2010.11.12
政府試算から考えるTPP(環太平洋パートナーシップ協定)の是非
TPPのメリットとデメリット
前稿「TPP(環太平洋パートナーシップ協定)が投げかける「古くて新しい課題」」では、政府が公表したEPAに関する各種試算を検討する前段階として、自由貿易協定(FTA/EPA)の特徴とAPEC、TPPについて整理した。
TPPに加入すべきか否かを考えるにあたっては、TPP加入に伴うメリットとデメリットがどの程度であるかを推量していくことが必要だ。TPP(環太平洋パートナーシップ協定)に参加すれば、日本に有利なFTAAP(アジア太平洋自由貿易圏)を締結する可能性を高めることができ、日本の主要貿易相手国である米国と自由貿易協定を結ぶことによる経済的メリットは大きいと考えられる。
一方で、TPPはこれまで日本が締結したEPAよりも自由化度合いが高いために、例外品目となっていた農産品や鉱工業品の自由化を余儀なくされ、それが国内生産や雇用の減少をもたらすというデメリットもありえる。
以下では、前稿で最初にふれた内閣府、農水省、経産省による試算結果資料(包括的経済連携に関する資料(平成22年10月27日 http://www.npu.go.jp/date/index.html)を参照し、やや詳細に検討してみたい。
試算結果を考える際に必要な3つの視点
試算結果を考える際には、どのような点に留意する必要があるのだろうか。そのためには、経済効果とはどのようにして把握されるかを確認しておくことが有用だろう。図表1をご覧頂きたいが、経済効果は、あるイベント(たとえばEPA締結)の定量化を行い、それを経済モデルにインパクトとして与えて計測することで、経済への影響をみるという3つのステップを踏むことで把握される。
この3つのステップはそのまま経済効果試算の中身を把握する際の視点にもなり、試算の正当性を判断する際の手がかりにもなる。内閣府、農水省、経産省の試算資料を参考に3つの視点を整理すると図表2のようになる。
図表2に即して順に検討しよう。
図表2のEPAの定量化は、図表1のSTEP1に対応する。公表されている資料をみると、内閣府試算の場合は、TPPを含む各種FTAによる自由化が、EPAの定量化として考慮されている。
前稿でみたように、自由貿易協定には財・サービスの貿易自由化、投資の自由化、貿易の円滑化といったさまざまな要素が考慮されているが、GTAPモデル(およびGTAPデータベース)を用いた試算であることを考慮すると、各種FTAによる自由化とは、FTAを締結する域内国間の財の関税率をゼロにすること(100%自由化)であると考えられる。
そして農水省試算の場合は、農産品19品目が全世界を対象に関税撤廃を行った際の、国内生産減少額がEPAの定量化ということになる。経産省試算の場合は、日本がTPP、EU、中国とFTAを締結せず、韓国が米・EU・中とFTAを締結した場合の自動車、電気電子、機械産業の輸出減少額がEPAの定量化となる。
以上から分かることは、比較優位および劣位財を含む、すべての財を対象とするのが内閣府試算、比較劣位財に対象を絞っているのが農水省試算、比較優位財に対象を絞っているのが経産省試算ということだ。メリット・デメリット双方を考慮したのが内閣府試算、デメリットを考慮したのが農水省試算、メリットを考慮したのが経産省試算ともいえるだろう。
図表2の分析手法についてはどうか。これは図表1のSTEP2に対応する。農水省試算および経産省試算は、産業連関表分析を適用して、STEP1で対象とした財(産業)が他財(産業)に及ぼす経済波及効果を試算している。一方で内閣府試算は、応用一般均衡モデルであるGTAPモデルを用いて経済効果が試算されている。つまり、分析に用いた経済モデルが異なっていることが特徴である。
最後に図表2の影響範囲をみよう。これは図表1のSTEP3に対応する。3つの試算は経済への影響として、すべての産業への影響を報告しているという点では共通している。ただし、STEP2でみた経済モデルの違いは経済効果として含まれる要素の違いでもあるため、仮にSTEP1で考慮した値が完全に一致していても、STEP3で得られる経済への影響は異なることに注意すべきだろう。それが試算結果として現れる数字の違いに直結しているのである。
産業連関表分析とGTAPモデルの特徴
では、産業連関表分析とGTAPモデルの特徴・相違点は何だろうか。効果として折り込まれる要素の違いに着目しつつみていこう。
