2017.05.29

「イスラム的公正」で庶民の心をつかむ――トルコ大統領エルドアンの政治とは

同志社大学教授 内藤正典氏インタビュー

国際 #トルコ#レジェップ・タイイップ・エルドアン#中東#イスラム

先日の国民投票で大統領制への移行が決まり、強権化が進むトルコ。中央集権を強化するエルドアン大統領は、2003年以降、首相、大統領を歴任し、同国を率いてきた。そもそも、エルドアンとはどんな人物なのか。同氏の推進する「イスラム的公正」とは。揺れ動く中東情勢の要トルコと、その大統領の人物像を同志社大学教授内藤正典氏に伺った。(取材・構成/増田穂)

「イスラム的公正」に基づいた政治

――そもそも、エルドアン氏はどのような人なのでしょうか。

生まれとしては、イスタンブールの庶民的な地区カスムパシャの出身で、保守的なイスラム主義者です。思想としては、ムスリム同胞団に近いほか、ナクシュバンディをはじめとして、スーフィーの組織とも親和性を持っています。

ただし、政治家としては、トルコ共和国は世俗国家であるという憲法条項を変えることは困難なため、国家をイスラム化する政策は、少なくとも過去14年とっていません。このことからも、欧米諸国が、エルドアン政権下でトルコが世俗主義を捨ててイスラム国家になると予測するのは早計です。

彼は、イスラム主義政党だった福祉党(RP)選出のイスタンブール大都市圏の市長だった1997年3月、建国時代の著名な詩人の作品の一節を演説に取り入れたことで、イスラムを称揚したとして半年あまり収監されました。国家の分断を禁じる刑法第312条と憲法第2条違反とされたのです。この経験は、今年4月の憲法改正を問う国民投票に至るまで、エルドアン氏の司法と軍部に対する強い警戒感の源となっています。

――順風満帆な政治家生活というわけではなかったのですね。

ええ。当時トルコでは司法と軍が世俗主義を監視しており、公の場でイスラム的な価値に言及しようものなら、政治家生命に関わる大問題でした。同じく1997年の2月には、当時のイスラム主義政党、福祉党の首相ネジメッティン・エルバカンの内閣が、イスラム的であることを懸念した軍部によって退陣を迫られる事件が起きています。

――そうした根強い世俗主義の伝統があるからこそ、エルドアン氏も表向きにはイスラムを掲げた政策は打ってこなかったのですね。

そうですね。その代り、ムスリムから見ればイスラム的な富の再分配として理解できるような政策をとりました。中でも、首相時代(2003~2014年)に実現したTOKİ(公共住宅)による住宅供給は、生涯家を持つことができないと思われていた都市周辺のゲジェコンドゥ(「一夜づくり」の意味だが、勝手に住みついてしまった不法占拠住宅)住民に、文字通り夢を実現するものでした。この不法占拠住宅に住む人々は、大都市の人口の半分以上を占めていたんです。実際、市価よりはるかに安い価格でモダンな公共住宅を手にした住民は、その後エルドアン政権を支える重要な基盤となっています。

他にも慢性的な交通渋滞が都市インフラの最大の問題となっているイスタンブールでは、郊外と都心を結ぶ高速道路の中心車線を二車線分割し、その中にメトロバスを通しました。フェンスで囲まれているため、他の車両は一切、このメトロバス車線に踏み込むことはできません。周囲の一般車両の車線は一層渋滞がひどくなったものの、車を持たない庶民は周りの自家用車を後目に快適な通勤ができるようになりました。

TOKİ、メトロバスいずれの場合も、中産階級から上ではなく、都市の貧困層にとって画期的な政策でした。「弱者」にやさしくするという「イスラム的公正」にかなったもので、政策としてイスラムは全面にだされていませんでしたが、ムスリムであれば誰もがこれがイスラム的価値に基づいているとわかるものでした。

