2010.09.07
旧ソ連諸国の権力維持の構造
旧ソ連諸国の多くの国で目立つのが、自由の抑圧と権威主義的傾向である。
旧ソ連の権威主義的傾向
たとえば、世界各国の政治的自由度を測る上でしばしば言及されるフリーダム・ハウスの指標をみても、旧ソ連の自由の状況はきわめて由々しく、言論や信仰などの抑圧やメディアや政治的反対派への厳しい弾圧がつづいている。
旧ソ連の権威主義的傾向は多くの国でみられ、権威主義的指導者は彼らの権威を守るために自由の抑圧をしているといえる。
なお、権威主義とは、「限定された責任能力のない政治的多元主義を伴うが、国家を指導する精緻なイデオロギーを持たず、ただし特有のメンタリティーは持ち、発展のある時期を除いて、政治的動員は広範でも、集中的でもなく、指導者あるいは時に小グループが、公式的には不明確でありながら、実際にはかなり予測可能な範囲で権力を行使するような政治システム」である(旧ソ連についての権威主義についての詳細は、拙稿「アゼルバイジャンの権威主義の成立と変容」『国際政治』138号(2004年)を参照されたい)。
旧ソ連諸国の少なくない指導者が、ありとあらゆる手を使って、政治権力の維持を図っており、その手段も多様化してきた。そこで今回は、旧ソ連諸国の「権威主義的」といわれている指導者たちがどのような諸策によって、権力構造を長期、ないし永遠に維持しようとしているのかを各国別に概観し、その背景を考察したい。
ロシア ―― プーチン
ロシアでは、現在プーチン首相とメドヴェージェフ大統領の双頭体制が維持されているが、じつはプーチンが圧倒的な影響力をもっているという見解が強くもたれている。メドヴェージェフはプーチンに指名されて大統領になったが、メドヴェージェフは「つなぎ」とみなされる場合が多い。
ロシアでは、大統領の3選が禁じられており、大きな権力を握ったプーチンの2期目の期限が迫るにしたがって、ロシアの憲法を改正して、大統領の三選以上が認められるようになるのではないかとも予想されていたが、実際にはそのような憲法改正はなかった。
そこで、現在では、プーチンは自身に逆らうとは考えにくいメドヴェージェフを大統領に据えつつも、首相として実権を維持し、つぎの選挙でまた大統領になろうとしているのではないかとみられている。とくに、2008年11月に大統領の任期が延長される法案が下院を通過したことは、その予測を裏づける根拠とされた。
メドヴェージェフが同月5日の年次教書演説で大統領の任期延長(4年から6年へ)を提案すると、異例のスピードで憲法改正手続きが進められる一方、メドヴェージェフ本人は「自分には適用しない」と明言したのである。そのため、大統領の任期延長は、つぎに大統領に舞い戻るプーチンの長期政権のためのお膳だてではないかとみられている。
しかし、展望は複雑だ。なぜなら、メドヴェージェフ自身の再選への努力もみられるからである。たとえば、メドヴェージェフは、ロシア連邦を構成する民族共和国の大統領や州知事など、地方の首長には、新しく現代的な人材が絶対に必要で、若返りを進めなければならないと主張し、長らく在任している地方のトップの交代を推進する意向を8月30日のロシア国営テレビのインタビューで表明した。
地方の指導者は来年の下院選挙と2012年の大統領選挙を進める上で重要なカギとなるため、ロシアの「近代化」を進めているメドヴェージェフにとっては、地方の指導者の「近代化」を図り、自らの影響下にある人物をより増やせば、国民の印象もよくなり、集票も容易になる。一石二鳥なのだ。
また、反政府運動に対する当局の対応もソフトになり、それも今後の選挙対策ではないかとみられている。たとえば、モスクワ郊外の森林地帯を通ってサンクトペテルブルクまで建設される予定の有料道路の建設計画に対する抗議行動が最近、熱を帯びてきていた。環境保護派は森林破壊に反対し、人権活動家は政府が住民の声を無視したと批判したのだ。
以前であれば、こうした抗議行動は弾圧されたが、今回はプーチンが党首を務める統一ロシアが一部の建設準備の中止を求め、その数時間後にメドヴェージェフが中止の命令をだしたのである。このようなかたちを取れば、住民を納得させられる一方、住民の要求ではなく、与党の意見に配慮したということで、トップの体面も維持でき、一石二鳥である。つまり、それくらい現政権は次期選挙に対して敏感になっているといえる。
