2013.07.29
いずれぼくの仕事がなくなる世界を目指して ―― 国際機関で働くこととは?
これまで「高校生のための教養入門」では、大学でそれぞれの専門分野をお教えしている先生にお話をお聞きしてきましたが、今回は趣を異にして、過去に世界銀行で働かれ、現在はユニセフに所属しジンバブエで働かれている畠山勝太さんに、「国際機関で働くこと」をテーマにお話をうかがいました。畠山さんが「国際機関」を目指したきっかけから、紆余曲折をへて実現されるまでのお話は、「国際機関で働きたい」という夢をより具体的に描くためのヒントになるに違いありません。(聞き手・構成/金子昂)
「国際機関」は種類も数もたくさん
―― 今回、畠山さんに「国際機関で働くこと」をテーマにインタビューをお願いしたところ、「最初に『国際機関』について説明したほうがいいと思う」とメールをいただきました。
「国際機関」と一口でいっても、機関も働いている人も多様でわかりづらいと思うので、最初におおまかに国際機関についてのお話をしておいたほうが、その後のインタビューがわかりやすくなると思ってメールをしました。
―― ありがとうございます。さっそくお話いただけますか?
そうですね、最初に国際機関にはだいたい四つくらいのグループがあることを知っておいてほしいです。
一つ目が、国際連合の組織のひとつであり、ぼくが以前働いていた「世界銀行」や「アジア開発銀行」「アフリカ開発銀行」といった、いわゆる「国際開発金融機関」と呼ばれるグループ。二つ目が同じく国連グループで、観光や郵便、食糧問題などテーマを絞って国際協力を行っているグループがあります。たとえば教育問題をとりあつかっている「ユネスコ」はこのグループですね。
三つ目はやはり国連グループで、おもに途上国の開発問題を扱っているグループですね。いまぼくが働いている「ユニセフ」、緒方貞子さんで有名な「UNHCR」などがこのグループにあたります。そして最後が、国連とは別の組織の国際機関。たとえばぼくがシノドスに寄稿したときにデータの参照元にしたOECDはこのグループですね。
このように「国際機関」といっても、グループが複数あり、それぞれのグループのなかにいろいろな機関が存在しているんですね。また、同じ機関のなかでも本部・地域事務所・現地事務所でやっていることもかなり違うので、国際機関といってもその内訳はきわめて多様です。
あなたも国際機関で働けるかも?
つぎに、国際機関は働く人も非常に多様だ、ということ。
ぼくは教育の専門家として国際機関で働いています。ほかにも保健医療や経済、インフラなど、さまざまな専門家が国際機関で働いています。それ以外に、民間の会社にもいるような広報や人事、経理といった仕事をしている人もいますし、またはコピーやレポートの装丁といった事務のサポートをしている人もいます。国際機関といっても、一般的にいわれているような大学院をでていないと就けないような仕事だけじゃないんですね。
―― ということは極端な例ですが、日本で働いている「コピー取りの達人」が国際機関で活躍することもありえるわけですね?