――この「イスラム的公正」、エルドアン氏の外交方針にも影響を及ぼしていると伺っています。具体的にはどのような方針なのでしょうか。

外交政策では、一貫して弱い立場にあるムスリム、特にスンナ派のムスリムを支援する立場に立っています。例えば、2008年の年末から2009年の年初にかけて行われたイスラエルによるガザの攻撃に対しては、2009年1月に開催されたダヴォス会議の席上で、隣のイスラエルのペレス大統領に向かって「あなた方は人殺しの仕方をよくご存じだ。私は、あなた方が(ガザの)浜辺で遊んでいた子供たちをいかにして狙い撃ちにしたかをよく知っている…」と発言して参加者を驚愕させました。イスラム主義者としてのエルドアン氏が、民族を超越するイスラムのあり方を世界に示したとして、パレスチナをはじめ、世界中の抑圧されてきたスンナ派ムスリムのあいだで称賛を浴びた出来事でした。

イスラエルとの関係に関しては、その後も、2010年にガザ支援のために地中海を航行中のNGO の支援船マーヴィ・マルマラ号が公海上でイスラエル海軍に急襲され、活動家が犠牲になると、当時のダウトオール外相が中心となって国連安保理を緊急招集し、イスラエル非難声明の採択に成功しています。

また、昨年の12月にアレッポが筆舌に尽くしがたい人道危機に陥ったときは、ロシアとの間で停戦合意にこぎつけるよう、その剛腕を発揮しています。

他にも日本ではあまり知られていませんが、ミャンマーで迫害されてきたムスリムのロヒンギャの人たちのもとには、エミネ・エルドアン首相夫人や、ダウトオール外相夫妻が訪問し、彼らとの連帯を示しています。一貫して、困難の渦中にあるムスリム同胞と共にあるという姿勢を示してきたのです。

これらの行動は政治家としてのパフォーマンスには違いありません。しかし、絶望の淵にあるムスリムにとっては、一筋の光明であったことも否定できません。6年以上にわたるシリア内戦においては、多数のスンナ派住民が犠牲になってきました。こうした状況で、エルドアン首相(14年以降は大統領)が、アサド政権を厳しく非難し続けていたのも、「不公正」に対して明確な声を上げるスンナ派政治家として当然のことでした。

――エルドアン氏は、アサド政権に対しては度々非難の声を上げていますね。

ええ。4月上旬にアサド政権軍によりイドリブで化学兵器が使用された時も、イスラム主義のNGOを救援に当たらせ、被害を被った人をトルコ側に搬送させています。その後WHO(世界保健機関)やOPCW(化学兵器禁止機関)と共に、使用されたのがサリンであり、アサド政権側の攻撃であると厳しく非難しました。

シリア内戦の終結へ向けロシアと協力

――一方で、トルコは「イスラム国」の撃退には消極的であると、国際社会から非難もされてきました。

エルドアン政権が「イスラム国」掃討に消極的だったのは事実です。エルドアン氏にしてみれば、「イスラム国」がいかに凶悪なテロ組織であても、スンナ派のイスラム組織であることは否定できません。2015年の夏までは、米国主導の有志連合に参加はしつつ、軍事力の行使で「イスラム国」を殲滅することはできないとも主張していました。

特にトルコはイラクの隣国でもあり、米国をはじめとする西欧諸国の中東への軍事介入が、いかに既存の秩序を崩壊させるか、その結果として「イスラム国」のようなモンスターを生み出すかを熟知しています。エルドアン政権にしてみれば、またしても、軍事力の行使によって怪物をつぶすから協力しろという米国に対し、即座に応じるはずがなかったのです。

米国は北シリアのクルド勢力(PYD/YPG)に軍事支援を強化し、「イスラム国」と戦わせてきました。オバマ政権の米国は、国内の厭戦気分と「イスラム国」掃討のとのはざまで、地元勢力を利用したんです。

――アメリカとしては国内での反対も強く、自分たちは介入できないから、地元の勢力に「イスラム国」を一掃してもらおう、と。

そうです。しかし、このクルド勢力の兄弟組織はトルコ国内でテロを繰り返してきたPKK(クルディスタン労働者党)です。PKKは、トルコ国内はもとより、米国やEUでもテロ組織と認定されています。こうした背景から、エルドアン氏は、「テロとの戦いにダブルスタンダードを使うな」と激しく米国に反発していました。

――そのトルコが、2016年8月には単独でシリア領に侵攻しました。

その侵攻も、米国主導の有志連合による作戦とは大きく異なるものでした。トルコは2016年8月24日に、「イスラム国」が支配していたジャラブルスに侵攻、即座に奪還しました。この攻撃以降「ユーフラテスの盾」作戦と呼ばれる、トルコによる「イスラム国」掃討作戦が開始されました。しかしこれは、「イスラム国」を敵としつつも、他方で米国による支援のもと「イスラム国」と戦ってきたクルド勢力とも対立するものだったのです。