なお、専門家の多くは、この道路建設のためにすでに森林も伐採されており、ほとぼりが冷めたら予定通り建設は進められるのではないかとみているようだ。
ロシアでは、プーチンの権威主義体制がつづきそうだとする見解も多い一方、メドヴェージェフの動向も注目に値する。
ベラルーシ ―― ルカシェンカ
ベラルーシのルカシェンカ大統領は、1994年の大統領選挙で初代大統領に選出され、いまだにその座を維持している。彼は強権的手法もしばしば用いながら、市場化と民主化に逆行するような政策をとりつづけため、諸外国からはつねに批判を浴びており、「ヨーロッパの金日成」、「ヨーロッパの最後の独裁者」などと呼ばれてきた。
ルカシェンカは、2004年に国民投票を実施し、大統領の多選を禁じる憲法を改正、その結果、2006年の大統領選挙で3選をはたして現在にいたる。ベラルーシでは、あらゆる選挙や国民投票で、つねに種々の不正が行われているとみられており、それらが本当に民意を反映しているとは言い難いが、このままでは終身大統領ということにもなりかねないだろう。
グルジア ―― サアカシュヴィリ
2003年のバラ革命を機に大統領になり、現在2期目を務めているサアカシュヴィリは、就任直後は欧米諸国の覚えもめでたかったが、のちに権威主義的傾向を強めるようになった。最近では、自らの権力維持のためとみられる憲法改正を進めている。
具体的には、今年の7月にグルジアの憲法委員会は、大統領の権限の多くを議会や首相に移す新憲法案を起草したのである。しかも、新憲法案には首相候補の指名権を大統領から議会多数派に移すことも盛り込まれているようだ。なお、新憲法案を起草した憲法委員会はサアカシュヴィリの命令で1年前に創設されていた。
グルジアには大統領の連続3選禁止規定があり、サアカシュヴィリは2013年で退任しなければならないが、ロシアのプーチンのように、首相になり、首相の立場でそれまでの大統領と遜色ない権力を保持しようとしているとみられている。
当然、野党は強く反対しているが、与党は議会で新憲法案の成立要件とされる3分の2以上の議席を確保しており、承認される可能性はきわめて高い。よほど魅力的な対抗馬がでてこないかぎり、グルジアではサアカシュヴィリの強権が維持されそうである。
アゼルバイジャン ―― アリエフ
アゼルバイジャンでは、1993年に、ソ連時代からアゼルバイジャンのみならず、ソ連共産党においても中枢で活躍していたヘイダル・アリエフが大統領に就任してから、アリエフ一家による堅固な権威主義がいまにいたるまで維持されている。
ヘイダル・アリエフは大統領を2期務め、2003年の任期満了では、3選を可能にするような措置をとるのではないかとも目されていたが、2002年に息子への世襲を容易にするような憲法改正を行なった。そして、2003年の大統領選挙で息子のイルハム・アリエフが大統領に就任し、彼もまた権威主義を維持している。
なお、ヘイダル・アリエフは当初、2003年の大統領選挙にでる予定であった。アゼルバイジャンの憲法ができたのは1995年であり、ヘイダルが大統領に就任した時点では憲法が成立していなかったのだから、一期目には憲法規定は適用されないという解釈で出馬を正当化しようとしたのだ。しかし、体調悪化により選挙直前に出馬は取り消され、選挙直後の2003年12月に死去した。
アリエフは反対派を弾圧し、メディアや言論の統制なども厳しく行なう一方、国民からもそれなりの支持を得ているのに加え、国家経済のほとんどがアリエフ一家に牛耳られており、体制は盤石だ。
残る問題は制度的なことだけであった。そこで、2009年3月に、最長2期10年と定められている大統領の任期撤廃や、メディア規制などを含む改憲案の是非を問う国民投票が行われ、撤廃支持が92%(投票率は71%)に達した。改憲は可決され、旧ソ連で最初となった「世襲政治」が、無期限に継続する可能性が生まれたのである。
