2013.09.30

どうして「ルールは守って当たり前」? ――現代の生き方を批判的に考える

倫理学者・児玉聡氏インタビュー

情報 #教養入門#倫理学#功利主義

「『人の価値観はそれぞれ』だから答えなんてないのでは?」「そもそも『倫理』ってなんだろう。誰が決めているんだ?」そんな疑問を持ったことのある方は少なくないはず。そこで今回の「高校生の教養入門」では、倫理学を研究している児玉聡先生へのインタビューをお届けします。いまあるものをそのまま受け入れるのでなく、批判的に思考することの意味からボクシング廃止論まで、興味深いお話をたくさんしていただきました。(聞き手/金子昂、構成/中沢新)

人間と社会のあり方について

―― 最初に倫理学はどんな学問なのかをお教えください。高校の課目に「倫理」はありましたが、思想、哲学、宗教となにが違うのかよくわからなくて……。

そうですよね。高校の「倫理」って、宗教や哲学が混じっていて、よくわからないと思います。きっと高校生は、西洋や東洋の哲学と宗教の歴史を思い浮かべるでしょうね。

倫理学は道徳哲学であり、基本的に哲学の一分野です。哲学には認識論や存在論、論理学といった分野があります。認識論や存在論は、人間の認識のあり方とか、「ものが実在するとはどういうことか」といったことを考える学問です。それに対して倫理学は人間のあり方、生き方、社会のあり方を、高校生のときに勉強する思想史の知識をさらに深めながら考えていく学問と言えると思います。

功利主義、義務論、徳倫理

―― 倫理学にはいろいろな分野があると思います。代表的なものをお教えいただけますか?

いろいろと議論はあるのですが、規範倫理学(Normative Ethics)、メタ倫理学(Metaethics)、そして応用倫理学(Applied Ethics)の3つにわけられると思います。

倫理思想史を勉強すると、現代の問題を考える際に参考となる理論がいくつも見つかります。代表的なものとしては功利主義、カント的な義務論、徳倫理学があげられます。

功利主義はご存知の方もいると思いますが、「私たちはなにをすべきなのか、そして社会はどうあるべきか」という問題を考えるときに「最大多数の最大幸福」を基準に考える理論です。

アンチ功利主義の立場をとるのが義務論です。単純化しすぎている例かもしれませんが、独裁者を暗殺することによって社会全体がよくなるような場合があっても、暗殺行為は正当化されない。つまり目的は手段を正当化しないという立場をとるのが義務論です。

そして徳倫理は、功利主義や義務論がわれわれの行為を問題にしているのに対して、わたしたちが人としてどうあるべきか、どういう性格を持つべきかなど、行為ではなく人格のよしあしを問題にする理論です。

こうした理論を使って倫理について考えるのが規範倫理学です。わたしは功利主義を中心に研究していますが、最近はわたしの学生の間では徳倫理が人気みたいですね。

「善い」ってなんだ?

―― そういえば功利主義は高校の授業でも耳にしたことがある気がします。メタ倫理学はなんだか難しそうですね。

そうなんです、説明が難しいんですよね。

メタ倫理学は哲学の他領域の発展に大きく依存している分野です。もともと20世紀の初頭に、イギリスの哲学者であるバートランド・ラッセルやジョージ・エドワード・ムーアが、「『善い』とか『正しい』っていったいどういうことなんだろう?」と言い出してから、具体的な倫理問題よりもまず、倫理にかかわる概念や言語を分析しなくてはいけないという流れが始まったことがきっかけにあります。

「Ms. A is tall」と「Ms. A is good」と非常に似通った文章を例に考えてみましょう。「tall」の場合、Aさんを見れば本当に「背が高い」のかすぐにわかります。でも「good」の場合は、Aさんが本当に「善い」のかどうか、どうやって確かめらたらよいのでしょうか。ムーア以前は「A is tall」でも「A is good」でも、「背が高い」「善い」という性質は「現実の世界」つまり対象の側にあって、それを「記述している」という発想が非常に強くありました。たとえば、Aさんが善い人だというのは、周りの人を快い気持にさせるということだ、というような感じです。

それに対してムーアは「道徳的な性質は自然科学で記述されるような世界にはない。善悪を快楽や苦痛といった自然的なものに還元することは大きな誤りだ」と言ったんです。これは「自然主義的誤謬」という非常に有名な話です。彼は善いという性質が現実の世界にあることは認めましたが、それは直観によってしか把握できないと考えたのです。