トルコは2016年以来、シリア内戦の終結には、ロシアの協力が欠かせないという立場をとっていて、プーチン政権のロシアとの協力関係が目立つようになっています。一方で米国とは事実上亡命中のフェトフッラー・ギュレン師の送還に応じないことやトランプ政権がYPGに戦車や装甲車を供与する方針を固めたことなどをめぐり、関係が悪化しています。

ギュレン派との確執

――ギュレン師と言えば、ヒズメト運動の指導者ですね。2016年にはクーデタを首謀したとされ、アメリカに亡命しています。もともとは協力関係にもあったというギュレン運動とエルドアン政権は、何がきっかけで対立したのでしょうか。

ヒズメト(奉仕)運動というのは、フェトフッラー・ギュレンが唱導した善行運動です。ギュレン師自身は、イスラムの指導者ではありますが、この組織には明確なイスラム法学、神学の基盤はなく、運動自体はイスラム主義運動とは関係ありません。この運動はギュレン氏個人を崇拝するフォロワーの集まりと考えたほうがいいでしょう。

彼らは非ムスリムとも協調的で、日本や欧米でも、組織を持って学校などを運営してきました。ムスリムによる運営ですが、これらはイスラムの学校ではなく、ギュレンの言葉を実践する若者を育てる場としての性格が強いものでした。もっとも、トルコ国内では国民の大半がムスリムですから、当然、イスラムの説教者としてのギュレン氏の言葉は、イスラム的文脈で受容されていましたが、学校自体はイスラム教育とは関係なく運営されていたんです。

個人的な意見ですが、エルドアン自身は、この運動が軍の世俗派や国粋主義者に反対するものである限りは敵視しなかったものの、信用はしていなかったと思います。ギュレン支持者は、エルドアン氏の公正・発展党(AKP)に接近を図ってきました。主要な政治家の中にも、ギュレンと関係した者はいると思われます。しかし、2007~2012年までのエルドアン政権とギュレン派の関係は、ある種政権の政策をバックアップするようなところもあり、一種の「並行政府」状態でした。

このころには、「エルゲネコン」、「バリョズ」という二つのクーデタ計画(社会不安を起こそうとする陰謀)がギュレン派の警察・検察によって暴露されました。訴追されたのは、世俗主義者と国粋主義者でした。エルドアン政権からみても、敵であったこうした勢力を排除することに特に反対する理由はなく、エルドアン首相自身、軍部の政治介入を恐れていたことから、ギュレン派の活動を黙認していました。

ヒズメト運動は組織が不明確で、街場では小規模な商工業者の善行運動であり、互いに資金を融通しあう頼母子講的な活動を基盤として経済界に地歩を固めていきました。政権との関係でいえば、最大の過ちは、国家公務員、警察官、裁判官、検察官、そして軍人のなかに同調者を増やしていたことでしょう。2012年以降、政権はギュレン派が諸刃の剣であることに危機感を募らせていきました。結果として、政権側はギュレン派の資金源であった、予備校事業や金融機関を廃業に追い込み、力を削ごうとしました。2013年の年末、これに対抗するかたちでギュレン派の警察・検察がエルドアン政権側近や家族の不正疑惑を暴露し、両者の対立は決定的になりました。

ギュレン氏個人を崇拝する個人は、当然のことながら全体の奉仕者としての立場を忘れ、いわば教祖の意向に従おうとします。同系統のメディアも増えていたため、2016年のクーデタ未遂事件以降、エルドアン政権はギュレン派を厳しく弾圧しています。エルドアン政権の強権化を象徴する動きとして、メディアやジャーナリストへの弾圧が取り上げられていますが、その多くはギュレン運動に関係する者です。とはいえ、世俗主義の立場からエルドアン政権を批判してきたメディアも同時に弾圧されており、西欧諸国から厳しい批判を浴びています。 

