2010.12.21

残す責任 ―― 電子書籍と図書館に関する一読者からのささやかで壮大なお願い  

山口浩 ファィナンス / 経営学

情報 #電子書籍#アマゾン#キンドル#kindle

法や制度、契約や組織、その他社会的な慣習や常識は、それが成立した時点の技術水準や社会状況、人々の好みなどを前提としてつくられる。それは考えてみれば当然の話で、社会のなかで何らかの機能を果たすことを目的とするなら、その社会がおかれた環境の下できちんと機能してもらわねば意味がないからだ。

したがって、その後技術や社会、人が移り変われば、当然、それらとのあいだに齟齬や摩擦が生じてくるから、調整が必要になるのはいうまでもない。微調整をしながらだましだまし使っていく場合もあれば、抜本的な変化や消滅を余儀なくされる場合もあろう。そうした調整を行うこと自体にもコストがかかるし、それが新たな齟齬や摩擦を生む素にもなるから、必ず正解があるというものでもない。より「まし」な方向を絶えずめざしていくことになるのだろう。

電子書籍「元年」の憂鬱

2010年は、日本でも電子書籍元年というか、少なくとも、電子書籍に対する関心が大きく高まった年として記憶されることになりそうだ。もちろん「元年」というのはある意味不適切であって、電子書籍にはずっと以前から何度も市場に投入されては失敗に終わってきたという歴史があるわけだし、ここ数年でいうなら、少なくとも携帯電話で読むもの、とくにマンガやいわゆるケータイ小説といった分野では、すでにそれなりに大きな市場が形成されていた。

とはいえ、海外市場において、アマゾンのKindleやアップルのiPadなどのような実用的な性能を備えた端末が、幅広い書籍の品ぞろえと魅力的な流通システムを伴って導入され、本格的な普及をはじめたこと、および、そうした動きに対応して、国内でも機器メーカーだけでなく、複数の権利者や流通事業者が本格的に動きはじめたことは、やはりこれまでとは一線を画す大きな変化といえる。

書籍を大量に保管しかつ持ち歩きたいという動機で、電子書籍にかねてより大きな期待を抱いていた典型的(?)な一読者であるわたしにとっては、長らく待ちかねた「元年」というわけだが、懸念材料も顕在化してきた。当面、一番気になっているのは、プラットフォームの氾濫だ。

当然の話だが、電子書籍は、読むためのデバイスがなければ利用できない。現在わたしが電子書籍を読むために使っているのは、アップルのiPod TouchとアマゾンのKindleDX、あとはPC で、iPadを買うべきか思案中。Kindleは洋書とPDFファイルのリーダーとして使っていて、これらは同期されたものをPCやiPodでも読むことがある。

iPod Touchのなかには、電子書籍リーダーのアプリが30弱入っている。いろいろな会社からそれぞれ独自のリーダーアプリが出るたびに、その会社の扱っている本を買うかもしれないと思って入れてきただけなのだが、少なくとも現状では、iPodに入っている電子書籍の数より多い。各アプリは、会員登録機能や本棚機能を備えていて、その上で本を買い、整理しておけるようになっている。

すべて確かめたわけではないが、デバイスを買い換えても、アカウント上の記録を参照して、買った電子書籍を移し替えることができるようになっているものもある。ともあれ、数十種類もあったら、そもそもどの本がどのアプリに入っているのか、思い出すだけでもたいへんだ。これらの他、個々の本が単体でアプリになっているものも、十といくつか持っている。

要するに、デバイスの面でも、アプリのレベルでも、プラットフォームが多くなりすぎて、正直不便だし、このまま本格的に電子書籍主体に移行したら早晩収拾つかなくなるのは明白な状態というわけだ。現時点で同じような境遇の方がどのくらいいらっしゃるかわからないが、本好きなら早晩経験することになる事態だと思う。

もう少し長いスパンで考えると、悩みはさらに深くなる。これらの企業が、購入した電子書籍をずっと永続的に利用可能な状況に保っていてくれるのかどうか、という懸念だ。本を読み捨てるタイプの方にはあまり気にならないだろうが、読んだ本をとっておきたいタイプの人間にとって、これは非常に重要なポイントのはず。

