系」の若者たちは、「クズ道」という自分たちだけの思想を語りだして、最終的には「クズ道というは死ぬことと見つけたり」を合言葉に、狂信的な連帯感を高めていきます。自分たちを「クズ」といいながらも、「クズ」としての屈折したプライドをたぎらせて、感情にドライブがかかっていく。
それが下に向かうドライブなのか、上に駆け上がっていくドライブなのか、とにかく混沌としている。その様子に強烈な印象をうけました。
星野 下と上を逆転させることで、自己否定することこそがその人の価値になると仕向けられたし、自分たちでもそれを追及してしまったわけですね。
荒井 しかも「未来系」の若者たちは、ノアの箱船までひっぱり出して、「自分たちは救世主だ」というようなことを言い出すんですよね。閉塞的な最小の視野が、最大の妄想を生み出してしまう。視野が狭くなっていく人間のドライブのかかり方の怖さですよね。
どこにでもありそうな商店街の、ありふれた日常の隙間で、人間が生きるか死ぬかの瀬戸際に追い込まれるような感情のドライブが働く要素が生まれてしまう。冷静に考えれば、「いやいや、ただのさびれた商店街じゃん…」なんて思うんですけど、でも、似たような話ってわりとあると思うんですよね。
たとえば、いじめられて悩んでいる子ってクラスの中の数人の関係性が全世界になっちゃうわけですよね。世界が閉じれば閉じるほど、ドライブのかかり方は激しくなっていく。この小説でぼくの心にすごく引っかかったところです。
星野 それは集団の規模を問わないですよね。要するに密室状態になれば、そこにいる人たちのメンタルの中から外部が消える。そうなると、人は簡単に追い込まれるわけです。
荒井 「さびれた商店街でなにやってんだよ」って、冷静に突き放せない怖さがあります。「社会の中に、本当にこういうことはないと言い切れるのか?」って言われたら「ない」とは言い切れないし、「あなたの中に、本当に一切の共感はないのか?」って言われたら「ない」とは言い切れない。そこが、結構怖い。
星野 商店街を今の日本の社会の縮図にするようなつもりで描いたので。会社とかサークルとか、日本の中のいろんな小社会が当てはまるんじゃないでしょうか。
この小説を書くにあたって、閉塞的な状況でメンタルが変わっていくことについてのドキュメンタリーを読んだんです。一番強烈だったのは、北九州の監禁殺害事件です。松永太(まつなが・ふとし)という男が、自分と関係のない一家をどんどん取り込んでって、監禁して、一家同士を殺させていく。なんでそんなことが起きちゃうのかって、あれもやっぱり密室状態で、外部を消してしまうからなんでしょうね。
そうすると松永太の命じる価値観に従ったほうが楽になるし、生き残れる可能性があるって感じちゃう。実際にはそうじゃなくても。外側から見るとそうじゃないって判断ができるけれど、外部が消えるとその判断は不可能になってしまう。
これはたとえば戦前の日本っていう大きな集団においても、ほぼ同じことが起こっていたわけですよね。冷静に戦力分析すれば「そんな戦争やったら負けるに決まってるでしょ」とわかるケースでも、外側からの目が消えるので客観的な判断ができなくなる。そして、日本軍の戦果に、あたかもオリンピックで日本人選手が活躍しているかのように熱狂する。でも実際にしていることは殺人なんですけどね。
外部が見えない状況にまで追い詰められた人間が、その場を支配する価値観に身を委ねてしまうことは、集団の規模を問わず、いろいろなところで起こってるというのが実感としてありますね。
荒井 トルタ屋の霧生は巻き込まれていくわけですが、どこか「松保未来系」の「クズ道」の思想に最後まで染まり切らない、余白の部分を残しているように思いました。それで『呪文』はあのような結末を迎える。
どうして霧生だけ他の人物たちとは異なる結末を迎えることができたのか? そう考えて作品を読み直したら、彼だけ、だれかのために自分の心を砕く描写が出てきます。そこが「松保未来形」の人たちと違うところです。
あの人かわいそうだなとか、ちょっと心が痛い、とか。だれかの痛みに感応して自分の心が痛んでしまう。そういう傷つきやすさを持っているのが霧生だけのような気がします。一見すると、それは心の弱さなんですけど、その弱さが最後、ある種の強さになっていく。
だから、あの結末について、ぼくは必ずしもバッドエンドとは読まなかったんです。もちろん、怖い話ではあるけれども。このあたりは、読者の間でも印象が分かれると思います。
星野 そうですね。ぜひみなさんの感じ方を聞いてみたいと思います。
荒井 読めば読むほど、不思議な小説ですよね。黒幕だと思われるような図領もどこまで裏で糸を引いてるのかもわからないし、「クズ道」の哲学の部分まで図領が関わってるのかもわからない。そもそも、キーパーソンになる鍼灸師が、男性か女性かよくわからない。これは、ゼミの学生と読んだ時も、どちらなのか半々に分かれました。
星野 半々ですか。これは思わぬ成功(笑)。これを知れただけで、すごく嬉しいです。この小説では基本的に、いろいろな要素を、はっきりとどっちだと判断できないように作っています。作者が誤魔化しているんじゃなくて、本当に決められないことがこの世の大事な真理だと思うので。