そうですね、ありえるかもしれません。
ただ、そういった仕事は現地採用の方がやられるので、日本にある国際機関の数はそう多くはないですから、日本人ではいくらコピー取りの達人でもさすがに難しいと思いますね。
あなたはなぜ「国際機関」を選んだのか
そして三つ目ですが、「国際機関で働く」ことを目標にしている高校生や大学生にはとくに知っておいてほしいことです。その目標の立て方は正しいのか、という話です。
というのも、国際協力の分野においては、国際機関のほかにも、二国間援助機関と呼ばれる組織もあります。有名なのは「JICA」ですね。
―― よく居酒屋や喫茶店のトイレにJICAの青年海外協力隊のポスターが貼ってありますね。
そう、JICAは青年海外協力隊のイメージが強いと思いますが、おもな仕事は国際機関のように、途上国のインフラ整備をしたり、理数科教員の訓練システムを作ったりといった開発援助の仕事で、国際協力分野の主要なアクターです。
さらにNGOも大きなアクターです。日本ではなかなか育っていませんが、イギリスやアメリカには国際機関に匹敵するようなNGOもあって、国際機関の職員よりも給与も雇用の安定性も良いようなところもあるんですよね。
つまりなにがいいたいかというと、「国際機関で働く」という目標は、「国際協力の分野でどのように働きたいか」という問いを立てたときにでてくるひとつの答えであって、最初から「国際機関で働きたい」と考えるのはちょっと違うと思うんですね。
もし「日の丸を背負って働きたい」と思っているならば、国際機関よりはJICAにいくほうがいい。「草の根で働きたい、市民社会について考えたい」と思っているならNGOのほうがいい。民間で途上国支援を行っている企業だってたくさんあります。
しかも、最初にお話したように、国際機関にはさまざまな組織があります。ぼくの専門である国際教育開発ですと、ユニセフ、世界銀行、ユネスコなどが取り組んでいますが、それぞれに教育へのアプローチが違っているんですよ。
ユニセフが教育問題に手をつけるのは、「子どもの権利条約」を具現化する手段のひとつだと考えているから。世界銀行は、最大のミッションである「貧困削減」と「経済成長」の実現に教育が有効な手段と考えている。そしてユネスコは、教育自体に価値があると考えているから、教育問題に取り組んでいるわけです。
このように教育ひとつとっても、組織によって目的が違い、職員の働き方も求められる専門性も違ってくるんです。だから、そもそも数ある国際協力分野の職場のなかでなぜ国際機関を選ぶのかを考えなくてはいけませんし、自分が取り組みたい分野、たとえば「教育」がそれだとしたら、どのようなアプローチで取り組みたいのかも考えないといけない。漠然と「国際機関で働きたい」と目標をたてるのは、ちょっと変えたほうがいいかもしれません。
つぎの仕事の心配をする日々
そして最後のお話ですが、国際機関は一般的な日本での働き方と全然違うということを知っておいてほしいと思います。
国際機関って、終身雇用なんてなくて、2年、3年と契約を繋いで働いていくんですよ。
―― 野球選手みたいですね。
まさにそうですね。
自分で空いているポストを探して申し込みをし、つぎの仕事を確保する。しかも2、3年の契約をとれるようになるのは30、40代になってからで、20代は、3か月や半年、長くて一年くらいの契約を次々と手に入れて生き残っていかなくちゃいけないんです。
また、キャリアパスも多様で、ぼくのように23歳から国際機関で働き始める人もいるし、40歳を過ぎてから国際機関に移ってこられる方もいます。さらに、いったん国際機関を離れてアカデミアやNGOに行った後に、また国際機関に戻ってくるというケースもよくあります。なので、こうすれば国際機関で働けるという決まったキャリアパスもあるわけではないんですね。
―― しかも日本だけじゃなくて、世界中がポストを争奪しあうわけですよね。
そうです、そこで勝ち続けなくちゃいけない。
さらに国際協力って分野の流行りすたりがあるんですよ。たとえば教育でしたら、この一年で援助額が6%も減少している。単純に考えると6%分、人が必要なくなっているということですよね。どんなに実力や意欲があっても、ポストがなければ働けません。これに国籍や性別といった要素も採用に絡んでくるので、運ゲームの要素がかなりあるといえるでしょう。
ただ、ポストがないということは、人事や予算配分がちゃんとおこなわれているのであれば、それだけ世界が良くなっているか、自分よりも優秀な人が世界を良くするために限られた予算を使っているということになるのですから、喜ばしいことだと思いますけどね。ぼくはこの業界で必要とされなくなったら大学院でスポーツ経営と統計を学んで、プロ野球か大リーグの球団職員を目指す予定です。
いま「国際機関で働くこと」を目標にしている人たちが実際に働いてみて「こんなはずじゃなかった」と思わないためにも、以上の四つの話はちゃんと抑えておいてほしいです。
「戦争を止めるために国連に行こう!」
―― 現実的なとても厳しいお話で、弱気になってしまった読者もいると思うのですが(笑)、畠山さんは、なぜ国際機関に興味をもたれたのでしょうか?
