2018.01.19

ロヒンギャ人道危機を理解するために必要な視座

倉橋功二郎 参加型プロジェクトマネジメント

国際 #ロヒンギャ

はじめに

2017年12月に国境なき医師団が発表した推定値によると、最低でも6,700人のロヒンギャの人々が、ミャンマー・ラカイン州北部において2017年8月25日以降に殺害されている(注1)。この数値はミャンマーを逃れ、国境を超え、バングラデシュまでたどり着いた人々の証言をもとに算出したものであるため、国境を越えずに亡くなった人たちも考慮した場合、実際の数値はさらに増加するだろう。

(注1)Médecins Sans Frontières. “Myanmar / Bangladesh: MSF surveys estimate that at least 6,700 Rohingya were killed during the attacks in Myanmar.” December 12, 2017 http://www.msf.org/en/article/myanmarbangladesh-msf-surveys-estimate-least-6700-rohingya-were-killed-during-attacks

同年11月には、国際人権NGOであるヒューマンライツウォッチにより、ラカイン州北部において、ミャンマー国軍および治安部隊によるロヒンギャの女性を対象とした大規模な性的暴行を告発する報告書も発表されている。この報告書はバングラデシュに逃れてきた52人のロヒンギャ女性へのインタビューをもとに作成しており、彼女らが経験、目撃してきた集団レイプ、殺人、暴行などの非常にむごたらしい現実が記されている(注2)。

(注2)Human Rights Watch. “All of My Body Was Pain” – Sexual Violence against Rohingya Women and Girls in Burma (2017)

2017年8月25日に発生した「アラカン・ロヒンギャ救世軍」を名乗るロヒンギャ武装勢力によるミャンマー警察や軍施設への襲撃は、ミャンマー国軍による容赦ない掃討作戦を引き起こし、60万人以上のロヒンギャが隣国のバングラデシュへ避難することとなった。同年9月にはゼイド・ラアド・アル・フセイン国連人権高等弁務官は「民族浄化の例として教科書に出てくるようなケース」として、この悲劇的な状況を形容したわけだが、今世紀最大の人道危機とも言われるロヒンギャの不幸は未だに解決の目処が立っていない。

多くの人道危機と同様に、 ロヒンギャの苦難を理解するためには、長い時間をかけて複雑に捻れ絡まりあった様々な背景を注意深く読み解いていく必要がある。本論考においては、現在もなお進行するロヒンギャ危機に対して少しでも理解が高まるよう、ロヒンギャ危機の主な舞台であるラカイン州およびミャンマー国内の背景を解説したい。

ラカイン州で続く複数のクライシス

ミャンマー南西部に位置するラカイン州は、西をベンガル湾、東をラカイン山脈に挟まれており、北部はバングラデシュと国境を接している。2014年の国勢調査によると約320万人が州内には居住しており、その内100万人強がロヒンギャと自らを名乗るイスラム教徒の民族である。

ラカイン州はミャンマー国内でももっとも貧しい州の一つとして知られており、ラカイン州と同様に地理的に孤立している隣のチン州と歴史的に貧しさを競ってきた。2014年のUNDPの分析によると、ラカイン州内における貧困率は78%と、ミャンマーの平均貧困率38%に対して非常に高くなっている。

このラカイン州が世界的な注目を集めるのは、つねに危機的状況が州内に発生した時である。

2012年の6月および10月には、ラカイン州内に住むマジョリティ民族であるラカイン人とロヒンギャとの間に大規模な暴動が発生した。5月末に発生したムスリム男性による仏教徒女性のレイプおよび殺害が引き金となり、暴動はラカイン州内各地に広がり、200人以上の死傷者が発生し、1万軒以上の主にロヒンギャの住んでいた家屋が破壊された。

ミャンマー政府によって非常事態宣言が出され、最終的には14万人以上の人々が避難生活を余儀なくされた。国内避難民となった人々の大半はロヒンギャであり、治安の悪化を恐れた政府により、多くの避難民は国内避難民キャンプに隔離された。現在でも12万人以上のロヒンギャは、ミャンマー中部に集まる国内避難民キャンプでの生活を強いられている。

2012年の暴動が人道危機として世界に知れ渡るようになると、人道支援の資金が貧しいラカイン州内に流れ込むこととなった。前述の通り、ラカイン州はミャンマー国内においても非常に貧しい州だが、長く続いた軍事政権のもと、多くのドナー国はミャンマーの経済開発を支援するための資金拠出を止めていた。

