2015.08.05
「集団的自衛権の歴史」を一気に学ぶ
国連PKO上級幹部として、東ティモール、シエラレオネの戦後処理を担当。また日本政府特別代表としてアフガニスタンの武装解除の任に就き、「紛争解決請負人」「武装解除人」として、戦場でアメリカ軍、NATO軍と直接対峙し、同時に協力してきた東京外国語大学教授の伊勢崎賢治氏。日本人で最も戦場と言う名の現場を知る氏が昨年刊行した本『戦場からの集団的自衛権入門』の中から、重要な部分を引用する。(構成 / 編集集団WawW ! Publishing 乙丸益伸)
最初は禁じられていなかった「集団的自衛権」
ここでは、安倍政権“以前”、「集団的自衛権」がどのように扱われてきたかについて詳しく説明しましょう。
これまで、憲法9条をめぐる自衛権の解釈は、日本の安全保障環境の変化に伴い、絶えず変容してきました。憲法の制定当初、政府は憲法9条がいっさいの武力行使を放棄しているとし、「個別的自衛権」の行使すらも認めない姿勢でした。
1946年6月、帝国憲法改正案が審議される中、吉田茂首相は「自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものだ」と主張しています。
ところが、1950年に朝鮮戦争が勃発し、アメリカ軍の主力がそっちにとられ手薄になった日本が、東西冷戦の脅威にさらされると風向きが変わります。
朝鮮戦争は、第二次世界大戦終結直後、北側がソ連、南側がアメリカの占領下にあった朝鮮半島での、米ソの代理戦争と言う側面もあった攻防ですが、後に中国が北朝鮮に加勢し、53年7月の休戦協定調印まで続きました。この時の休戦協定により、北緯38度線と斜めに交わる軍事境界線(休戦ライン)が設定され、これが現在の韓国と北朝鮮の事実上の国境となり、南北の分断が固定化しました。
「集団的自衛権」の憲法における解釈について、初めて日本の国会で言及されたのは、この朝鮮戦争の最中の1951年、西村外務省条約局長の国会答弁の中においてです。
「集団的自衛権というものは一つの武力攻撃が発生する、そのことによってひとしくそれに対して固有の自衛権を発動し得る立場にある国々が、共同して対抗措置を講ずることを認めた規定であると解釈すべきものであろうと思うのであります」【出典:西村局長(第十回国会衆議院外務委員会議事録第六号)】
ただ、この時点でも「集団的自衛権」について説明するに留まり、日本国憲法との関係は明らかにされていませんでした。
しかし同年11月7日、ついに日本国憲法における「集団的自衛権」の解釈が登場します。
「日本は独立国でございますから、集団的自衛権も個別的自衛権も完全に持つわけでございます、持っております。併し憲法第九条によりまして、日本は自発的にその自衛権を行使する最も有効な手段でありまする軍備は一切持たないということにしております。又交戦者の立場にも一切立たないということにしております。ですから、我々はこの憲法を堅持する限りは御懸念のようなことは断じてやってはいけないし、又他国が日本に対してこれを要請することもあり得ないと信ずる次第でございます。」【出典:西村局長(第十二回国会参議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会会議録十二号)】
「日本は集団的自衛権の権利を保有しているけれど、日本国憲法で使うことを禁じられている」。日本国憲法の公布から実に5年の月日を経て、ようやく原点ともいえる「集団的自衛権」の解釈が確立したのです。その後60年以上にわたり、この解釈が固定化されてきました。
一方の「個別的自衛権」に関しては、朝鮮戦争の休戦協定締結の1年後、54年に日本で自衛隊が発足したことを受け、当時の大村清一防衛庁長官が「自国に武力攻撃が加えられた場合に国土を防衛する手段として武力行使することは、憲法に違反しない」とし、その行使を認めました。
守られ続けた集団的自衛権行使禁止の解釈憲法
集団的自衛権の解釈を確立した後、日本国政府は長きにわたり、「憲法で禁じられている」として、集団的自衛権の行使を許さない姿勢を堅持してきました。
以下、集団的自衛権における歴代の首相の発言をまとめてみました(各発言は、2014年7月1日の時事ドットコムより引用)。
◎1960年3月安倍晋三首相の祖父・岸信介、国会での答弁
「特別に密接な関係にある国が武力攻撃された場合に、その国まで出かけて行って防衛するという意味における集団的自衛権は、憲法上は日本は持っていない」
◎1972年10月田中角栄、集団的自衛権の行使は憲法上許されないとの見解を表明
「憲法が自衛のための措置を無制限に認めているとは解されない。その措置は必要最小限度の範囲にとどまるべきものだ」
◎1981年5月鈴木善幸、答弁書に明記
「集団的自衛権行使は、その(必要最小限度の)範囲を超えるものであって、憲法上許されない」
このように権利としては持ってはいるけれど、あくまでも使うことができないと解釈されてきた集団的自衛権。では、一体どのような過程を経て、その解釈に議論が生まれてきたのでしょうか。
集団的自衛権とアメリカとの関係
集団的自衛権の問題は、アメリカとの関係に左右されると言っても過言ではありません。つまり、アメリカに国際的な事件が起きるたびに、日本は集団的自衛権の解釈について頭を悩ませてきたのです。決定的な事件は、ご存知2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロですが、そこに至るまでにも、アメリカと日本の間には何度も転機が訪れました。
では、これまでアメリカがどのような行動を起こし、日本はどのような対応をしてきたのかを、二国の関係性も含めて振り返ってみましょう。(略)
世界的には当初、集団的自衛権がどのような過程で行使されてきたかがよく分かる事例といえば、1979年に起きたソ連のアフガニスタン侵攻です。
当時のアフガニスタンで政権を持つ政権党であったアフガニスタン人民民主党は、ソ連の支援を受けている共産主義政権でした。しかし、この政権党に対する反乱がアフガニスタンで頻発したことにより、共産主義政権の維持が怪しくなってきました。その時、アフガニスタン人民民主党を助けるという名目で軍を送り込んだのが、同じ共産主義を掲げるソ連でした(ソ連によるアフガニスタン侵攻)。
