2016.10.12
カザフスタンにおける日本人抑留者
昨年10月、安倍晋三総理大臣が日本の総理として9年振りに中央アジア・カザフスタン共和国を訪問、ナザルバエフ大統領との首脳会談を果たした。カザフスタンは近年、石油や天然ガス、ウランなど豊富な天然資源を背景にした目覚ましい経済発展や、日本人を含む多くの宇宙飛行士を宇宙に送り出している「バイコヌール宇宙基地」の置かれている国として、日本でもその名を知られるようになってきている国である。
ところが、ナザルバエフ大統領との首脳会談を終えた安倍総理は、首都アスタナの大学で行われたスピーチにおいて、政治対話でも経済協力でもない、かねてより中央アジアを訪問したかったある特別な理由を明かした。
「私には、この中央アジアの地を、是非とも訪れてみたい、もう1つの理由がありました。70年前の戦争の後、多くの同胞が、この地に抑留されました。祖国に思いを残したまま、悲しい最期をこの地で終えた方々も少なくありません。そうした御霊に、哀悼の誠を捧げるとともに、尊崇の念を表し、御冥福をお祈り致しました。こうした尊い犠牲の上に、現在の日本の平和がある。この重みを噛みしめながら、中央アジアの皆さん、世界の友人と手を携え、世界の平和と繁栄に積極的に貢献していく。その決意を新たに致しました。」
「訪れた先々では、かつて抑留された日本人たちの建てた建物が、皆様に大事にされ、立派に残っている様子を見聞きしました。アルマティの科学アカデミーがそうでしょう。お隣ウズベキスタン、タシケントにあるナボイ劇場。シムケントや、テミルタウにも、たくさん残っていることを、御存知だろうと思います。毎朝、この中央アジアの大地に昇る朝日を見て、その地平線の先にある、祖国、ふるさと、そして家族へと、思いを馳せたであろう、先人たちの姿を偲ぶとき、今も胸が詰まります。しかし、強制された労働であっても、決して手を抜かなかった。父祖たちは、そこに誇りを託したのだと思います。」
(平成27年10月27日カザフスタンにおける安倍内閣総理大臣政策スピーチより)
ここで安倍総理が述べたように、終戦後カザフスタンを含む旧ソ連領内には、60万人とも70万人ともいわれる日本人がソ連軍によって満洲や樺太から強制連行され、飢えと寒さと絶望の中、森林伐採や鉄道建設、炭鉱労働など過酷な労働を、数年から十数年にわたり強いられた。いわゆる「シベリア抑留」である。
シベリア抑留
1945年8月8日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦を布告。当時日本の統治下にあった満洲や南樺太などに侵攻を開始した。日本のポツダム宣言受諾後もソ連軍の侵攻は続き、軍人だけでなく多くの軍属、民間人が犠牲になった。また、戦争終結により武装解除しソ連軍の捕虜となった軍人や、ソ連軍に逮捕された民間人の多くが抑留者となり、中央アジアやウクライナを含むロシア全域や、モンゴルや北朝鮮など各地に貨車で強制連行された。
第二次世界大戦でドイツと戦い2千万人ともいわれる犠牲者を出したソ連では、戦争で荒廃した国土復興のため大量の労働力を必要としており、ソ連はその労働力不足を補うため、60万人とも70万人ともいわれる日本人を抑留者として各地に強制連行したのである。
なお、当時のソ連の最高指導者スターリンが極秘指令「日本軍捕虜50万人の受け入れ、配置、労働利用について」を発した8月23日はシベリア抑留が始まった日として、2003年以降毎年千鳥ヶ淵の国立戦没者墓苑で追悼式典が開催されている。
カザフスタン
当時カザフ・ソヴィエト社会主義共和国としてソ連の構成国だったカザフスタン領内にも約5万9千人の日本人が抑留され、これまでに判明しているだけで少なくとも1,457人が生きてふたたび祖国の土を踏むことなく亡くなったとされている。
カザフスタンに強制連行されてきた日本人抑留者は、当時共和国の首都であったアルマアタ(現在のアルマティ)や、ソ連有数の炭鉱都市であったカラガンダ、大きな鉱山のあったバルハシ、ウスチカメノゴルスク、テケリなど、共和国内各地のラーゲリ(強制収容所)に送致、抑留され、都市建設や鉄道建設、農場労働、鉱山労働など様々な強制労働を課せられた。
