2012.05.16
ビデオ・ジャーナリズムの可能性
ビデオジャーナリストであり、インターネット放送「ビデオニュース・ドットコム」の代表でもある神保哲生さん(50)。フリーランスの立場から、長年ジャーナリズムに携わってきた神保さんは、日本のジャーナリズム状況をどのように見つめてきたのか。そしてインターネットの誕生以降、様変わりしつつあるメディア環境に何を期待し、どこに課題を見出しているのか。既存メディアと新しいメディアがそれぞれに持つ問題は山積み。その解決のために、私たちは何に注意をすればいいのか、シノドスジャーナル編集長・荻上チキと語った。(構成/金子昂)
ビデオ・ジャーナリズム
荻上 「ビデオニュース・ドットコム」が開局して10年以上が経ちましたね。学生の頃から、神保さんの活動からは多くを学ばさせて頂いています。その間にメディアの風景はだいぶ変わったとも思います。ネット環境が変わったことで、フリーの方でも自前のメディアを持ち、必要だと思う情報を発信するようになりました。
もちろん、そのことのメリットもあれば、副作用もあると感じます。特に3月11日以降、フリーのメディアがそれぞれどういった役割を果たしたのか、検討が必要とも思います。その上で、フリーのメディアはもちろん、トータルなメディア環境にどのような課題があるのか、探ることが重要だと思います。
今日は神保さんに、特にフリーの立場でメディアを持つことの課題についてお話をお伺いしたいと思っています。最初にお伺いしたいのは、「ビデオニュース・ドットコム」の約15年間での感触がどのように変わってきたかということです。
神保 感触は、最初の頃とあまり変わっていないんですね。長~い道のりを、淡々と歩き続けているという感じかなあ。そのことの意味を説明するために、簡単に「ビデオニュース・ドットコム」の歩みをお話させてください。
僕はビデオジャーナリストになる前に、10年ほど活字メディアの記者をやっていました。アメリカの報道機関に長く勤めていたのですが、貧困問題や紛争問題などを取材したいと思い、その時に勤めていたAP通信を辞めてフリーになりました。AP通信には、発展途上国の特派員のポストはとても限られていたし、本社にはそうした問題を担当する記者のポストがなかったんです。ちなみにアメリカのメディア界では、APのような大きな報道機関にいた記者がフリーになることは、それほど大したことではありません。ある程度の期間、報道機関に勤めたあと、一旦フリーになって自分のやりたいジャーナリスト活動をやって、また報道機関に戻るという道が、選択肢があるからです。
その頃、世界の紛争地域や極端な貧困地域など、あまり人が行かないところに単身で乗り込むと、価値のある映像が撮れるという助言をもらいました。1993年頃のことですが、当時、家庭用ビデオはぼちぼち普及していたものの、まだ放送できるような画質ではありませんでした。まだその段階ではビデオは不特定多数の人に映像作品を見せたり、何か重要なことを伝えるための表現ツールとしては、専門のトレーニングを受けた人にしか扱えないものでした。
荻上 今と違って、まだまだ一部の人しか使えない道具だったのですね。
神保 少なくとも、そう考えられていました。当時はまだ、放送クオリティの高画質の映像を得るためには肩担ぎの大きなENGカメラが必要でしたが、それは値段も数百万円から1千万を超えるものもあるほど高価なものだったし、操作も簡単ではなかった。また、それを国外に持ち出すためには、いろいろと特殊な手続きが必要で、それを個人でやるのは大変でした。とにかく当時はまだインターネットが登場する前だったので、何か意味のある映像を撮ってきても、それをテレビで流せなければ、他に映像を発表する場がなかったんです。
それでも僕はその段階で、ビデオにすごく大きな可能性を感じていました。ある程度しっかりとしたジャーナリスト・トレーニングを積んだ記者が、自分自身でビデオを操作できるようになると、新しい地平が開けます。それがわかってきたのが1994年ぐらい。記者がペンをカメラに持ち替えてジャーナリスト活動を行うという意味で、ビデオジャーナリズムとかビデオジャーナリストといった言葉を僕が使い出したのも、ちょうどその頃です。
荻上 ビデオジャーナリストとしての活動を開始した当時は、メディアはどういった状況にあったのでしょうか。
神保 84、85年頃からテレビ朝日の「ニュースステーション」やフジテレビの「スーパータイム」など、これまでのニュース番組とは趣を異にする新しいスタイルのニュース番組が始まり、演出に工夫をすればニュース番組でも高い視聴率が取れることにテレビ業界が気づきました。ニュース番組にもスポンサーがついて、稼げるようになったということです。その頃から放送局の中で、報道番組も、ドラマやバラエティ番組と同様に、高い視聴率を取ることが求められる対象になります。放送局には、局の玄関にその週の高い視聴率を取った番組を讃える意味で、番組名と視聴率を張り出すカルチャーがあるのですが、その頃まで報道番組がその貼り出しの対象になることはまず考えられなかったのですが、その頃から報道番組も貼り出しの対象になり、報道番組で高い視聴率を取れるプロデューサーやディレクターほど、局の廊下を肩で風を切って歩けるような風潮が、急激に強くなっていきました。
僕がビデオジャーナリストとしての仕事を本格的に始めたのは1995年くらいですが、その頃になると、テレビは一気に、月並みの言葉でいえば公共的なジャーナリズムとしての機能を放棄し、視聴率を優先し始めます。要するに数字をとるために、地味なネタや難しいネタ、デリケートなネタを避け、その一方で、「わかりやすさ」のために事実関係を過度に単純化したり、何が重要かよりも、視聴者の情緒に訴えるような薄っぺらい手法を優先するようになっていきました。
荻上 視聴率競争に晒されることで、ある種、ジャーナリズムの矜持が失われたと。
神保 ええ。僕は視聴率とジャーナリズムの両立は十分可能だと思っているのですが、そのためには、今荻上さんが言った「矜持」が不可欠だと思うんです。ジャーナリズムはその本来の役割を全うするためには、視聴率や売り上げに結びつかない部分でも大変な努力をしなければならないし、しかも視聴率、つまりより多くの人に見てもらうための努力も、ぎりぎりまで求められる。要するに両立するのは大変なんですね。それを、片方を捨てることができれば、ずっと楽になれる。
新聞などの活字メディアと比べてメディアとしての歴史が浅いテレビには、まだその段階では、それだけの矜持を保てるだけの公共的なジャーナリズムの伝統が十分に育っていなかったというのが、私の見立てです。そのため、ジャーナリズムの質と商業的な利益の両立という重い課題を課せられるようになったとき、それを満たすことができず、結果的に評価が難しいジャーナリズム本来の機能や責任を投げ捨てて、数量的な評価が容易な視聴率や売り上げという方向に走ってしまった。
その頃から次第に、視聴率が取れていれば、ジャーナリズムとしては評価できない報道でも評価される一方で、ジャーナリズムとしては十分に意味のある内容でも、数字が取れない企画は敬遠されるようになってしまった。まず視聴率をとること、そして大手スポンサーが嫌がるような報道は避けることが当たり前になると、原発報道のような、数字的にもスポンサー的にもデリケートなネタは、テレビでは非常に扱い難くなります。以前に、放送局のあるプロデューサーが私に吐露した言葉ですが、テレビで報道番組を作るということは地雷源の中を歩くようなものだと言うんです。テレビは地雷さえ踏まなければおいしい商売だけど、地雷を踏んだら終わりだよ、と。
確かに、地雷を踏まないことを最優先の価値にすることさえ厭わなければ、つまりテレビでやってはいけないとされることを避けることさえしていれば、テレビはおいしいメディアだし、おいしい産業です。どこに行ってもテレビ局だというだけでそれなりに歓迎されるし、給料も桁外れにいい。だけど公共的なジャーナリズムを意識した瞬間に、テレビというのはいつ地雷を踏むかと、常にビクビクしてやらなきゃいけなくなる。しかも、まじめな取材は相手からもあまり歓迎もされない場合が多かったりする。
だから、今のテレビ局が置かれた状態の下で、私のようなフリーのジャーナリストが歓迎されないのは、ある程度はやむを得ないことだと思います。テレビ局にとっては誰かを番組のゲストとして呼ぶことと、ジャーナリストに企画をやらせることは、まったく意味が違います。ジャーナリストが撮ってきたものを放送するということは、少なくとも映像部分の編集権を事実上局外の人間に委ねることになるわけです。それはテレビ側からすると、これまでの慣習からしても、また放送法の観点からも、なかなか受け入れ難いことなんです。
ましてやビデオジャーナリストとなると、撮影から取材、編集までひとりで全部やってしまうわけだから、局としては全部おまかせするか、使わないかのいずれかになってしまいます。
そんな状況でしたから、僕自身も96、97年ぐらいからは、ジャーナリストとして本当にやらなければならないテーマはこれだけど、それはテレビでは出してもらえないから、とりあえずテレビ向けには安全な企画をやる、というようなスタンスに変わっていました。
当初は、テレビに出せない企画は雑誌に寄稿したり、著書として出版したりしていました。どうしても映像で出したい場合は、VHSのビデオパッケージにして、2000本くらいをダビングして売ったりとかもしていました。
荻上 同人誌みたいですね。
神保 それに近いよね、2000部っていったら。そういうことをやりながら、独自の放送局を持つ必要性を次第に痛感するようになって、ある時期、アメリカの「CNBC」というチャンネルと組んで1997年から1999年まで2年ほど、CS放送のスカイパーフェクTVでチャンネルを運営したりもしていました。また、全国のケーブルテレビと組んで、新しい報道番組は作れないかなどといった試みもやってきました。
地上波の後にやってきた衛星放送やケーブルテレビには、それまでの地上波とは異なる報道チャンネルが実現できる可能性はあったと思います。衛星やCATVは視聴者に直接課金をすることが可能なため、広告に依存するしかない既存のテレビとは異なるビジネスモデルを構築できる可能性があったからです。