ソ連によるアフガニスタン侵攻は、「共通の共産主義思想を持つ隣人たるアフガニスタン(=アフガニスタン人民民主党)が、ソ連に助けを求めたため、ソ連は集団的自衛権を行使する」という名目で行われたものでした。つまり、ソ連軍がこの時アフガニスタン国内に入ってきて、軍事行動を行う根拠としたのが、集団的自衛権という考え方だったのです。
1980年代前半は、ソ連軍が優位を保っていました。しかし、反政府イスラム教徒ゲリラ(ムジャヒディン)は、同じくイスラム教国である隣国パキスタンの政府を通してアメリカやアラブ諸国の援助を受けたことで力をつけ、戦闘は長期化。後の1988年4月のアフガニスタン和平協定が結ばれ、翌年2月にソ連軍は完全に撤退しました。
その後、アフガニスタン人民民主党は3年以上政権党の座にいましたが、1991年末にソ連解体が起きたことで、ソ連からの支援が終了。力を失い、1992年4月に、ムジャヒディーン9派の連合のイスラム教徒たちによる暫定政権の発足に至りました。
このアフガニスタンの顛末は、後のアメリカ同時多発テロにつながっていくのですが、いずれにしても、当時ソ連は国連の五大国、すなわち常任理事国の一角を占める国でした。責任を持った地位にいるわけですから、いかにソ連といえども国際法を無視して、一方的にアフガニスタンに攻め込むことはできません。
しかも国連は、常任理事国のうち一国でも反対すれば、他の全理事国が賛成しても、その議案は否決される「大国一致の原則」をとっています。そのため、もしソ連が国連にアフガニスタンへの侵攻を申請しても、アメリカが反対して否決されるのは目に見えていました。
そこで、ソ連がアフガニスタンへの侵攻を正当化するために持ち出された概念が、「集団的自衛権」だったのです。これが、大国が安保理の決議を経ずに集団的自衛権を行使した、最初の例となりました。
象徴的出来事となった湾岸戦争
その後、集団的自衛権の運用において象徴的な出来事になったのが、1991年1月に起きた湾岸戦争です。
石油の問題と領土問題で、隣国クウェートと揉めていたイラクのサダム・フセイン大統領は、1990年8月にクウェートに攻め込みました(クウェート侵攻)。これに対し、国連安保理は、イラクに対して経済制裁を決議すると同時に、1991年1月15日までに、イラクがクウェートから無条件で撤退することを求める決議を行います。しかしフセイン大統領はこれを拒否。同年1月17日に、アメリカを代表とする多国籍軍は、イラクに対する空爆とミサイル攻撃を開始しました(砂漠の嵐作戦)。
このことにより始まったのが湾岸戦争です。後にイラク軍は敗走し、イラクは4月6日に停戦に合意しました。
国連安保理は、イラクのクウェート侵攻を、イラクによるクウェートの「侵略」だと受け取りました。つまり湾岸戦争は、国連憲章成立後、初めて国連が主導して国家(イラク)を叩く戦争になったのです。
ソ連のアフガニスタン侵攻は、国連の決議がなかったわけですから、国連的措置ではなく、集団的自衛権に基づく行動でした。対して湾岸戦争は、国連安保理の決議が出ていたため、国連的措置――すなわち国連が旗を振り、有志連合が戦争をした最初の例になりました。
※「集団的自衛権」と「国連的措置」の違いについては、「安保法制について考える前に、絶対に知っておきたい8つのこと」の「1.集団的自衛権と集団安全保障は明確に違うもの」(https://synodos.jp/international/14646)参照(構成者注)
その背景には、当時のジェームズ・ベーカー米国務長官の獅子奮迅の働きがあったといいます。彼は、武力行使に向けた国連の決議を得るため、シャトル外交と呼ばれるほどの勢いで、各国への交渉、根回し、説得活動を行っていったのです。そして1990年11月、安保理議長のポストがアメリカに回ってきたタイミングで、すかさず「武力行使容認」の決議案を通したのです。
本来、国連憲章の精神から言えば、攻められている国であるクウェートの個別的自衛権と、近隣諸国――例えば隣国であるサウジアラビア――とクウェートの共同による集団的自衛権が行使された後、必要であれば国連安保理が決議をし、国連的措置を取るのが国連憲章の上で一番わかりやすい形です。
つまり本来は、自衛権の行使と国連的措置の決議には若干のタイムラグがあるのが概念上一番分かりやすい姿です。しかし、湾岸戦争開始時には、そのタイムラグがありませんでした。ご近所でなくてもフセイン政権をやっつけたい有志連合を含めた集団的自衛権の発動と、国連的措置の決議が一体化して行われる最初の例になったのです。
全世界が協力して悪魔のような国を叩き潰すという、国連主導の戦争が、ここから始まりました。
これはいわば、国連が自ら集団的自衛権を行使したようなもので、国連的措置と集団的自衛権の限りない接近が始まった瞬間でした。とはいえ、アメリカがやるんだと言っている以上、誰もその動きを止められるものではありませんでした。
1991年、ペルシャ湾に掃海艇派遣湾岸戦争に際して、日本は130億ドル(約1兆7千億円)もの資金協力を行いましたが、お金を出すだけでは足りないと判断した日本国政府は、湾岸戦争後の1991年に、自衛隊法第99条に基づく措置としてペルシャ湾に掃海艇を派遣することを決定しました。
この時の自衛隊派遣の法的根拠は、「公海上での作業になるので、海上自衛隊による通常業務であるため問題はない」という解釈でした。「自衛隊を敵と見なす勢力は誰もいない」、「フセインがボコボコにされ、生物化学兵器や弾道ミサイルの破棄、国連の査察の受け入れなどの停戦の条件を呑んだ後だから、戦争時ではなく平時である」、「だから、自衛隊の派遣は、集団的自衛権や国連的措置の武力行使云々を当てはめる状況ではなく〝通常業務〞である」としたのでしょう。
そして、掃海する地域に含まれるすべての沿岸諸国――クウェートとイラクはもちろん、イランなど――からも正式な合意を得て、自衛隊は活動を開始したのです。これは「湾岸の夜明け作戦」と呼ばれ、自衛隊創設以来、初めての海外実任務の事例になりました。
ヨーロッパ勢は同年7月に引き上げましたが、日本とアメリカは協力して掃海作業を継続。派遣から約三ヶ月半で、イラクの敷設した1200個の機雷はすべて処分されました。(略)
なぜ自衛隊を海外に派遣したのか?
