2012.01.11
「アノニマス」と正しさをめぐる争い
さまざまな抗議行動を実践する謎の仮面集団「アノニマス」。前回の論考において著者は、アノニマスの歴史とその活動指針について論じた(詳しくは拙論『「アノニマス」の歴史とその思想』を参照してほしい)。本稿では、それを踏まえた上で、アノニマスのかかわる諸問題について論じたい。
アノニマスの組織形態
簡単に確認しよう、アノニマスとは何か? 彼らは「情報の自由を守る」といった大義を掲げ、これに反する団体に抗議するネット上のゆるやかな集合体だ。抗議は合法的なデモから、DDoS攻撃などのいわゆる違法なサイバー攻撃まで多様であるが、彼らの大義と彼らを象徴するガイ・フォークスの「仮面」=「アイコン」によって、アノニマスという組織はひとつであると世界から認識される。
ただし、アノニマスは厳密な意味では組織化されていない。拙論で指摘したように、彼らは抗議作戦=オペレーションごとにメンバーが変更されているばかりか、その抗議方法も合法・違法と多様である。それゆえに、アノニマス内でもいくつかの派閥が形成されており、しばしばアノニマスとして発表した宣言の取り消しが行われるなど、混乱も多い。つまり、彼らを繋げる情報の自由という大義と仮面を取り除けばすぐにでも、組織の解体が懸念される団体でもある。
半人称性と大衆動員
アノニマスは、全世界へ向けたプレスリリースや動画などの宣伝をする際に、仮面やスーツ姿のキャラクターを動画に登場させることで、その存在を印象づけることに成功している。アノニマスやウィキリークスといった、ネット以外では人の目を引くことのない組織にとって、大衆の支持を得るための宣伝は非常に重要な意味をもつ。同時に、仮面を使って大衆に訴える方法もユニークであるだけでなく重要な意味をもつ。以下でウィキリークスとアノニマスを、動員の観点から比較をしてみよう。
(1)ウィキリークス・・・その影響力は、ジュリアン・アサンジ個人のパーソナリティに拠るところが多い。彼のメディア露出に比例して、賛否両論を含めた議論の喚起、およびウィキリークスの知名度が向上する。ただし、ウィキリークスがアサンジというアイコンに依存すればするほど、アサンジ抜きにはウィキリークスの運営が困難になってしまったことも事実である。現にアサンジのウィキリークス内での独裁的言動の数々は批判の対象となる。ウィキリークスの動員を、「人称的動員」と呼ぼう。
(2)アノニマス・・・彼らを代表するのは、人ではなく仮面である。アノニマス内部では前述の通りチャットを通して意見が集約されるが、他方で内部派閥も存在するように、組織としての意見は多様、というより混乱傾向にある。にもかかわらず、仮面を通してアノニマスが語ることで、われわれはアノニマスという主体があたかも実在するかのような錯覚に陥る。アノニマスは匿名集団でありながら、仮面を通してある種の人称性を得ているのも事実だ。これを「半人称的動員」と呼ぼう。あるいは、日本的な文脈で言えば「キャラ的動員」とでも呼べるだろうか。
この差異を大衆動員の観点からみれば、個人に依拠せずその力を仮面に託したアノニマスは、ウィキリークスの欠点を補っていると言えるだろう。
アノニマスと2ちゃんねるの差異
考察の対象を拡大しよう。アノニマスはしばしば、日本の2ちゃんねるとの類似点を指摘されることがある。批評家の濱野智史は「2ちゃんねる化する社会」(『新潮45』2011年9月号)において、アノニマスが2ちゃんねらーと同じく「ネット上を徘徊し、その場のノリに乗じて突発的な「炎上」や「祭り」を繰り広げている」と指摘する。その指摘は正しいが、濱野が論考の中で取り上げつつもさほど気にしていないように思われる点がある。それは、アノニマスにあって2ちゃんねるにない大義の存在である。
社会学者の北田暁大が『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHKブックス)で指摘したように、2ちゃんねる上のコミュニケーションの本質はネタを通したつながりを希求する「つながりの社会性」である。この理論をアノニマスに転用すれば、彼らの活動も盛り上がりのネタとして、デモやDDoSを実行しているとも捉えることが可能だ。しかし、アノニマスメンバーが実際にサイバー犯罪の罪で逮捕されている点に注意が必要である。ネタや祭りといった一瞬の盛り上がりのために逮捕を覚悟できるだろうか。彼らの活動は、社会運動や大義といった政治性に根ざさねば実行不可能な行為であり、この点は2ちゃんねるとは大きく異なる。
大義の有無はなぜ生じているのだろうか。もちろん、4chanにおいても2ちゃんねる的なネタ消費は日常的に行われており、逆に日本においても、その主張内容の是非は別にせよ、2011年夏の「反韓流フジテレビデモ」のような大義を名目にした社会運動は生じている。
