2014.10.16
日仏間で消えた「戦争」の「傷跡」をめぐる話
本稿では、戦後フランス外交史のなかで消えた「傷跡」の話をしたい。
最近、総力戦の時代を振り返る機会が多くなった。それは、2014年が第一次世界大戦の開戦から100年の節目の年であり、また来年には、第二次世界大戦の終焉から70年を迎えるからだろう。
両大戦とも当事者として過ごした日本だが、今日まで引きずっている「傷跡」は、言うまでもなく第二次大戦の方が多い。そして、こうした「傷跡」は、現実外交とからむことによって、「古傷」として痛みが再発する場合すらある。今の日中関係がその典型例であろう。
しかしここでは、そうした今でも目につきやすい「傷跡」の話はしない。史料の公開状況にもよるが、「戦後補償問題」が何らかのかたちで解決され、「傷跡」が消えると、時としてそうした「傷跡」があった歴史まで風化してしまう場合がある。ところが、過去の「傷跡」を調べてみると、歴史的に重要な争点があったりする。あるいは、当事者により、その「傷跡」にかける思いがまったく異なっていたりもする。
本稿は、第二次大戦の間に、日本がフランスに負わせたとする「傷」をめぐる戦後フランス外交の変遷を概観する。その意義は、単純に言えば、あまり知られていない過去を炙り出すことである。そして、日仏間の「傷跡」をめぐる問題には、フランス側にとって見過ごせない問題があったことも指摘したい。
日本とフランスとの接点といえば、文化交流や貿易摩擦に関する話が頭をよぎるであろう。だが、ここでは「文化」や「経済」ではなく、日本との「戦争」をとおして戦後フランス外交史を見ていく[*1]。
[*1] 本稿のテーマについて、出典の史料なども含めて、次の研究のなかで、より詳細に論じた。Yuichiro Miyashita, « La France face au retour du Japon sur la scène internationale, 1945-1964 », Thèse de doctorat en histoire sous la direction du Professeur Maurice Vaïsse, Institut d’Etudes Politiques de Paris, 6 avril 2012.
その際にキーワードとなるのは、「講和」、「賠償」、そして「自由フランス」の3点である。本稿ではあえて「戦後日仏関係」という便利な言葉の使用を極力避けた。なぜなら「講和」と「賠償」は戦後日本が占領下に置かれ、日本とフランスとの間に正式な外交関係がない時期の話だからだ。
正統性をめぐる「ねじれ」の問題
消えた「傷跡」の問題の起源を探るには、1940年6月までさかのぼる必要がある。このときフランスは、ドイツとイタリアの両国と休戦協定を締結し、早々と戦争から離脱した。休戦協定といっても「降伏的休戦協定」であり、実際にはフランスが独伊両国に敗けたのである。それによって、フランスは地理的にも、政治的にも分断された。
フランス政府はヴィシーに移動し、枢軸国と協力するようになった。この政府は、その所在地の名から、通称ヴィシー政府と呼ばれるようになった。日本政府は、このヴィシー政府を正統政府として承認した。
一方、ヴィシー政府に反発し、ロンドンで自由フランスという抵抗運動を旗揚げした軍人がいる。かの有名なド・ゴール(Charles de Gaulle)将軍である。1940年6月の時点では寂しく数名で反乱を起こしたド・ゴールは、約4年後にはフランス共和国臨時政府の首班になり、パリに戻った。
ようするに、戦時フランスでは、一方では、日本が正統政府として扱い続けたヴィシー政府、他方では、非正統アクターとして扱った自由フランスが併存していた。そして、最終的には日本が相手にしなかった自由フランスが戦後フランスの「政治的地ならし」をするアクターに躍り出たのである。
自由フランスは、1941年12月8日、「日本と戦争状態に入った」と主張した。しかしド・ゴールなどが唱えた「ヴィシー政府は、1940年から一貫して非正統、非合法政権であった」という立場をとらない日本は、自由フランスの主張を受け入れなかった。日本からしてみれば、運動でしかない自由フランスが発した「イギリスと一緒に日本と戦争状態に入った」などという声明は眼中になかったのである。
ただ、第二次大戦を正統政府として終えたのは紛れもなく自由フランスに連なる共和国臨時政府であった。そのようなわけで、戦後の日本では、外務省内で検討が行われた結果、1944年8月25日、つまりド・ゴールが政府首班としてパリに戻った日を以って、両国の開戦日と定めたのである[*2]。むろん、日本のとる「1944年8月25日」も、フランスが主張する「1941年12月8日」のいずれも、決して説得力のあるものではない。