ぼくの父は同和教育に熱心な教員でした。単純に家の近所にサッカーチームが無かったのもありますが、ぼくは隣町の同和地区にあるサッカー少年団に通っていました。
同和地区出身ではない父の教え子が、同和地区出身の方と結婚されたときに、親族が式に出席ならさず、父と母が両親の替わりとして出席するなんてことを見ていたので、「生まれたところが違うぐらいでこんなことになる社会をひっくり返してやろう」、小学生の頃から「将来は政治家になる!」といっていた正義感の強い少年だったんです。
ただ、学校でいじめにあって登校拒否になったりして、どことなくひねくれた少年になっていきました。そして、中3のときに教頭先生とトラブルを起こしてしまいます。仲裁にはいってくれた担任の先生と友人に「本当の強さとは、自分の力を自分のために使って相手を従えさせることではなく、その力を必要としている人たちのために使えることだ」と言われて、心を入れかえたんです。
腕力と頭脳には自信があったので、この力を必要としている人はどんな人だろうと考えたら「戦争で苦しんでいる人たちだ!」って思いついたんです。それで「戦争を止めるために国連に行こう!」と思った(笑)。高校時代には「アフリカに革命を起こしに行ってくる」と親友に言っていました。ふざけた話みたいですけど、これが国際機関に興味をもったきっかけです。
―― ということは、当然ながら畠山さんは先ほどの四つのポイントを抑えてなかったんですね(笑)。
そうです(笑)。だから、みなさんには間違ってほしくないんですよ。
―― その夢はずっと変わらずに抱いていたんですか?
一度諦めています。大学4年生のときには、地元に帰ろうと思って就職活動もしていました。
大学に入るまでは「国連に行きたい」という思いをもっていました。でも国際機関では学歴が重視されると聞いて入学した東大が、ぼくに合わなかったんです。一時間に一本しか電車がこないような田舎出身で、事情があって貧しくなってしまったために高2、3の頃はバイトをして高校に通っていたぐらいですから、大半の生徒が都市圏出身で、親の平均年収も1000万を超える東大の雰囲気に馴染めなくて。同じクラスの人とも喧嘩してしまい、次第に大学にいかなくなってしまいました。大学時代にもっとも熱心に打ち込んだものは麻雀牌という、ダメ学生でしたね。
1、2年時の成績が悪くても行けるところからなんとなく選んだ教育学部の4年の前期に、早稲田大学の黒田一雄先生が東大に非常勤でいらっしゃって「国際教育開発論」という授業をされました。その黒田先生がすごくかっこいい人だったんですよ。知的で優しそうなのに、途上国の子どものために真剣に怒れる熱意をもった方で。
躊躇していたのですが、友人につれられて、黒田先生に進路についての相談をしました。そしたら「まずは世界銀行を目指してみるといい。名古屋大学と神戸大学に話を聞きに行くといいよ」とアドバイスを下さったんですね。そこでまず、名古屋大学に行ったのですが、お目当ての先生が出張でいらっしゃらなかった。そこでいまは東大の教育学部にいらっしゃいますが、当時は名古屋大学で教えていらっしゃった北村友人先生にお会いさせていただきました。
北村先生の第一声は「名古屋大学を受験してもしなくても、同じ志をもつ仲間だから、困ったらいつでも力になるからなんでも相談してください」でした。感動しました。黒田先生、そして北村先生に出会い、こんな人たちと一緒に働きたいと思った。そして順調にいっていた就職活動もやめ、神戸大学大学院を受験することにしたんです。
―― 早稲田大学でも名古屋大学でもなく神戸大学なんですね。
それには理由があって。普通は国際機関を目指す場合は海外留学をするのですが、そんなお金も無かったんです。しかも国内の大学院なら、業績が上位5%に入れば日本学生支援機構の奨学金が返還免除になると噂で聞いていたので、だったらぼくならタダ同然で修士号が取れるじゃないかって甘い考えがあったんです。
さらに、ぼくの指導教官は元世界銀行の教育エコノミストだったのですが、指導学生に、修士のときから世界銀行で働かれている人がいたんですよ。お金のことを考えると一刻もはやく働きたかったので、ぼくならきっと同じように修士で世界銀行に行けるはずだというこれまた甘い考えで神戸大学大学院を選んだんです。甘いもくろみでしたが、修士2年の10月にワシントンDCにある世界銀行の本部で短期コンサルタントとして働き始め、奨学金も返還免除になりました。
日本よりもQOLが落ちている……!?