アゼルバイジャンでは、石油をはじめとした国家の重要産業がすべて大統領一家に握られており、イルハム・アリエフの妻のメフリバン・アリエヴァも国家の要職を歴任するほか、二人の娘と一人の息子も莫大な資産をすでに所有している。
なお、イルハム・アリエフの息子の名は、祖父と同じヘイダル・アリエフであり、生まれながらにして、国家権力の継承を目されているとみられている。このままいけば、まだ12歳のヘイダル・アリエフが次期大統領になる可能性は高い(ただし、ファーストレディのメフリバン・アリエフはアゼルバイジャンのヒラリー・クリントンといわれており、その美貌で国民の人気も高いことから、彼女が中継ぎの大統領になる可能性も否定できない)。
以前のトルクメニスタン ―― 故ニヤゾフ
トルクメニスタンでは、「前」大統領であったニヤゾフがきわめて堅固な権威主義、いや独裁といったほうが相応しい体制を維持していた。
1990年にニヤゾフは、国民投票によりトルクメン・ソビエト社会主義共和国大統領に選出され、ソ連解体後の92年6月にトルクメニスタン大統領に選出された。以後、まるでマンガのような究極的な個人崇拝体制を構築し、きわめて強力な独裁体制を固めていく。
93年には議会によりテュルクメン・バシュ(トルクメンの首長=国父の意味)の称号を授与され、99年12月には終身大統領と宣言された。なお、この際、ニヤゾフは「自分は終身大統領などにはなりたくないが、国民が強く望むので仕方なく引き受けた」というようなことを述べたという。そして、2003年からは国家最高機関である国民評議会議長も歴任した。
ニヤゾフは肖像や彫像を50メートルおきくらいに設置し、とくに大きなものはつねに太陽に向かうよう24時間360度回転する設計。またそれらは、つねに清掃が行き届いていたという。「ルフナマ」という自らの著書を必読の書とし、生徒に暗唱させていたほか、定時に電動でめくられる巨大なルフナメの像も設置されていた。
カレンダーの「月」の名前を自らの家族の名前などにしたり、自らが好きなメロンの祝日を設けたり、トルクメンの女性が外国人と結婚する際には「国父」であるニヤゾフに多額のお金を支払わねばならなかったり…と、異常な独裁の例は枚挙に暇がないが、天然ガス収入もあり、やりたい放題であった。
他方で、国民の言論や反対派への弾圧は激しく、政治犯の数も尋常ではなく、英語教育なども禁じられていた。ニヤゾフは「中央アジアの金日成」といわれ、欧米諸国から激しい批判を受けた。
2005年になると、ニヤゾフは「もうすぐ70歳になるから」と、自らは出馬しない大統領選挙を2009年に実施すると発表した。それはトルクメニスタンの憲法が、大統領の年齢を40~70歳と定めているからであったが、ニヤゾフは終身大統領を全うすると考えられていたために、この動きは大きな驚きをもって受け止められた。
国民評議会は「国父は二人必要ない」として、大統領選挙を行なわないことを発表するという理解に苦しむ動きもあった。結局、ニヤゾフが大統領の年齢規定を懸念する必要はなくなった。何故なら、2006年12月に66歳で急死したからであった。
なお、ニヤゾフに関し、評価できる点がひとつある。中央アジアではおなじみの地縁血縁を政治経済に持ち込むということをしていなかったことだ。そのため、ニヤゾフ死後に大統領に就任したベルディムハメドフは「脱ニヤゾフ化」に尽力しており、ニヤゾフの巨大な彫像や肖像画をはじめとしたニヤゾフの遺産を撤去したり、少しずつながら民主化や欧米を含めた多面的外交を進めたりと、物質的にも政策的にも正常な方向に向かっているといえそうだ。
ウズベキスタン ―― カリモフ
ウズベキスタンのカリモフ大統領の権威主義もかなり堅固であり、反対派や人民の弾圧はつねに欧米からの批判の的となっている。カリモフはソ連末期の1990年にウズベク・ソヴィエト社会主義共和国の大統領になり、ソ連解体後の91年末の大統領選挙で当選したが、以後、権威主義的かつ弾圧的な性格を強めていった。
95年には国民投票を行って、2000年まで大統領任期を延長。2000年に大統領に再選し、2002年には国民投票によって憲法を改正、大統領の任期が7年間に延長された。そして、2007年の大統領選挙でも再選され、現在に至る。国内では暴動なども数回起きているが、弾圧によって強権政治を維持している。