しかしムーアもやはり「言語は世界を記述するために用いられる」という発想にたっていました。ですが、実は言葉というものは、もっといろいろなことができるのではないでしょうか。例えば「このコーヒーは美味しい」というセリフは、「美味しさ」というコーヒーの性質を表す言葉なのかもしれませんが、コーヒーを飲んで美味しいと感じている私の態度や感情を表明しているのかもしれません。「Ms. A is good」もそうですね。「私はAさんを『善い』と思っている」という称賛の態度の表明とも取れます。

このように言葉にはもっとたくさんの使用法があるだろうという話が20世紀の前半からでてくるんですね。メタ倫理学はその影響を強く受けているんです。「あなたは約束を守るべきだ」「あなたは嘘をつくべきではない」と言ったとき、それは世界の何かを記述するというよりは、話者の「態度」を表明している。私たちが使う「道徳語」は、いったいどういうかたちで使われているのか。世界には私たちが道徳を評価するための基準があるのだろうか。そういう研究をメタ倫理学では行っているんです。……まあわかりにくいですよね。

中学生、高校生くらいのときって「人の価値観はそれぞれだ」「倫理には答えがない」といったことをよく考えると思うんですけど、メタ倫理学は、本当にそれが正しいのかも考えるので、関心のある人には非常に面白いと思います。でもメタ倫理学って非常に難しい分野になってしまって。いま頑張って入門書を書こうかなと思っているところです。

―― このインタビューを読んでいる高校生のためにも頑張ってください(笑)。

はい(笑)。

60年代ぐらいになるとメタ倫理学は閉塞状態になってしまいます。例えばベトナム戦争は善いことなのか悪いことなのか、言語分析ばかりしていると答えられないですよね。それが60年代、70年代あたりになって、ベトナム戦争や市民権運動などが起きて「もっと社会の問題にコミットすべきではないか」という問題意識が生まれるんです。そこで出てきたのが応用倫理学です。

応用倫理学は、生命倫理学、環境倫理学や情報倫理学、あるいは企業の倫理とかそういったものを扱う分野ですね。とくに生命倫理学の歴史は非常に長く体系だっているのではないかと思います。私も生命倫理に関心があり、研究をしています。20世紀後半からは、応用倫理学が流行っている状況ですね。

レッドブルはよくて、向精神薬はだめなのはなぜ?

―― 児玉先生はとくに生命倫理学を研究されているんですね。詳しくお聞かせいただけますか?

新しい技術がどんどん出てくるようになって、それまでには考えられなかった問題がたくさん出てくるようになります。たとえば脳死状態は顕著な例ですね。あるいは体外受精、クローン技術、iPS細胞など、新しい技術が生み出されたことで社会に生じる倫理的・法的な問題について考えるのが生命倫理学です。

議論されているテーマは本当にいろいろとあります。そうですね……例えば治療のために使われていた薬を健康的な人が使うことで身体能力を高めたり賢くなったりすることには問題があるのかという議論があります。うつ病にかかっていない人が向精神薬を飲んで気分を高めるのに使ったり、ADHD(注意欠陥多動性障害)ではない人がリタリンを飲んで集中力を高めたり、聞くところによると英米圏の学生ではそういう用法で使っている人が増えているらしいですが、日本ではまだあまり聞きませんね。

―― でもレッドブルもコーヒーも同じ効果を期待して飲んでいますね。

そうですよね。そのように考えると、もちろん副作用については考えなくてはいけませんが、向精神薬やリタリンのような薬を同じように使うことのなにが問題なのかが問題になってきますよね。応用倫理学ではそういったことを考えるんです。

おそらく今後、iPS細胞の研究が進むことで、私たちは相当長生きできるようになると思います。いまは120歳くらいが寿命の限界といわれていますが、いずれはみな120歳まで、あるいはそれ以上の年月を生きるようになるかもしれません。いまでも長老支配だと言われているのに、いったいどんな社会になっているのか。みんないくつになっても退職しないかもしれない(笑)。120歳まで続く結婚なんて本当にあるのか……。

―― SFで描かれていた世界が現実になるかもしれないんですね。

ええ、相当可能性が高くなっていますね。そのとき、人間の個人の生き方、社会のあり方はずいぶん変わってしまうでしょう。そうした問題も考えるのが応用倫理学なんです。

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どんな根拠でルールは決められているんだろう

―― 先生はなぜ倫理学を研究しようと思ったのでしょうか?