―― 世界銀行ではどんなお仕事をされていたんですか?
「世界開発指標」の教育や保健や労働といった、人間開発分野のデータのコーディネーションしていました。
たとえばユネスコの統計局と教育統計について、数ある指標のなかからどんな指標を採用するか、またその指標の長所や短所、解釈する際の注意点などの話し合いをしたり、あるいはデータを収集する能力が決して高いとはいえない途上国から集まってきたデータがどれだけ正確か、データのクオリティをチェックしたり、改善する方法などを考えていました。
もうひとつは、世界銀行はおもに途上国に対して貸し出しを行っていて、どの国にどれだけの融資を行うかを決める基準の一つにするために、その国のさまざまな分野の制度や政策の評価をしています。その制度政策評価のジェンダー分野の仕事をしていました。
―― はじめての国際機関で働かれて、一番苦労したことって何でしょうか?
仕事で苦労したというよりは、アメリカで暮らすことに苦労した記憶がありますね……。
初めての海外生活なので、最初の一か月は家も決められなくて、お金もないですし、安いホステルで8人部屋に一か月くらいいました。だから「あれ? こんな感じなんだな……。もう少し良い生活ができると思っていたんだけど……。日本にいたときよりもQOLがさがってないか……?」ってみじめな気持ちに(笑)。
でもぼくはラッキーだったんですよね。同じ部署に、大学四年生のときにインターンをしていたNGOの人がいたんですよ。その人に助けてもらって生きのびることができました。さらにぼくは統計の仕事がメインですから、言語や文化の壁が比較的低いんですよね。知り合いがいなかったら、そしてポストが違ったらつぎの契約はなかったかもしれません。
―― 世界銀行ではどのくらい働かれていたんでしょうか?
なんだかんだ4年いました。20代では異例な長さですね。普通は半年、一年くらいでポストを変えるんですよ。4年もいたことは、良くも悪くも変わった経験だと思います。
なぜジンバブエで働いているのか
―― いまはユニセフで働かれていますが、どういうきっかけがあったのでしょうか?
そのお話をするためには世界銀行時代の話をもう少ししなくてはいけません。
ぼくは世界銀行で働きながら大学院の博士課程まで進んだのですが、博士論文の審査委員会に入っていただいていた先生の一人との意見の食い違いから途中で退学しています。でも、国際機関で生き残るためには、博士号がないとしんどくて。それならアメリカの大学院に行こうと思ったのですが、アメリカの博士課程の場合、コースワークを一からしなくてはいけないため世界銀行を辞めなくてはいけなくなってしまいました。
でもインド人の上司は辞めさせたくなかったみたいなんですよね。どうしたものかなあと考えていたところ、ジュニアプロフェッショナルアソシエイト(JPA)という変わった契約形態をみつけたんです。これは「契約開始時に28歳以下であり、2年間の契約終了後に、世界銀行から2年は離れなくてはいけない」という契約形態なんですよ。つまりこの契約をとれば、2年離れなくちゃいけないですから、円満にやめることができる。ということでこの契約に切り替えてもらいました。
しかし、この契約中にぼくは大学のゼミの後輩で博士課程の学生である妻と結婚をしたんです。彼女が博士論文を書くためには現地で調査をしなくてはいけません。ひとりで現地にいくのは心細いだろうし、途上国はお金もかかるし、お金もかかるので(笑)、アメリカの大学院に進むか、一緒に途上国に行って妻をサポートしつつ働くか悩んだんですよ。
日本政府がお金を負担して35歳以下の日本の若手に二年間国際機関での経験を積ませるJPOという制度があるのですが、応募の締め切りが大学院の願書提出の締め切りよりも前だったので、こちらにも応募してみたら通ったんですよ。
なので、妻が博士論文の現地調査を終えてからぼくも博士課程に進学することにしました。数年後には、つぎはぼくが妻の働いている国に行って博士論文を書いて、それからまた国際機関に戻ればいいやと考えています。というわけで、いまのユニセフで働くようになったんです。人生なにがあるかわかりませんね。
―― なぜジンバブエに?