そのような背景もあり、急速に避難民キャンプに流れ込む、ロヒンギャのみを主なターゲットとした国際コミュニティからの援助に、ラカイン人はフラストレーションを募らせてゆき、2014年3月にはラカイン州内で活動する国連や国際NGOの事務所への襲撃が発生した。幸いなことに被害を被った人の数は少なかったが、約300人の援助関係者が緊急避難することとなり、避難民キャンプへの支援も一時的に中断された。

2015年にはベンガル湾/アンダマン海を漂流し続けるバングラデシュ人およびロヒンギャの人々が、東南アジアの移民危機として世界に報道されるようになる。苛烈な迫害や非人道的な扱いを逃れて、ラカイン州あるいはバングラデシュ南部からタイやマレーシアへ向かうロヒンギャの移動については、過去にも報告がなされていたが(注3)、2012年の人道危機以降、その数は急激に増加していた。

(注3)Lewa, Chris. “Asia’ s New Boat People Myanmar’ s Forgotten People.” Forced Migration Review 30 (2008). 40-42

UNHCRの報告によると、2012年より2015年の間に同地域より海上ルートでの移動を試みた人の数は17万人に達するとされている(注4)。多くは非合法な業者の手に頼らざるをえず、小さなボートに無理やり詰め込められて目的地に向かうわけだが、2015年に多くのボートの経由地であったタイでの取り締まりが厳しくなると、業者が連れてきた人々を海上に置き去りにしてしまうという事態が発生した。

(注4)UNHCR Regional Office for South-East Asia. Mixed Maritime Movements in South-East Asia 2015 (2016)

同レポートによると2015年の前半には約3万人がこのルートを使い、同地域からの脱出を試みたとされるが、この時期には5,000人が海上に取り残され、370人が死亡したことが報告されている。

2012年の暴動が発生してから4年が経過しようとしていた2016年は、危機的状況が頻繁に発生していた過去数年間に比べて、8月に大規模な洪水がラカイン州内を襲ったことを除き、状況は落ちついているように見られた。とはいえラカイン州内のロヒンギャを取り巻く環境に変化はなく、キャンプ内外において貧困は相変わらず蔓延しており、ラカイン人とロヒンギャの関係にも改善は見られなかった。

8月にはコフィ・アナン前国連事務総長を委員長とする諮問委員会が設立され、同年4月に発足したミャンマー新政権のもと、ラカイン州が直面する問題に対して政府主導で対処していく体制が整いつつあるかのように思えた。しかし、そのような楽観的な観測に反して、10月9日にラカイン北部・マウンドーで発生した襲撃事件は、ロヒンギャをめぐる暴力の問題に新たな局面が加わることを示すものとなった。

2016年10月9日にマウンドー・タウンシップで発生した新たな「人道危機」は、9日未明に武装したロヒンギャのグループ数百名が、マウンドーの国境警備隊の事務所3箇所を襲撃したことにより始まった。ミャンマー政府の発表によると、襲撃の際には警備隊9人が殺害され、武装したロヒンギャグループの8人が死亡し、2人が拘留されたとされている。

襲撃後直ちに現場へのアクセスは封鎖され、ミャンマー国軍による掃討作戦が開始された。これと共にラカイン州北部への人道支援団体のアクセスも閉ざされ、掃討作戦という名の下に何が行われているのか不明な状況が続くこととなる。ミャンマー国軍による主にロヒンギャを対象とした人権侵害が懸念され、ヒューマンライツウォッチは衛星画像を分析した上で多くの建造物が破壊していることを指摘し、ミャンマー政府に対して正当な調査の開始を求めた。最終的には9万人が避難せざるを得ない状況に追いやられた。

そして2017年8月25日には武装したロヒンギャグループによる再襲撃がラカイン州北部で発生し、現在も危機的な状況が続いている。

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ラカイン州の州都であるシトウェーの風景。シトェーではロヒンギャは隔離されているため、街中でロヒンギャを見かけることはない。

ロヒンギャとは誰か

危機的状況がラカイン州内に発生するたびに、ロヒンギャはミャンマー国内のみならず世界的なメディアに取り上げられることになる。その際に必ず問われることは、「ロヒンギャとは誰か」という問いである。