それが実現していれば、かなり今とは状況が違っていたかもしれませんが、日本独特の記者クラブの壁などもあって、報道に参入することは容易なことではありませんでした。何せ、情報が既存のメディアから成る記者クラブに独占されていて、新しいメディアは記者会見の一つも出られないのですから、そんなメディアに投資する人もいるはずがありません。そのためCSやCATVなどの新しい放送プラットフォームができても、報道の分野では既存の報道局がもう一つ二つチャンネルを取得するだけに終わってしまいました。まだその段階では、日本では多チャンネル化をしても、新しい報道の担い手が生まれるための前提条件が成り立っていなかったと思います。2000年代に入って、インターネットでブロードバンドが普及し始めて、動画配信が可能になった時、迷うことなく「ビデオニュース・ドットコム」を立ち上げたのは、その時の経験が元になっています。
ただ、2000年代の初頭は、NTTのISDNの後処理の問題などがあり、思ったほどブロードバンドが普及しませんでした。だからビデオジャーナリストの真価が発揮されるタイプのコンテンツ、つまり映像の迫真性を前面に出して、活字に対するビデオの優位性をアピールするようなタイプのコンテンツを次々と配信するようなビジネスモデルは、すぐには実現することはできませんでした。
ただ、とにかくインターネットを使って外部資本にも広告にも依存しない報道メディアを事業として成り立たせるためのインフラ作りは、かなり時間がかかる作業になることがわかっていたので、少しでも早く始める必要があると感じていました。そこで、まずはそのようなコンテンツの受け皿作りから始めようと考え、宮台真司さんと「マル激トーク・オン・ディマンド」というニュース番組を2001年に立ち上げました。これは映像の力を前面に打ち出したビデオジャーナリスト本来の強みを活かしたモデルではありませんでしたが、既存のメディアが逃げている「重要だけどデリケートで複雑な問題」を真っ向から扱う番組という意味では、これも十分にインターネットだから可能になった新しいタイプの番組と言うことができると思います。
だから、少し話が長くなりましたが、最初のチキさんの質問に答えると、結局いろいろなことをやってきているように見えて、僕自身がやろうとしていることは、いかにして映像でしっかりとしたジャーナリズムを実践するのか、そしてその場をいかに確保していくかのみに集中しています。そして、最初にそうしたことを志してから早くも20年近くが経ちますが、まだ僕が目指していたものはほとんど実現できていません。ここ数年、ネットの動画配信のハードルが下がってきて、やっと本格的な作業が始まったというのが、僕の今の偽らざる認識です。
新しい伝送路
荻上 神保さんはこの十数年間、既存メディアが抱えている問題を、新しく整備された、誰かに独占されているわけではないインフラを活用することで、オルタナティブの萌芽を作ろうと活動されてきたわけですよね。そんな神保さんからは、たとえばニコ生やユーストリーム、あるいはメルマガやブログを活用し、いろいろな人が自分のメディアを持てるようになったことについて、どのようにご覧になっているのでしょうか。
神保 既存のメディアはいろいろな理由で公共的な機能をどんどん喪失しています。そのツケは、政治にしても経済にしても社会にしても、かなり大きいと僕は思っています。それを少しでも埋める、あるいは補完する新しいジャーナリズム機能が、新たな技術やインフラの上でできなきゃいけないというのが、まずは大きな問題意識としてあります。
ですが、現状は僕自身を含め、必ずしもその課題に応えられていないと思います。確かにインターネットが普及して、ユーチューブやユースト、ニコ生などの動画配信のインフラも整備されたことで、誰でもメディアに参入できるようにはなりました。そのことで、ちょっと語弊があるけれど、三角形の底辺は広がったと思います。僕はこれをメディアの民主化と呼んでいるのですが、要するに、これまで極端に参入障壁が高かった報道メディア、とりわけ映像を扱う「テレビ」の事業分野にも、誰でも参入できるようになった。制約だらけの放送免許など取得しなくても、映像コンテンツを不特定多数の受け手の元に届けられるようになったわけですね。このことの意味がとても大きいと思っていますし、これからも新規参入はどんどん進むでしょう。これはユーチューブが登場したあたりから始まっている現象ではありますが、ここに来てユーストや日本ではニコ動などが出てきて、映像メディアというマーケットが、一夜にして10倍、100倍に膨れあがった感じはあります。また、それ自体はとてもいいことだと思っています。
でも、最終的に大事なのは、より多くの人が参入した結果、より質の高い、より公共性の高いコンテンツが出るようにならないと意味がないと、僕は考えます。つまり、三角形の底辺は広がったけど、最終的にはそれが三角形の高さに結びついていかないと、メディアの民主化、テレビの民主化の意味は、ただお楽しみが増えたということだけで終わってしまうと。一般論としては、あるスポーツの競技人口が増えると、そのスポーツの国代表チームが強くなるのと同じで、底辺が広がれば広がるほど、そこに競争が生じ、ノウハウも蓄積されてきて、いずれは高さも伸びてくるんじゃないかという期待はあります。既存のメディアは、参入者がとても少なかったので、三角形もとても小さかったし、だからこそその高さも大したところまでは到達できなかった。今は、底辺は広がったので、これまでよりも高いところまで持って行ける必要条件は揃ってきた。だけど、そこから先は、放っておけば自然に高さが出てくるというほど、ジャーナリズムは甘くないと思います。
また、さっきも話に出ましたが、誰でも映像を投稿したり発信したりはできますが、それがビジネスとして成り立つようにならないと、それは要するに趣味や道楽に過ぎません。持続的なジャーナリズム活動の場にしていくためにも、報道ビジネスをマネタイズできるようになる必要があります。
荻上 多様性はぽつぽつ出てきたように見える。ただし、たとえば既存メディアや、あるいは理想としてのメディア環境と比べたときに、まだまだ良質な面が確保できていない。
神保 ええ。むしろ現状では、もしかすると弊害の方が目立っているのかもしれません。これは当初から予想されていたことかもしれませんが、極度に参入が制限されていた市場が開いて、一気に新規参入が進めば、当初は質が犠牲になるのは、当たり前といえば当たり前のことでした。
間口が開いた瞬間というのは、開く前よりも一時的に質が低下するのは避けられません。今まで一部の少ない人間に独占されていたために、既存メディアというとても小さな三角形の外に報道のノウハウなどがまったく共有されていないわけです。そこにほとんど経験がない人たちが大挙して入ってくれば、当然最初は質的には不十分なものがいっぱい出てくるに決まっている。でも長い目で見れば、それが徐々に淘汰されたり、切瑳琢磨されたりする中で、メディアが一握りの事業者に独占されていた頃よりも、もっと価値の高いところに到達することは十分に可能だと思います。
荻上 初期段階の混乱というのは確かにあると思います。ある程度のコンセンサスや、失敗の歴史が共有されるまでは、「俺はここまで行ける」と非行自慢をするかのような、露悪的なプレイヤーも出てくる。
とはいえ、短期的には「弊害」を淘汰していくことも重要になるでしょう。そこで、率直に、神保さんが今のフリーランス、メディアの活動をどう観察しているのかをお聞きしたいです。
神保 メディアの現状については、皆さんのご覧になっている通りです、という感じですね。まだ、日本全体、メディア全体で見ると、産みの苦しみを味わっているまっただ中といったところではないですか。それは送り手側についても言えるし、受け手側についても言えます。また、送り手と受け手の境目が見えなくなっているという意味でも、新しいメディア状況が生まれていると思います。それなりに長い年月プロとして野球をやってきた人間が、新しいプレーヤーがどばっと入ってきて競技人口が一気に増えた時に、初心者や見よう見まねでプロのまねごとをやりながら、一生懸命野球に取り組んでいる人たちを見て、「あんなの野球じゃない」などといった批判をして、一体何の意味があるでしょうか。
僕は個人的にアドバイスを求められれば、できる限り応じるようにしていますが、あとは皆さんが自分でやってみて、これは受け手としても送り手としても両方の意味で言っているのですが、それこそ「地雷」を踏んだり、炎上したり、騙されたりして、いろいろ痛い目にあいながら、新しいメディア環境を作っていくしかないと思います。
受け手の側も、これまでの特権をもった既存のメディアに対する接し方が特殊だったことを、そろそろ理解する必要があるように思います。つまり、これからはメディアで発信している人も、これまでのような特別な権益を受け取った「特権的業界人」ではなく、自分と同じ普通の生身の市民が一念発起してやっているんだってことです。ちょっと問題があると、まるで鬼のクビを取ったかのように批判をするのは、既存のメディアに対する作法をそのまま新しいメディアにも適用しているのでしょうが、それはメディアがまったく新しい時代に入っていることを、理解できていないということだと思います。まあ個人的にはどんどん叩かれた方が、鍛えられていいとも思わないわけではありませんが、あまり厳しくすると、みんなやめちゃうでしょう。
とにかくこれまでのメディアの最大の特徴は、あまりにも参入障壁が高かったことです。今までは伝送路が希少だったために、伝送路さえ持っていれば自動的にメディアを名乗れた。たとえばフジテレビというチャンネルは放送免許をもらっていますが、そのことの意味は、放送がしっかり出せるだけの技術的な裏付けは要求されていますが、こと番組制作については、フジテレビが最も公共の利益に資するサービスを提供できるという入札なり評価なりがあって、フジテレビに放送免許が交付されているわけではありません。電波の割り当てをもらったら、自動的に制作も独占できるようになっているということには、必ずしも合理性はありません。そうでなければならない理由が、実はないんですね。
伝送路を持っているということは、土管を持っているということですので、土管の管理者が土管の中を通すモノまで一手にコントロールする必然性はないんです。これを垂直統合といいますが、これは今、電力の分野でも問題になっている構造問題の最たるものの一つです。
荻上 しかし今は、新しい伝送路のおかげで、いろいろな人が発信できるようになりました。そうした様々な環境変化が、既存メディアにも「外圧」になっているようにも見えます。
神保 それはその通りです。既存のメディアもかなりネット報道やネット言論を意識せざるを得なくなっているとは思います。でもそれは、既存のメディアがネットで叩かれたり炎上の対象になるのを恐れているからという面が強くて、またネットメディアが脅威になっているというところまでは、いっていないんじゃないかな。