JPO制度は国際機関が募集している数あるポストのなかから外務省が応募者の適性と日本の外交政策をかんがみて選択する仕組みで、ぼくの場合は、ユニセフが募集をかけていたジンバブエの教育分野のポストに行くことになったんです。もしかしたらユネスコにいたかもしれませんし、別の国に派遣されていたかもしれません。
―― じゃあ行きたい国に行けるわけではないんですね。
そうですね、どうしても働きたい国があったらその国の事務所にいって直談判してコンサルタントとして雇ってもらうといった方法もあります。でも相手が必要としている分野と自分の専門があわなかったら雇ってもらえませんし、専門性にもいろいろありますよね。たとえばぼくは教育分野におけるプランニング&リサーチが専門ですが、もしその国の事務所がカリキュラムの専門家を必要としていたら、ぼくはその国にいけません。行きたい国に行けるって超ラッキーなんです。
しかも、もしぼくが「ナイジェリアに行きたい」と言い出しても、西アフリカで働いた経験がないので、その地域の専門性がないということで落とされてしまう可能性が濃厚です。本当に難しいんですよね。
教育統計、教育調査、報告書の山
―― なるほど……いつからジンバブエで働かれているんでしょうか?
去年の11月です。比較的最近ですね。
ジンバブエではおもに3つの仕事をしています。
一つ目が教育統計の能力強化。これはジンバブエの学校に配る調査票でどんなデータをとるかを決めたり、また調査票は英語でつくるのですが、調査票に回答する先生がその英語を理解できないこともあるので言い回しを考えたりしています。そして取ってきた教育統計を教育計画策定に活かしていけるように官僚の支援をしています。
二つ目は教育調査の能力強化。ジンバブエはハイパーインフレで優秀な人材が国外に流出してしまったので、教育調査を行うことのできる人がいなくなっちゃったんです。ですから調査票の作り方などを一から教育して、いずれジンバブエの教育省が自ら調査を行えるように支援しています。
そして最後はユニセフ内部の仕事ですね。ユニセフは他の機関や政府からお金をもらって仕事をすることが多いので、そのお金でどんな仕事をしたのか報告書を作成します。さらに年次報告書も書かなくちゃいけませんし、半年ごとに提出する報告書もあって、とにかく報告書をいっぱい書かなくちゃいけないんですよ。しかも報告書には、成果をしめすデータを書く必要があるので、そのデータを作成しなくてはいけない。たとえば「この一年間でこれだけ就学率があがりましたよ」とか。これらがおもな仕事です。
約半年で体重が15キロ落ちた
―― ジンバブエでも世界銀行のお仕事と同じように統計のお仕事をされているんですね。ジンバブエの暮らしで一番つらいことってなんでしょうか?
衛生面が一番つらいです。
こっちにきてから半年ちょっとですが、15キロも体重が落ちています。ジンバブエは中国人が進出してきて日本の食材も手に入るようになりましたし、家では妻が頑張って日本の料理をつくってくれるんですけど、外食でどうしてもあたっちゃうんです。
だからできるだけ外食は避けているんですけど、打ち合わせ中や地方出張中に出されたお茶などは、「ジンバブエに溶け込むつもりが無いんだな」とか「せっかく出したのに……」って思われちゃうとまずいですから、「ああ、これあたるだろうな……」と思いながら飲みます。そしてやっぱりあたります。でも、ぼくと一緒に働いているスタッフはあたらないんですよねえ……。
―― たいへんですね……価値観の違いでぶつかったりはしないんですか?
ジンバブエの人は、アフリカのなかでも比較的おとなしい性格なんです。忍耐力もあって。だから日本人が働きやすいアフリカの国トップ3にはいる国だと思います。
ただ植民地の歴史がありますし、80年代までは人種隔離政策があって黒人と白人が同じエレベーターに乗れないような時代もあったので、外国人への抵抗感はあるみたいです。ときどきそう感じさせるような場面がありますね。
―― 仕事をしているときにつらいと感じることはありますか?
