2015.05.10

独ソ戦の戦場カメラマンに聞く――いかに戦争を撮ったか

国際 #SYNODOSが選ぶ「ロシアNOW」

独ソ戦の全期間を通じ、ソ連では計258人の戦場カメラマンが撮影に従事した。世界は、彼らの目を通して、当時のできごとを目の当たりにした。そのうち現在、ロシアで生存しているのはただ一人、95歳のボリス・アレクサンドロヴィチ・ ソコロフさんのみ。生き残りは、世界中を見渡してもあと一人しかおらず、その二人目のドキュメンタリー・カメラマンは、エストニアの首都タリンに住んでいる。ソコロフさんはロシアNOWへのインタビューに応じ、ナチス・ドイツの降伏文書調印がいかに撮影されたか、そもそも戦場カメラマンの仕事はどんなものだったか、などについて語ってくれた。(エカテリーナ・シネリチシコワ)

「5人に1人が死亡」

――すぐに前線に赴くことができたのですか?

1941年に大祖国戦争が始まったとき、私は21歳でした。戦時ということで、大学は繰り上げ卒業を実施し始めましたが、私はもう卒業実習をしていました。戦場の撮影班を編成し始めたのもその時です。私は前線にやってくれと頼み出しましたが、答えはいつも「ノー」でした。もちろん私は、経験豊かなカメラマンが優先的に送られることは承知していましたが、戦時下では、どっちにしろ、戦争の撮り方なんて、どこでも教えてはくれません。ドイツ軍には、戦場カメラマンの講習がありましたけど、ソ連にはありませんでしたから。

――では、あなたはどこに送られたのですか?軍に召集はされなかったのですか?

初めは、モスクワ郊外の防衛施設に送られ、その後はスタジオに戻り、さらにそのスタジオは、アルマ・アタ(当時はカザフ共和国首都)に 疎開となりました。友人のカメラマン、ミーシャ・ポセリスキーが一緒でした。2ヶ月ほどすると、彼は前線の撮影班に派遣されたというのに、私は疎開先に残されたので、前線にやってくれと、絶えず請願していました。

――なぜ前線に行くことがあなたにとってそんなに大事だったのですか?

国全体が戦っていたんです!「すべては前線のために、すべては勝利のために」というスローガンがありました。私はそれらの事件に直接身をもって参加したかったのです。残念ながら、戦場に行けたのはやっと1944年のことで、戦線はワルシャワに迫っていましたが、そこで3ヶ月膠着していたので、我々は軍隊の日常を撮影したんです。

――攻撃が再開されたときは怖くありませんでしたか?

そりゃ、恐怖はありましたよ。でも仕事に入ると、恐さなど忘れてました。 ソ連軍側の損害も大きかったですけどね。戦争の全期間を通じ、計258人のカメラマンが350万mに及ぶ35ミリ・フィルムを撮影しました。5人に1人が亡くなりました。撮影時には誰か掩護してくれたんですか、と聞かれることがありますが、掩護なんてありませんでした。我々だけで放置されていたのです。

袋の中のカメラ

――カメラは重かったですか?

あらゆる装備を含めると結構な重量になりました。当時はズームがなかったので、撮るモノの大きさによってレンズを取替える必要がありましたからね。カメラそのものは3・5キロくらいでした。それから、カセット式テープも持ち運ばねばなりませんでした。30ミリ・テープは15mの長さしかなく、時間にしてわずか30秒ほどにしかならなかったのです。

――テープが終わったら、取替えにどのくらい時間がかかりましたか?

それは暗い袋の中か暗室でやらなきゃならなかったのです。感光させないためですね。袋の中で替える場合は手探りでした。5~10分、時にはもっとかかりましたかね。

「友達にはなれなかった」

――撮影を許されないようなものは何かありましたか?例えば、退却とか。

撮るだけなら何でも撮れましたが、それがスクリーンに映されるかどうかは、検閲次第でした。ソ連が敗退を重ねていたときは、私はまだ戦場にいなかった訳ですが、友人たちの話だと、退却はほとんど撮影されなかったそうです。退却を撮ろうと試みたケースがあったことを私は知っていますが、兵士や避難民が止めてくれと頼みました。恫喝されることもしばしばありましたね。

――ソ連軍はベルリン市民にどんな態度をとりましたか?

ソ連では、この戦争で何らかの被害を受けなかったような家族は皆無だったでしょうから、誰もがドイツ人に対しては非常な敵愾心を燃やしていました。司令部は、憎しみの暴走を抑えねばなりませんでした。

―― 多少なりとも敵愾心を抑制することはできたのですか?

まあ、実際の関係そのものはほとんどニュートラルでしたが、もちろん、誰もがすぐに敵愾心を捨てられたわけではありません。それは当然のことです。皆がすぐに友人になれた、なんてことは言えません。我々は友達にはならなかったが、それでも軍は人々を援助しました。

事実の再現

――一番印象深い映像は何ですか?

もちろん、ナチス・ドイツの降伏文書調印です。私とポセリスキーは、ドイツの代表団の撮影を任されました。とくに私が驚いたのはカイテル元帥の態度です(*ヴィルヘルム・カイテルはドイツ国防軍最高司令部総長を務めていた――編集部注)。

――どんな態度だったのですか?

敗者ではなく勝者のようでした。政府首脳は、誰も来ませんでした。カイテルが調印した時は、この瞬間に戦争は終わったと思いました。誰もがほっとしていましたが、残念ながら、それは間違いでした。でも、私はこの時そんな気分だったのです。

「我々は黒と白で考えた」

――戦場ではご自身が撮られた映像をご覧になれなかったわけですが、戦後はどうですか?

見ましたが、ほとんど偶然のようなものです。それらの映像が映画に使われ出したときに、見ました。例えば、「大祖国戦争」――海外では「知られざる戦争」という題で公開されましたが――に、自分たちが撮った映像をいくつか見つけました。でも、自分では何も見ていません。

――アンドレイ・タルコフスキー監督の「僕の村は戦場だった」にも、あなたが撮られた、有名な断頭台の出てくる映像がありますね…。

あれは、ポーランドのポズナンの牢獄なんです。そこの或る部屋でこのギロチンを撮影しました。タルコフスキーがそれを使ったことも長いこと知らず、後で教えてもらいました。それで、そんなの撮ったなあ、と思い出した次第です。

サムネイル「Bundesarchiv Bild 101I-581-2072-16A, Italien, Fallschirmjäger, einer mit Filmkamera」Bundesarchiv

■本記事は「ロシアNOW」からの転載です。

 http://jp.rbth.com/society/2015/05/10/52845.html