自衛隊の人たちは、よく働きました。日本国政府も、国際的な評価が上がりうれしかったことでしょう。それではそもそも、それまで海外への自衛隊の派遣を行ってこなかった日本が、なぜこの時は自衛隊を海外に派遣したのでしょうか。
当時は、現在の日本以上に、自衛隊の海外派遣に対する国民の反対の声が大きい時代でした。自衛隊が海外に行くことを、第二次大戦中に日本が諸外国を侵略していった像と重ねて見る人が多かったからです。(略)
さて、ペルシャ湾に自衛隊を派遣した当時、日本国内の世論はどうなっていたのでしょうか。興味深いのは、1991年6月23日の毎日新聞の朝刊に掲載された記事とデータです。
毎日新聞のこの記事によれば、「戦後、国民の目を自衛隊の『海外派遣』に向けさせたのは一九八三年(昭和五十八年)一月の中曽根内閣が最初であった。(略)このとき、PKOの強化が検討された。この直後の十一月に本社は初めて『自衛隊の海外派遣(PKO)』についての世論調査を実施した。結果は『ノー』が七割を占めた」とされています。
つまり、湾岸戦争が起こる8年前までは、自衛隊の海外派遣は、日本国内で強烈にタブー視されていたのです。
続いてこの記事は、「このあと海外派遣の問題が表面化したのはイラクがクウェートに侵攻した昨年八月(筆者注:1990年8月)から秋にかけて。小沢自民党幹事長を中心に進めた『国連平和協力法案』である。自衛隊の海外派遣を盛り込んだ同法案について、本社は同十月に電話調査で賛否を問うた。結果は『賛成』はわずか一三%で『反対』が五三%に達した。(略)国民の拒否反応にあって同法案は翌月廃案になった」と報じています。
イラクのクウェート侵攻
〝当時〞はまだ、日本国民の半数以上は自衛隊の海外派遣に反対していたことになります。その空気が変わってきたのが、湾岸戦争突入〝後〞のことです。
同記事では、「ところが、湾岸戦争突入後、自衛隊の海外派遣に関する国民の意識は大きく右旋回を始める。それを端的に示すのが今年三月(筆者注:1991年3月)の避難民輸送のための自衛隊機派遣調査で、『賛成』(「どちらかといえば賛成」を含む)が四八%にまでせり上がり、「反対」(「どちらかといえば反対」を含む)は四七%で、ごくわずかだが賛成が反対を上回った」と報じています。
また、その変化の理由として、「湾岸戦争で日本は欧米諸国などから『カネは出すが人的貢献や軍事的協力はしない』と批判されたが、これに応えようと国際貢献の道を探す日本人が自隊機派遣にも理解を示した」としているのです。
ペルシャ湾への自衛隊派遣に対し、国民に容認姿勢をとらせた発端は、欧米諸国からの「カネは出すが人的貢献や軍事的協力はしない」という外圧があったためとされています。
つまり、湾岸戦争の最中に、(略)日本が、湾岸戦争終了後に海外に自国の軍隊(日本は自衛隊)を派遣するきっかけになったのは、海外の外圧だった(とされていた)のです。(略)
湾岸戦争のトラウマ
こうして(その後のPKO協力法成立とPKOへの自衛隊派遣含め;構成者注)、自衛隊の海外派遣へと突き進んできた日本国政府ですが、そのモチベーションは、本当に、一般的に報じられている通り、「日本が国際貢献をするため」というものだったのでしょうか。
そもそも、国民の側も、湾岸戦争以降の外圧に押される形でなし崩し的に自衛隊の海外派遣を容認してきたという歴史があります。ですから当然、政府の側にも、様々な思惑があったのです。
一番大きかったのは、外務省側の思惑で、外務省自身が「湾岸戦争のトラウマ」と呼んでいるものです。この説明は、湾岸戦争当時の海部内閣で、首相の演説担当・国会担当の内閣副参事官として官邸にいた、江田憲司さん(元「維新の党」共同代表、当時通産官僚)の2007年10月22日のブログの記事が詳しいので、一部引用します。
「湾岸戦争の時には130億ドルもの支援をしながら「汗をかかない」と批判されたと、「湾岸戦争のトラウマ」をことさら強調する論者も多い。しかし待ってほしい。「湾岸戦争のトラウマ」を言うなら、私も、その当事者の一人である。当時は海部内閣であったが、私は総理の演説担当・国会担当(内閣副参事官)として首相官邸にいた。(略)
確かに「カネだけ出して汗をかかなかったから」日本は批判されたのだ、と言うのは、当たっていないことはないが、多分に以下のような特殊事情があったことに留意すべきである。
(略)実は、この「湾岸戦争のトラウマ」とは、直接的には、当事国のクウェートが戦後出した米国新聞の感謝広告に「JAPAN」がなかったというコンテクストで使われるのだが、しかし、これも考えてみれば当たり前のことなのだ。
実は、90億ドル支援(当時のお金で約1兆2000億円)のうち、クウェートに払われたのはたった6億円だったという事実を知らない人が多い。1兆円以上のお金は米国のために支出されたのだ。クウェートの首長は石油王で、イラクがクウェートに侵攻している間は、実は隣国のサウジの超高級ホテルのスウィートルームで優雅な生活を送っていた。その石油王にとって6億円程度は「はした金」にすぎないわけだから、感謝しようにもその気がわいてこないのは、ある意味しょうがないことなのだ。
言いたいことは、「湾岸戦争のトラウマ」を例にあげながら、しきりに「お金だけではだめだ」「汗をかけ」「自衛隊を出さなければ」と言っている人には、背後に、こうした事情、経緯があったことを知った上で発言してもらいたいということだ。「おカネ」は決して卑下すべき貢献策ではない。時と場合によっては、効果てきめん、感謝される貢献策となりうることも肝に銘じておくべきであろう。」