うーん、もちろんありますが、相手国との関係もありますし、自分の機関の批判になると問題になるので答えられないんですよね。
問題にならない範囲で言うなら、これは世界銀行にいたときも感じていたんですけど、東大で感じていたような居心地の悪さを覚えることはあります(笑)。国際機関で働いている人たちって、社会的、経済的に恵まれている方や帰国子女の方なんかが多いので、田舎者のぼくが働いていると、なんていうか、世界が違うなあって思うことはたくさんあります。それに耐えないといけないのはつらいかな(笑)。
馬鹿馬鹿しいことをいっても馬鹿にされない
―― もちろん楽しい瞬間、嬉しい瞬間もあるわけですよね?
ありますよ。ぼくの力を必要とする誰かのためになにかができたと実感できたときは嬉しいです。
いまぼくは分校調査をしています。日本でも田舎にはときどき分校がありますが、ジンバブエは、約8000ある学校のうち1500くらいが分校なんですよね。ジンバブエは日本と国土面積がもっとも近い国なのですが、人口は1/10しかいないので多くの分校が必要なんです。
あるとき、分校が普通の学校に比べると状況がよくないということをデータでしめすことができたんです。そして、そのデータによって教育省が財務省から予算を獲得することができ、分校の設備を充実させられた。教育省の高官から「ありがとう、助かった」と言われたときは本当に嬉しかったですね。
もしかしたら「現場に行って、子どもたちの笑顔みるのが楽しい」みたいなお話を期待されていたかもしれませんが、ぼくは子どもがちょっと苦手で……(笑)。
あと、最近帰国して気づいたんですけど、国際機関で働いていると馬鹿馬鹿しいことをいっても馬鹿にされないのは良いところだと思いました。
ぼく、ザ・ブルーハーツが大好きで、「青空」って好きな曲があるんですが、そのなかに「生まれた所や 皮膚や目の色で いったいこのぼくの 何がわかると いうのだろう」って歌詞があります。
でも実際は東京の裕福な家で生まれた男の子がどんな人生を送るのか、そしてネパールの農村部で低カーストの家で生まれた女の子がどんな人生を送ってどんな人になっていくのか大体想像できますよね? 現実は歌詞からまったくかけ離れた世界なんですよ。それを一般の社会人が話したらきっと「青臭い」とか言われちゃうんでしょうけど、ぼくが言っても馬鹿にはされないんですよね。
ロックな話をしても許される。馬鹿馬鹿しいと思われることをいっても何も言われないっていうのは国際機関で働いているよさですね。
やっておいてよかったこと、やっておけばよかったこと
―― 畠山さんが国際機関で働く際に、やっておいてよかったと思うこと、またやっておけばよかったと思うことってどんなことですか?
ちゃんと勉強したのが大学4年生の後半からなので、やっておいてよかったことがあんまりないんですけど(笑)。
国際開発問題のアドボカシーをやっていたNGOでインターンをさせてもらったのはいい経験になりました。学生団体じゃなくて大人がやっているNGOにいると、組織がどうやってまわっているのかがわかるのでオススメです。将来どこで働くかの指標にもなりますよ。
あと開発コンサルタント会社でもインターンをさせてもらいました。これも二国間援助機関がどうやって動いているか、開発援助のプログラムがどう進んでいくのかがよくわかりましたね。インターンの募集をしている会社はあまりないのですが、自分からお願いをしにいけば、道が開ける可能性はあると思います。
そして最後は、国際教育開発の勉強会をやっていたこと。勉強会をやっていると、まず大学院に入ったあとが多少は楽になります。いろいろな人が勉強会に参加しているので、違う視点を持った人とどうやって話せばいいのか議論の練習になるんですね。