産業連関表分析は数量分析と価格分析に分かれる。価格分析はある財(産業)の価格変化が他産業へ及ぼす影響を分析するものだが、試算で行われているのは数量分析である。
そして数量分析とは、ある産業の需要が変化した場合に、その需要をまかなうために必要な生産の波及を推計するというものである。各産業は原材料や半製品を購入し、さらに資本や労働を投入して生産を行う。ある産業の需要が変化すれば対応する生産が変化するため、その影響は原材料や半製品の生産にも影響する。原材料や半製品の生産が変化すると、それを作るために必要な製品の生産も変化する。「波及」とはこうした変化を全て折り込むということである。
なお数量分析では需要が変化することで生じる需給の不均衡は、供給(生産)が変化することで調整される。価格が変化しないため、相対的に安くなった財の需要が進み、相対的に高くなった財の需要が減るという代替効果や、実質所得変化を通じた所得効果が考慮されていないことにも留意しておく必要があるだろう。
一方、GTAPモデルは一般均衡理論を計算可能なかたちに応用した応用一般均衡モデルの一種であり、GATTウルグアイ・ラウンド交渉や各国間の貿易政策のインパクトを数量的に把握するためにGTAP(https://www.gtap.agecon.purdue.edu/)が作成・公表しているモデルである。
モデルのデータベースは、最大57産業、113ヶ国・地域についての世界各国の産業連関表、国別産業別の貿易データ、内国税・関税といった障壁データから構成され、2004年を基準としたデータベース(Version7 Database)が最新である。
産業連関表の数量分析との相違という意味では、GTAPモデルでは価格が変化することで需要および供給が変化し、生産・投資・消費に影響することが特徴である。
そして、自由貿易協定を締結し、貿易障壁を撤廃した場合の効果として、締結国・地域間の貿易を促進することで生じる効果(貿易創造効果)、非締結国・地域の貿易を減少させることで生じる効果(貿易転換効果)といった短期的な効果に加えて、投資の蓄積が資本ストックの蓄積につながり生産能力を向上させるという中長期的影響(資本蓄積効果)の3つを考慮している点も特徴だ。
図表3は各試算について、以上のモデルの特徴をまとめたものだ。
まず各試算に含まれる効果についてみると、内閣府試算では、日本が各国と自由貿易協定を締結することで生じる貿易創造効果、貿易転換効果、資本蓄積効果がすべて考慮されている。そして、農水省試算では貿易創造効果が加味され、経産省試算は貿易転換効果が加味されている。
図表3では、各試算に含まれる効果に加えて、経済効果の把握方法として産業連関表とGTAPモデルの違いをまとめている。経産省および農水省の試算では、輸出および国内生産の影響は当該財(産業)の価格変化を伴わず、対応する財(産業)の生産波及を経由することで生じる生産・GDP・雇用変化が自由貿易協定の経済効果となる。
一方で内閣府試算は、貿易障壁の変化は価格変化として折り込まれ、それが所得効果や国内財、国内財と海外財、海外諸国間における代替効果を伴いながら、すべての国および地域の産業の需要と供給が一意に決まるかたちで新たな生産や消費・投資・輸出入が決まり、貿易障壁撤廃前後の変化が自由貿易協定の経済効果となる。
図表1から図表3の整理に即していえば、内閣府試算は自由貿易協定によって影響を受けるすべての財を対象とし、自由貿易協定によって生じる効果を多く含む。さらに自由貿易協定によって生じる価格および数量の変化を加味している。以上の意味で農水省および経産省試算と比較して、包括的な試算であるといえるだろう。
3つの試算をどう判断するか
これまでの議論から、自由化の対象範囲、自由化で考慮する効果、経済効果の把握方法という3つの視点から判断するかぎり、内閣府試算がもっとも包括的な試算であって、日本全体への影響を評価するという目的に即せば好ましい試算でもある。
経済効果分析の3つのステップ(図表1)にもとづけば、経済効果の大小はEPAの定量化で考慮したインパクトの大きさにも依存する。この意味で問題を孕んでいると思われるのが農水省試算である。
山下一仁氏は「TPPで米農業は壊滅するのか?農水省試算の問題」(http://astand.asahi.com/magazine/wrbusiness/2010102900010.html)と題して、農水省試算の具体的な問題点を指摘している。