カザフスタン ―― ナザルバエフ
カザフスタンのナザルバエフ大統領も堅固な権威主義体制を維持しており、自らの娘も経済分野などでの実権を握っていることから、ナザルバエフ一家の暗躍がしばしば問題視されている。ナザルバエフはソ連末期の1990年にカザフ・ソヴィエト社会主義共和国の大統領になり、1991年末にカザフスタン共和国大統領に選出された。
権威主義的傾向を強め、95年には国民投票によって大統領任期を2000年まで延長。99年には大統領任期期限前に大統領選挙を行い、再選をはたした。この際、大統領任期は7年と定められていたが、2007年5月にカザフスタン議会は、「独立国家カザフの創始者」であるナザルバエフを終身大統領とする決議案を圧倒的賛成多数で可決してしまった。
ちなみに、同時に採択された憲法改正案では、大統領任期が7年から5年に削減され、大統領の3選禁止規定も残されたが、ナザルバエフを終身大統領にする決議のほうが上位にあるため、ナザルバエフにはそれらの規定は適用されない。
ナザルバエフは、議会により「人民英雄」という称号も与えられ、強権の度合いを増しているといわれ、カザフスタンでは国民による抗議行動などもみられないことから、この体制は当分盤石だと目されている。
以前のキルギス ―― アカエフ、バキエフ
キルギスでは、2010年4月に政変が起き、権威主義化していたバキエフ大統領が失脚したが、バキエフ自身もさらに5年遡る2005年の政変、いわゆる「チューリップ革命」で当時のアカエフ大統領が失脚したあとに、大統領に選出されていたという経緯がある。しかも、アカエフも最初は権威主義者ではなかった。
アカエフは、ソ連末期の1990年10月に発生したオシュ事件(南部のオシュで発生したウズベク人とキルギス人の間の衝突。2010年に起きた民族暴動の根ともみられている)に対する対応の失敗で失脚した、前キルギス共産党第一書記に代わり、キルギス大統領に選出され、ソ連解体後の1991年、95年、2000年にも再選された。
彼は、国家理念として民主主義を高らかに掲げ、国内における言論の自由を保障し、政権反対派の活動に対しても比較的寛容であった。さらに、98年には旧ソ連で最初にWTO(世界貿易機関)にも加盟をはたすなど、政治・経済の改革を進め、国際社会からも「中央アジアの民主主義の孤島」と、他の中央アジア諸国とは別格の評価を受けていた。
だが、1995 年以降、権威主義的傾向を示し始め、不正選挙を行なったり、北部と親族を重用する縁故主義を強めていったりするとともに、土地や様々な利権も掌握しはじめたことで、国内外からの批判が強まっていき、「チューリップ革命」にいたったのである。
野党指導者だったバキエフが大統領に就くも、政治・経済改革は進まず、議会内野党勢力との対立も激化して、政情不安定がつづいたが、バキエフは強権政治を強化し、家族や一族の汚職や利権の掌握、南部の重用が深刻化していった。
このようななかで、一般国民は、生活水準の悪化、大小の腐敗、権威主義的な抑圧に不満を募らせ、ついに2010年4月、バキエフ一族の汚職、公共料金の値上げなどに国民の怒りが爆発し、各地で暴動が起きた。結果、バキエフは失脚、亡命し、暫定政権が政権を奪取した。7月には暫定大統領であった、オトンバエワが正式の大統領になり(ただし、任期は2011年末までで、彼女は次期大統領選挙に出馬を許されていない)、民主化を推進しているところである。
タジキスタン ―― ラフモン
ソ連解体後、タジキスタンは激しい内戦を経験したが、ラフモン大統領はその内戦中にのし上がってきた人物である。内戦を終結させたことで、その手腕が買われたこともあり、1994年に大統領に就任した。最初は内戦を戦った反対派にも厚く配慮していたが、だんだん権威主義的傾向を強めてきた。
99年11月の憲法修正にともない、7年の任期で大統領に再選、2003年6月には憲法改正によって、2020年までの大統領任期の延長を可能にした。 なお、2006年11月6日の大統領選挙では3選をはたしている。ラフモンの権威主義政権も長くつづきそうである。
権威主義が馴染む傾向?