途上国の現場では、同じバックグラウンドをもった人なんて一人もいませんから、こういう経験は非常に大切です。また勉強会のメンバーが、経験を積んで同じ世界の違う場所で活躍していると、いろいろな繋がりが生まれる可能性になりますし、現にぼくはこの勉強会のメンバーと国際教育開発NGO「サルタック」を今年立ち上げました。
もしこれらを一年生からやっていたら、そうとうな財産になるでしょうね。
やっておけばよかったことの最たるものが語学です。ぼくは大学で英語の授業を落としていて……(笑)。
国際機関で働くには、まず専門性がなければ話になりませんが、そもそもこれはおもに大学院に進学してから伸ばすものですし、学部時代からやれることで自分の専門性の可能性を広げてくれるのは語学です。たとえばフランス語圏の国の事務所に自分の専門にあったポストが空いていても、フランス語ができなかったら応募できないですよね。語学ができるだけ、自分の専門性を活かせる可能性の幅が広がるんですよ。
しかも国連公用語だけでなく、本当にいろいろな言語に触れておくと、言語のlearnabilityが高まるのでオススメです。ジンバブエでも地方に出張にいくと、現地語で仕事をしなくちゃいけないので相手の言っていることがわからず、うまく仕事がまわらないことがあるんですよね。だから言語のlearnabilityを高めておくと、現地の言葉を早くマスターするのに役立つと思います。
―― これは高校生のうちでもできることですね。
そうですね。
ただ国際機関のエントリーポイントって学歴も重視されるので、言語をがんばりすぎて、他の教科の成績が落ちていい大学院に行ける可能性が高いようないい大学に行けないと本末転倒です(笑)。
あとは、一度は海外というか途上国に行ってみればよかったと思っています。大学卒業後にはじめて途上国に行って、想像と現実が違うという経験をたくさんしました。たとえばどんなに熱意があっても知り合いじゃないから話を聞いてもらえないなんてことも普通にあります。大学院に進学してから「想像と違った」と言って辞めるのはもったいないですから、一度は途上国に行ってみて、できたら青年海外協力隊のように給料を貰って働く経験を積めるといいと思いますね。
ほかにも、目的意識があるのであれば学生団体をやっておくことに損はないと思います。自分たちで組織をマネジメントして、後輩の動かし方や大人の団体への交渉などの経験を積んでおくことは、現地採用のスタッフを動かすときとかさまざまな場面で強い財産になると思います。ぼくも麻雀やコンパばかりやっていないで、学生団体をやっておけばよかったですね……。
そして最後は勉強全般をやっておけばよかった(笑)。最初にお話したように、教育だけでも人権、経済、社会などのアプローチもありますから、政治的にどういう動きがあるか、どんなアプローチで提案をすると受け入れてもらえるかを考える必要がある。幅広く勉強してそのための引き出しを増やしておけばそれだけ交渉する際に役立つはずです。
自分の専門分野の知識を持って正論で戦っていく方法もあります。ただ、よくツイッターで正論をぶつけてブロックされるなんて光景を目にしますが、もし相手国政府との関係が重要な国際機関の世界で相手に話を聞いてもらえないなんてことになったら致命傷です。噂が回るのはとても早いですから、もうどこの機関もあなたを雇いたいとは思わない。
相手に正論をぶつけて説得するのは愚策なんだけど、ぼくには残念ながらそれほど引き出しはありません。だからもっと勉強していればよかったな、と思います。
「あなたが死んで100年たったら、誰もあなたのことなど覚えていない」
―― 畠山さんの後悔が非常に伝わってきました(笑)。最後に高校生、大学生に向けてメッセージをいただけませんか?