高校生のときはニーチェとかを読んでいて「ああ、面白いな」と思ったので、大学で哲学でもやろうかなと考えていたんですよね。そのときは倫理学という分野があることなんて全然知りませんでした。私が倫理学を研究することになったのは、いくつか理由があると思います。

私の知り合いにもすぐ怒る人がいますが「なになにはけしからん!」と強く思う人って結構いますよね。でも私はあまり道徳的な話に関心がなかったんですよ。「『ルールは守って当たり前だ』っていうけれど、その根拠とはいったいなんだ?」って思っていたんですよ。単に私が常識知らずなのかもしれませんが(笑)。それが倫理学に興味をもった理由のひとつだったのかもしれませんね。

あとは加藤尚武先生という応用倫理学やヘーゲル研究の大家の先生の授業を受けたら非常に面白くて。加藤先生の『現代倫理学入門』(講談社学術文庫)は、カントとかロールズとか功利主義とかミルとか様々な議論を、現代社会の問題を解くために使っていて、「倫理学は現代の問題を考える一つの視点として有効なんだ」と思ったんですよね。

代理出産について賛成する人も反対する人も立場はいろいろですが、現実的には何らかの社会政策を作る必要があるわけですよね。そのために論点を出して議論の方向性を打ち出していくことに面白さも感じました。こういう研究は社会学や法哲学でも可能なのかもしれませんし、むしろ社会学のほうが、社会のより深い構造を記述し理解できる学問なのかもしれません。ただ倫理学で規範理論を援用しながら考えて、「こうすべきだ」と打ち出せたら面白いんじゃないか、というのがあったのだと思います。

―― 実際に研究者になられて「こんなはずじゃなかった!」と思ったことはありますか? おそらく研究者になると決めるには相当の覚悟が必要なんだと思うのですが……。

私はアカデミアに残る以外のことは考えていなかったんですよね。就職する発想がなかった(笑)。だから、苦労した記憶はあまりなくて、院生になってからも「まあこんなものか」という感じでした。京都大学はわりと自由放任なので、好きに勉強をしていましたし。もちろんたいへん厳しい先生もいましたが、それを除けば楽しくやっていましたね(笑)。

―― そういえば真面目な学生ほど、どんどん塞ぎ込んでしまうとよく聞きますね。

それはありますね。哲学って内に籠ってしまう人も少なからずいると思うのですが、ただ倫理学の場合は、社会問題を考えるので、あまり内に籠らないというか。例えばウィトゲンシュタインをひたすら読み続けて研究していたら、たぶん変になっちゃうと思うのですが(笑)、社会的な問題にも関心を持っていると、塞ぎ込まなくてすむんじゃないかな、と。

ボクシング廃止論!?

―― なるほど、では研究しているときに面白いと感じるときってどんなときでしょう?

ひとそれぞれとは思いますが、私だったら、英米圏の倫理思想史を勉強しているときに浮かび上がってくる論点が現代の問題にも現れてきて、その結びつきを発見するときは面白いですね。歴史は繰り返すと言いますが、思想史のなかで現れた問題が現代でも現れていると、面白い指摘がいろいろと出てくるんですよね。

―― 具体的にどんな議論が面白いと思いましたか?

そうですね、なにかあったかな……最近あんまりそういう経験がないんですよね。昔はもっとあった気がするんだけど(笑)。

ああ、ボクシングを廃止すべきだという議論は面白かったですね。

―― 気になります! どんな議論ですか?

私がイギリスにいたときに、イギリスを中心に議論されていて。ボクシングの他にも危険なスポーツっていっぱいありますね。でもボクシングってどうですかね。柔道や剣道と違って、基本的に相手を殴って気絶させて倒したら勝ちというスポーツなんですよね。これって他のスポーツとは危険の質も目的もちょっと違いますよね。もちろん「違いはない」と考える人もいるのですが……。

私はどちらかというと廃止したほうがいいんじゃないかと思っている方で、まあ『はじめの一歩』を読んでいるとすごく面白いと思うんですけど(笑)。

ボクシングについては、アマチュアボクシングみたいにポイント制にするなり、別のルールにするなりすればいいんじゃないかという議論があるんです。ただ「そんなことしたらボクシングがボクシングじゃなくなる」という人もいて。でもスポーツのルールってどんどん変わっているので、変えてもいいんじゃないかなと思うんですけどね……。