ネットメディアは、まだまだ玉石混淆です。ことジャーナリズムに関する限り、このまま次々と新しいメディアが起ち上がってくるというほど、メディアは甘くないと思っています。というか、多分、これからみんな、いろいろと痛い目にあうんですよ。メディアは厳しいですから。ちょっとした勇み足で100倍返しくらいされるのが、メディアだし、もしそうなっていないとすれば、おそらくそのメディアは影響力もないし、社会からまともに相手にされていないから。100倍返しされるということは、メディアにとっては名誉なことなんですね。僕はCSやCATV時代も含めると独自のメディアを作るという大それた作業に関わるようになって15年も経つので、その大変さは心底実感しています。本当に厳しいけど、それがメディア作りの楽しさだし、やり甲斐でもあります。
最初は人に干渉されることなく自分の意思で何かを発信できる喜びだけで、十分楽しいでしょう。でも少しでも影響力を持ち始めたり、見る人や読む人が増えてくると、ちょっとしたこと、例えば、事実関係の間違いは言うまでもありませんが、ちょっとした偏りだけでもすぐにいろいろなところから弾が飛んできます。それがメディアの特徴です。これからいろいろと痛い目にあって、つらい思いもするメディアが出てくるんだろうなと思いますが、それが広がった底辺が上に伸びていくために不可欠な経験なんだと思ってます。
僕は今まで痛い目にたくさんあってきたんだから、それを若い人たちに教えてあげるべき立場なのかもしれません。でもそういう僕も未だに日々、痛い目にあっていて、人に教えられるほどの余裕はありません。記者になってからはもう27年も経っていて、メディア作りを15年もやってきている僕でさえ、未だにいっぱいいっぱいな状態でやっている。それほどメディア作りは大変な作業なんです。実際にメディアを立ち上げ、その喜びと同時に大変さを経験すれば、みなさんがあれだけボロカスに言ってきた大手メディアの苦労も、わかるようになるでしょう。メディアの不用意な一言でどれだけの人が迷惑し、どれだけの抗議が寄せられるかを、最初は小さな規模で経験することで、メディアを作ることの難しさやノウハウが蓄積されていく。これまでほんの一握りの事業者しか参入できなかったメディアが、特殊な産業から普通の産業に脱皮していくためには、僕を含めた新しいメディアの担い手一人ひとりが、それを乗り越える必要があると思っています。
ネットメディアの可能性
荻上 メディアを運営していくことにつきまとう様々な困難を自然と知っていくことで、「既存メディアを叩くこと、の先」に実際に行くことの困難が見えてくるわけですね。また、既存メディアにはそのメリットも多々あり、不合理にみえる部分も、「そうなった経緯」というのが含まれている。それを踏まえてこそ、反権力的ポーズによる「大メディア叩き」だけではダメだとして、では具体的に何ができるのか、という議論が真実味を帯びてくるわけですね。
神保 たとえば、既存のメディアとネットではリーチに明らかな違いがあります。でも別に既存のメディアを、テレビ局という単位で一塊にして見る必要はないわけです。
今は放送という産業がたまたま垂直統合という仕組みを採用しているから、一塊に見える。あるいは記者クラブが固まっているから既存メディアという塊があるように見える。でも、実際はコンテンツは番組ごとに分かれているわけだし、番組内容も地域によって異なる。これからいろんなメディアが登場するでしょうし、ネット上にもいろんなものがどんどん出てくるはずです。その中で、今まで新聞やテレビが、ここだけは負けないと自負してきた報道の信頼性や速報性さえ、ネット上にそれを凌ぐメディアが出てくるかもしれません。これからは、自分のメディアはどこで勝負するのかも、はっきりとしたビジョンを持たないと、生き残れない時代に入っていると思います。
荻上 特定の法案に関する議論はこのウェブメディアが一番得意だな、といったようなケースは、今でもありますね。
神保 そう、特定のイシューに関してでもいいし、もうちょっと広くてもいい。例えば、医療問題に強い報道メディアとか、法律問題に特化された報道メディアとかね。その切り分け方も、いろいろなデザインが可能になっています。とにかく伝送路が開放されたことで、これまでメディアに参入する上での決定的な制約だったものが取っ払われたわけですから、やろうと思えば何でも可能は可能になったのはその通りなんだけど、問題はそれがビジネスとして成り立たないと、その活動がある程度持続性をもったものになり難いということです。可能かどうかだけでなく、その活動をマネタイズできるかどうか。
長らく伝送路が、一握りの事業者によって独占されてきたために、メディアの世界、とりわけ報道メディアの世界にはそのノウハウ、つまり報道をビジネスとして成り立たせるためのノウハウの蓄積が決定的に欠けていると思います。既存の報道メディアが持つノウハウも、高い参入障壁によって完全に保護された下でのノウハウなので、とてもネット時代に通用するようなものではありません。
その意味ではいまわれわれは、ネット時代にも生き残らせることができる報道メディアをどう運営するかについてのノウハウを、ゼロから蓄積しなければならない局面にあると言っていいと思います。
マネタイズとかビジネスという言葉を使うと、「銭儲けの話ですか」なんて言われて、話が下世話になったかのような扱いを受けることが少なくありませんが、むしろそれこそが、これまでメディアはビジネスとして成り立つことを第一に考えないでもよかった特殊な産業だったことの証左だと思います。儲かるかどうかは別にして、ビジネスとして成り立たなければ、人が趣味や道楽でやっていることになるので、持続的なものにはなり得ないし、プロフェッショナリズムも育ってきません。NPO方式の可能性も含めて、制作活動や取材活動を支えるための資金をどうやって工面するのかは、新しいメディアが成り立つかどうかの必要条件になりますし、それが確立できるかどうかが、今日世界中のメディアが直面している最大の課題だと思っています。
他の産業や、メディアの中でもエンターテイメントやマーケットニュースといった他の分野のコンテンツと比べた時、報道はマネタイズする上で制約がとても多いんです。報道事業が成り立つためには、視聴料を実際にサービスを受けている人からもらうか、第三者からもらうかの、どちらかしかないわけです。だけど、第三者から資金をもらった場合には、その第三者がなぜ資金を出す動機やメリットがあるかを考えなければなりません。報道事業との利害抵触や利益相反をどうクリアするかが問題になります。報道は儲からないから、報道事業以外のビジネスで儲けたお金で報道を行うやり方では、事実上その事業者自身が第三者になったも同然になります。つまり、その事業者が儲けているビジネスやその分野の規制や法律に直接的、間接的に関連した問題について、その報道機関は中立的な報道が可能ですか、ということです。
この議論はともすれば原理主義的、あるいは理想主義的なメディア論と受け止められがちですが、既存の報道機関がなぜジャーナリズムとしての公共責任を果たせなくなったかを考えた時に、やっぱりこの問題、つまり報道とスポンサーとの利害抵触問題をクリアできなかったからだということが、大きく影響していたことは間違いありません。だとすれば、それで既存のメディアがダメになったから、新しいメディアの制度設計をしましょうという時に、既存のメディアをダメにした問題に対して、深い反省と分析を持って臨まないでいいはずがありません。今、その問題にとことんこだわっておくことは、意味があることだと思っています。
村の掟・ジャングルの掟
荻上 「ビデオニュース・ドットコム」を続けてこられて、ここは大きな課題だな、と感じた点はどこですか?
神保 「ビデオニュース・ドットコム」をやってきて、一番大変なのは、この産業の新しい担い手となるべき人材がいないことです。本当に真剣に人材を育成しなきゃいけない。しかも、急いで。
今、基本的にジャーナリズムという職業に関するプロフェッショナルなノウハウは、既存の新聞社とテレビ局の報道部門にしか存在しないわけです。テレビ、特に民放の放送局にジャーナリズムのノウハウが本当にあるのかと言われれば、はなはだ心もとないところですが、彼らも一応、報道の現場に行ってトンチンカンなことをやらない程度の最低限のトレーニングは受けています。
ということは、報道の基本的なノウハウ、それは技術的なことだけでなく、倫理基準や行動規範も含めた話ですが、そうしたノウハウはほんの一握りの人たちによって独占されてきたと。そして、既存のメディア企業は法律も含めいろいろな制度で保護されているので、少なくともインターネットが登場するまでは経営的に安定していたため、人材の流出も少なかった。
それでもってインターネットという新しい伝送路が開放されて、新しいメディアが登場するためのハード面での条件は急速に整ってきたのだけど、ソフト面、つまりジャーナリズムのノウハウが蓄積された労働市場が既存メディアの外部に事実上存在しないため、車は誰でも持てるようになったけど運転のノウハウを持った人はほとんどいないというような状態になっちゃった。しかも、既存のテレビや新聞が持っているノウハウは、実際はネットという厳しい競争市場では、まったくと言っていいほど通用しないんですよ。彼らは参入障壁に守られていたメディアだから、自由な競争市場で競争していけるような力はないし、特に日本は過度に報道市場を保護して、一部の既存メディアの既得権益を護ってきてしまったために、ジャーナリズムの質も総じて低い。
端的に言えば、「制作費が1000万円あればある程度の仕事はできます」という人はいっぱいいるのだけど、ならばその人は10万円では何ができますかの問いに直面したことがない人たちなんですね。だから、単に安かろう悪かろう状態になってしまう。常にリソースがふんだんにあることを前提にしか仕事をしてきたことがないと、コスト意識も育たないので、リソースの有効利用という考え方が出てこないんですよ。でも、それはどんな産業でも、一定の競争がある市場であれば、当たり前のことです。
だから、ネットで有料のコンテンツをちゃんとお金をもらって読んでもらうとか、見てもらえるようなビデオを作れる能力がある人はほとんどいないということになる。まあ彼らはまだしばらくは特権的な地位が享受できると思っているから、生き馬の目を抜くようなネットメディアにはどっちみち来ないでしょうが。実は、何人か既存のメディアからビデオニュースにチャレンジした人はいるのですが、申し訳ないけどやっぱり使いものにならないんです。今の僕自身の偽らざる感覚は、新しいメディアの担い手を育てるためには、既存のメディアで既にある程度のノウハウを持っている人を横滑りさせるのは無理で、まったく新しい若い人たちをゼロからネットメディアの環境で競争していけるように育てるしかないと思っています。