 進む強権化

――日本では首相時代、大統領時代とトルコ政治において「エルドアン」の存在感が大きく感じられます。

エルドアン大統領を中心とする公正・発展党(AKP)は、2002年の総選挙で勝利して以来、政権の座にあります。結党当初、中核にはエルドアン氏のほか、アブドゥッラー・ギュル(首相、外相、大統領を歴任)、ビュレント・アルンチ(副首相、国会議長)のようなイスラム主義の政治家、アフメト・ダウトオール(外相、首相)のような学者、テクノクラートなどが集まっていて、合理的な政策を実現してきました。しかし、2010年あたりから徐々に、エルドアン首相(現大統領)への権力集中が進みました。有力な政治家は次々に政権中枢から遠ざけられたか、あるいは自ら離れています。

これまで、ギュル前大統領・外相、ダウトオール前首相・元外相など、欧米諸国からもタフ・ネゴシエーターと評価されてきた政治家が政権を支えてきたところも大きく、今後一層の権力集中を進めると、周囲にイエスマンが増え、これまでのように合理的な政策実現ができなくなる可能性も懸念されます。

――エルドアン氏はどのようにその支持基盤を築いてきたのでしょうか。

エルドアン氏の政治手腕が卓越しているのは、一貫して、低所得層、教育を十分に受けられなかった民衆に直接的に訴え、彼らの上昇を実現した点にあります。トルコでは、いまだにこういう人々が厚い層を構成しています。同じことは、国際的な舞台でも発揮されてきました。その意味で、エルドアン大統領は一貫してポピュリストと言えます。

しかし、EU諸国に台頭するポピュリズムが総じて難民・移民の排除、異文化への敵視を武器にしてきたこと対照的に、トルコではたとえばシリア内戦にともなって発生した難民を300万人近くも受入続けてきました。エルドアン大統領は、一度も難民を追い出せなどと言ったことはありません。イスラム主義のポピュリストというのは、イスラム的公正の実現を図らなければポピュリストたりえないからです。

イスラム圏の世俗的で西欧化した指導たちの多くが、エリート層と軍の支持を背景に強権的な体制を維持してきたことを考えれば、イスラム主義のポピュリストの方が、はるかに民主的であることを見落としてはならないと思います。

世俗主義の守護者としての軍部

――これまで軍部が大きな力を持ち、世俗主義を維持してきたトルコが、イスラム主義を受容していっている背景には何があるとお考えですか。

トルコの世俗主義というのは、フランスのライシテに近いものです。実際、トルコ語でもライクリキといって、フランス語のライシテから借用しています。社会のなかで公的領域に宗教が介入してはならない、個人も宗教を公的な領域持ち込んではいけないという厳しいもので、私たちが知っている政教分離とは異なります。このため、かつて敬虔なムスリムの女性がスカーフやヴェールをかぶっていると国立大学では学べず、国家公務員になることもできなかったほどです。

しかし、イスラムの神(アッラー)は絶対者であり、神の意思が及ばない領分を人間社会につくりだすという発想は、そもそもイスラムにはありえない。つまり、最初から、ムスリムのトルコ人は世俗主義を理解していたはずがないのです。理解したふりをしていたのは、一部の西欧化主義者の知識人や軍人に限られます。建国時にはフランスの世俗主義をモデルにしたのですが、トルコ国民のあいだにフランス社会の世俗主義がどういうものなのかを知る人は少なかったし、世俗主義を擁護してきた共和人民党(CHP)でさえ、宗教に敵対的な世俗主義を擁護するために、軍部に依存してきたことは否定できません。

――トルコはなぜそこまで世俗主義を徹底してきたのでしょうか。

建国の父ムスタファ・ケマル・アタテュルクが、イスラム国家だったオスマン帝国がヨーロッパ列強の侵略の前にもろくも崩れ去っていくのを目の当たりにしていたからです。困難な独立戦争を戦い抜いて、トルコ共和国は1923年に独立を達成します。西欧的な国民国家の樹立を目指すトルコでしたが、建国直後にイスラム国家の再現を願うイスラム主義者の運動が起こり、深刻な脅威となりました。アタテュルクは迷わず、イスラム指導者の政治介入を阻止し、一連の西欧化政策、世俗化政策を強硬に上から推し進めたのです。以来、1990年代になるまで、トルコでは近代化=西欧化=世俗主義の堅持というのが共和国のドグマでした。

