2011.07.27
政治とメディアの関係を改めて考える
ヨーロッパ主要国がギリシャの潜在的デフォルトにどう対処するかで騒ぐなか、イギリスは、「ニュース・オブ・ジ・ワールド(NoW)」紙の盗聴疑惑で揺れ動いた。以下ではその経緯を紹介するとともに、日本の状況にも言及しつつ、「政治とメディア」をめぐる問題をいま一度考えてみたい。遠回りにみえるかもしれないが、このケースを通じて、日本のおかれた状況がより明確になると思われるからだ。
NoW盗聴事件の経緯
発端は、今年初めにNoWの盗聴疑惑に捜査当局が解明に乗り出したところにまでさかのぼる。NoWは世界的な知名度こそ低いが、19世紀末に創刊され、英字新聞として最大部数を誇った老舗新聞である。週一回、日曜に発行されるこの新聞を1960年代に買い取ったのが、のちに「メディア王」と呼ばれることになるルパート・マードック氏だった。
NoWは有名人やセレブのスキャンダルやプライベートを暴き出すタブロイド紙である。(「タブロイド」はもともと紙面サイズを指す言葉だが、セックス、スキャンダル、スポーツの”3S”の記事を主要な売りにする新聞を指す言葉になった)。多くのタブロイド紙が凌ぎをけずるイギリスで、NoWは特ダネを連発し(名誉棄損の訴訟を受けて多額の賠償金を払うケースも多くあった)、名を馳せることになった。
こうしたスクープ合戦の過程で、NoWは関係者の盗聴を日常的にしていたとされていた。今回の捜査では、過去10年間にわたって盗聴取材を実施、王室、政治家、芸能・スポーツ界などの有名人の携帯電話、さらに殺人やテロ事件の犠牲者の会話の傍受までもしていたことが明らかになった。盗聴対象は約4000人近くいたといわれる。こうした違法行為に加えて、警察官を買収して情報を入手していたことも判明、元編集長をはじめとする関係者が逮捕された。
政界スキャンダルの様相を呈すようになったのは、マードック氏が有する「ニューズ・コープ」の英子会社CEOで元NoW編集部のブルックス氏が、盗聴と贈収賄で逮捕され、真相究明のために英下院の文化・メディア・スポーツ委員会が公聴会に、マードック会長と次男で英衛星放送大手BSkyB会長のジェームズ・マードックを召喚することになったからだ。
その過程で明らかになったのは、NoWの有形無形の政界や警察当局とのつながりだった。NoW編集長だったコールソン氏は、2010年に首相になるキャメロン保守党党首のもとで党の広報責任者に就任、政権交代と同時に首相官邸の報道局長へと横滑りしていた。キャメロン氏がマードック氏や、逮捕されたブルックス氏とも親しい間柄にあったのも周知の事実であり、実際、総選挙に際してNoWは保守党をもっとも熱心に応援したメディアだった。ちょうどマードック・グループによる衛星チャンネル「BSkyB」の全株式取得が政府で審査されることになっており、これが通常経由する競争委員会に諮られなかったのも首相側の働きかけがあったからではないか、との憶測まで飛び交うことになった。
スコットランド・ヤード(ロンドン警視庁)との不適切な関係も指摘された。NoWの親会社「ニューズ・インターナショナル」はスコットランド・ヤードから天下りを迎えており、両者は頻繁に会食をもつなど、近しい関係にあったとされている。同社に天下ったなかには、2人の逮捕者を出すに留まった2006年のNoW盗聴事件の捜査担当者も含まれており、意図的に捜査打ち切りが当時なされたのではないかとの疑いも強まっている。スコットランド・ヤード総監までもが、NoWの元副編集長を高給でPRアドヴァイザーに迎えていたことから、辞任に追い込まれることになった。
野党の労働党は早速に、マードック帝国を解体すると意気軒昂だ。マードック傘下にある「ウォールストリート・ジャーナル」の発行元ダウ・ジョーンズCEOも、責任をとるかたちで辞任している。
「マードック帝国」の実像