いろいろと議論はありますが、たとえば「ボクシングはスラム街での貧困生活から抜け出す重要な手段だ」という意見もあります。

1998年、試合中に脳出血を起こして引退したスペンサー・オリバーというボクサーは、「おれたちがボクシングを始めた理由は、生きていくのが困難で、しばしば他には何もやれることがないような環境で育ったからだ。だが、このスポーツはおれたちにいろいろなものを与えてくれる」と語っています。

オリバーの意見には共感するところもあります。でもたとえすべてのボクサーがスラム街で育ってきたとしても、スラム街全員の少年がボクサーになるわけではありませんし、ボクシングがスラム街の問題を根本的に解決するわけではありません。ボクシングを奨励するよりは、スラム街の問題を根本的に解決すべきです。

「現にボクシングを必要としている少年たちがスラム街にいるじゃないか」という反論もあります。でもボクシングはスラム街からの「唯一の抜け道」ではありません。音楽やバスケットボールによってスラム街から抜け出せるならば、そちらのほうがよいと思います。

―― それこそ「人の価値観はそれぞれで、ボクサーだっていろいろな危険は覚悟の上でボクシングをやっているじゃないか」っていうこともできますよね。

ええ、それは医療で言うインフォームド・コンセントの問題と近い話なんです。例えば何歳からボクシングを始めて、そのとき以来、本当に危険性を知ったうえで同意しているのか、とか。また、同意殺人や安楽死の問題でも言えることだと思いますが、仮に本当に危険を知ったうえで同意したとしても、その同意を有効と見なすべきかどうなのかについても考えないといけません。

―― どこからどこまでをオッケーとするか、線引きが難しいんですね。

ラドフォードという哲学者は、イギリスの哲学者であるジョン・スチュワート・ミルの自由主義の立場から、ボクシングについて次のように擁護しています。

もしこうした危険、苦痛、さらには苦難が、自分のものであり、またそれらを自発的にかつ危険を承知のうえで選んでいるのであれば、しかも他人に危害を与えないのであれば、われわれは、道徳的に、そうした危険をともなう活動に参加することが許されるべきだ。というのは、そういった活動を禁止することは、われわれの自由と幸福に干渉するだけでなく、人間の生の完全さと強烈さを減じることによって、人間の生を小さくすることになるからだ。

そこで、ボクシングが自由に選ばれ、このスポーツに従事することを選んだ者以外はだれも傷つけず、 また彼らが危険を承知しているならば、ボクシングは[…]禁止されるべきではない。

でもいまお話したように、そもそもボクシングの危険性をちゃんとわかったうえでボクシングをやっていたのか、とくに、もしスラム街の少年が「唯一の抜け道」としてボクシングを選んだ場合、それは自ら同意したといえるのかという疑問があります。苦しい状況から抜け出すために、危険なことを選ぶしかなかったのかもしれません。

さらに「同意しているのであればよい」のだとしたら、同意の上であればロシアンルーレットを行ってもよいことになってしまう。ボクシングはよくてロシアンルーレットはいけない理由はどこにあるのでしょうか? あるいはわれわれはロシアンルーレットも認めるべきなのでしょうか。

自由主義の重要な論点に「同意したとしても、決して奴隷にはなれない」というものが昔からあります。仮に奴隷契約は許されないことを認めた場合、それではどこまでなら許されるのか、安楽死は許されるのか、ボクシングは許されるのか、やはりどこかで線を引かなくてはいけないんですよね。自由主義をどこまで追求するか。過剰な自由主義を認めないのであれば、ボクシングの是非をもう一度よく考えなくちゃいけません。

ボクシングは面白いスポーツだと思います。ボクサーはおそらく、人間のいろいろなものが試されている非常に重要なスポーツだと思うのですが、それでも、「それでいいのだろうか?」という疑問がある。面白いものを許してしまったら、古代ローマのグラディエーターでもなんでもできてしまうし、同意だけですべて片付くかと言うと、そうでもないという話なんじゃないかなと。

生き方、あり方に疑問をもつこと

―― うーん、難しいですね……児玉先生は、倫理学を勉強することにどんな意味があるとお思いですか?