中でも、もっとも多く日本人が抑留されたのがカザフスタン中部に位置するカラガンダ州で、カザフスタンに強制連行された日本人の半数以上にあたる約3万4千人が抑留された。広大なステップに囲まれ気候も厳しく、また多くの抑留者が危険な炭鉱労働に就かされたため、各国の抑留者たちから「カルラグ」と呼ばれ、恐れられた。
阿彦哲郎氏
この「カルラグ」元抑留者で、現在もカラガンダで暮らす日本人がいる。戦後ソ連によって樺太・本斗町(現在のネヴェリスク)からカザフスタンに強制連行された阿彦哲郎さん(85歳)である。
戦前、南樺太は日本領であったが、1945年8月のソ連軍の侵攻により占領され、ソ連の実効支配下に置かれた。終戦当時本斗の青年学校に通いながら町内の鉄工所で働いていた阿彦さんは戦後も本斗町に残り、鉄工所がソ連に接収された後もそこで働き続けていたが、1948年6月突然ソ連警察に逮捕され、樺太・豊原市(現在のユジノサハリンスク)の刑務所に入れられた。6ヵ月刑務所に留置された後裁判にかけられ、ソ連刑法58条で10年の強制労働の判決を受けた。
このソ連刑法58条は「反ソ連活動」を罰する法律で、これにより戦後ソ連に占領された満洲や樺太で拘束された多くの日本人が一方的に有罪とされラーゲリに強制連行された。これはソ連の国内法を、国外にいた日本人抑留者にそのまま適用するという極めて理不尽なものだったが、最高で重労働25年を課せられる非常に重い刑であった。
阿彦さんも各地のラーゲリを転々とさせられ、カザフスタン中部のジェスカズガンなどで炭鉱労働につかされ衰弱した後、最後はカラガンダ郊外の「スパスク収容所」という、傷病によりまともに働けなくなった囚人たちが集められ、その多くが死を待つばかりの収容所に移送された。
1953年にソ連のスターリンが死去、ソ連国内に残されていた日本人抑留者は順次日本に帰国することになった。阿彦さんは幸いスパスク収容所を何とか生き延び釈放されたが、民間人であったためか、同地区から帰国する日本人抑留者の名簿に彼の名が記載されておらず、ひとり帰国できずカラガンダに取り残された。
阿彦さんがふたたび日本の土を踏むのは、それから約40年後。ソ連が崩壊した後の1994年になってからのことだった(阿彦さんは2012年に妻とともに永住帰国のため札幌に移住したが、日本での生活になかなか馴染めず、2014年にふたたびカラガンダに戻った)。
三重苦
シベリア抑留でもっとも過酷であった点として一般的に語られるのが、飢え、寒さ、重労働のいわゆる「三重苦」である(絶望や人間不信を加えて四重苦と呼ぶ者も多い)。
日本人抑留者に対する食糧の配給量は、規定により1人当たり1日黒パン350g、米を含む雑穀類450g、野菜800g、魚150g、肉50g、植物油10g、塩20g、砂糖18g、茶3gと決められていたが、ソ連兵や上官のピンハネなどもあり、実際は350gの黒パン以外は野菜屑が浮かんでいる程度の塩味のスープ、塩辛い魚の燻製、雑穀入りの薄い粥などしか支給されない場合が多かった。そのため、取り分けられた食事の量をめぐって抑留者同士で争ったり、わずかなパンを仲間から盗んだりするほど食べ物に飢えていた。また、抑留者たちは生き残るために、調理場に捨てられた肉の骨や野菜のへた、屋外で捕まえた蛙や蛇など、栄養になりそうなものは何でも口にした。
食糧不足が深刻だった原因として、ソ連では1945年から1946年にかけて戦争による労働力の減少と大規模な干ばつもよって国全体が食糧不足に陥っており、抑留者どころか自国の国民までもが十分な食糧を得られないほど危機的状況だったことがあげられる。
実際、厚生労働省の公表によると、シベリア抑留における死亡者の総数は約5万5千人とされているが、その多くは食糧不足が深刻だった1945年暮れから1947年春にかけての1年半の間に集中している。これはカザフスタンにおける抑留でもまったく同様である。