荻上 まだそちらの方がコストが安くつくかもしれませんね。
神保 コストもそうだし、現実にもそれしかないんですよ。既存のメディアの人はある程度報道のノウハウを持っているかもしれないけれど、同時にそのノウハウというものは、あり得ないような特権を前提としたノウハウなので、その特権がなくなってしまうと、全くといっていいほど機能しないノウハウなんですね。
例えば、既存メディアの記者たちは、ほとんどの時間を記者クラブで過ごします。だから、自分が取材する分野についてはかなり詳しくなることができる。何せ2年とか3年の間、毎日自分が所属する記者クラブが入った官庁のビルに毎朝出社ならぬ登庁して、1日をそこで過ごしているわけですから。しかし、同時に、彼らがその問題に詳しいのは、記者クラブ内で受ける官僚のレク(レクチャー)の賜物でもあるわけです。だから、主要メディアの記者のモノの見方は、ほとんど官僚と同じになってしまう。この弊害は、原発問題などでも最近よく指摘されるようになりました。
また、彼らは一握りの著名な大手メディアの記者ですから、名刺一枚でほとんど何の説明もせずに取材をすることが可能です。しかし、所属しているメディアが無名のネットメディアだったり、フリーランスになれば、取材を受ける人がその記者がどれだけ信用できると思えるかによって、取材の可否が決まります。そういう取材もほとんどやったことのない記者たちが、何のサポートもないネットメディアに単身やって来て、しかも今までの10分の1とか100分の1のコストで、つまり10倍、100倍の生産性で、玉石混淆のジャングルのようなネットで通用する競争力のある記事やリポートが書けるようにならなければならない。それがどれだけ無理筋であるか、わかるでしょう。
荻上 既存のメディアの方は資本があるわけだから、トライ&エラーもできそうな気がするのですが、やりたがる人に決裁権がなかったりと、なかなかうまくいかないという愚痴はよく聞きますね。ネットメディアの発展については、何が一番のネックになりますか。
神保 課題という意味ではいくらでもあるけど、記者クラブの問題は新しいメディアを作ろうとすると、いろんなところで影響が大きいですね。
記者クラブは日本の報道機関の現場です。記者クラブという村の掟の枠内で他社への優位性を獲得していくのが、従来の日本のジャーナリズムの競争の概念です。しかし、それは「独占的アクセスを享受する排他的記者クラブ」という、世界の中でもかなり特殊な世界でのみ通用する競争基準でしかありません。ネットでは既存の報道機関で培ったノウハウをほとんど活かせません。村の掟とジャングルの掟は違いますから。メディアはとても恵まれた、守られた環境の中でやってきた産業なんだと痛感します。
ところが、ネットメディアにとっては、これが大きな問題になります。ネットで報道事業を営むということは、新聞やテレビのように数社の同業者との競争を考えていればいいという牧歌的な競争とは、本質的に競争基準が異なります。既存のメディアの報道は報道機関だというだけで、特権的なアクセスが認められ、しかも参入者がテレビは多くて5~6社、新聞も全国紙は5紙しかないので、いわば同業者間の競争だけでした。
しかしネットはそうはいきません。まず、報道だからといって一切の特権はありません。誰でも参入ができるし、しかもテレビや新聞と違い、コンテンツも無数にある。ニュースや時事問題を扱うウェブサイトだけでも無数にありますが、極端なことを言えば、ネットメディアは同じ画面からアダルトビデオだって見ることができるわけですから、そういったコンテンツともメディアアクセスタイムを競っているわけです。
競争力の定義はいろいろできますが、いずれにしてもそれだけ競争力のあるコンテンツでなければ、見向きもされないのがネットの厳しさです。ところが、記者会見やニュースの現場に行くと、既存のメディアが生ぬるいことをやっているわけです。記者会見の質問も生ぬるいし、例えば政治関係の会見では、既存のメディアは政局や政治日程のことしか聞きません。
われわれネットメディアはもっと厳しくいろいろなことを聞きたいのだけれど、既存のメディアがどうでもいいようなつまらない質問をする合間に1回か2回質問の機会が与えられるだけでは、必要な情報が取れません。
つまり、ネットメディアにとっては、記者会見自体に出席できないところがまだ多く残っているばかりか、記者会見に出られても、はっきり言ってしまえば質の低い既存のメディアにおつきあいをしなければならない状況なんですね。
しかし、ジャングルはもっともっと厳しい。つまり、ネットメディアの読者や視聴者はもっとずっと厳しい目で見ているので、そんな緩々な取材をやっていては、目が肥えた、そして要求基準の高いネットメディアの視聴者を納得させることができないんです。
荻上 村で暮らしていた人がジャングルで生き延びることは難しい。そもそも多くのメディアはネット参入自体に慎重でした。もちろん、若手の新聞記者さんの中にはTwitterやブログを使って発信している方も少なくありません。そういう人の中には、フリーランス化を視野にいれている人もいます。そういったロールモデルとなるケースが出てきて、ある段階まで蓄積し「水があふれる」ようになるのを、今は座して待つという状況しかないのでしょうか。
神保 既存のメディアで働く記者の中でも、本当にジャーナリストとしての実力がある人は、どこに行っても通用すると思います。そういう人も多少はいるかもしれません。ただし、例えばアメリカのニューヨーク・タイムズが、あるビジネスコンサルタントに次のビジネスモデルの構築を依頼した結果、その段階で1000人余りいた記者の中で新しいメディア環境でも通用する記者はトップの30~50人しかいないという提言が返ってきたそうです。
ジャングルに出ても、今、新聞社やテレビ局から貰っているだけの給料を稼げる人は、非常に少ない。というか、ほとんどいないということです。チキさんもご存知のように本を一冊書くのは大変な作業です。最近では出版社も経営が苦しいので、よほどの売れっ子でない限り、新書ぐらいしか出せない。新書は次から次へと出てくるので、売れてもせいぜい1万部。一冊700円の新書が1万部で印税が70万円です。ということは、既存の新聞社やテレビ局にいる人は、フリーになっても今の給料を稼ぐためには、最低でも毎月1冊の新書を出さなければならないということです。実際はそこから取材費や交通費も出さなければならないので、毎月2冊は出さないと追いつかないでしょう。
荻上 そうですね。書き手にとって書籍収入というのは、ボーナスぐらいの感覚でしょう。
神保 でしょ。しかも、小説家はイマジネーションで書けるのかもしれないけど、ジャーナリストは取材しなければ書けない。何でもかんでも適当に書くわけにはいかないから取材の期間が必要だし、それに伴う費用もかかります。だから最近では少しでも安くすませるために、現場を取材せずに、図書館やネットで集めた情報だけを元に書かれている本が、非常に多いんですね。
でもこれはジャーナリズムのイロハ以前の話になりますが、現場に出なければ本当のことは何もわかりません。
サスティナビリティの確保
荻上 ルポやノンフィクションにはお金がかかります。支えるためのメディアにも体力が必要ですね。
神保 そう、仮に記者個人には実力があったとしても、活動するメディアがなければ、陸に上がった河童も同然です。ところが、メディア自体が大変な荒波に晒されているので、フリーになっても自分の活動の場を確保することが困難になってきています。
最近は有料メルマガが意外にも静かな人気を博しているようですが、それはCP(コンテンツ提供者)にとっては、ユーザーに直接課金するメルマガが一番確実に売り上げをあげられる手段だからです。Twitterを告知手段として使い、フォロワーを増やしてメルマガを出せば、そこそこ売れるようです。ただ、僕はそれは結構リスキーなビジネスモデルだと感じていますが。
フリーというのはその名の通り、組織に拘束されず、ノルマも課されず、自由なジャーナリスト活動ができることが、最大のメリットです。その反面、サラリーマン記者と比べると、収入は安定しないというディメリットがある。せっかくフリーなのだから、自由に自分のペースで仕事をすればいいのに、有料メルマガを定期発行しなければならなくなると、場合によっては報道機関のデスクよりもノルマの縛りがきつくなる。体調を崩そうが、書くことが無かろうが、とにかく約束は果たさなければならない。しかも、苦し紛れにいい加減なものを出していると、すぐ解約されてしまう。つまり、そういう経営的な雑事から開放されているのが、本来のフリーのメリットではないのかな、って思うんですけどね。でも、誰も食べていかなければならないから、しょうがないのかもしれませんが。
あとは今は先見の明がある人がメルマガでうまく定期購読者を増やしている状態かもしれませんが、CPの間でメルマガの方が新書よりもおいしいという認識が広まってくれば、そのうちメルマガも乱立してくる可能性がありますね。
荻上 だんだん回数や文字数が減る人も多いですよね。それから、炎上マーケティングや、2ちゃんねるのまとめサイトのようにタイトルでつって、中身はしょぼいことを書いている、という場合もある。メルマガや有料ブログを展開するのは、特定の数千人に支持されれば他の活動にとってもサステナブルですが、暗黒面に落ちて扇動的になるインセンティブもあると感じます。声高に煽れば煽るほど響くのですから。
神保 うん、まだ新しい現象なので、黎明期には一時的にそういうのが幅を利かせる時もあるかもしれませんが、そういうのはいずれネタが割れて、読者や視聴者から見放されていくと思いますよ。一つはネタが割れるというか、馬脚を現す場合。つまり、手法がばれるということ。もう一つは、飽きられるというパターンですね。
ことジャーナリズムという分野について言えば、常にニュース性を大切にしつつ、一定の価値ある情報や切り口、視点などを地道に提供し続けていくことが、唯一受け手から信用してもらえる手段なんですね。いろいろと奇を衒ったことをやって一時的に盛り上がってみせても、長続きはしません。
荻上 そうしたケースが、「フリーランス」や「メルマガモデル」全体に、否定的なイメージを作っている面は感じています。あるいは逆に、個別のケースに引っ張られすぎて、構造的な問題に視線が回収されてしまうのではないか、議論が後退したりしないかとも。そうした危惧についてはどう思いますか?