とくに、単体のアプリになっている電子書籍は、たんにテキストを読ませるだけではない機能を組み込んでいたりすることもあるので、OSのアップデートやデバイスのモデルチェンジにどこまで対応してもらえるのか、正直不安がある。また今後、市況の変化で会社が事業から撤退したりすることもありうるだろうから、そうなった場合、その会社から買って、専用のリーダーに登録された書籍がどうなるのかも、いまの段階ではよくわからない。

読者にとって重要なのはフォーマットではない

もちろん、それらの電子書籍のフォーマットが、そうしたリーダーアプリごとにばらばらというわけではない。日本の電子書籍のフォーマットは、知るかぎりで数種類あって、主流は「XMDF」か「.book」か、ということになるだろうか。

総務省と経済産業省、文部科学省を中心に構成される「デジタル・ネットワーク社会における出版物の利活用の推進に関する懇談会」、いわゆる「三省懇」が今年6月に出した報告書では、これらの間をつなぐ中間フォーマットの整備が方針として打ち出されていて、検討が行われていると聞く。海外では「EPUB」や「AZW」あたりが多く使われているらしいが、このあたりとその中間フォーマットとの連携がどうなっているのは、わたしにはよくわからない。

中間フォーマットの整備というのは、電子書籍が簡単な処理でいろいろなフォーマットに対応できるようにすれば、幅広いプラットフォームで提供できるようになり、利用者の利便性も高まるだろうという趣旨かと思う。実現し、実際に広く使われるようになるならそれ自体たいへんけっこうな話ではあるのだろうが、それはあくまで事業者目線での話。読者にとって直接的に重要なのは制作手法でなく、ユーザーエクスペリエンスだ。正直いって、いま電子書籍関連事業に参画されている事業者の方々のなかには、この点を軽視しているとしか思えない向きが散見される。

ユーザーエクスペリエンスというとデバイスやアプリのできのよしあしの話になりがちだが、そこらはひとまず措いて本稿の文脈でいえば、それは電子書籍がどのフォーマットでつくられているかではなく、わたしたちが実際に電子書籍を読む際に何をしなければならないか、だ。

その観点でいえば、少なくとも現状は、電子書籍がいろいろなデバイスやアプリなどのプラットフォームにそれぞれ囲い込まれているわけで、わたしの例のように、どのデバイス、どのアプリに入れたのか思い出せず、探し回らねばならないというのが現状だ。かといって、自分でさまざまなプラットフォームに対応しなければ、自分が利用できる電子書籍の範囲が狭くなってしまう。これは、はっきりいって便利でも快適でもない。

機器買い替えや、事業者の倒産、事業撤退などを考えれば、この問題はさらにシリアスになる。その会社から買って、いま持っているデバイスに入れた電子書籍は、デバイスを買い換えたとき、他のプラットフォームで読むことができるだろうか、という不安だ。

同じフォーマットでも、もっといえば同じアプリに登録した電子書籍でも、いくつか調べてみた範囲では、必ず機器間の移し替えができるとはかぎらず、その手続きもけっこう煩雑だったりする。販売期間が終了しているものはそもそも不可能だ。そのためのインストラクションやヘルプ機能も不充分としかいいようがないものがけっこうある。

もし事業者が電子書籍事業から撤退してしまった場合、こうした機器間の移し替えはさらに困難になる。仮に同じフォーマットであったとしても、他社のデバイスやアプリにそのまま移せるわけではないだろうし、フォーマットがちがえば、当然変換作業も必要だ。入手可能でも、再度買わなければならないとなれば、新たな負担が発生することになる。商業性の低い本は無視される可能性もある。技術的な難易の問題ではない。ユーザーがそのために何をしなければならないかを考えてほしい。

たいていの人の家には本棚があるだろう。その目的は、本を保存、陳列しておくことだ。もちろん書籍にも、読み捨てに近いものもあるだろうが、気に入ったものを保存しておくというのは人がふつうにとる行動だ。つまり、本を長期間保存しておくということは、本の標準的な利用内容の一部であるといえる。

問題は、後になってとっておけばよかったと思う本と、いまとっておきたい本が同じとはかぎらないということで、そのために「全部とっておく」(同じ意味で「全部持ち歩く」も)という、かつては物理的に不可能だったことが電子書籍化により可能となってきたわけだ。それを無視して、せっかく買った本もデバイスが壊れたら後は知らん、といわんばかりの対応はいかがなものかと思う。