国際社会で語られる典型的なロヒンギャの説明は以下のようなものである。

ロヒンギャとはミャンマー北西部ラカイン州に住むイスラム系の民族であり、2017年8月に大量の難民が発生する以前は、ラカイン州内には100万人ほどの人口が居住するとされてきた。ミャンマー政府によってロヒンギャは正規の国民として認められていない。また、ミャンマー国内ではバングラデシュより非合法に流入してきたベンガル人として捉えられており、長い間、迫害を受けてきた、国籍を持たない民族としては世界最大の民族である。

本論考の目的はロヒンギャの民族としての正統性を歴史的に検討することではないため、ロヒンギャの土着民族としての正統性を詳細に検証することは行わないが、以下ではロヒンギャ問題を考えるにあたり非常に重要となる2つの視座を示しておきたい。

まず重要なのは、国民としての正統性の有無を理由に、特定の集団に対して暴力を行使することはいかなる状況であれ許されることではない、という当然の事実である。

1948年にイギリス統治下より独立して以来、ミャンマーは近代国民国家を建設するための苦難の道を歩んできた。その間に「135の民族が、ミャンマー国内を出身とする土着の民族である」という認識が生まれ、国民の間に普及することとなったのであるが、ロヒンギャがそういった国民の物語に主要な登場人物として組み込まれることはなかった。

ロヒンギャへの迫害としてこれまでに報告されているものは、レイプ、性的暴力、集団虐殺、家屋の破壊といった原始的な暴力を伴うものから、移動や信仰の自由、教育の機会および医療サービスの制限など多岐に渡る。これらすべては基本的人権を構成する要素であり、国籍の有無、あるいは正統な国民としての認識を得られていないことを理由になおざりにされることは許されない。

また2点目として、ロヒンギャはミャンマーの歴史上、一貫して無国籍者の集団として取り扱われてきたわけではなく、事後的に国籍を奪われた民族である、という点も決して軽視されるべきではない。

現在ミャンマーと呼ばれる地域において、国籍ないしはシティズンシップが制度化されたのは比較的最近のことである。1948年に独立して以降も、1951年以前はこの領土内に住まう人々は正式に国民として登録されていたわけでは無く、多くは身分証を所持していなかった。1952年以降、12歳以上にはNational Registration Card (NRC)が発行され、ロヒンギャの一部にもこの身分証は発行されたのであるが、ミャンマー国内の他の少数民族地域同様に、すべての人々がそのカードを得たわけではなかった。

1982年に新しいシティズンシップ法が制定された後、この新しい法律の求める要件を満たすものに対してNRCの代わりにCitizenship Scrutiny Card (CSC)が1989年に発行された。しかしながら、ロヒンギャに対してはNRCを返還した後もCSCが発行されることはなく、ロヒンギャは恣意的に法的な身分を証明する書類を取り上げられることとなり、当然のごとく、この処置によりロヒンギャは新たに無国籍となった。

その後、1995年には、ロヒンギャに対してTemporary Registration Certificate (TRC)という証明書が発行されるようになるが、これはあくまでの法的な身分が確定されるまでの一時的な書類と見なされており、1982年のシティズンシップ法が規定する3種類のシティズンシップのいずれかを保証する証明書ではなかった。2015年になると身分を証明する唯一の書類であったTRCまでもが失効することとなり、現在も不安定な身分が続いている。  

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ラカイン州内は川が多いが、橋梁が少ないため、アクセスが船のみの村も未だに多い。

ロヒンギャの苦難

現在、ラカイン州北部および避難先のバングラデシュにおいてロヒンギャを襲い続ける危機的な状況は、近年、突如として、発生したわけではない。シティズンシップをめぐるミャンマー(ビルマ)政府のロヒンギャへの差別的な対応の歴史に関してはすでに概略を述べたが、ロヒンギャないし現在のラカイン州に居住していたイスラム教徒たちの苦難はビルマ独立以前から歴史的に長く続くものである。

1826年に現在のラカイン州に当たる地域が英国領インドの属領となると、ベンガルからさらに多くのイスラム教徒がこの地域に流入してきていた。帝国主義の煽りを受け、第2次世界大戦中の1942年には、英国の支持を受けたラカイン人と日本の支援を受けたイスラム教徒が激しく対立することとなり、このことは両者の関係に歴史的な大きな傷を残すこととなる。