神保 それも含めて新しい現象なんでしょう。これは僕がちょっと旧い世代になったということのように感じられて、あまり認めたくないとこもあるんだけど、今メディアで起きているさまざまな現象を見ていて、またそれを大まじめに批判している人がいるのを見ていても、「そんなに言わなくてもいいじゃないか」という思いがあるんですね。
確かに従来のメディア環境の中では、少数の報道機関がとびきりの特権をたくさんもらって独占的に報道事業を行っていたのだから、当然彼らには高い公共責任が伴います。だから、ちょっとでも彼らのやっていることにおかしなところがあれば、みんなでダメ出しをするのは当然のことだし、むしろそうやって衆人環視をしていく必要のある対象だったと思います。
だけど、今新しく起ち上がったメディアや、新しいメディア環境で発信を始めた人たちは、まったく既存のメディアとは異なる立場にいる人たちだと思うんです。何の特権も受け取っていないし、だからこそ自由に発言できるわけだけど、逆に言うと特権がないから、読者や視聴者と同じ立場にあると言ってもいい。その彼らに何かメディアとしての公共性に欠けるような行為があったからといって、既存のメディアを叩くのと同じ感覚でこれを批判するのは、どうかと思います。既存のメディアで満足な人から文句を言われる筋合いはないし、既存のメディアがダメだからネットに期待しているのなら、もう少し新しいメディアやそこで通用するジャーナリストを育てる感覚を持ちましょうと言いたいかな。もっと言えば、文句を言うなら、あなたが自分でやったらいいじゃないですか。誰でもできるようになっているんだから、ってことです。
もちろん自由な言論空間での議論や論争は大いに結構だと思いますが、どうもメディアに対する批判は、メディアという存在を向こう側において、自分は安全なところから、難癖やケチをつけるような批判が多いと感じます。もはやメディアは川の向こう側の存在ではなくなっているんですよ。
最近、同じような問題を市民の政治に対する姿勢にも感じます。普段は無関心で丸ごと政府にお任せしておいて、何かがうまくいかなくなると文句ばかり言う。そもそもお任せしてあったことが問題だったのではないかと自問しないと、民主主義は機能しないと思うんです。
独自のメディア作りの作業を始めたのが1996年、ネット放送局を起ち上げて13年目に入った我が身としては、最初の頃は本当に孤軍奮闘というか、誰も同じようなことをする人がいなくて、寂しかったところもあるので、ここに来ていろいろなことが新しく始まっていること自体は歓迎すべきことだと思っているんです。
僕らも非常に限られた人員と予算で取材をしたり報道番組を作ったりしているから、既存のメディアに比べると、足りないところはいくらでもあります。視聴者の中には、そういうことにもいちいち難癖をつけてくる人はいますが、自分たちにできることをやっていくしかないんですね。
だから、新しいメディアの動きについては、まずは長い目で見ることが必要だと思うし、担い手側にいる人は、いろいろ叩かれても、そんなものは物ともしない神経の図太さを身につけていかなくちゃいけない。もちろんそれは批判を全部無視していいと言っているのではなく、当たっていると思うものや身に覚えがあるものについては真摯に受け止め、その後の取材や制作活動に活かしていかないといけない。そのノイズに耐えることができて、しかも正当な批判をちゃんと見分けられる人が、これからは伸びていくと思います。
荻上 すべて真に受けていると身動きとれなくなりますよね。
神保 実際につぶれちゃう人も結構いるしね。
荻上 一方で、「あ、必要な批判も、一緒くたに無視しているな」というのは、ある段階までいくといずれバレる、とも思います。
神保 あとこれは僕のメディアに対する個人的なスタンスですが、今メディアに起きていることを基本的には全て歓迎するという前提に立った上で、その結果として、既存のメディアよりも価値のあるものが生まれてこないと、意味がないと思っています。そうでないと、英語でcats and dogsと言いますが、禁断だったメディアの扉が開いたので、単にみんなで押しかけていって中に入って空騒ぎをしただけでした、という話になりかねない。
参入者が増えてエネルギーが膨れ上がったとしても、自動的に高さは変わらないんです。先ほども言ったように、今は奥行きも幅も広がっているけれど高さは高くなっていない。そのためには、メディアの問題もあるけれど、最終的には一人ひとりの記者やジャーナリストが能力そして競争力をつける必要があります。
荻上 アテンションやパッション、あるいはスタンスの意義だけでなく、当たり前だけれど、内容や方法論に、相応のクオリティが求められるわけですね。
神保 ジャーナリズムの規範の上に立てば、むしろそっちの方が本質的な価値ですね。メディアの送り手側の市場がずっと大きくなったのだから、例えばさっきの三角形に喩えると、その三角形でこれまでのメディア市場のような画一的なものである必要はありません。僕が「高さ」と表現しているジャーナリズムの質や競争力の座標軸は、多様でいいんです。むしろ、多様であれば多様であるほどいいと言ってもいいと思います。最終的には、自分が大事だと思う座標の上で競争力を磨いていけばいい。その過程で祭りや煽りといった手法を使うことも、多少はあっていいでしょう。かつて真面目な本を書いていた人でも、本を売るためには名前が売れなければならないことを知っている人は、テレビではあまり難しい話はしないで、割り切って名前や顔を売ることに専念している人はたくさんいました。テレビで顔売って本がちゃんと売れれば、地味なテーマでも本を出しやすくなります。そのための対価だと思えば、ちょっとばかりテレビでおちゃらけをやるくらいのことは、安いものです。
当然そうした手法にも好き嫌いはあるでしょうが、そうした手法まで全否定していると、ジャーナリストは仙人のような生活をしなければならなくなってしまう。何度でも言いますが、これからのジャーナリストは受け手と何ら変わらないところに生きている、つまり特権や保護を受けていない生身の人間だし、そういう人たちがある程度の能力とそれ相応の努力があれば、普通にジャーナリストとしてやっていけるようにならないと、メディアはいつまでたっても今日の特殊な保護産業から普通の産業に脱皮することができない。だから、これまでのような「特権を享受しているくせに」とか「政府から保護を受けながら高い給料を貰っているくせに」といった前提に立って、ただ文句を言ったり叩いたりする対象にする古い「対メディア感覚」は、そろそろ卒業する必要があると思います。
荻上 かつてはテレビで顔を売っていたことが、Twitterなどでの煽りと置き換わった面もあるでしょうね。
神保 そうですね。問題はその人が、もっぱらそんなことばかりをやっている人なのか、あるいはちゃんとしたジャーナリスト活動をするかたわらで、それをサポートする手段としてそのような「課外活動」をやっているのかでしょうね。つまりちゃんと取材をして、意味のあるものを何らかの形で発信できているのかどうかが、結局はジャーナリストの本物度を測る唯一の秤なんだと思います。
そういった活動ができるようになるために、持続的に提供できるメディアを作らなくちゃいけない。でもマネタイズできているメディアがネット上にほとんどありません。既存のメディアも同じようなものです。出版社の新書担当の人たちと話すと、編集部が10人くらいの態勢で、月に5冊くらい新書を出しているそうです。こうなるとほとんど月刊誌の出版体制ですね。
荻上 新書のラインナップが、雑誌的なインデックス機能を担いつつありますよね。だから当然、同じ人がひと月に複数冊を担当することもある。場合によっては週刊誌のような仕事感。
神保 そのうち週刊誌に近くなってくるかもしれませんね。かといって電子ブックは諸事情でまだ日本では広がっていない。海外ではかなり普及していて、飛行機なんかに乗ると、機内では電子ブックを読んでいる人が多いことに驚かされる時があります。でも、海外でも電子ブックで採算が取れるかどうか、紙という「モノ」がついてこない商品で、純粋にコンテンツの中身のみに対して、人々は幾らなら支払う用意があるのか等々、ビジネスとしての真価が問われるのは、まだこれからだと理解しています。
荻上 同世代や少し年長の方で、新しくメディアを作っている人と話をすると、やはり話題はサスティナビリティの話になりますね。無論、メディア企業として黒字化していくことを目的とするか、社会に対する何かしらの影響力を与えないと黒字であっても負けなんだという意識を持っているのとでは、似て非なるものだと思いますが。
神保 黒字はマストというか、前提条件ですね。もちろん起ち上げ段階から黒字というのは無理でしょうが、黒字にできないということは、誰かに資金を出して貰わないとなりませんから、それこそ独立した言論活動の制約になるリスクが大きくなります。
どこまで大きく儲からなければならないかはともかく、黒字を前提とした上で、良質なコンテンツを持続的に提供していけるようなメディアを作っていかないとね。
活字と映像
神保 シノドスは、アフィリエイトでやっているの?