ぼくがいま国際機関でやっているような仕事が必要とされない素晴らしい世界を一日でも早く実現するために、ぼくはこの仕事をしています。なので、ぼくよりも10歳以上も若い高校生、大学生に国際機関で働くことをオススメするのは、10年経ってもまだそんな世界を実現できていないってことですから、アントニオ猪木の言葉を借りると「出る前に負けること考える馬鹿いるかよ!」って感じなんです(笑)。
高校生、大学生に伝えたいことは、想像力を豊かに生きて欲しいということです。もし自分が、ネパールの農村部で低カーストの家で生まれた女子だったらどうなっていたか想像して欲しい。80年代のジンバブエに黒人として生まれて、白人と同じエレベーターにすら乗れないという環境の下で育っていたらどうなっていたか考えて欲しい。現在内戦状態にあるシリアで生まれていたら今のあなた自身のように生きられていたか思いをはせて欲しい。
国際的なことじゃなくてもいいです。もし障害をもって生まれていたら、貧困家庭に生まれていたら、さまざまな事情を抱えた家庭に生まれていたら……いろいろイメージしてみてください。
ぼくは自由が好きです。『セブン・イヤーズ・イン・チベット』という映画にダライ・ラマの「あなたが死んで100年たったら、誰もあなたのことなど覚えていない」というセリフがあります。ぼくもそう思っています。自分がどう生きるかなんて誰かの意見を気にすることもなく自由にすればいい。だから、さっきのような状況を想像して、なにも思わない人だっていると思いますし、それはそれでいいと思います。
でも何かを感じて、そんな子どもたちにいまあなたが享受しているような自由を届けたいと思ったならば、同じ志をもつ仲間として、一緒に働ける日を楽しみにしています。
(2013年6月30日 スカイプによるジンバブエ‐日本間インタビュー)
国際機関ってどんなところ? 高校生のための6冊!
ユニセフで26年間勤務された方の体験談的な本。かつての国際機関と現在の国際機関では人事も職務内容も大きく異なっているので、これから国際機関で働く人が経験するであろうこととは異なっている点も見られますが、国際機関で働くとどのような仕事をしてどのような私生活を送るのかを垣間見られると思います。
国連ミレニアム開発目標達成(MDGs) のおかげで劇的に状況が改善してきているので、やや話は古くなってきている感はあるが、それでもなお途上国の子どもたちの様子が理解り易く描写されている本。あまり途上国の状況に詳しくない学生さんに読んでもらいたい。
子ども兵という問題に対し、ミクロ・マクロ、人権・経済など様々な点からアプローチした本。課題を解決するためにさまざまな方法をさまざまなアクターから引き出す必要があることを理解できると思う。地雷探知器を購入するよりも、子どもを一列に並べて地雷原を歩かせる方が安い、といった現実から教育や保健を通じて人の命の価値を高める重要性を感じてほしい。
国際機関で国際教育開発を生業としたい場合、まず読んでおきたい教科書。出版されてから8年経ち内容がやや古くなってきた点は否めないが、それでもなお国際教育開発を概観するのにもっとも適した本。
国際教育開発に関するポリティクスや歴史が良く分かる本。MDGs制定の前と後で状況が大きく異なるため、現状というよりは歴史を学ぶ上で便利な一冊。
現在でも世界銀行で教育エコノミストとして働いている筆者と、元教育エコノミストの教授が執筆した本。国際機関の国際教育開発分野で働く場合に、具体的にどのような基礎スキルが求められるのか、その一端が日本語で知れる貴重な本。
おまけ
藤岡悠一郎さんにご寄稿いただいた「昆虫食への眼差し ―― ナミビアの昆虫食と資源活用への展望 https://synodos.jp/international/4098」と同じく藤岡さんにインタビューした「昆虫、それって美味しいの?――『昆虫食への眼差し』(α-synodos vol.126掲載)」をお読みくださった畠山さんが、ジンバブエで売られている袋詰めの昆虫食の写真をお送りくださったので、せっかくですからご紹介。
このように販売されているようです。「ジンバブエでぜひ昆虫を使った食事をご一緒しましょう」とお誘いいただきました。
プロフィール
畠山勝太
NPO法人サルタック理事・国連児童基金(ユニセフ)マラウイ事務所Education Specialist (Education Management Information System)。東京大学教育学部卒業後、神戸大学国際協力研究科へ進学(経済学修士)。イエメン教育省などでインターンをした後、在学中にワシントンDCへ渡り世界銀行本部で教育統計やジェンダー制度政策分析等の業務に従事する。4年間の勤務後ユニセフへ移り、ジンバブエ事務所、本部(NY)を経て現職。また、NPO法人サルタックの共同創設者・理事として、ネパールの姉妹団体の子供たちの学習サポートと貧困層の母親を対象とした識字・職業訓練プログラムの支援を行っている。ミシガン州立大学教育政策・教育経済学コース博士課程へ進学予定(2017.9-)。1985年岐阜県生まれ。