1947年後半からは徐々に経済が回復し、カザフスタンのラーゲリにおける抑留者の食糧事情も改善された。1948年には改革により抑留者に賃金も支払われるようになり、ラーゲリ内の商店で買い物をしたり、外出時に市場で買い物をしたりできるようになった(一部の抑留者には「プロプスカ」と呼ばれる許可証が交付され、外出が認められていた)。
厳しい寒さも抑留者たちを苦しめた。ロシアのタイシェットなど極寒の東シベリアに比べれば、カザフスタンはいくぶん気候が穏やかであったとはいえ、冬場の気温は南部でも零下20度を下回るほどである。また、カラガンダなどステップでは零下40度もの極寒に加え「ブラン」と呼ばれる猛吹雪がしばしば発生し、1m先も見えないほどであった。そのような状況で仲間の隊列から離れることは確実な凍死を意味しており、抑留者たちは作業に向かうときも隊列からはぐれないよう必死だった。
ただ、カラガンダなどでは寒さが厳しいものの、幸か不幸か炭鉱労働に従事する抑留者が多かったため、炭鉱から持ち帰った石炭をバラックの中に置かれたペチカ(ストーブ)にくべ、凍てつく寒さをしのげる程度の暖をとることができた。寒さという点では、カザフスタンにおける抑留は、東シベリアにおけるそれよりはましだったともいえる。
抑留者に課せられた労働は、地域によって様々なものがあった。前述のとおり、カザフスタンにおける抑留では、カラガンダでは炭鉱、バルハシでは銅鉱山、ウスチカメノゴルスクやテケリでは亜鉛鉱山といった具合に鉱山での労働がよく知られているが、都市部でも住宅や公共施設の建設、道路や鉄道の敷設・整備、製材所や煉瓦工場などでの労働も多く、そのため現在も日本人抑留者が建設した建物や道路を各地で見ることができる。
抑留者に課せられた労働は基本的に二交替制で、炭鉱や一部の工場での労働は休みなしの三交替制で行われた。1組目は8時から16時、2組目は16時から24時、3組目は0時から8時といった具合にシフトが組まれ、1日8時間の労働が課せられていた。また、作業にはノルマが課せられ、その達成率によって抑留者への配給される食事の量が変動した。つまり、ノルマを達成できれば規定どおりの量の食事を得ることができたが、逆のノルマを達成できなければその分食事の量もカットされた。体力のない者は作業ノルマを達成できず食事の量を減らされ栄養不足からさらに体力を失う、弱者に厳しい仕組みだった。
日本人抑留者の残したもの
冒頭の安倍総理の演説にもあったように、このような厳しい環境下に置かれながらも、日本人抑留者たちは手を抜かず、ひた向きに、真剣に作業に取り組み、カザフスタンに様々なものを残していった。アルマティでは日本人抑留者の建設した科学アカデミーや旧国会議事堂などの建物がいまもなお現地の人々によって使用されており、カラガンダにはレーニン通り沿いの住宅群や、2004年に取り壊されるまで市民に愛されたオペラ劇場「夏の劇場」があった。
また、アルマティ郊外の水力発電所のパイプライン、ジェスカズガンの火力発電所、クズィルオルダのダムなどの施設も、日本人抑留者が作ったものが現在もそのまま使用されており、いまもカザフスタンの人々からその技術と精神が高く評価されている。
カザフスタンの人々の日本人に対する一般的なイメージは、真面目で、勤勉で、礼儀正しく、清潔などといった非常に好意的なものであるが、その背景にはかつて日本人抑留者たちが過酷な環境の中、命がけで積み上げてきた功績があるのは間違いない。
2017年夏、カザフスタンの首都アスタナで万博が開催される。おそらく多くの日本人がカザフスタンを訪れるであろうが、その際に少しでも先人たちの無念と苦しみと功績を偲んでもらえれば、帰国の志半ばで倒れていった日本人たちの魂も浮かばれるに違いない。
プロフィール
味方俊介
1981年生まれ。2003年中央大学法学部卒。2005年カザフ国立大学準備学部ロシア語課程修了。日本中央アジア学会会員。著書に『カザフスタンにおける日本人抑留者』(東洋書店、2008年)、『カザフスタンを知るための60章(共著)』(明石書店、2015年)。