模範的な解答をすると、まず批判的な思考を身につけるという哲学全体の目的があると思います。社会の価値観だとか道徳というのをそのまま受け入れるのではなくて、それを批判的にみる能力を身につけることが非常に大きな意味だと思います。

これは大学全体の役割でもあると思いますが、社会をよくしていくためにも社会のあり方を客観的にみつめる能力を持つことは非常に重要でしょう。その際に批判的思考、つまり論理的に考えること、きちんと筋道を立てた議論を自分一人でも他人と一緒でもできることは、とくに道徳や倫理の問題について考えるときに重要になる。結論ありきではなくて、推論するという力を身に付ける意味があるのでは、と思いますね。

いまは「批判的思考」という言葉が英米圏でよく使われるようになっていますが、ラッセルの時代には「懐疑」という言葉がよく使われていました。「穏健な懐疑的思考が重要だ」とラッセルも言っているんですけど、現存のものをそのまま受け入れるのではなくて、やっぱりそれを吟味する、一度疑った上で受け入れるかどうかを決めることは大切だと思います。

例えば代理出産について、すぐ「けしからん!」ということは簡単でしょう。でもなぜ「けしからん!」なのかを吟味しないといけない。なぜなら社会全体で「けしからん!」と決めてしまったら、代理出産という方法を使えない人がでてきてしまいます。本当に、代理出産にアクセスできない様にすべきなのかを考えないといけないんです。

これが批判的な思考の重要なところです。批判というと、なんでもかんでもケチをつけると思われがちですが、あるものをそのまま受け入れるのではなくて、その背後にある理由というのをよく考えるということなんです。

―― ツイッターを見ていると、「批判」ってつまり、喧嘩することなのかと思わせがちな気がするので、なるほどと思いました(笑)。最後に高校生にメッセージをお願いします!

うーん……そうですね……いま非行少年の研究を京都府警と一緒にやっているので、「万引きをしないでください」というメッセージが最初に思い浮かびました(笑)。あとは「自転車を盗むのはやめてください」とか(笑)。

―― な、なるほど(笑)。他にはありますか?

やっぱり、貧しい国に対してどれほどのことをする義務があるのかだとか、動物を食べてもよいのだろうかとか、正義って何だろうとか、そういった自分の生き方とか社会のあり方に根本的な疑問を持つような人は、倫理学でちょっと勉強してもらいたいと思います。

最初に言ったみたいに、倫理学というのは、思想史を知識として身につけるのではなくて、われわれの現代の生き方というのを批判的に考えるというところがあります。自分の生き方とか社会のあり方を考えるというと、別に他の学問でもいいんではないかと言いたくもなるところはありますが、それでも、もし哲学的な議論に関心があれば、倫理学を勉強してもらえたら嬉しいですね。

倫理学がわかる! 高校生のための入門書3冊

応用倫理学の入門書としては今日でも最初に読むべき本。一見なんの役にも立たないと思われる哲学が、代理出産や死刑廃止論など、現代社会の問題を考えるうえで役に立つことがわかるだろう。

少し前に流行ったので記憶にある人も多いかと思うが、政治哲学・倫理学の入門書。米国で起きている社会問題を通じて、功利主義や義務論などの規範理論的な思考を身に付けられるだろう。

功利主義を中心にした倫理学入門書。「少数者を犠牲にする思考法」と考えられがちな功利主義についてより深く考えることで、倫理学をするために必要な批判的思考が身に付けられるかもしれない。

(2013年9月7日 新宿にて)

プロフィール

児玉聡倫理学

京都大学大学院文学研究科 倫理学専修 准教授。京都大学大学院文学研究科博士課程修了 (博士 (文学))。日本学術振興会特別研究員(PD)を経て、2003年に東京大学大学院医学系研究科の医療倫理学講座助手に着任。2007年、同専任講師。2012年10月より現職。主な著書に『入門・医療倫理I』(共著、勁草書房、2005)、『入門・医療倫理II』(共著、勁草書房、2007)、ジョンセン『臨床倫理学』(共訳、新興医学出版社、2006)、ホープ『一冊でわかる医療倫理』(共訳、岩波書店、2007)、『功利と直観』(勁草書房、2010)、『功利主義入門』(ちくま新書、2012)『マンガで学ぶ生命倫理』(化学同人、2013)など

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