このように、「戦争」をとおして戦後フランスの日本をめぐる外交を見た場合、以上のような正統性をめぐる「ねじれ」が常につきまとっていたのである。
[*2] この点に関しては、次の研究を参照。川島慶雄「わが国と諸外国の外交関係断絶の経緯」、国際法事例研究会編『日本の国際法事例研究(2)国交再開・政府承認』(慶應通信、1988年)、205頁。
アメリカと真っ向から対立する日本観
戦後フランスにとって、ヴィシー政府の記憶は、厄介な問題であった。いくらド・ゴールがロンドンやアルジェリアのアルジェを拠点に連合軍側に立って戦争に加わっていたとはいえ、フランス本国では、対独協力をしていた政府が存在していたわけであり、その事実を消し去ることはできない。戦時期の大半を、正統性をめぐる混乱を抱えたまま過ごしたフランスは、国際的地位の凋落に直面したのである。
だからこそ、戦争末期から終戦直後の時期にかけて、フランス政府は、遅れを取り戻そうとするかのように、あらゆる国際問題の案件に関わろうとした。ヨーロッパに関して言えば、戦後ドイツの処理問題、戦後国際秩序に関して言えば、普遍的国際機構(国際連合)の創設に向けた外交とその実務レベルでの作業など、とにかく米英ソが主導する枠組みに加わろうと必死に外交交渉を行い、アピールを重ねた。
戦後フランスが日本に関心を抱いたのも、こうした文脈においてである。つまりそれは、外交関係の再開を前提とした、戦後日本との関係構築という「日仏関係」の枠組みではない。世界を将棋盤にたとえるならば、まずフランスが「強い駒」となるための踏み台として日本を見据えたのだ。フランス外務省の文書には、フランスが世界的パワーだからこそ日本占領の問題に関心を抱き、積極的に提言し、それをアメリカの占領政策に反映させるのだという強い意気込みが滲み出ていた。
占領下の日本をめぐる外交問題は、第1に賠償問題であり、第2に講和問題であった。繰り返すが、そもそも、占領された日本とフランスとの間に正式な外交関係はなかった。よって、当然、日本とフランスではなく、フランスと占領政策を主導したアメリカとの間での日本をめぐる問題という方がより正確である。
フランスが日本からの賠償に関心を抱いた理由は世界的パワーとしての自己主張以外に、もう一つある。フランスが計画庁で立てていた産業復興、近代化のための計画の対象には、フランス本国のみならず、植民地帝国も含まれていた。ところが、復興に要する財政負担は相当なものであり、植民地にまで手が回らないのが実情であった。そこでフランスは、戦時中のインドシナ半島が日本の進出によって被害を受けたとして、費用の額を割り出し、現物賠償を要求したのである。
自らの受けた「傷」をアピールするフランスに対し、アメリカは配慮を示さなかった。1947年に入り冷戦がいよいよ現実化すると、アメリカは日本の経済復興を優先する方針に転換したのである。理由はそれだけではない。アメリカは、フランスが太平洋戦争での連合軍の勝利に何ら貢献していないと考えていた。それゆえ、フランスが現物賠償の対象になることに露骨に反発したのである。その結果、フランスは中間賠償からはずされ、その要望も退けられた。
フランスは、賠償問題と同様に、日本との講和条約の条文作成に、積極的に携わるつもりでいた。その背景には、講和条約とは当然、戦勝国の高官が机を囲んで議論しながら作成していくのが常道であるという考えがあった。
フランスはそうした形式論のみならず、そもそもアメリカの講和原則と、それを基に作成された条約案が日本に寛容すぎるとして不満であった。フランス連合という枠組みのなかで、インドシナ半島を自らの勢力圏として維持するつもりであったフランスは、長期的な視点で日本の行く末を考えていた。フランスにとって、日本との講和は、日本の復興を意味し、日本が再び軍事的・経済的脅威になる可能性が生じることを意味したのである。
フランスにとって、日本の再軍備は二重の意味で厄介な問題であった。一つは、復興した日本そのものがインドシナ半島の脅威になる可能性があったことである。まだ、戦争が終わって約5年しか経っていない時期であり、フランスの政治エリート、なかでも外務省の面々は、冷戦構造になじんでいなかった。もう一つは、日本の再軍備が、やはり同時期、真剣に検討され始めていたドイツ再軍備の先例になることを危惧する声が高まったことだ。それゆえ、日本の軍事力を制限する文言を講和条約に挿入したいのがフランスの本音であった。