また、東京新聞の編集委員である半田滋さんは、東京新聞の2007年8月22日のウェブ上の記事で、元政府高官に取材し、次のような記事を書いています。
「あれは外務省のミスだ。戦費の大半を日本が負担をしたことをクウェートに説明しなかった。人的貢献をしなければ、世界的に評価されないというのは間違いだ」と元政府高官はいう。
つまり、外務省と、自衛隊の海外派遣を推進したい政治家の言う「湾岸戦争のトラウマ」とは、外務省によるミスであり、アメリカからのメッセージの背後にある本心を読み違えた思い込みだったのです。
そして半田滋さんは、東京新聞の同じ記事の中で、次のようにも報じています。
国連平和維持活動協力法が九二年六月に成立した。殺し文句として自民党が何度も使ったのが「湾岸戦争のトラウマ」という言葉である。それから九年。二〇〇一年九月の米中枢同時テロ直後、外務省は「湾岸戦争のトラウマを繰り返してはならない」と主張。インド洋に海上自衛隊を派遣するテロ特措法は、一カ月の国会審議でスピード成立した。自衛隊をイラクに派遣するイラク特措法の国会審議でも「湾岸戦争のトラウマ」が語られた。(略)自衛隊の海外活動を拡大するエネルギー源としての命脈を保ち続け、ついに昨年十二月には自衛隊法が改正されて海外活動が本来任務化された。“魔力”は健在なのだ。
このように、湾岸戦争以降、頻繁に行われてきた自衛隊の海外派遣は、外務省が「湾岸戦争のトラウマ」と呼ぶ勘違いによってもたらされてきたものなのです。(略)
15歳の少女の涙の捏造
さて、そういった形で、自衛隊の海外派遣の大きな糸口となった湾岸戦争ですが、開戦ムードが高まるこの時、アメリカ国民自体が、まんまとプロパガンダに乗せられていたという有名な話があります。1990年10月10日、アメリカ連邦議会下院の人権議員集会において、「ナイラ」という15歳のクウェート人の少女が、クウェートに侵攻したイラク軍を告発しました。これは現在、「ナイラの証言」と呼ばれています。
この時、ナイラは、ボランティアをしていたクウェート内の病院で、「乱入してきたイラク軍兵士たちが、盗賊と化し、高価な保育器を奪うために、新生児を次々と床に投げ捨て、放置し、そのまま死なせたのを見た」と涙ながらに証言しました(この証言の様子は、今もYou Tubeなどで確認できます)。
当時のクウェートは、イラクの占領下にあったため、海外のメディアが入れませんでした。そのため「ナイラの証言」は強い信憑(しんぴょう)性と新奇性を持って国民に受け止められました。(略)その結果――当時、イラクのフセイン大統領が国際社会に唾を吐くような言動を行い続けていたこととも相まって――、開戦の準備を着々と進めるブッシュ大統領の支持率が上昇していったのです。
「ナイラの証言」から約3ヶ月後の1991年1月17日、湾岸戦争が始まります。アメリカ軍は大規模な空爆を行い、多国籍軍がイラクに進軍し、イラク軍を簡単に壊滅させました。イラク政府の発表では、イラクの戦闘員の死亡者数は2万人以上にのぼり、一般市民に2278人の死亡者が出たとしています。
何万もの死者を出すことになった湾岸戦争を、強く後押しした「ナイラの証言」。(略)ところが、湾岸戦争が終結した後、クウェートでメディアの検証が始まると、この証言が捏造されたことが判明するのです。
「ヒル・アンド・ノウルトン」というアメリカの広告代理店が、クウェート大使館が立ち上げた「クウェートの自由のための市民運動」というNGOと契約して仕組んだものだったのです。イラク兵士が保育器を奪ったことも、新生児を死なせた話も確認できなかったばかりか、ナイラには別の本名があり、彼女は、クウェート駐米大使の娘であることが暴露されました。
そのように〝仕掛けられた〞湾岸戦争を発端に、日本の外務省の勘違いが起こり、日本はその後、次々と海外への自衛隊派遣の実績を積み重ねていくことになるのです。
アメリカ911テロ事件とイラク戦争
そうして徐々に自衛隊の海外派遣を増やしているこの時期、世界を一夜にして震撼させる悪夢のような事件が起こりました。そう、2001年9月11日、アメリカで航空機を使った4つのテロ事件――アメリカ同時多発テロの発生です。
この事件によって、ワールドトレードセンター(世界貿易センタービル)が倒壊し、日本人を含む3000人以上の死者が確認されました。前代未聞のテロ事件は全世界に衝撃を与え、アメリカ軍は後にアフガニスタン戦争を引き起こすことになります。
テロを首謀したのは、ウサマ・ビン・ラディン率いる国際テロ組織アルカイダでした。そして2003年、アメリカを中心とする多国籍軍が、再度イラクに侵攻。〝子〞ブッシュ大統領のイラク戦争が始まりました。
この時の侵攻の理由は、イラクが、かつての湾岸戦争の停戦条件だった大量破壊兵器廃棄の義務を果たしていない疑いがあり、後の国連による査察への妨害を続けたこと、また、サダム・フセイン大統領が、アルカイダを支援している疑いがあるためとされました。作戦名は「イラクの自由作戦」。
サダム・フセインといえば、先の湾岸戦争時にも大統領だった男です。敗走したフセインは2003年12月に拘束されると、イラク法廷により、1982年にシーア派の住民を大量に殺害したという罪に問われ、2006年12月に死刑に処されます。
イラク戦争自体は、2011年12月に、イラク駐留米軍部隊の完全撤退によって終結しました。
法治国家としての正しい振る舞い
日本国内では、アフガニスタン戦争とイラク戦争時の自衛隊の海外派遣について、「アメリカに協力せざるを得なかったのでしょうがなかった」、「自衛隊を出さない道はなかった」という意見がいまだに根強いことでしょう。しかし、この2つの戦争は、そもそもアメリカ側と日本側、双方にとって問題の多い戦争でした。