おそらくプラットフォームやフォーマットは、だんだん少数に収斂されていく方向に向かうだろう。しかしそれまでの間の混乱は避けられそうにないし、最終的に問題が解決するわけでもない。ビデオゲームや音楽でも同様の問題は生じうるが、それらはまだ「そういうものだ」というあきらめもつく。しかし本の場合は、そうした問題とは無縁の「紙の本」という選択肢がある。

もちろん、アマゾンのAZW形式にも同じような問題はありうるだろうが、日本で電子書籍を出している各社と比べて、安定感は圧倒的に高い。そんな混乱に巻き込まれるリスクがあるなら、しばらく電子書籍は待っていようと考えるユーザーが出てきても不思議ではない。もしこのような、わたしが抱くのと同様の不安が他のユーザーにもふつうにあるのだとしたら、日本で電子書籍の普及や、市場の立ち上がりに対する障害となるおそれがあるのではないか。

「残す責任」と図書館の役割

とはいえ、いますぐ強制的に「日の丸フォーマット」をひとつに決めて、共通のナショナルプラットフォームをつくって、皆がそれにしたがわされる、といったようなことがいいとも思わない。そうした強制はたいてい、停滞と非効率の温床になるからだ。もちろん例外はあるが、多くの場合、よりよい製品、よりよいサービスをめざして、企業が自由に競い合う環境こそが、消費者にとってより望ましい状態を実現するための近道と考える。過渡期にある程度のがまんをするのは、消費者としては「受忍義務」の範囲内だろう。

ただ、その「競争」のなかには、事業として電子書籍(本来これは書籍にかぎる必要もないと思うが)を提供する企業が、それを永続的に利用できる環境を提供しつづける責任を自ら負う、という項目も含まれていてほしい。「文化」を担う企業には、それを後代に「残す責任」があるのだ、と。

実際には、そんなきれいごとではすまない場合もあろう。そういう面で期待したいのが、図書館の役割だ。いまある図書館のしくみは、書籍がいまほどコモディティではなかったころに成立した。買って手元に置くことができない人、持つほどではないが読みたい人が無料で一定期間本の貸し出しを受けることのできるサービスは、本来、書籍を販売する事業とは利害が対立してもおかしくないはずだが、歴史的な経緯もあって、少なくともこれまでは比較的うまく棲み分けが成立していた。

しかし近年、この両者の間の摩擦が次第に大きくなりつつある。利用率を上げようとする図書館が、売れている本ばかりを所蔵するようになり、新刊の売れ行きへの直接的な影響が懸念されるようになってきている。この摩擦は、現在のシステムのまま電子書籍に移行すれば、決定的なものとなりかねない。図書館はいま、変革を迫られている。

こうしたなか、電子書籍時代の図書館の新たなあり方を模索する人たちがいる。なかでもある意味「急先鋒」ともいえる国立国会図書館長の長尾真氏は、国会図書館が巨大な書籍データの「集中保管庫」のような役割を担い、民間事業者を含む利用者に有料でデータを提供するという、「長尾スキーム」とも呼ばれる壮大な構想を提唱している。

電子書籍の情報財としての性格や発展の方向性を考えれば合理的なアプローチであり、実現すれば日本の情報流通は大きく、そしておそらくよりよい方向に変わることとなろう。アメリカではこれと似たことをグーグルがすでにはじめているが、それを国レベルで行ってしまおうというものだ。古い技術水準や社会状況の下で生まれた図書館というしくみに、新たな技術の下で、大きく生まれ変わるチャンスが到来したということになろうか。

しかし、この構想を本当に実現しようと思ったら、日本の書籍関連業界のほとんどを巻き込んだ、文字通り抜本的な大改革となるのは必至だ。また、この業界だけでなく、非営利の公共サービスと営利サービスの連携の新しいあり方など、日本の社会のしくみ全体にも大きなインパクトがある話で、組織運営のレベルで必ずうまくいくという保証もない。正直なところ、日本の現状からみて、この構想はかなりハードルが高そうに思われる。うがった見方をすれば、図書館関係者の発案であるがゆえに、図書館の役割を拡大する方向の案になっているという評価もありうるのかもしれない。