また、日本の経済復興を恐れる声も再び高まっていた。「再び」と記したのは、フランスの繊維業界など産業界の一部は、戦前から日本の安価な製品との競争に苦しめられた記憶があったからだ。それゆえ、フランスの外務省をはじめとした行政機関は、日本に対する最恵国待遇の付与に反対であった。
フランスの日本観は、アメリカの視点と真っ向から対立するものであった。フランスは己の影響力を過信していたわけではない。だからこそ日本の再軍備反対で一致していたオーストラリアのような「仲間」を求めた。しかし、フランスの協力相手の「本命」は、講和条約の草案作成に参加するイギリスであった。しかし、アプローチを受けたイギリスがフランスの意見を後押しすることはなかった。
そのためフランス外務省は、条約調印の延期という選択肢も目指すべき課題の一つとして検討するようになった。1951年6月、アメリカの国務省で講和問題の顧問を担当していたダレス(John Foster Dulles)が条約の内容を説明するためにヨーロッパを歴訪した際、パリを訪問する前のロンドンでフランスの駐英大使は、フランス側の要望と不満を伝え、さらに条約の締結を延期することも選択肢の一つとして提案した。
ダレスにとっては、迷惑な話でしかなかった。米仏関係の破綻と同盟国としての日本の喪失との間でアメリカが選択しなければならない場合、前者を選ぶと応じ、取り合わなかったのである。フランスは、アメリカと冷戦に対する考え方が違うし、第二次大戦の処理に対する考え方も異なり、「償うべきは償わせる」というのが一貫した考えであった。しかし、それを外交によってアメリカに受け入れさせるだけのパワーは、とりわけ東アジア問題については、まったくなかった。
ダレスの帰国後、講和条約の最終案がフランス側に渡された際にも、フランス外務省で長らく対アジア外交に携わってきたナジアール(Paul-Emile Naggiar)という高官は、日本の個別的・集団的自衛権の保有を認めた第5条に注目し、日本の再軍備を防止するためにも、日本国憲法第9条や不戦条約に関する文言を挿入すべきであると主張した。また、フランスは調印の直前まで粘り、最恵国待遇に関する講和条約第12条の修正を要求した。しかし、アメリカ国務省は、「そのようなことを言ってきたのはフランスだけ」と応じ、冷たく突き放した。
終戦後のフランスの日本との関わりは、まず日本の再軍備のみならず、経済復興に関しても消極的な態度をとることで始まったのである。
開戦日はいつだったのか
1952年4月28日、サンフランシスコで調印された対日講和条約が発効し、ようやく公式の日仏関係が再開された。むろん、フランスは占領下日本に駐日代表部を設置しており、日本も1950年12月以降、パリに在外事務所を設置していた。だが、対日講和条約発効によって、二国間で大使の交換を行い、正式な外交関係が始まったことの意味は大きい。
当然、日仏関係も拡がりを見せたわけだが、本稿では、このまま「戦争」を軸に両国の関係を見ていきたい。
再び戦時期の話に戻る。1940年6月、ド・ゴールが自由フランスをロンドンで立ち上げた際、イギリス以外の在外フランス人の間でも運動に賛同する動きが起きた。アメリカなどに限らず、アジアでも賛同者が出て、彼らが自発的に「自由フランス支部」を立ち上げたのである。日本でも神戸と横浜に誕生し、ド・ゴールは、神戸の代表を正式に日本における自由フランスの代表として承認した。この駐日代表は、フランスの汽船会社であるメサジュリ・マリティーム(Compagnie des Messageries Maritimes)社のバルベ(Gabriel Barbé)という人物であり、ド・ゴールも回顧録のなかで、草創期の同志の一人として名前を挙げているほどだ[*3]。
[*3] さしあたり、ド・ゴールの回顧録に関して、本稿では邦訳を参照した。シャルル・ド・ゴール(村上光彦・山崎庸一郎共訳)『ド・ゴール大戦回顧録 呼びかけI 1940-1942[新装版]』(みすず書房、1999年)、83頁。また、同書のなかでは、関東地区(東京・横浜)の代表であるヴィニュ(Louis Vignes)の名前も出てくる。同上、130頁。
バルベの戦時中の活動の詳細は省くが、簡単にまとめると日本で活発にド・ゴール支援のための資金集めや宣伝活動を行っていたため、軍機保護法違反を理由に勾引され、兵庫県警察部外事課で取り調べを受け、1941年12月に神戸地方裁判所で有罪の第1審判決を言い渡され、1942年4月2日にバルベの上告が大審院で棄却され、最終的に懲役刑の判決を言い渡されたのである。バルベのみならず、複数のフランス人が同じような状況に陥った。むろん、反枢軸陣営の自由フランスを支援していたということがその理由である。