アフガニスタン戦争時、日本はインド洋に海上自衛隊を派遣し、給油活動を行いましたが、そもそも法治国家である日本において、この行動の論拠は――世界的に見ても――大変に苦しいものでした。当時私も、知り合いの外国人研究者や同業者に、日本が自衛隊を派遣する法的根拠について問われて、説明に困ったことを覚えています。なぜかといえば、この時の自衛隊の給油活動は、NATOによる「集団的自衛権」を根拠とした軍事作戦の下部作戦だったからです。
当時、アフガニスタンでは、アメリカ主導による2つの軍事作戦が展開していました。ひとつは、通称OEF(不朽の自由作戦)。アルカイダと、それをアフガニスタンでかくまっていたタリバン(当時アフガンで政権を握っていた軍閥組織)を「世界の敵」であるとして叩き潰すための作戦です。
この作戦はそもそも、同時多発テロを「戦争」であると見なしたアメリカが、自国の防衛のための「個別的自衛権」を国際法上の根拠として行った報復攻撃でした。そして、即座にアメリカを含むNATOが「集団的自衛権」を発動させたのです。つまり、OEFは、アメリカとその有志連合による集団的自衛権の行使だったのです。
もうひとつ、アフガニスタンに展開する軍事作戦は、通称ISAF(国際治安支援部隊)です。これは、OEFによりタリバン政権を(一応)打倒し、隣国パキスタン国境へ追い出した後に発動されたもので、焦土と化したアフガニスタンに安定した民主国家をつくるべく、治安維持のお手伝いをすることを目的とした多国籍軍の作戦です。
ISAFは、「世界益」のために行われる「国連的措置」として発動されました。そのため、アフガニスタンに関係のない、例えばアフリカの小さな国々にも――国連加盟国である限り――参加を呼び掛けるものでした。
※「集団的自衛権」と「国連的措置」の違いについては、「安保法制について考える前に、絶対に知っておきたい8つのこと」の「1.集団的自衛権と集団安全保障は明確に違うもの」(https://synodos.jp/international/14646)参照(構成者注)
集団的自衛権を根拠とするOEFによってタリバン政権は崩壊しました。当然、「自衛」のために、相手国政府をこんなにボコボコにしてもいいのかという国際的な非難もありますが、世界を震撼させた同時多発テロの首謀者の片割れを倒したということで、その声はかき消されます。
そして、この報復戦争(集団的自衛権の行使)であるNATOのOEFの一部として、その時日本の自衛隊が担っていたのが、インド洋上のテロリストの行動を阻止するOEF–MIO(海上阻止作戦)だったのです。
OEFは自衛のための戦争ですから、とても攻撃性の強い作戦であることは自明です。にもかかわらず日本は、「後方支援」という言い訳をしながら、加盟もしていないNATO(軍事同盟)の集団的自衛権の行使(OEF)に参加しました。それも、憲法第9条があり、集団的自衛権の行使を禁じている国家であるにもかかわらず、です。果たして、それは、責任ある法治国家の取るべき行動だと言えるものだったしょうか。
確かに、国連は「テロとの戦い」について、全世界が一丸となって〝対処〞しなければならないという安保理決議を出しています。しかし、OEFはあくまで「集団的自衛権」の行使なのです。「国連主義」を掲げている日本ならば、国連が世界益のために行う「国連的措置」であるISAFに、「後方支援」として参加すれば、それまでの日本の〝慣習〞の上でも、そして法的な議論の上でも、なんとか説明がついたかもしれません。
もちろん、「洋上のガソリンスタンド」と揶揄された海上阻止作戦に比べれば、陸上でテロリストに直接対峙しなければならないISAFは格段に危険です。しかし、ここで私が問うているのは、日本の法治国家としての振る舞い方の話なのです。
米中露英仏の五大戦勝国が、二度と第二次大戦のようなものを繰り返さないようつくりあげた国際連合という国際的な枠組みの中において、他国への武力行使を行う場合、(中国やロシアを含む五大国自身を含め)責任ある加盟国に常に求められるのは、〝それが言い訳であっても〞、(国連憲章、安保理決議を含む)「国際法上の法的根拠」です。問われるのは、その武力行使の「法的根拠は何か」であって、「安全かどうか」ではないのです。
おかしな点はそれだけではありません。百歩譲って、仮に日本が集団的自衛権に参加するとしたら、日本自身も「脅威を共有」していなければならないはずです。国内に多数のムスリム(イスラム教徒)を抱えるNATO諸国には、「いずれ急迫不正の侵害の脅威が及ぶ可能性がある」という理由があります。ところが、当時、日本に「急迫不正の侵害の脅威」と定義できることは何一つ起こっていませんでした。これは、完全に日本国憲法からの逸脱行為でした。
集団的自衛権の行使が認められていないのに、「後方支援」を言い訳に行使を実行し、あまつさえ、集団的自衛権の行使の条件からも外れていたのです。二重のハードルを「特別措置法」で易々と超えた、日本国政府のウルトラCです。
しかし、日本国内でそのことを指摘する人は、マスコミ含めてほとんどいませんでした。しかも、この時、日本を“実質的な”集団的自衛権の行使に突き動かした動機の根源にあったのは、すでにご説明したとおり、「湾岸戦争のトラウマ」だったのですから。これは情けないと言われても仕方のない有様なのです。
噓と勘違いにまみれた戦争