荻上 ブログは、アフィリエイトと、アグリゲーションサイトへの記事提供ですね。あとは、メルマガやイベント、企画などを合わせて、総合的な収益増でカバーしあっています。
神保 何人だっけ。
荻上 編集スタッフは2人ですね。また今度、営業を含めてスタッフを増やす予定ですが、それでも全員で7、8人程度。打ち合わせの時以外は、それぞれの家で仕事をするスタイルなので、チャットメッセージやメールを頼ってます。
神保 活字メディアはそれができてうらやましいですね。映像だとなかなかそうもいかないのよ。
荻上 確かに、同じ「フリーのネットメディア」であっても、活字と映像では条件などが違いますね。活字の場合、編集機材がいらないので、それこそ全員がノマドスタイルでも仕事ができる。動画ももしかしたらそうなるかもしれないですけど、今は厳しそうですね。
神保 そうですね。うちの場合、今は回線のキャパの問題があって、動画をすごく圧縮して配信しています。あと有料だからダウンロード方式ではなく、ストリーミング方式で配信をしているので、サーバーがどうしても重くなる。ユーストみたいに無料のところも出てきているけど、しょっちゅう落ちたり止まったりすることは、有料放送では許されないから、これもなかなか難しい。結果的に動画配信では、まだサーバー代が結構なコストになっています。
荻上 やはり動画だと必要となる規模が違ってくるんですね。スタジオや編集機材の問題もありますし。必要なスタッフの数も変わってくるでしょう。
神保 うん、でもそれも古い放送局のような感覚はもうないですよ。ビデオニュース・ドットコムだって、未だにマンションの一室を改造したスタジオで番組撮っているし。もうここで500本以上の番組を撮りました。
僕自身は、映像の競争力は捨てがたいと思っています。まだその真価を発揮できるようなネットインフラが整っていないので、ずっと歯がゆい思いを我慢していますが、そう遠くない将来、動画で勝負できる時が来ると思っています。レイチェルカーソンは「知ることよりも感じることが大事だ」と言いましたが、優れた動画には見た人に何かを感じてもらう力があります。
もう一つは、最終的には映像無しでは、よほど情報そのものに価値がないと、そんなにお金がとれない状況が遠からず来るのではないかと思います。実は動画という考え方自体が、僕に言わせるとちょっと旧いんです。要するにネット空間では基本的に音声も活字も画像もまったく仕切りがないわけですよね。そのコンテンツ、あるいはその情報を伝えるために最適化された、最もオプティマイズされた方法で伝えることがいいに決まっている。そうすると、伝えるべきものによっては映像の方がいい、あるいは映像があった方がいい場合が当然出てきます。ここで言う「いい場合」というのは、その方がわかりやすいとか見やすいとか面白いといった、コンテンツとしての競争力があるという意味です。
映像には映像の、活字には活字の長短があります。「このテーマにはインタビューが欲しいけど、特に顔は見えなくてもいい」という場合もあれば、「人となりを見せたいから、インタビュー記事に短い映像を貼りたい、どんな風に喋る人かがイメージできるような映像が欲しい」という場合もあるかもしれない。やっぱりビデオを使えるということは、ネットメディアにとっては選択肢としてこれからは絶対に必要になってくると思っているんです。だから、もはや「活字 対 動画」の時代ではなく、「活字、音声、動画を最適化できる能力」が必要な時代に入っているのだと思います。
荻上 なるほど。動画から活字にはできますが、活字から動画にはできませんしね。「ニコ生シノドス」がレギュラー化して、色々と動画の可能性や限界もつとに感じています。
神保 だからビデオジャーナリストには活字だけでも通用する記事を書く能力、つまり文章力や取材力、論理構成力などは絶対必要です。僕はビデオを撮れるから、書けなくてもいいという時代も過去のものだし、その逆、つまり僕は文章が書けるから、ビデオなんて撮れなくてもいいというのも、これからはだんだん通用しなくなってくると思っています。
先ほどから話題にしているコンテンツの競争力という意味では、コンテンツの価値を最大化するためのノウハウとして、活字音声に加えて映像という要素をツールとして使うことのできる能力は非常に有効です。
荻上 方法論として比較優位だから動画をやるという人もたくさんいるでしょうが、動画のメリットを自覚した上で、作り手を育てる必要もあると。神保さんは震災直後、ご自身で福島県に行き、その動画をユーチューブ上に公開して話題になりましたね。どこよりも早い動画情報だったと思います。映像という形の一次情報を発信することの重要さは、ネットでも非常に重要だとわかります。
神保 うん、あれは文字で書くよりも、余計な語りを入れるよりも、もっぱら映像を見てもらうのがいいと判断して、ああいう形で配信したんです。その判断には異論のある人もいるでしょうが、僕なりの最適化の判断でした。もちろんそこには時間の要素もありました。つまり、一刻も早く出すことが、どれくらいの優先順位にあるかという判断です。時間をかけても、きちんとナレーションを入れるなどの加工してから出した方がいいのか、多少ラフでもすぐに出した方が、コンテンツの価値が高いのか。本当は、速報性が優先される場合、まずラフカットでもいいから撮って出しを速報で出しておいて、その後で追加取材したものも含め、しっかりと編集したものを出すという組み合わせが、一番いい場合が多いんです。最近ではユーストやニコ生のおかげで、その前にまず現場から一本中継を入れてしまおうという選択肢も新たに加わりつつあります。震災の時は現場が停電していたので、残念ながら被災地からの最初の一報を中継することはできませんでしたが。ただ、もちろんそれもこれもビデオを撮っているからこそ、できることなんですね。
人材育成のプラットフォーム
荻上 その、懸案の人材育成の見通しはどうでしょうか。
神保 なかなか苦労してます(笑)。
「ビデオニュース・ドットコム」は、テレビの報道が機能不全に陥る中で、正当で良質なビデオジャーナリズムを実践できる受け皿を作るために始めた事業なので、良質な報道番組を制作していくことと同時に、ジャーナリスト、とりわけうちの場合は映像も活字もきちんと扱えるビデオジャーナリストを育成していかなければ意味がないわけですが、前者はある程度自分の力で何とかなるのに対し、後者は自分だけではどうにもならないことなので、大変苦労しています。
特にビデオニュース・ドットコムのような小さな組織にとって、人材育成は本当に大変なんです。今は報道番組の制作に関わらせながら若い連中を少しずつ育てている段階です。元々どんな分野でも人を育てるのは大変だと思いますが、ジャーナリスト、しかも新しいメディア環境で競争していけるジャーナリストを育てるとなると、元々日本にはほとんどお手本がいないわけですから、更にハードルは高くなります。
それに、またちょっと下世話な話になりますが、人を育てるというのは会社にとっては少なくとも短期的には持ち出しになります。しかも、人に教えるためには一定以上の経験のあるスタッフを拘束するので、ダブルで負担がかかってきます。人に教えられるだけの経験や能力を持ったスタッフというのは、本来であれば取材や制作の最前線で活躍してくれなければならないわけですから、その人を現場から外して教育要員に回すことも、少ない人数でやっている会社にとってはとても大きな負担となります。
しかも、優しく教えているとなかなか仕事を覚えないし、ちょっと厳しくすると、若い人は簡単に辞めてしまいますね。
ジャーナリズムの仕事というのは、僕がずっとやっていたラグビーに似ているところがあって、選手としてある程度のレベルに到達しないと、なかなか楽しめるというところまでは行けないタイプの仕事なんですね。ラグビーは本質的にはとても痛いスポーツなんだけど、いやこれは肉体的に痛いという意味なんだけど、報道も僅かでも事実関係を間違えてはいけなかったり、裏取りと言って、事実関係を締め切りまでに確認しなければならなかったり、短期間で取材対象と信頼関係を築かなければならなかったりと、実際の取材や制作の現場では、さまざまなプレッシャーがかかります。
これは世界中の報道現場に共通していることですが、どこに行っても、報道現場特有の「罵声が飛び交う」みたいな感じになるんですよ。そういうのって、最近の若い人、あまり好きじゃないみたいなんですね。でも、それを楽しめるようになるまでには、それ相応の経験や能力を積み上げなければならないし、何よりも神経を図太くしていかなければなりません。それだけプレッシャーがかかって大変な仕事なのに、最初のうちはそれを楽しむ余裕が持てないわけだから、辞めたくなる人が多いのも仕方ないことかもしれません。
でも、大変でも新しいメディア環境に適応できて、その中でしっかりとした公共的なジャーナリズムを実践していけるジャーナリストを育てていかないと、新しいメディアなんて画に描いた餅です。不十分とは言え、これまで既存のメディアが担ってきたジャーナリズムの機能が急激に衰退する中で、次の時代を担えるメディアやジャーナリストが育ってこなければ、これはもう民主主義の危機だと、僕自身は大まじめに思っているんですね。
ビデオニュース・ドットコムの今後の展望としては、まずマル激という受け皿番組を10年かけて持続的なものにしていったので、次はその受け皿に価値のあるコンテンツを乗せていかなければならない段階に入っています。それは映像リポートやドキュメンタリーかもしれないし、映像抜きの記者リポートかもしれませんが、そうした価値のある、そして既存のメディアでは踏み込めなかった領域に踏み込んだコンテンツを提供できるジャーナリストを少しずつ育てていって、受け皿番組の価値をより高いものに押し上げていきたいというのが現在の課題です。
ただ、そこからが本当に産みの苦しみで、インターネット時代の有料放送に耐えられるクオリティのコンテンツを制作できるジャーナリストを育てられたメディアなんて、少なくとも日本には一つもないし、もしかするとまだ世界にもそんなところはないのではないかと思うんです。だから、ここからは完全に未知の領域に突入しているという感覚があります。
でも、僕自身はある程度、勝算はあるんですね。ペンとビデオ、紙とテレビとネットなどのツールやプラットフォームに多少の違いはあっても、優れたジャーナリストに求められる能力というのは基本的には共通しています。それをきちんと実践していけば、少しずつかもしれないけれど、それを評価してビデオニュース・ドットコムを見てくれて、その会員になってくれる人が少しずつでも増えていくという感触は、この10年である程度つかむことができました。
ただ、このやり方はかなり時間がかかると思います。僕自身は半分冗談、半分本気で「ビデオニュース・ドットコムは100年計画だから」なんて言ってますが、冗談抜きで公共的なジャーナリズムをしっかりと実践できる独立した報道機関を作る作業は最低でも100年、場合によっては未来永劫終わりのない作業になるのではないかとすら思っているんです。だから、「僕はその長~いプロセスの最初の20年くらいは頑張るけど、あとはお前らがやれよ」が、最近の僕の社内会議での口癖になっている感じです。
荻上 ひとりでに社会問題化され、その語られ方に介入していくという形のものと、みんなが気づいていなかった社会問題をゼロから発掘して、しっかりと訴えていくという形のものとでも、また違いますよね。前者だと、アテンションを獲得するのはイージーかもしれないけれど、杜撰な発信も目立ちます。後者は丁寧に作りこむこともできるけれど、説得力や耳を傾けてもらうための信頼性も獲得しなくてはいけない。ビデオニュースドットコムが今の形式からさらに高い段階へいくことが、どれだけハードなのかよくわかります。
今は雑誌文化でもルポルタージュが厳しくなっていますね。講談社の「G2」とか、「ナックルズ」とか、ルポや実話にこだわる媒体は、もっと注目されてもいいと思います。一人の書き手に数十万円渡して、海外やアウトサイドの状況を体感させて、原稿を書いてもらうという仕方も、段々難しくなっていると思いますが。