マードックの名は日本では90年代後半に、孫正義とタッグを組んでテレビ朝日に資本参加しようとしたことで知られるようになったが、彼の築いた帝国は巨大かつ強大なメディア・コングロマリットである。英国だけでも高級日刊紙の「タイムズ」と同日曜紙「サンデー・タイムズ」、タブロイド紙「サン」(280万部発行)を所有、テレビ業界でもBSkyB、老舗のテレビ局ITVの一部株式を所有している。米ではTVの「FOX」チャンネル、映画配給の20世紀FOX、出版のハーパー・コリンズ、欧州大陸ではTVの「Sky」チャンネル、アジアでも「スターTV」など、グループ全体の総売り上げは330億ドル余りに上る。
マードック・グループのTVチャンネルやプリント・メディアでは大衆路線を売りにしているから、その政治的・知的影響力は限定的だとする向きもあるかもしれない。しかし彼が買収した「ウォールストリート・ジャーナル(WSJ)」や新規に設立した「FOXニュース」が急激に右傾化し、イラク戦争報道で好戦気分を盛り上げたことからもわかるように、一概に無視はできない。WSJ買収の際、当時の編集長がマードック氏の介入に抗議して辞任したことからも明らかなように、マードック氏は保守的価値観を明確な報道指針にしている。
さて、以上は事件の経緯と諸々のファクツや疑惑の一端である。もちろん、キャメロン首相はマードック氏との関係が政治に影響を与えたことは一切ないと明言しているし、マードック氏自身も盗聴事件への関与を否定している。しかし、ここまでの騒動になったということからしても、一般的な基準からみて改めてメディアと政治の関係が浮き彫りになったのは間違いない。では、こうしたことから、何が教訓として引き出せるだろうか。
政治権力とメディアの「融合」
現代政治はメディア政治だといわれる。しかし、その構造は政治家がメディア支配を企てようとするような一方通行のものではない。むしろ、政治がメディアを利用すると同時に、メディアの側が政治を取り込み、互いの利益を図るような、双方向の影響力行使がいまのメディア政治の特徴である。日本でも、小泉時代の「劇場政治」は決して官邸側の意図的なメディア操作の結果ではなく、むしろマスコミの「期待値」に小泉政治が上手に応えた所から生じたものであることを想起すべきだろう。
もちろん、ここでいうマスメディアは、行政・立法・司法に次ぐ「第四の権力」と呼ぶべきような自律的な権力体ではない。むしろこの場合、メディアはビジネスの一環でしかないから、諸権力と結託して影響力を発揮することを目的にする。それゆえ、報道対象との距離はかぎりなく縮まり、最終的に癒着関係に行き着く。メディア政治では、「ニュース・メイキング」であるかどうかが最大の価値をもつ。そして「ニュース・メイク」によって動員されるのは有権者であると同時に視聴者・読者でもある一般市民であるから、いずれにしても政治家とマスメディアの利害は一致するのである。
簡単にいえば、政治権力とメディアの関係は、もはや「メディアを利用しようとする権力」と「権力を監視するメディア」という、古臭い構図ではなくなってきていることだ。マスメディアの側にいた人間が政治の側に転じるようになったのも、キャメロンになってはじまったことではない。「スピン・ドクター」(情報流通管理のプロ)として有名なブレア労働党政権の立役者のひとりマンデルソンは、もともとテレビ・プロデューサーだった経験を買われて政界入りした人物だし、野党時代のブレアのスポークスマンを務め、その後、報道補佐官になったキャンベルはタブロイド紙「デイリー・ミラー」の政治記者だった。メディアの健全性が指摘されるアメリカでも、ホワイトハウスの報道官にはジャーナリスト経験者が採用されることが多い。日本では、外務省が元NHKアナウンサーの高島肇久氏を報道官に採用した実績がある程度だ。
日本でも、新聞記者が政治家に転身する例は少なくないが、それは必ずしも情報流通のプロとして腕が買われるからではない。それと比べて、政治的競争が激しいイギリスやフランスでは、少なくとも人材の面では、政治とメディアの関係はより融合的である。逆説的だが、それはそれだけメディアのもつ影響力が強いからだともいえる。政治における競合の程度とメディアの競合の程度は、ダイレクトに関係するからだ。