一方、2003年7月のイラク戦争の時には、日本はイラクの復興支援を行うべく自衛隊派遣を合法化するための法律として、「イラク復興支援特別措置法」を成立させました。4年間の時限立法で、自衛隊による人道復興支援活動と、安全確保支援活動を目的としたものです。活動の範囲は、非戦闘地域に限定されていました。
イラク戦争は、アフガニスタン戦争よりもさらにひどいものだったといえます。なぜなら、この時、イラクに侵攻するためのアメリカの集団的自衛権行使に対し、国連安保理の決議は出なかったからです。つまりイラク戦争は、国連安保理と、その他の国連加盟国を二分し、NATO加盟国をも二分した、アメリカのエゴ丸出しの戦争だったのです。
「アメリカがイラクに侵攻する正当性はない」と判断した(イギリス以外の)諸外国の判断は賢明なものでした。国連常任理事国では、フランスとロシア、中国が反対し、ドイツも反対に回りました。しかし、アメリカは止まりませんでした。
しかも、アメリカが戦争の根拠とした、「イラクが保有しているはずの大量破壊兵器の存在」は、ブッシュ政権の捏造だったことがアメリカ自身の調査、そしてメディアによって、後に明らかにされるのです。おまけに、サダム・フセインがアルカイダを支援していた証拠も見つかりませんでした。
この戦争は、その正当性自体が捏造された情報によるものであった上に、国際法上禁じられている予防的先制攻撃によって始まったものだったということです。
その後、アメリカ軍を中心とした連合国暫定当局(CPA)――つまり日本の第二次大戦後のGHQのような占領行政府――が敷かれましたが、ここに来て国連安保理は、このCPAを承認することになりました。これを受けて日本政府は、陸上自衛隊のイラクのサマワへの派遣を「特措法」により決定します。
イラクはこの後、現在のISIS(イスラム国)の出現に続く内戦の地と化し、連合国の多国籍軍と、反米を掲げる民兵勢力との戦闘の泥沼化へと突き進んでいきます。ISISとは、元々はイラクを拠点とした、アルカイダの流れを組む組織でしたが、2011年以降のシリア内戦に参加したあたりから急速に勢力を拡大。シリアから逆流する形でイラクに侵攻し、2014年6月に、シリアとイラクにまたがる「イスラム国」の樹立を一方的に宣言したイスラム教過激派組織です。
アメリカでは今現在、「ブッシュ大統領が始めた、開戦の正当性が著しく疑われるあの戦争は一体なんだったのか?」、そして、「それをどう終らせるか?」などの議論と総括が、イラク戦争に関わった歴代の軍の最高司令官たちを巻き込む形で、国家と国民を挙げて行なわれています。
しかし、日本の政局、いや、日本社会では、真っ当な政策評価は一切行なわれず、何の反省も自覚もないまま、自衛隊の海外派遣が次々と実行に移されているのです。
・1992年9月〜:陸上自衛隊、カンボジア派遣
・1993年5月〜:モザンビークPKO派遣
・1994年9月〜:ルワンダ難民救援派遣(人道支援)
・1996年2月〜:ゴラン高原PKO派遣
・2007年3月〜:ネパールPKO派遣
・2008年1月〜:補給支援特措法成立(時限立法2年)、インド洋での給油活動開始
・2008年10月〜:スーダンPKO派遣
・2009年6月〜:海賊対処法成立、ソマリア沖海賊の対策部隊派遣
アフガン戦争は、最悪の方法で終わろうとしている
開戦からすでに13年が経った現在、アメリカは、アフガニスタンにおける戦争を、経済的にも、政治的にも、もはや維持できない状態になっています。
そもそも、タリバン政権に対するアメリカの報復攻撃の主体は空爆でした。地上部隊を投入していないのです。では、誰が地上でタリバンと戦ったのか? それは、元々、ソ連がアフガニスタンに侵攻した時に、ソ連を返り討ちにした、アフガン国内の軍閥たちです。
その軍閥たちは、ソ連のアフガン侵攻終了後に、アフガンで覇権争いを繰り広げ、国を荒廃させました。その軍閥たちを懲らしめる「世直し運動」を行うために出てきた新興勢力がタリバンだったのです。
そしてイラク戦争前までにタリバンは、この軍閥たちを撃退することで、アフガンの最大勢力になっていました。そしてアメリカは、イラク戦争時に、タリバンによって撃退されていた軍閥たちを「北部同盟」というお仲間としてひとつにまとめ、これを支援する形で、今度は、〝共通の敵〞タリバンに立ち向かわせたのです。
結果、アメリカと北部同盟はタリバン政権を倒し、北部同盟として戦った各地の軍閥たちを中心に、暫定政権を作ることになりました。こうしてアフガンには安定と秩序がもたらされたのでした、めでたしめでたし……。
となれば良かったのですが、残念ながらそうは行きませんでした。なぜなら、タリバンなきあと、北部同盟が分裂し、またしても覇権争いが始まったからです。「暫定政権樹立!」を謳い、ニコっと笑って集合写真を撮っていたヒゲもじゃの連中は、地元に帰るいやいないや武器を取り、領土争いのために内戦を再開していたのです。
この内戦は、その後の新政府樹立に陰を落とし続け、後に述べるように「内なる敵」をつくりながら混乱していくことになります。これが、今現在、アフガン国内でのタリバンの復権と、泥沼化しているテロとの戦いにつながっています。
さしものアメリカも、この「消耗戦」に疲弊し、今はタリバンとの和解工作を始めています。この動きに呼応するように、2010年1月、国連安全保障理事会は、国連制裁リスト――いわば「テロリストのリスト」――から、一部のタリバン高官の名前を除外することを決定しました。アメリカは「テロリスト」のレッテルを貼った相手との「対話」――つまり「和解」でこの戦争からの出口戦略(Exit Strategy)を模索しているのです。