しかし、ムスリムの民衆は、世俗主義というのが何を意味するのか、なぜ、国家とイスラムを切り離さなければならないのか、なぜ、個人が公の場でスカーフをかぶってはいけないのかを理解できませんでした。

そのため、世俗主義の不自由さが政治的主張となって台頭することを防ぐことはできなかった。軍部は、世俗主義を否定するイスラム勢力が台頭するたびに、クーデタのような強硬な手段でこれを弾圧してきました。1980年のクーデタ、1997年のエルバカン政権退陣には、世俗主義の決然たる擁護者としての軍、アタテュルクが苦労してつくりあげた国家の再イスラム化は許さないという国家の守護者としての軍の姿勢が示されていたのです。

――エルドアン氏もかなり軍部を警戒していたようですね。

そうですね。2007年の4月、一院制の国会であるトルコ大国民議会が大統領選挙を迎えたとき、与党の公正・発展党はアブドゥッラー・ギュルを大統領候補に立てました。この時も、ギュル氏がきわめて保守的なイスラム主義者であることを嫌った軍部が、そのことに懸念を持っていること、軍はトルコの世俗主義の決然たる擁護者であることをウエブサイトに表明しました。エルドアン氏は軍部の政治介入を危惧していました。

この時の大統領選は、軍部の介入以外に、議会制民主主義の危機というべき状況に陥りました。共和人民党は他の野党と共に選挙をボイコットし、大統領選出を妨害した他、選挙の無効を憲法裁判所に訴え、裁判所もこれを認めてしまった。政党が議場を放棄したうえに、野党のいない議場での選挙を無効と訴えたことにはあまりに無理があり、国民も野党のこの態度を議会制度に反するものと批判的でした。

この上、軍部が介入してきたら、トルコの民主主義は成立していないも同然です。この状況を懸念したエルドアン氏は議会を解散し、総選挙に打って出た。結果は公正・発展党が過半数を占め、やり直し大統領選挙では、右派の民族主義者行動党(MHP)が議場に来たため、3回目の投票でギュル大統領が誕生しました。

この混乱で、エルドアン首相は、大統領を国民の直接選挙とする憲法改正の国民投票を実施し、7割近い支持を得たのです。今年4月の憲法改正国民投票の背景には、2007年の大統領選挙での混乱がありました。

――民主主義をめぐって、軍部と政権側で緊張した関係が築かれていたのですね。

ムスリムの国でフランス型の世俗主義を採用したのは馬鹿げていたと思います。フランスの世俗主義は、西欧諸国のなかで、最も宗教に敵対的な世俗主義です。英国はそもそもそんなに厳格な世俗主義をとっていないし、国教会の存在さえ認めています。ドイツにはキリスト教民主同盟など、キリスト教的価値の尊重を柱とする政党がある。米国も、国の教会はもたず、あらゆる宗教に対して等距離を維持し、個人がどういう宗教実践をしても、それを頭から弾圧することなどありません。つまり、トルコの世俗主義者には気の毒なことですが、世俗主義は、最初からムスリム社会になじむはずがなかったと言わざるを得ないのです。

――そうした中で自然と世俗主義に対抗する流れがでてきた。

そうですね。ただ、エルドアン氏自身、イスラムを称揚したとして訴追され収監された過去がありますから、一気にこの国の世俗主義原則を撤廃してイスラム国家にすることなどできなかったし、そんなことは考えてもいませんでした。たしかに過去14年の公正・発展党政権下で、世俗主義の原則は弱められましたが、それは、信教の自由を公的領域にも拡大するという意味です。いまやスカーフを着用して公務員になることもできるし、もちろん、国立大学に通学することもできる。一方で、スカーフの着用を法律で義務付けるようなことはしていません。つまり、この間の世俗主義の弱体化というのは、ムスリムからみれば権利の拡大、信教の自由の拡大であって、それ自体が民主化の進展と評価されてきたのです。

あとは、世俗主義支持者とイスラム主義支持者の比率の問題でしかありません。公正・発展党政権が長期にわたって維持されているということは、少なくとも、世俗主義そのものが国政を選択する際の争点ではなくなったことを意味しています。それに、これまでのエルドアン政権下で飲酒が禁止されたわけでもないし、不倫(姦通)に刑事罰を科すようになったわけでもない。逆に、ワインの生産量など3倍近くに増加しているくらいです。