一読者としては、時代が図書館の役割の変化を求めているとしても、それが少なくとも当面、それが長尾スキームのような壮大なものであるとは考えにくい。民間企業が競争の結果実現するならともかく、公共的性格をもった国会図書館が書籍流通の中核を担うような「大きな役割」を果たすことに対して若干の警戒感を抱くのは、むしろ自然なことだ。将来的にうまく実現できるならいいことと思わなくもないが、実現するまで長い期間がかかるのであれば、それまで待ちたいとも思わない。それよりはもう少し「現実的」に、民間企業の手が届かないところを補完するようなものでいいのではないか。

当面あったらいいと思うのは、たとえば、さまざまなフォーマットやプラットフォームの電子書籍を図書館経由で(必要ならデバイスつきで)貸し出してくれるサービスや、自分が利用していないフォーマットやプラットフォームの電子書籍を、自分が利用できるかたち(そのなかには紙の本という形式も含まれよう)に転換して貸し出してくれるサービス、といったところだろうか。

前者は館内ということであればすでに検討中らしい。後者は現段階ではそう簡単ではないかもしれないが、電子書籍の納本も近々はじまるやに聞くし、不可能ということもないだろう。なんとか実現したとして、少なくとも、長尾スキームのような巨額の費用を必要とするものではないと思う。いってみれば、一読者のささやかな願いだ。

「ささやかな願い」はもうひとつある。前記の「残す責任」のラストリゾートとしての役割だ。前記の通り、企業が何らかの理由で、ある電子書籍の販売を終了したり、事業自体を停止した等の場合、その書籍をその後も利用可能な状態に保ち続ける責任がその企業にはあるとわたしは考える。それを前提として、仮に事業者がその責任を果たすことができなくなった場合には、その補完者として、公共的な存在たる図書館が利用可能な状態を提供してもらえないものだろうか。

具体的には、すでにその電子書籍を持っている人に対して、新たなプラットフォームに対応した版を制作して無償ないし低額で配布するとか、権利者が商業的利用を放棄した電子書籍の権利を買い取って公開するなどが考えられるが、他にも方法はあるかもしれない。当面、そういうニーズはないかもしれないが、要するにいまの段階で、「皆さんの買った電子書籍は将来もずっと、何らかのかたちで利用可能であることを保証する」と宣言してくれないか、ということだ。

これも、個人的には、安心して書籍に「投資」することができるようにしてほしいという「ささやかな願い」のつもりだが、そのために図書館がやらなければならないことを考えれば充分大きな課題であり、もし実現すればこれまでの図書館の役割を大きく変える、それなりに「壮大」な変化ではないかと思う。もともと図書館が書籍を館内に収蔵していたのは、紙に化体している必要があったからだ。電子書籍になれば、その制約はなくなる。複製が容易という特徴は、支障がない領域では大いに活かすべきだ。

しかし、既存事業者を圧迫したり、多大なコスト負担を強いたりするのでは本末転倒だ。補完的な役割の範囲でも、画期的なことは充分にやれると思う。最終的な「正解」とはわたしも思わないが、少なくともそれは、現状よりははるかに「まし」な状態といえるのではなかろうか。

「残す責任」は、営利の事業者と非営利の図書館が分かち合うことで、競争と安心を同時に追求することができるはずだ。関係者の皆さんに奮闘いただき、日本の電子書籍がより便利なものになり、知的環境がよりよいものとなっていくことを、一読者として切に願うものである。

推薦図書

電子書籍関連の本は最近数多く出ていて、それぞれ長所があるが、今回の文脈では本書をあげたい。書籍にせよ、図書館にせよ、いまは他のさまざまな領域と密接につながってきており、単体で考えるべきものではない。本書は、今後わたしたちの社会が「本」とどのようにつきあっていったらいいかについて、さまざまな分野の専門家が論じていて、大きなピクチャーを描くのに適している。本文中に登場した「長尾スキーム」についても、ご本人によるコンパクトな解説があってわかりやすい。

プロフィール

山口浩ファィナンス / 経営学

1963年生まれ。駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部教授。専門はファイナンス、経営学。コンテンツファイナンス、予測市場、仮想世界の経済等、金融・契約・情報の技術の新たな融合の可能性が目下の研究テーマ。著書に「リスクの正体!―賢いリスクとのつきあい方」(バジリコ)がある。

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