マスメディアにおける「資本」の問題
折しも、メディア不況にともなって、多くの国でメディア資本の寡占が進んでいる。このメディア資本の寡占が、政治とメディアの癒着をもたらしやすくしているのは間違いない。かつて、哲学者テオドール・アドルノは社会批判という営みそのものが文化産業に頼らざるを得ない矛盾に現代社会の宿痾をみたが(「文化批判と社会」)、資本の入らない=活字にならないマスメディアはマスメディアとしての機能を果たすことができない。メディア不況は、メディアそのものの在り方に関する議論の外部の問題だが、それでは批判的なメディアをどのようにして維持・点検しなければならないのかという議論は、この資本の問題を素通りして論じることは、もはやできないのである。
こうした状況は、トレンドとして指摘できるもので、実際には国によって状況が異なるのは事実だ。フランスでは、前IMF専務理事でフランス大統領の有力候補だったストロス=カーンの婦女暴行疑惑を機に、それまでプライベートに関する情報を一切報道してこなかったマスメディアのあり方が問われているし、陰りがみえるとはいえ、イタリアではメディア王から首相に転じたベルルスコーニによる露骨なメディア操作がつねに問題になっている。他方、ハンガリーといった国では、政権が会社清算や放送認可権を武器に、リベラル・メディアに対する抑圧を強めている。
さて、こうした構図のなかで日本のメディアと政治を眺めたとき、グローバルなそれとはかなりの異なった次元で展開されていることが理解できる。いまだ政治とメディアとのあいだの垣根は高く、外資系が主要マスメディアに資本参加することもない。
かつて、ジャーナリストの神保哲生氏が、日本の「産業」としてのメディアの「商売のならなさ」を指摘していたことを耳にしたことがある。世界では多チャンネル化が進み、読者も細分化されて新規のマーケットが広がったにもかかわらず、日本ではキー局のサブ・チャンネルが増えた程度で、ニーズの裾野が広がったわけではなく、他方で参入障壁の高さと投資リターンの低さから資本が流入してこない構造になっているという。日本のテレビ局、各種新聞、雑誌メディアが陥っている苦境は改めて指摘するまでもないだろう。
こうしたなかで、政治家の側はマスメディアに対して不信感を抱き、大手マスメディアは依然として「社会の木鐸」としての御旗を振り回し、視聴者・読者はカタルシスを求める層と無関心な層かに二分するという状況を呈している。そこでは記者クラブ制度という、おそらく政治とメディアのもたれあいの関係の象徴ではあっても、他国の事例に照らし合わせてみて本質的ではない争点のみが突出して語られ、文化産業としてのマスメディアの活力とダイナミズムをどのようにして取り戻し、維持していったらよいのかという前提条件がおき去りのままになっている。
もしかしたら、それは日本のマスメディアのおかれた状況が、少なくとも他国より健全であることの証かもしれない。しかし、その健全さも、大きな犠牲を払ってかろうじて保たれているにすぎない。健全さを追い求めるあまり、マスメディアが本来の果たすべき機能すらも果たせなくなるという時代も、遠い未来のことではないのも、事実であるように思われる。
推薦図書
著者はイギリスの上下両院の議員を務めた経験をもつ超有名作家だが、かつて英タブロイド紙に売春婦との情事をすっぱ抜かれ、名誉棄損で勝訴したものの、裁判で偽証したことで服役した経験をもつ。その彼が、ルパート・マードックと、もう一人の実在のメディア王、マクスウェルをモデルに執筆した小説。ひと時代前の小説だが、メディアと資本、そして政治との関係を知るためには、恰好の素材かもしれない。
プロフィール
吉田徹
東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学博士課程修了、博士(学術)。現在、同志社大学政策学部教授。主著として、『居場所なき革命』(みすず書房・2022年)、『くじ引き民主主義』(光文社新書・2021年)、『アフター・リベラル』(講談社現代新書・2020)など。