神保 報道の分野では、かつて「月刊現代」などの月刊誌が、フリーのジャーナリストに活動の場を提供してきたのだと思います。魚住昭さんとか鎌田慧さんといった僕よりちょっと上の世代のフリージャーナリストの多くが、まず月刊誌にルポや連載企画を出し、それがある程度たまった段階で一冊の本にして出版するというのが、フリージャーナリストが食べていくための一つの勝ちパターンだったと聞いています。
週刊誌にはそれほど長編ものを出すスペースはないけれど、月刊誌ならかなり長いものも出せる。昔は原稿料もそれなりに高かったそうです。ところが、「月刊現代」をはじめ「論座」などの月刊誌の多くが、次々と廃刊になってしまいました。フリーのジャーナリストがかつてのように活字媒体からの原稿料だけで身を立てていくのは、かなり難しくなっているのではないかと思います。
一方で、ネットで放送局を成り立たせようとすると、ちゃんと定期的に見に来てくれる常連さんを増やしていくためには、番組というプラットフォームがきちんと確立していることが重要になります。ビデオニュース・ドットコムは広告を取らず、また第三者からの出資も受けない独立経営を貫いているので、定期購読会員からの会費のみが財源です。
要するにそれが、われわれにとってのお客さんになるわけですが、少しずつでもいいから時間をかけてそのお客さんを増やしていかないと、有料放送はなかなか成り立ちません。話題性のあるテーマを取り上げて、それをツイッターなどで告知するやり方でも、一見さんの視聴者を集めることはできるようになりましたが、一見さんは基本的には無料視聴が前提なので、それだけでは持続的なビジネスモデルにはなりにくい。
無料放送は有料放送よりずっと多くの人に見てもらえるので、話題にはなりやすいのですが、やっぱり有料でも通用するような価値の高い番組を作れるようにならないと、事業として持続するのは難しいと判断しています。つまり、おカネを出してでも見る価値があると思ってもらえる番組を作るノウハウの蓄積が必要ということになるのですが、実は今までずっと「テレビは無料」が当たり前だったので、そのようなコンテンツを制作するためのノウハウが、日本ではどこにも存在しません。
特にケーブルテレビやCS放送の登場でテレビが多チャンネル化しても、CNNやBBCなどほんの一握りの例外を除いて、日本の報道市場には既存のマスメディアしか参入できなかったので、日本のメディアは有料にしても通用するコンテンツ制作のノウハウを開拓したり蓄積する機会が全くありませんでした。
でも、テレビの地上波放送のような無料メディアというのは、例えば、駅なんかで無料で配っている「ホットペッパー」のような雑誌と同じビジネスモデルなわけですよ。そういうフリーの媒体も広告だけでなく、特集企画なんかもやってますよね。おカネを払って買っているわけではないお客さんを納得させるために要求されるクオリティや付加価値と、あえておカネを払って買ってくれた人を満足させるために必要となる価値には、自ずと大きな差が出てきます。
まずは、一人ひとりの視聴者から、有料で視聴するに値する、価値のある情報なり視点なり切り口なりが提供されていないと、ネットでは通用しません。ネットメディアでも、コンテンツの種類によっては、特にエンタメ系とか金融情報系、Eラーニング系のコンテンツは、報道とは異なるインセンティブが働くので、他にもいろいろなビジネス展開が可能かもしれませんが、競争と移り変わりと出入りの激しいネット空間で利益率の低い「報道」というコンテンツを配信し、しかも報道に不可欠な独立性や中立性、速報性などを保っていこうということになると、それなりに覚悟を決めてかかる必要がありますね。そして、それをビジネスとして成り立たせていくためには、かなり徹底したクオリティコントロールも不可欠になります。
現状では、とりあえず10年ちょっとかけて、ちゃんとした番組を出せば常時数万人から数十万人の方々に見てもらえるような受け皿はできました。また、ちゃんとした映像リポートを提供してくれる人がいれば、テレビ局のギャラと比べると何分の一かあるいは何十分の一かもしれないけど、一定の制作費のようなものも払えるようになりました。あとは、いかにしてその受け皿を質の高いコンテンツ、特に映像コンテンツで埋めていくかです。これは社内での人材の育成も当然必要ですが、これからはフリーのジャーナリストでも、ちゃんとした映像を撮ってきて、ちゃんとしたリポートをしてくれるのであれば、どんどん採用していきたいとは思っています。
ただ、もちろんそれがそう簡単に実現するとは思っていません。さっきから言っているように、そのようなノウハウは、まだどこにも存在していないわけです。500万円とか1000万円とかをかけて、1ヶ月とか3ヶ月とかの時間をかければそこそこの映像リポートが作れる人は、放送局や制作会社にはいるかもしれませんが、ネットで戦っている僕らからすると、そんなものは競争力のうちに入りません。それだけの予算と時間が許されれば、ある程度の能力と経験さえあれば、誰だってある程度のレベルの物が作れるのは当たり前なのです。
荻上 実は効率は決してよくないと。
神保 僕がビデオジャーナリズムと呼んでいる、ビデオを使って質の高い報道コンテンツを作るノウハウは、実はまだ日本ではほとんど普及していません。インターネットはまだなんだかんだ言っても活字がメインですし、映像の分野では、記者会見やイベントを中継したり、スタジオでトークをするような番組は比較的に簡単にできることなので、増えてきていますが、映像の力をフルに活用した報道活動というようなものは、まだほとんど見ることはできません。そういうビデオニュース・ドットコムも、私が時々映像ものを作ったりはしていますが、それを定期的に出せるような状況にはなっていません。
活字コンテンツを制作するノウハウはグーテンベルクの活版印刷の発明以来、500年かけて進歩してきました。ボトルネックだったのは常に伝送路です。土管を持った人しかメディアをコントロールできない時代が続いていた。そして、ここに来てインターネットが登場して、伝送路がぱーんと弾けた。今はようやくグーテンベルクの第一次メディア革命の延長が終わって、新しいメディア革命のフェーズに入っているというのが、僕の認識です。
それだけ大きな話なので、簡単に新しいメディアなんてできるわけがないんです。実現するまでには相当の時間がかかるし、時間をかけて実現していくべきものなのだと思います。
もしかすると、ぼくの目の黒いうちには実現しないかもしれない。これからいろんな紆余曲折を経て、気がついた時には、今の僕たちには想像もできないようなメディア環境ができてくると思っています。
僕自身は、どちらかというとメディアを作ることに関心があるのではなくて、ビデオジャーナリズムを思いっきりやりたくて、でも最初の頃の舞台だったテレビが、どんどんジャーナリズムから離れて行ってしまったので、テレビの外にそういう場を作らざるを得なくなって、今に至るという感じです。だから、新しくできるメディアがどんな形でなければならないというような、具体的なイメージは持っていないんですよ。
僕にとっては新しいメディアの唯一の条件が、公共性の高い、そして競争力のあるビデオジャーナリズムを実践できる場、そしてそれが経営的にも成り立つ場であるということです。今はそれだけを目標に、紆余曲折を経ながら、遠回りをしたり、のたうち回ったりしながら、13年目に入った今も、まだ産みの苦しみを味わっている最中という感じでしょうか。
ジャーナリストの行動規範
荻上 視聴習慣を変化させること、何かのメディアを作るということは、他人のライフスタイルに介入することでもありますね。特定の政治イシューに対する報道をチェックするというのは、その政治イシューの重要性を血肉化していないとどうしても難しい面があります。送り手も、受け手も、様々な変化が期待されている状況になっていますね。
神保 ええ、報道というと、なんだかちょっとハードルが高い感じがするかもしれませんが、何も特別なことではありません。既存のメディアがそれを聖域化していたので、取っつきにくい存在になってしまっているだけです。
だから、報道に関わりたいと思う人は、これまでみたいに記者になるためには新卒で報道機関に就職して、終身雇用でその会社しか知らないまま社会人としての一生を終える従来のキャリアパターンに限定されていると考える必要はないと思います。多くの国では、報道機関からNPOや市民運動に転じたり、一時的に政府の役職を担ったりした後で、再び報道機関に戻っている人もたくさんいます。
政治や立法プロセスに直接関わった経験は記者としても有益でしょうし、記者一筋の人には知り得ないことも知る機会になると思います。もちろん、記者に戻れば、かつての職場や所属していた機関から便宜を受けたり、利益相反や利害抵触があってはならないので、そのけじめをしっかりとつける必要があることは言うまでもありませんが。
利益相反について言えば、ネットで誰もが発信できる、誰もが記者の時代になった今、送り手側も受け手側も、ある程度利益相反問題に対するリテラシーが求められていると思います。送り手の側も報道をする以上は、自分がプロの記者ではなかったとしても、最低限の報道の倫理基準や行動規範は理解し、それを守っていく覚悟が必要です。
なぜならば、それは受け手側が報道というものにそれを期待し、それを前提に報道情報を受け取っているからです。それを守れない人が出てくると、そしてそうした前提となるルールが守られていないことが明らかになってくると、受け手側は報道情報といえども、広告や広報と同じレベルでしか信用しないようになってしまいます。こうなると、まじめに報道のルールを守っている大勢の記者たちが、大変な迷惑を受けることになります。
また、これはある意味では残念なことではありますが、受け手側も、従来の報道機関で実践されていた倫理基準が必ずしも同じレベルで遵守されていない可能性があることを、ある程度は念頭に置いた上で、記事を読んだり映像リポートを見たりする必要があるでしょう。良くも悪くも、メディアは新しいフェーズ、新しい時代に入っているのですから。
幸い伝送路の開放によって、コンテンツの数は以前よりも飛躍的に増えているわけですから、一つ一つの報道内容を100%真に受けるのではなく、そういう情報もあるしこういう情報もあるというような、ある程度幅を持たせた立体的な受け止め方をしながら、複数の情報の中から全体像を把握するような形で情報を消費するべきだと思います。
もちろんそれは、これまでの自身の経験からある特定のメディアやある特定の記者を非常に高く信頼できると判断したのであれば、そのメディアやその記者の報道にはそれなりの信頼を置いていいでしょうし、逆に結構いい加減な情報を流した前歴のあるメディアやジャーナリストについては、それ相応の対応をするというように、受け手側も独自の判断を下せるようになる必要があるでしょう。
実はそのような判断は報道以外の商品に対しては、誰でも当たり前のようにしているはずです。しかし、こと報道となると、選択肢が少ないということもあって、これまではあまりにもそれを真に受け過ぎる傾向があったように思います。そして、すべてを報道機関に任せておいて、常に全幅の信頼を寄せ、ちょっとでもおかしなことがあれば容赦なくぶっ叩くというような旧態依然たる対メディア姿勢は、メディア企業がほんの一握りしかなかった特殊な時代の産物だったのではないかと思います。これからはメディアも普通の産業としてやっていかなければならないわけですから、受け手側もメディアとは是々非々でつきあっていく姿勢が必要になっているのだと思います。
先ほどの利害抵触問題に付言すると、たとえば八百屋さんがフリーのジャーナリストとして企業についての記事を書くのは何の問題もありません。でも、例えば証券会社の社員がある企業の記事を書いた場合、その企業が自分が証券マンとして担当している企業だったり、そのライバル会社だとすれば、その記事は、仮にそれが実際はとても中立・客観的によく書けた記事だったとしても、やはり読み手側は注意して読まなければならないし、その内容を100%真に受けることも危険です。これまでは既存の報道機関で働く記者が、副業をやっているということはほとんどあり得なかったので、この利益相反問題はそれほど大きな問題にはなりませんでした。