中東情勢トルコが要

――先日の国民投票では大統領制への意向が決まりましたが、トルコの政治体制はどのように変化するのでしょうか。

基本的にはあまり変化しないと思います。すでに書いた通り司法と軍部の政治介入をできないようにしたのが憲法改正の要点です。司法の独立が弱体化することは事実ですが、軍人の犯罪も一般法廷で裁かれるようになり、これまでクーデタを起こしても罪に問われなかった軍部に対して、政治介入への抑止力となります。

問題は、エルドアン大統領の後継者です。彼のカリスマ性だけで、崩壊寸前の中東問題を乗り切れるとは思えません。それに、あまりに権限を集中させてしまうと、次に能力に欠ける人物が大統領となった場合に、内政・外交ともに混乱する懸念がある。実際の権力機構としては、米国やフランスに近いが、議会による抑止力が弱い点ではロシア型の大統領制への移行といったほうが当たっているかもしれません。

――混迷する中東情勢のなか、転換期を迎えるエルドアン政権のトルコですが、今後どのようになっていくとお考えですか。

長いことこの国を見ていると、底流にあった再イスラム化への志向は、非常にゆっくりとしか進まないとみています。これまでのエルドアン政権というのは、信教の自由への制約を取り払うというかたちでの再イスラム化を実現しましたが、イランのようなイスラム指導者の統治ではありません。今後も、それはやらないと思います。

むしろ喫緊の課題は、中東の秩序崩壊です。具体的には、隣国シリア、イラクとの関係をどうするかでしょう。エルドアン政権はもう6年以上もおびただしいシリア難民を受け入れてきた。しかし、未来永劫、難民を受け入れ続けることはできません。

シリアからの難民は、圧倒的多数がアサド政権の暴虐を逃れてきた人々です。エルドアン大統領はアサド大統領の退陣を求めていますが、これは本気ではないでしょう。先のアスタナ(カザフスタン)でのシリア和平会合で、ついに「安全地帯」の設置が合意され、いくつかの地域でシリア政府軍の飛行は禁止されました。シリアに対するロシアのコントロールは確実に強化されつつあります。そこで、反政府勢力、特にスンナ派のジハード組織の背後にいるトルコが、これを抑え込めるかどうかが内戦終結の鍵となります。

しかしシリア危機に関しては、ロシアとトルコが保証国となって、アサド政権と反政府勢力を抑え込み、安全地帯に難民を帰還させないかぎり、根本的な解決にはならないでしょう。

――欧米諸国との関係はどうなっていくでしょうか。EU加盟などが注目をあつめた時期もありましたが。

西欧化=近代化路線をとってきた過去のトルコは、EU加盟に熱心でした。1960年代以降、半世紀以上もEUへの参加、つまりヨーロッパの一員となることを望んできた。しかし現在、EU加盟待望論はないと言ってよいでしょう。トルコのEU加盟へと駆り立てていたのは、もともとイスラム主義者の台頭を嫌う世俗主義エリートの願望でした。今やその勢力は弱体化し、それに伴いEU加盟への期待も薄れたのです。

加えて、2005年に正式加盟交渉を始めながら、加盟交渉の条件ではなかったキプロス承認問題を持ち出して加盟交渉を途絶させたEUの理不尽な態度は決定的でした。これを契機にトルコ国民がEU加盟に嫌気したうえ、この一年ほどで、EU諸国のなかでも、ドイツとオランダの反トルコ感情はきわめて強まりました。EU諸国には、現在、トルコの正式加盟に積極的な国は一つもありません。反対に、トルコの側にも、自らヨーロッパの一員をめざす意欲はありません。

――揺れ動く中東情勢の中で地域の要となるトルコの今後に注目したいです。内藤先生、お忙しいところありがとうございました。

プロフィール

内藤正典イスラム地域研究

1956年生まれ。1979年東京大学教養学部教養学科科学史・科学哲学分科卒業。1982年同大学院理学系研究科地理学専門課程中退。東京大学、一橋大学社会学部を経て2010年より同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授。専門は、イスラム地域研究、欧州の移民問題著書に、『となりのイスラム』ミシマ社、『イスラム戦争』集英社、『トルコ、中東情勢の鍵を握る国』集英社など多数。

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