論説では生産額の減少を試算する際の米価の内外価格差が過大である点や、現在の米価は減反して生産量を制限することで維持されているため、関税撤廃により現在の米価が維持できなくなれば、輸入米の価格よりも国産米の価格が低下する可能性が高く、結果として生産量が増加して国内農業に影響は生じないとの指摘がなされている。
そして米以外の農産品についても、農水省試算よりも実際の内外価格差は小さく、かつ内外価格差を補填するためのコストは農水省の予算内でまかなえることが指摘されている。これらの指摘を考慮すれば、農水省試算のGDP減少額7兆9000億円という値はより小さくなる可能性が高いといえるだろう。
なお、内閣府試算に関しては、試算資料をみるかぎり、自由化として何が考慮されているのか不明である。前稿でも示したように、EPAは財・サービスの自由化に加えて、さまざまな自由化要素を含んでいる。
試算で対象とするEPAの詳細が固まっていないことや、関税以外の貿易障壁や円滑化の度合い、人の移動といった点を定量化する手法が確立できていない現状を考えれば、何を対象として含んでいるのかを明記することが、議論を進めることにも資するのではないかと考えられる。試算の理解を助ける意味でも、開示して欲しいと思うところだ。
自由貿易協定の経済効果試算から得られること
包括的な試算である内閣府試算の結果に即して、自由貿易協定の経済効果を考えた場合、どのようなことがいえるのだろうか。図表4は、内閣府試算で掲載されている各自由貿易協定のうち、双方が例外品目を設けずに100%自由化を行った場合の、日本の実質GDPを抜き出して比較したものである。
まず試算結果から指摘できるのは、双方が100%自由化した場合、農産品といったセンシティブ分野のマイナスの影響と、他分野のプラスの影響を加味した実質GDPへの影響は、プラスであるということだ。これは自由貿易協定を進めることが、日本全体でみればメリットがあることを意味している。
農産品分野のマイナスの影響を是正するには、短期的には政府からの直接支払いといった補助金を主業農家に与えることで国内生産を維持しつつ、自由貿易協定により見込まれる域内国の貿易創造効果を足がかりに、輸出が可能な農業への転換をはかっていくことが必要だろう。
そしてより多くの国・地域と自由貿易協定を結ぶか、もしくは日本とより貿易関係が深い国・地域と自由貿易協定を結ぶことで得られる実質GDPの拡大効果は、大きくなることもわかる。対象となっている組み合わせのなかでは、FTAAPの効果がもっとも大きく、以下、日中EPA、TPP、日米EPA、日EUEPAの順となる。
自由貿易協定は、財・サービスの自由化をはじめとする貿易障壁を撤廃することで、資本・労働の効率化を促し、そのことで成長力(潜在成長)を高める政策である。貿易保護に伴う高価格は、消費者に対して実質所得の低下というかたちで「痛み」をもたらしている。貿易自由化や特定産業保護の是非を議論する際には、生産者の「痛み」がクローズアップされることが多いが、消費者の「痛み」もあわせて考慮することが必要である。
そして、総需要の停滞とデフレがつづく日本経済の現状を考慮すれば、自由貿易協定の推進とあわせて、デフレから脱却するための財政・金融政策を推し進めていくことは、資本・労働の効率化に伴う「痛み」を是正して、自由貿易協定で期待される効果を現実のものにするという意味でも有効だろう。
推薦図書
GTAPを主導するパデュー大学のThomas W. Hertel教授による本書は、通商政策の影響評価でしばしば用いられるGTAPモデルの内容を理解するには、必携の書籍だといえるだろう。なお、本書で対象となっているGTAPモデルやデータベースは改善が続けられている。最近の動向を把握されたい方は、GTAPホームページ(https://www.gtap.agecon.purdue.edu/default.asp)の情報を参照されることを薦めたい。
プロフィール
片岡剛士
1972年愛知県生まれ。1996年三和総合研究所(現三菱UFJリサーチ&コンサルティング)入社。2001年慶應義塾大学大学院商学研究科修士課程(計量経済学専攻)修了。現在三菱UFJリサーチ&コンサルティング経済政策部上席主任研究員。早稲田大学経済学研究科非常勤講師(2012年度~)。専門は応用計量経済学、マクロ経済学、経済政策論。著作に、『日本の「失われた20年」-デフレを超える経済政策に向けて』(藤原書店、2010年2月、第4回河上肇賞本賞受賞、第2回政策分析ネットワークシンクタンク賞受賞、単著)、「日本経済はなぜ浮上しないのか アベノミクス第2ステージへの論点」(幻冬舎)などがある。