ここで問題となるのは、バルベ等の戦後をめぐる動きだ。講和条約の第17条(b)には、「連合国の国民」が、戦時中に行われた裁判で、充分な陳述ができなかった訴訟手続きについては、再審査を要求できると記されていた。さらに、第22条では、日本と当事国との間で合意に至らず、当事国同士の法的な枠組みのなかで解決できない場合、いずれかの紛争当事国の要請で国際司法裁判所に付託できると記されていた。
これを根拠に、バルベを含むフランス人3名が再審査を日本側に要求した。日本側も「平和条約の実施に伴う刑事判決の再審査等に関する法律」(1952年)に基づき、フランス人の個々の事案を再審査したのだが、いずれも棄却され、誰一人として講和条約第17条(b)の「裁判が行われる前の地位の回復」を叶えることができず、「公正且つ衡平な救済」についても実現できなかった。
これは、フランス政府にとって、少数のフランス人の戦後補償をめぐる問題にとどまらない政治的意味を持つ案件であった。1956年、フランス外務省は、最高裁判所の決定に不満を持ち、法律的な問題だけではなく外交問題として扱うべきであると駐日大使に訓電した。ようするに、戦後フランスにとって抵抗運動の記憶は特別な意味を持っていたのである。
さらに、フランス側の度重なる補償要求に対し、日本側は、バルベが裁かれた時、日本とフランスは戦争状態になかったと答えた(前述の通り、日本は「1944年8月25日」をフランスとの開戦日とした)。こうした解釈がフランス外務省の神経を逆撫でしたのである。フランスは同省の外交顧問に「1941年12月8日」が開戦日であると、あらためて確認を行い、日本側に補償を求め続けた。そもそも、再審査を受理した時点で、「連合国の国民」としてバルベ等を認めたはずであるが、この点日本では必ずしも見解がまとまっていなかったことがうかがえる。
日本の外務省としては、最高裁の判決を覆すことができるはずもなく、どうしようもないのが実情であった。フランス側では国際司法裁判所に案件を持ち込むなど、様々な強硬案も浮上したが、結局、粘り強く日本の外務省に働きかける方針をとった。懸命に、何らかの補償を求めるフランスと、消極的な日本という構図が続き、双方一歩も譲らない状態が続いた。
そのうち、自由フランスの元メンバー等は、両国の外務省を通じた交渉の手詰まり感に苛立ち、ド・ゴール、あるいは第5共和制の閣僚で、やはり自由フランスのメンバーであったフレ(Roger Frey)など、有力な政治家に働きかけるようになった。両者とも、この働きかけに応じ、とりわけフレの積極的な介入によって、フランス外務省は、事態打開に向けて日本側に再三対応を迫ったのである。
事態が動き始めるのは、1963年になってからだ。日本の外務省がフランス外務省の度重なる要請に応じるかたちで収束に向けた動きが行われた。結局、3名の自由フランスの元メンバーのうち、最後まで粘った1名のみが「救済」の対象になった。その人物に対し、戦時中に受けた「肉体的な苦痛」に対する補償として一定の金額を支払うことによって解決されるのだが、その際、日本側はいくつかの条件を付けた。まとめると次のようになる。第1に、この問題をこれで終わりとし、フランス側が国際司法裁判所への付託を含め、蒸し返さないこと。そして、第2に、日仏両国で、この問題を公開せず、秘密裡に収束させることである。
最大の争点は、講和条約の枠内でこの問題が解決されるか否かということであったが、結局、あらゆる制度的な枠組みからはずれるかたちで最終的な解決に至った。言うまでもなく、「戦後」の起点には「戦争」がある。しかし、その「戦争」の開戦日が「1941年12月8日」なのか、それとも日本側が主張した「1944年8月25日」なのか。自由フランスの元メンバーをめぐる問題は、この議論を深める絶好の機会であったが、そうはならず、一個人の問題として片付けることによって、その機会を逸してしまったのである。
消え去ってしまった「傷跡」
以上、戦後フランス外交史の一端を、日本との「戦争」というテーマに絞って見てきた。
戦後フランスは、戦時期の統治機構の正統性という重荷を背負いながら歩んできた。第二次大戦が始まって早々に敗れたことは、フランスの戦後国際政治における位置づけに大きな影響を及ぼしたといえよう。国際政治のなかで一定の影響力を確保したいという意志に、時として戦時期の「記憶」がそれを妨げる足枷としての役割を果たしたのである。賠償問題も講和問題も、フランスが、アメリカと対峙することによって、そうした敗北の記憶から立ち直るための機会の一つであった。だが、うまくいかなかったのが実情である。