意見集約の場
アノニマスメンバーはオペレーションごとにIRCチャットに集合し、数十名~数百名程度のメンバーが議論することで攻撃対象や方法を決定する。そこでは不必要な意見はいずれ議論のなかで淘汰される。そこには市場メカニズムと同様の原理が作用することで、民主的な議論空間と攻撃内容が決定される。また暫定的なチャット管理人により、いわゆる荒らしは出入り禁止にすることが可能であり、かつ管理人の管理能力が問われれば、別の管理人が新たなチャットの場を創り、メンバーはそちらに移行する。
運動に意欲的なメンバー限定の濃密な、しかし参加自体はオープンでそれなりに民主的な場の有無は重要である。とはいえ、日本でもIRCチャットにユーザーを集めることは可能であり、なぜそのような運動が生じないのか。現段階では、その謎は著者には判断がつかない。またIRCチャットやそれに代わる場所で議論がすでに交わされているのかもしれないが、日本ではいまのところアノニマス的な団体の存在は確認できない。ただし日本でもそのような場に2ちゃんねるユーザーが集合すれば、アノニマス的な大義を掲げた集団が誕生する可能性はゼロではないだろう。
正当性と正統性
このように動員手法に長け、また内部でも大義の名の下に合理的かつ民主的な議論がなされるアノニマスは、今後も一定の影響力を持つだろう。しかし、世間からすれば、あくまで彼らは違法行為を働く犯罪集団であり、それは一面では正しい。しかし本稿では最後に、大義の名の下に違法行為を実践するアノニマスにとっての、「正しさ」とは何かについて、「正当性Justness」と「正統性Legitimacy」というふたつの言葉から考察しよう。
詳細な説明を省きここで簡単に定義すれば、正当性とは主に法や規範に則った客観的な正しさを示す場合に用いられる。他方、正統性は、法システムや規範といった正当とされているものを、そもそもわれわれが信頼することができるかどうかを示す場合に用いられる。誰でも法や規範を社会ルールとして認識しているが、そもそもそうした制度に疑問を抱いたとき、人は制度に抗うことになる。その極端な例が革命である。
アノニマスは法や規範といった既存の社会が設定している正しさに従っているようには見えない。彼らはあくまで自分自身や仲間内の議論のなかで定められた正しさに従うがゆえに、その一部は不法行為の実行を厭わない。彼らの行為はある事象に対する抗議であるが、同時に彼らはプレスリリースや動画などの広報活動によって、自らの信念を声高に宣言している。それは自らが設定した正しさを世界に訴えているとも解釈可能である。とすれば、彼らの主張する正しさとは、法的枠内の正しさ(正当性)ではなく、現在は否定されているが、今後世界中で必要とされるはずの、新たな正しさ(正統性)なのではないか。少なくとも、彼らが世界に自分たちの信じる価値を訴えていることは明らかである。
正しさを訴えるのであれば、今後のアノニマスは自らの正統性を大衆にアピールし、その支持を獲得していかなければならないだろう。現に彼らは大衆の反応を伺う傾向がある。2011年4月のソニーへの攻撃においてアノニマスは、一般のユーザーからゲームができないと批判を浴びた。じつはアノニマスは2011年末に、もう一度ソニーを攻撃すると宣言しているのだが、そこではPSNへの攻撃は実行しないと明言している。
正しさをめぐる戦い
アノニマスのような組織は、世界中の既存システムが機能不全を起こしているがゆえに誕生したのだとも言える。制度疲労著しいと言われる諸国家の統治システムを人びとが信頼できなくなりつつあるいま、アノニマスは大義の名の下に、自ら新たな正しさを標榜し、世界に戦いを挑んでいるのではないか。無論、彼らの不法行為は許されないものであり、彼らは批判されてしかるべきであるが、一方で彼らに魅力を感じ、彼らを支持したり参加する人びとも増加傾向にある。
内部では民主的かつ合理的な作戦が決定され、外部には仮面を通して効果的に新たな正しさを世間にアピールするアノニマス。彼らが大衆の支持を目指した戦略を採用することになれば、国家や企業にとっては一層やっかいな組織となるだろう。アノニマスの活動は今後、サイバー戦争の激化を生じさせるのか、何か新しい統治システムの創造の契機になるのか。いずれにせよ、2012年もアノニマスから目が離せない。
プロフィール
塚越健司
1984年生。拓殖大学非常勤講師。専門は情報社会学、社会哲学。ハッカー研究を中心に、コンピュータと人間の関係を哲学、社会学の視点から研究。著書に『ハクティビズムとは何か』(ソフトバンク新書)。TBSラジオ『荒川強啓デイ・キャッチ!』火曜ニュースクリップレギュラー出演中。