以上のように、欧米が推進する世界の民主化の趨勢に逆行し、旧ソ連諸国の多くでは権威主義的な傾向が目立ち、その状況はさらに悪化している。それは何故だろうか。いくつかの共通する傾向を提示したい。
第一に、ソ連解体の際、旧ソ連の有力知識人の一部が、権威主義こそが旧ソ連の政治に適合する政治体制であると議論し、それがかなりの影響力をもったという背景もあり、旧ソ連全体で権威主義が容認される傾向が強まったことがある。
第二に、旧ソ連諸国の民主化を考える際に、「欧米の民主主義が万能ではない」という議論が欧米で援用されたということもある。加えて、民主主義が最善の政治体制だということを現状では言い切ることができない以上、現在の民主主義は政治体制の発展過程の一段階であるかもしれないし、権威主義や非民主的な政治体制の終着点は決められないという議論もなされた。日本でも、旧ソ連の権威主義を開発独裁と解釈するなど、権威主義を肯定的にとらえる向きもあった。
このように、旧ソ連権威主義の進行が意識的に黙認されてしまった傾向もあるのである。実際は、旧ソ連では「緩慢な民主化」が進んでいるのではなく、一度は多少なりとも進んだ民主化が押し戻されるという状況があったが、その事実は無視されてきたといってよい。
第三に、いくつかのケースでは、国民が現在の首脳に不満をもっていながらも、その人物に代わりうる政治家や魅力的な野党が存在しないという事実がある。本稿では触れなかったが、プーチン登場前のロシア大統領であったエリツィンや、現在のグルジア大統領のサアカシヴィリなどがその例に該当するといえる。
第四に、かなり多くの場合、資源大国であることを指摘できる。ロシア、カザフスタン、アゼルバイジャン、トルクメニスタンは資源大国であり、ウズベキスタンもそれら四か国に比較するとかなりレベルは落ちるが資源を有する。
資源による国家経済の繁栄は権威主義の大きな助けとなる。多くの場合は、資源から得た収入は国家のトップのほんの一握りの層に握られるが、たとえば、トルクメニスタンのニヤゾフ大統領などは天然ガス収入をかなり国民に還元していたことも、彼の体制維持に役立ったはずである。
第五に、旧ソ連の住民には「権威主義を好む」者も多い。旧ソ連諸国が成熟するまでは「権威主義」も容認すべきだという意見が欧米諸国でみられたが、そうした意見は旧ソ連でもみられた。民主化の準備が整っていない、生まれたばかりの旧ソ連からの独立国家の分裂を防ぎ、国家建設を進められるのは強い指導者のみだ、という意見に同調する現地住民も多かったという。
たとえば、筆者がとくに専門とするアゼルバイジャンでは、多くの住民が権威主義をむしろ歓迎する傾向がみられる。
アゼルバイジャンでは、独立直後の1992~93年に、アブルファズ・エルチベイという非常に民主的な指導者が大統領となった。だが、彼の急激な民主化と親欧米・反露外交は、ロシアを激昂させ、ロシアがアルメニア支援にまわった。これによってナゴルノ・カラバフ紛争で大敗を喫しただけでなく、国内が大混乱に陥り、アゼルバイジャン人のあいだでは「民主化は幸せを導かない」という記憶が残ってしまった。
こうした民主化へのトラウマから、「民主的政治や自由を得るために生活の混乱を享受せねばならないのであれば、権威主義的指導者の下で安定的生活を保障されたほうがいい」と考える者が増えてしまっているのである。
このように考えると、少なくとも現在の旧ソ連諸国には、「権威主義」が馴染む傾向があるといえるかもしれない。だとすれば、旧ソ連諸国の民主化の道は平坦ではない。今後、度を過ぎた権威主義化や人権侵害については、何らかの国際的対応も必要となるだろう。
推薦図書
権力維持のための各国首脳の動きは現在進行中のものも多く、今回のテーマを網羅している書籍は、筆者が知るかぎり、日本語文献はもちろん、外国語文献でもない。そのため、今回のテーマの一部となってしまうが、ロシアの事例をあつかう書籍を紹介し、本問題の理解の一助となることを期待したい。
本書は、無名だったプーチンがどのように権力を奪取したか、ロシアの民主化はなぜ停滞しているのか、ロシアの政治経済、外交とトップとの関係などを分かりやすく解説した良書である。
本書を読めば、ロシア大統領としてプーチンがどのようにのし上がり、権力を維持しているのか、そしてその背景にあるロシアの国際社会や国内情勢がいかなるものなのかがよく理解できるはずだ。現在のロシアはメドヴェージェフ大統領とプーチン首相の双頭体制であるとはいえ、プーチンがより大きな権力をもっていることについては、まず間違いなく、本書が提供するロシアの権力構造は現在でも通用するはずだ。
プロフィール
廣瀬陽子
1972年東京生まれ。慶應義塾大学総合政策学部教授。専門は国際政治、 コーカサスを中心とした旧ソ連地域研究。主な著作に『旧ソ連地域と紛争――石油・民族・テロをめぐる地政学』(慶應義塾大学出版会)、『コーカサス――国際関係の十字路』(集英社新書、2009年アジア太平洋賞 特別賞受賞)、『未承認国家と覇権なき世界』(NHKブックス)、『ロシアと中国 反米の戦略』(ちくま新書)など多数。