戦後フランス政府は、長きにわたり、ヴィシー政府が統治した歴史から目を背けようとした。だが、いかなる国家にとっても過去から逃れることは難しい。フランスも例外ではない。
1995年7月16日、時のシラク(Jacques Chirac)大統領は、フランス史に残る演説を行った。1942年7月、ドイツの要請に基づき、ヴィシー政府は、フランスの警察を動員して国内のユダヤ人を拘束し、競輪場に集め、収容所に送った。ここに集められたユダヤ人は、最終的にアウシュヴィッツの強制収容所に送られた。これが、競輪場の名前の略称から由来するヴェル・ディヴ事件と呼ばれる惨劇だ。
戦後、ド・ゴールやミッテラン(François Mitterrand)など各大統領は、この事件を悲劇ととらえたものの、フランス政府としての責任は認めなかった。なぜならば、正統なアクターは自由フランスであり、ヴェル・ディヴ事件は、非合法、かつ非正統アクターであるヴィシー政府の行った行為であると解釈したからだ。
シラク大統領は、こうした視点を覆し、ヴェル・ディヴ事件におけるヴィシー政府の責任を「国家としてのフランスの責任」であると認めた。つまり、戦後フランス政府が何らかのかたちでヴィシー政府をフランス政府として認めるまで1995年を待たなければならなかったのだ。それまで、共和国臨時政府、そして第4共和制、並びに第5共和制の各政府は、長きにわたり、自由フランスの正統性神話に基づき、戦時期の歴史を解釈してきたのである[*4]。
[*4] むろん、フランスやその他の国家の知識人や歴史家がこのような解釈に同調したわけでは決してない。
日本における自由フランスの元メンバーの補償問題は、そうした神話がまかり通っていた時期に起こった。ようするに、フランスがこだわったこの問題は、自らの過去の記憶との葛藤の意味も含んでいたのである。あるいは、日本がフランスに負わせたとする「傷跡」を見ていくと、フランス自身が国家として抱えていた「傷跡」に辿り着くともいえる。
日本とフランスの戦後関係史に関する研究において、政治や外交がテーマになることは少なかった。実際、1973年9月にフランス外務省のアジア・オセアニア局で作成されたメモには、日仏政治関係が「無味、無臭であり、大した味がない」と独特の表現でまとめられていた[*5]。つまり、「戦争」の「傷跡」は跡形もなく消え去っていたのである。
[*5] Ministère des Affaires étrangères – La Courneuve, Asie, 1973-1980, Japon, vol. 2360, Note [a.s. Les relations politiques franco-japonaises], Paris, septembre 1973.
むろん、日本が隣国と抱えている「傷跡」と比較する気は毛頭ない。ただ、終戦直後からフランスが日本に関心を持ち、講和条約発効以降の日仏関係も、無味無臭であったわけではないということは強調したい。終戦後しばらく、フランスの対アジア外交戦略のなかに、日本要因はたしかに存在していた。そこでの日本は、政治性を帯びた脅威の対象であった。以上のようなことから、戦後フランスと日本との接点の歴史、あるいは関係史は、文化や経済にのみ還元できるものではなく、何ら問題のない「友好の歴史」としてまとめることは妥当ではない。
日本とフランスでは「傷跡」に対する解釈が違った。しかし、いかなる解釈をとるにせよ、戦後フランスが「戦争」の「傷跡」にこだわったことは確かであり、その「傷跡」を忘れることができなかったフランス人がいたことは確かである。
サムネイル「oasis:fade in-out」Lali Masriera
プロフィール
宮下雄一郎
松山大学法学部法学科准教授。2000年、慶應義塾大学法学部政治学科卒業。2006年、慶應義塾大学大学院法学研究科政治学専攻後期博士課程単位取得退学を経て、2008年、博士(法学)。2012年、パリ政治学院大学院博士課程修了(史学博士)。主要な邦語論文として、「戦争のなかの統一『ヨーロッパ』、1940‐1945年」、遠藤乾・板橋拓己編『複数のヨーロッパ‐欧州統合史のフロンティア‐』(北海道大学出版会、2011年)、「フランスの没落と欧州統合構想―再興に向けての模索(1940‐1946年)」吉田徹編『ヨーロッパ統合とフランス』(法律文化社、2012年)など。