このアフガンの混乱は、民衆による革命で独裁者を倒した後、めでたしと思ったら内戦が始まった、「『アラブの春』の後に起きた各国の混乱」と同じ構造のものです。
アラブの春とは、2010年末から11年にかけて、中東諸国と北アフリカで生じた一連の大規模民主化運動のことです。23年も続いた長期独裁政権が倒されたチュニジアでのジャスミン革命に端を発し、エジプトではムバラク政権が倒れ、後に、リビア、シリア、バーレーン、イエメンにも波及。リビアでは、NATOの軍事介入もあり、40年続いたカダフィ軍事政権も倒されました。しかしその後、多くの関係国国内で覇権争いが頻発し、各国の政情が不安定になっている状態です。
多民族国家の宿命として顕われる強権政権を、独裁だの、人権侵害だのと言ってむやみにコテンパンにするとどうなるか、人類はよくよく理解しなければならないのです。
オバマの戦争
2009年1月に、ブッシュ大統領から政権を引き継いだバラク・オバマ大統領の政権公約は、「前任者が始めた2つの間違った戦争を終わらせること」でした。それも、軍事的勝利――すなわち、タリバンが再興する中で、こちらに有利な形で相手を講和に持ち込むこと――が見込めない中での公約です。そんな状況でも、オバマ大統領に〝敗北〞は許されませんでした。そんな弱腰な大統領を、アメリカ国民が許さなかったからです。
そこでオバマ大統領は、1万7000人の米軍増派を決定し、2009年に予定されていた2回目のアフガニスタンの選挙を力ずくで実施しました。公約とは裏腹の行動ですが、オバマ大統領は、「アメリカ人の信じる民主主義が根付いた」「もうアメリカは、アフガンから卒業できる」と言うことで、政治的に幕引きをすることを狙ったのです。
しかし、結果は無惨なもので、投票率は一回目の半分になってしまいました。「投票したら腕を切る」と有権者を脅迫したタリバンの圧力に勝てなかったのです。
窮地に立ったオバマ大統領は、さらに3万人の米軍増派を発表します。この時、耐え切れず悲鳴を上げたのは、他ならぬアメリカ国民だったでしょう。「約束が違い過ぎる」、「このまま終わりのない戦争にアメリカの若者は死んでゆくのか」という批判の声がいっせいに上がったはずです。
このアメリカ国民の心の動きを察したであろうオバマ大統領は、この増派の発表と共に、「増派はするが、アメリカ軍は2年を経ずしてアフガンから撤退する」との発表をせざるをえませんでした。(略)
このあたりの時期から、大統領が「負け」と言わずとも、軍事的な勝利が全くなくなったことは、誰の目にも――内輪のNATO諸国の目にも――明らかになっていきます。
そしてオバマ大統領は、「敗北」と見せないための一応の出口政策として、アフガン国軍とアフガン警察の倍増計画を立てることになります。この計画は、国軍と警察の人数を増やすことで、「君たちは十分強い。後は任せた!」と言ってアフガンから撤退するためのものでした。結果、アフガン国軍は今、23万5000人の規模にも膨れ上がろうとしています。(略)
オバマ大統領の「戦争計画」が迷走するなか、NATOは首脳会議において、今年2014年の末までに、アフガンに展開しているNATOの治安部隊13万人の大半を撤退させる方針を示しています(オバマ大統領は、2014年末以降も、米兵9800人を残留させる方針を発表)。つまり、この2014年は、NATOが、史上初めて、軍事的勝利のないままの戦争に区切りをつける歴史的な年になるのです。
本書を執筆している今、アフガニスタン・イスラム移行政権のカルザイ大統領の任期満了に伴うアフガンの大統領選挙が行われています。しかし、タリバン勢力のものと思われる選挙妨害のためのテロ行為が横行し、選挙の不正も確認されるなどして、選挙の結果を確定できないという混乱ぶりです。
しかも、そういった混乱の中でアメリカと日本を含む同盟国が、手塩にかけて育て上げた傀儡政権(暫定政権)は、地上で最も腐敗した政権の1つになり、アフガンは今、人類史上最悪の麻薬国家になってしまっているのです。
いずれにしても、2014年度末のNATO軍の撤退は、アフガンに「力の空白」をもたらすことは間違いなく、タリバンに有利に働くのは間違いありません。
これが、OEF(不朽の自由作戦)によって、アメリカ軍兵士に、1万9984人の負傷者と、2343人の死者を出した後の成果です(*1)。
イラクのほうはと言えば、オバマ大統領が、2011年12月の演説で、約9年に渡ったイラク戦争の実質的な終了を宣言しましたが、「勝利」や「任務終了」の言葉を避けた、声の小さな終了宣言になりました。それは、75%の米国民の「イラクからの完全撤兵を支持する」という声(*2)を受けてのことでした。
イラク戦争では、「イラクの自由作戦」(OIF)という軍事作戦において、アメリカ兵に4491人の死者を出しました(*3)。それだけのアメリカ軍兵士の犠牲の上に築かれた、今現在のイラクには、先述のISISが台頭。アルカイダ的なものが、世界中に拡大する傾向を見せているのです。(略)
アメリカ同時多発テロが起こった際、世界貿易センタービル倒壊で亡くなったのは約2700人でした。対して、アフガンとイラクに派遣されたことで亡くなったアメリカ兵は6000人以上――。
そこまでの犠牲を払ってなお、アメリカは勝利できず、それどころか、過激派たちを更にネットワーク化させ、世界中に浸透拡大させる結果になっています。これが、これからの我々の近未来を支配する「集団的自衛権の行使」によって行われる戦争の「現実」なのです。
(*1)「アメリカ国防総省ニュース」(2014年9月16日発表)
(*2)米ギャラップ社の調査による
(*3)「アメリカ国防総省ニュース」(2014年7月16日発表)