いや、実際にはメディア企業がいろいろな事業に手を出していて、それが報道内容と抵触する恐れがあるような場合はありましたが、少なくとも記者が自分の私益のために記事を利用するようなことは、ほとんど心配する必要がありませんでした。しかし、これからは受け手側も注意が必要です。なぜならば、匿名のブログやツイッターなどでは、情報を発信している人が何者なのかが、必ずしも明らかになっていないからです。
荻上 「御用」問題でもそうで、ポジション報道にならないようにする必要はありますよね。特定分野の専門家を名乗っている方が、蓋を開けてみると、元官僚で、脱藩したとはいえ、所属省庁のDNAが残っているがゆえに、誘導的な言論を吐いていたり。
神保 その人の価値観に根ざしたものなのであれば、良い悪いは別にして、それはそれでしょうがないんです。もちろん記者個人の価値観を反映させた記事がいいかどうかと言えば、ジャーナリズム本来の考え方の上に立てば、それはあまり好ましくはないということになります。しかし、ここで問題なのは、価値観などといった個人的なことではなく、例えばその記者がどこかの会社の株を持っているとか、本業のライバル会社を攻撃する記事を書くというような、書き手の直接の利害関係のために、記事が利用される可能性があるということです。
記者個人の価値観が反映された記事というのは、中立性という意味では問題がありますが、受け手側にとってもその記事なり映像リポートなりにその人の価値観が反映されていることが明らかなのであれば、それなりに割り引いて受け止めることができます。しかし、そのような利益相反があり、それが可視化されていない、つまり受け手から見えない状態になっているとすれば、受け手は自分が偏った記事を読まされていることがわからない。それが問題なわけです。
荻上 関連機関誌での寄稿が多かったり、関連団体での講演が多かったり。そういったものがインセンティブとして働くことはあるでしょうね。
ところで、普段仕事をしていると、「評論家」「ルポライター」「ノンフィクション作家」「ジャーナリスト」という肩書きが、良くも悪くも細分化、機能分化されている印象を受けますね。
神保 なぜかはわかりませんが、ジャーナリズムという言葉は日本ではある種特殊な重々しい意味を持ってしまっているようです。55年体制のもとでの左側というか、権力と戦う勢力でなければならないというようなニュアンスも含んでいるかもしれません。本当は取材して記事を書く人や映像を撮ってリポートを作る人であれば、左右に関係なく全部がジャーナリストなんですけどね。
でも、例えば日本ではルポライターと名乗っている人が、海外で何かの事故に遭えば、その人はニュースなどでジャパニーズ・ジャーナリストとして紹介されます。日本でもジャーナリストという言葉の使い方はもうすこし寛容というか、肩肘張った感じにならない方がいいと僕も思いますが、こればかりは僕がこう言えばどうなるものではないですからね。僕自身は英語ではジャーナリストを名乗ることが多いのですが、日本語では自分自身を「記者」と位置づけるのが、一番しっくりきます。
ジャーナリストという肩書きは、弁護士や医師とは違って、何の資格試験もないので、言った者勝ちのところがあります。そして、それは資格であるべきではありません。そんな資格を認定する団体ができてしまったら、その団体を誰がチェックするんだという話になりますから。ただ、言ったもん勝ちということは、第三者はそのジャーナリストの真贋を評価してくれないわけですから、誰の報道をどの程度信じるかは、実は以前から受け手の側に委ねられていたということです。
ただ、これまでは一握りの大手メディアが幅を利かせていて、それに全部お任せしていれば事が済んでいたので、「あのメディアが載せているのだから本当だろう」のようなお任せモードでもよかったのかもしれませんが、実はその大手メディアもかなりいい加減なことがわかってしまった以上、これからはお任せメディア以外の情報源ともつきあっていかなければなりません。
僕が最近ちょっと気になっているのは、これまで新聞やテレビなどの大手メディアの報道を、ある程度盲目的に信用してきた人たちの中に、大手メディアのダメさに気がついたのはいいんだけど、今度は大手メディアに代わって盲目的に信用できる別の情報源を求めてしまっているような人が案外と多いのではないかということです。元々大手メディアといえども盲目的に信用すべき対象ではなかったわけですが、新しいメディアであればなおさらそうです。
メディアへの参入が急激に増え、受け手にとって情報源が増えたことの最大のメリットは、多様な情報から事実を多面的に捉えられるようになったことです。しかし、その一方で情報源多様化の対価として、その一つ一つの情報の確実性や信頼性、中立性などは、一握りのメディアが支配していた時代と比べると、低下している可能性があるということです。だから、特定のメディアや情報発信者の信者などにはならず、常に批判的な、あるいは注意深い情報の受け手であることを心がけるべきだと思います。
荻上 信じる教祖を変えただけ、というような状況。
神保 でも、今はメディア環境の激しい移行期のただ中にあるので、新しいメディア環境に適応するのが遅れた人の中には、一時的に変なデマを信じてしまったりして、多少痛い目にあう人が出てしまうような場合もあるかもしれません。でも、若い人の多くは、もう物心ついた時には大手メディアの不祥事が後を絶たないというような環境で育ってきているし、小学生なんかでは実際にテレビよりもユーチューブを見る時間の方が長いという子供が多いそうなので、彼らにはメディアを真に受けないという作法は最初から身についています。
だから、これは時間の問題で変わっていくのではないでしょうか。もっとも、あんまり無責任なことを言うと、5年とか10年後になって、あの時神保さんあんな暢気なことを言ってたけど、実際にはこんなひどいことになったじゃないかと怒られちゃうかもしれないから、未来予想はやめておきますが、そもそも現在のメディアの変革というのは、100年スパンで見ていきましょうよというのが僕の基本的な考えなので、ご容赦くださいな(笑)。
メディアの権力監視機能
神保 今後、メディアの機能はより細分化されていくでしょう。多様なメディアが出てくるのはいいことだと思うけど、その中で権力の乱用を監視する機能はちゃんと残さないといけないと思います。
今アメリカで次々と新聞が廃刊になっています。アメリカの新聞は日本のように再版とか記者クラブなどの手厚い保護を受けていないし、クロスオーナーシップも制限されていて放送局を保有することもできないため、多くの新聞が日本よりも早く危機に見舞われているわけですが、ローカル紙が一つもなくなった地方都市では、ほぼ例外なく目に余るまでの市政の腐敗が起きているという報告があります。アメリカのどこかの町では、唯一のローカルペーパーが廃刊になり、メディアの監視がなくなったのをいいことに、市長や市議会議員の給料が一夜にして何倍だったか何十倍だったかに跳ね上がったところもあったそうです。
そういうこともあって、今、アメリカでは、どうすればメディアの権力チェック機能を残していけるかが、真剣な議論のテーマになっています。アメリカには寄付の伝統があるので、現在は利益を出さなければならない会社形式ではなく、NPO方式のメディアがいろいろ試されているところですが、まだ明確な展望が開けているわけではありません。
これからはNPOだけでなく、いろいろな形態のメディアが出てきて、いろいろ試してみて、トライ・アンド・エラーを繰り返していくことになるでしょう。そんなに簡単にうまくいくとは思いませんが、そのトライ・アンド・エラーのプロセスが大切なんだと思います。産みの苦しみですね。
ただ、僕が今一番心配しているのは、その産みの苦しみにもがき苦しんでのたうち回っている間の移行期に、社会の中でジャーナリズムがほとんど機能していないメディアギャップの期間ができてしまうことです。既存のメディアの権力チェック能力は既に大幅に低下していて、今となってはもうほとんど機能していない状態にあると思います。それに、既存のメディアがたまに大真面目で「権力チェックやってます」みたいなしたり顔をして報道をしても、もう受け手の側が、「お前らにそんなこと期待してねーよ」みたいな雰囲気がかなり強くなっているような気がします。
特にテレビに言えることですが、ちょっと意地悪な言い方をすると、今や既存のメディアの権力チェック機能というのは、地道な調査報道で本質的な問題を明らかにするというものとはほど遠いものになっていて、受けそうなネタをピンポイントで取り上げて、特定の悪役をやり玉にあげて煽ることしかできなくなっている感じさえしています。
ところが、その一方で、それに取って代わることができる新しいメディアは、まだまだ育ってきていない。そこに生じるメディアギャップがもたらす結果は、結構深刻なものになると思います。
なぜメディアの機能不全が怖いかというと、メディアが機能不全に陥った時、われわれはそのような問題が起きていることを認識することができないからなんです。もし、多くの人が「メディアが機能不全に陥っているな」と認識できているのであれば、それはメディアが機能していることを意味するわけです。機能しているから、それがわかるわけです。だから、メディアが機能しなくなると、それが機能していないことさえわからなくなるという意味で、メディアの問題は社会の他の機能不全とはやや性格を異にすることは知っておく必要があると思います。
社会の他の機能が不全に陥っていても、もしその社会に健全なメディアが存在すれば、メディアがその問題を正しく取り上げることによって、社会に問題意識が共有され、おそらくその問題はいずれ何らかの解決を見ることができる可能性が高くなります。ところが、メディアが機能していないと、メディアの機能不全自体も認識されないし、他の問題もその存在自体が認識されにくくなるため、問題の解決が期待できなくなるばかりか、そもそも問題が起きているという認識を持つことができなくなってしまうわけです。今日のように、社会に次々と深刻な問題が起きる状態も閉口しますが、実際はいろいろ問題があるのに、すべてうまくいっているかのように思わされている状況の方が、ずっと怖いですからね。
プロフィール
荻上チキ
「ブラック校則をなくそう! プロジェクト」スーパーバイザー。著書に『ウェブ炎上』(ちくま新書)、『未来をつくる権利』(NHKブックス)、『災害支援手帖』(木楽舎)、『日本の大問題』(ダイヤモンド社)、『彼女たちの売春(ワリキリ)』(新潮文庫)、『ネットいじめ』『いじめを生む教室』(以上、PHP新書)ほか、共著に『いじめの直し方』(朝日新聞出版)、『夜の経済学』(扶桑社)ほか多数。TBSラジオ「荻上チキ Session-22」メインパーソナリティ。同番組にて2015年ギャラクシー賞(ラジオ部門DJ賞)、2016年にギャラクシー賞(ラジオ部門大賞)を受賞。
神保哲生
1961年東京生まれ。ビデオジャーナリスト。インターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』代表。国際基督教大学(ICU)卒業、コロンビア大学ジャーナリズム大学院修士課程修了。ボストンの日刊紙クリスチャンサイエンス・モニター紙、AP通信など米国の報道機関の記者を経て1993年独立。制作したドキュメンタリーに『地雷廃絶への道』、『温暖化に沈む島ツバルの決断』など多数。2001年より、ビデオニュース・ドットコムが放送するニュース番組『マル激トーク・オン・ディマンド』のキャスターのほか、TBSラジオ『ニュース探究ラジオDig』、東京FM『Timeline』、JFN系列オンザウェイ・ジャーナル『神保哲生のワールド・レポート』などのパーソナリティを務めている。早稲田大学大学院ジャーナリズム学科客員教授を兼務。