ぼくは自分なりに性別ジェンダー認識を決めてあの鍼灸師を書いたんですけど、それを証しだてる情報は書かなかったんですね。でもそれはそんなに意図的だったわけじゃなくて、以前からそういう書き方をしていたのが、自然と出たんですね。
小説を書きはじめた頃に、男性と女性の書き方にこだわっていたことがあったんです。たいていの小説では、女の人は容貌が書かれます。それから、女の人だってことを表すために、「~だわよ」みたいないわゆる女言葉でセリフを書く。でもそんなふうに喋ってる人って現実にあんまりいないでしょ。
そのように考えていくと、男女を書き分ける定型が必ずあって、小説はただそれに乗っ取って書かれている。『毒身』という小説でそれを取っ払って書いてみようとしたことがあるんですよ。だから、名前を見ても女性か男性かわからない、容貌の描写はしない、それから言葉遣いもぼくが普段聞いているナチュラルな言葉遣いだけで書く。
そうしたら、かなりページが進まないと性・ジェンダーはわからないというような状態になったんですよね。これは大変不評でしてね……(笑)。「なんだこれは」「イライラする」とかすごく言われて、でもそれがあの小説の意図と狙いだったんでね。
言葉で書けないことこそ文学だ
荒井 星野さんが小説を書くにあたって、作品の軸になるような概念とか、作品を書き連ねていく上で大切にしているテーマはあるんですか。
星野 テーマとして一貫としたものがあるわけではないですが、人が無意識に押しやってしまったり、見えてるはずなのに見えてないようなものを、できるだけ見える形にしていくことを小説を書く基本的な姿勢にしています。
『呪文』の場合は少し違う書き方しましたが、それまでの作品では現実をデフォルメしたり、幻想的な要素を入れています。それは、あるのに見えてない部分、無意識になっている部分を誇張する形によって、読んでいる人に強烈に印象づけようという意図からです。
もう一つは、小説は基本的に「言葉で書けないものを言葉で書く」表現だと思っているんです。言葉で説明できない部分が小説になっていく。だから、小説を書く前に、言葉で説明できそうな部分は全部潰していくんですね。たとえば、ノートにこういうテーマ、と決めて、自分で詳細に書いてみます。でも、実際にはその論理を小説には書いちゃいけない。
荒井 文学というのは言葉で書くものなんだけれども、言葉で書けないものを言葉で書くというのはなんだか不思議な感じがしますよね。そこが面白い。
星野 小説家じゃなくたって、あらゆる人が実際にはおこなっている表現だと思うんです。たとえば、友達と話しているときや、日記を書いているとき。そういった日常の言語活動の中で、ふと言葉で言えないことが言葉で出てきている瞬間があると思います。それが文学だと思う。
商業的な商品になるのかはまた別の問題ですが、文学の現場は日常のあらゆる中に存在しています。その瞬間を、表現する方も受け取る方も大事にするのが、文学が生きるか死ぬかの分かれ目でしょう。
もし文学が死ねば、言葉で表現できないことを表現することも失われる。つまり、公式的な表現でしかコミュニケーションができなくなる。個人的な感情の表現が不可能な世の中になる。おそらく、個人が生存しているけど、生きている気がしない世の中になっていくのでしょう。
荒井 「言葉で書けないものを言葉で書く」というのは、一見、矛盾したようなフレーズのような気もするのですが、でも、そもそも人間は決して合理的な存在じゃない。人間が合理的な存在じゃないことを示すためにも、文学は必要だと思っています。
「個人的な感情の表現」を守ることは、「個人的な感情」そのものを守ることで、突き詰めれば「個」という理念自体を守ることです。「合理的じゃなくて、なんだかよく分からない個なるもの」を守る言葉の可能性について、ぼくも研究者として考えていきたいです。
『呪文』には、個が呑み込まれる怖さも、踏みとどまれる希望も描かれている。この時代に出会えてよかった小説です。
プロフィール
星野智幸
(ほしの・ともゆき)
1965年7月13日米国ロサンゼルス生まれ。2年半の新聞記者生活ののち、メキシコに合計2年留学。字幕翻訳などを経て、1997年『最後の吐息』で文藝賞を受賞し作家デビュー。2000年『目覚めよと人魚は歌う』で三島由紀夫賞、2003年『ファンタジスタ』で野間文芸新人賞、2010年『俺俺』で大江健三郎賞、2015年『夜は終わらない』で読売文学賞。他にエッセイ集『未来の記憶は蘭のなかで作られる』など多数。
荒井裕樹
2009年、東京大学大学院人文社会系研究科修了。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員、東京大学大学院人文社会系研究科特任研究員を経て、現在は二松学舎大学文学部専任講師。東京精神科病院協会「心のアート展」実行委員会特別委員。専門は障害者文化論。著書『障害と文学』(現代書館)、『隔離の文学』(書肆アルス)、『生きていく絵』(亜紀書房)。