(*4)2008年1月9日WHO(世界保健機関)発表 (略)
「Show the flag」の真意
今アメリカでは、何も生み出さなかったアフガン戦争、イラク戦争に対する反省の念が充満しつつあります。中には、「アメリカ同時多発テロは国際犯罪だったのだから、軍隊ではなく、インターポール(国際刑事警察機構)が対応すればそれでよかったのではないか」という議論も出てきているほどです。
日本は、今やアメリカ国民全体が反省と憂いを抱え始めている戦争の正しさについて、無批判に追従したことも含めてきちんと検証を行うべきです。本記事では、そのための考えるヒントを書かせていただいたつもりです。
そして、その先でさらに考えなければいけないのは、「そもそも日本は――どんな局面においても――自衛隊の武力を海外に出すべきなのだろうか」ということです。
今、日本国民の大半は、「アメリカは自衛隊の派遣を望んでいる」と信じて疑っていないでしょう。しかし、繰り返しになりますが、湾岸戦争以来、日本政府(外務省)を、自衛隊の海外派遣へと駆り立てたのは、「湾岸戦争のトラウマ」という名の取り返しのつかない勘違いです。
「湾岸戦争のトラウマ」は、間違いなく、今現在の日本人の心にも深く刻み込まれてしまっているものです。そして、湾岸戦争の時に起こった勘違いと、まったく同じ構造の勘違いが、奇しくも、場所を同じくしたイラクで、イラク戦争の後にも訪れていたのです。
皆さんは、アメリカ同時多発テロの後に大きく報道された「Show the flag」という言葉を覚えているでしょうか。同時多発テロ直後、アーミテージ米国務副長官が日本政府に対して協力を求めた言葉として広く報じられ、実際に、日本がインド洋に自衛隊を派遣する大きな原動力になりました。
しかし悲しいかな、日本はこの言葉を、またしても勘違いして受け取ってしまっていたことが分かったのです。というのも、日本はこの時、「Show the flag」を文字通り「イラクに日本の(自衛隊の)旗を見せろ」という意味で受け取っていました。ところが、後にアメリカのベーカー駐日大使が、「(自衛隊を出すかどうかは)日本側が決めること」で、アメリカが具体的な要請をしたつもりはないとの見解を示しているのです。
アーミテージは、「旗幟を鮮明にしろ」――日本がどちらの見方につくかはっきりしなさい――と言っただけで、「自衛隊の軍艦(旗)をインド洋に浮かべよ」と言ったわけではなかったのです。ここに、自衛隊を海外に派遣するための口実である「湾岸戦争のトラウマ」に、「Show the flag」という口実が加わったのです。
安保法制懇
対テロ戦争は、アメリカ自身に大きな打撃を与え、日本の自衛隊派遣の活動内容に多くの課題を残しました。しかし、それに対する真摯な検証は一切されないまま、「なお一層アメリカに協力をしないと有事の際に助けてくれない」というイメージが先行する形で、日本は集団的自衛権の行使容認に向け、ひた走っています。
しかしその動きは、本当に正しいのでしょうか?
* * *
ここまでが、伊勢崎氏が本の中で語った「集団的自衛権の歴史」の部分である。
「日本は、集団的自衛権の権利は持っているが行使はできない」としていた時代でさえ、アメリカの集団的自衛権発動の片棒を積極的に担いできた。ここで考えなければいけないことは、集団的自衛権の行使容認を日本自らが決めた後、次にイラク戦争のようなことが起きた時に何が起こるか? である。
日本が自ら積極的に「集団的自衛権の行使容認」を決めた後、果たして、次にイラク戦争のようなものが起こった時、「参戦しない」という決断を、“主体的に”アメリカに対して突きつけることは可能なのだろうか? 「集団的自衛権を持てば戦争に巻き込まれなくなる」という話があるが、その主張は「イラク戦争的なものに巻き込まれるリスク」を勘案に入れているだろうか。
アフガニスタン戦争とイラク戦争時、世界で最も軍事力によってアメリカとの双務性を果たすために集団的自衛権の行使に突っ込んでいった国――イギリスは、アフガニスタン戦争において453人、イラク戦争で179人の戦死者を出している(*1)。このことの意味を、今後、アメリカとの双務性を集団的自衛権の行使容認によって果たしていく可能性のある日本は、よくよく検討しておく必要があるだろう。
(*1) 数字は、慶應大学「延近 充の経済学講義」の該当ページ(【アフガニスタン戦争における犠牲者数】と【イラク戦争における米軍および有志連合軍の死傷者】)より
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プロフィール
伊勢崎賢治
1957年東京都生まれ。早稲田大学大学院理工学研究科修士課程修了。東京外国語大学大学院「平和構築・紛争予防講座」担当教授。国際NGOでスラムの住民運動を組織した後、アフリカで開発援助に携わる。国連PKO上級幹部として東ティモール、シエラレオネの、日本政府特別代表としてアフガニスタンの武装解除を指揮。著書に『インドスラム・レポート』(明石書店)、『東チモール県知事日記』(藤原書店)、『武装解除』(講談社現代新書)、『伊勢崎賢治の平和構築ゼミ』(大月書店)、『アフガン戦争を憲法9条と非武装自衛隊で終わらせる』(かもがわ出版)、『紛争屋の外交論』(NHK出版新書)など。新刊に『「国防軍」 私の懸念』(かもがわ出版、柳澤協二、小池清彦との共著)、『テロリストは日本の「何」を見ているのか』(幻冬舎)、『新国防論 9条もアメリカも日本を守れない』(毎日新聞出版)、『本当の戦争の話をしよう:世界の「対立」を仕切る』(