ビルマ連邦がイギリスより独立した後も、決して両コミュニティの関係は改善されず、1970年代半ばに不法移民の一掃を狙うナガミン(ドラゴン王)作戦と呼ばれる軍事作戦がビルマ全土で開始されると、ラカイン州内でも暴力的な排斥運動が展開され、20万人を超えるイスラム教徒がバングラデシュへ逃れることとなった。

同様に1990年代に入り、ラカイン州北部に大量の国軍が配置されると、その圧政に耐えられず25万人のイスラム教徒がふたたび難民と化した。そして前述の通り、2012年には コミュニティ間の暴動が発生し、12万人を超える人々が避難し、隔離される状況が起こり、2017年には60万人のロヒンギャがバングラデシュへ避難し難民化するという大惨事が発生するに至る。

現在も続く、ミャンマー国軍がラカイン州北部にて展開している軍事作戦に関しては、国際コミュニティの該当地域へのアクセスが著しく制限されていることもあり、その詳細を知ることが非常に難しくなっている。

しかしながら、冒頭にも述べた通り、国境なき医師団やヒューマンライツウォッチといったNGOがバングラデシュに逃れた人々に行った聞き取り調査をベースにしたレポートは、ミャンマー国軍の手により非常な人権侵害が行われていたことを指摘している。

また2017年2月に国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)が発表した、2016年10月に発生した、ロヒンギャの武装勢力による国境警備隊事務所襲撃に対する掃討作戦に関するレポートは、ラカイン北部において現在も進行する悲劇を推測するうえで参考となる。

このOHCHRレポートはバングラデシュに逃れた220人のロヒンギャの聞き取り調査をもとに作成されたものであり、具体的な被害者の推定値は算出されていないが、掃討作戦が引き起こしたとされる数多くの惨事を記している。

報告されている残虐行為に含まれているものは、集団レイプ、性的暴行、銃を用いた殺害、ナイフを用いた殺害、焼死、拷問、家屋やコミュニティ施設の破壊、放火、未成年者殺害などがある。ミャンマー政府は、指摘されている人権侵害に関しては国軍の関与は確認されなかったという立場を取っており(注5)、おそらくこの見解が翻されることはそう簡単には起きないであろう。

(注5)Human Rights Watch “Burma: National Commission Denies Atrocities.” August 7, 2017 https://www.hrw.org/news/2017/08/07/burma-national-commission-denies-atrocities

しかし、このレポートが非常に興味深いのは、一連の残虐行為に一体誰が関わったかについての記述である。ロヒンギャ側の武装グループを除く本惨事のメインプレーヤーとして、報告書は以下の5つの集団の関与を指摘している。

まずミャンマー政府の治安部隊としてミャンマー国軍、ロヒンギャ勢力の襲撃の対象となった国境警備隊、およびミャンマー警察の関与が指摘されている。これらの政府組織に加えて指摘されているのは、最近になって治安部隊に雇われることとなったラカイン人村民、および治安部隊を個人的に支援し残虐行為に参加したとされるラカイン人村民である。

ミャンマー治安部隊の勢力に自ら加担し、ロヒンギャに対して残虐行為を行なったとされるラカイン人とはどのような人たちなのであろうか。

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ラカイン州中部のロヒンギャが住む村の女性たち。村の生活を聞かせてもらうために女性たちに出てきてもらった時の写真。

ラカイン人の苦悩

ラカイン人とは主にミャンマー国内に居住する仏教徒の少数民族であり、 ラカイン州にはラカイン州全人口の6割に当たる200万人のラカイン人が居住しているとされる。

ラカイン人はビルマ語とは区別されるラカイン語を話し、ミャンマー国内のカレン人やシャン人といった他の少数民族と同様に、長い間、ミャンマー政府による圧政に苦しんできた民族である。言わずもがな、ラカイン人はロヒンギャ問題を構成するキーグループの一つであり、ロヒンギャが直面する数多くの問題を理解するためには、ラカイン人自身が歴史的に経験してきた苦悩を無視することはできない。

ラカイン人とミャンマー国内のマジョリティ民族であるビルマ人の間に見られる何重にも捻れた関係性は、長い時間をかけて歴史的に形成されてきたものである。

現在ラカイン州と呼ばれている地域は、1948年に独立を達成したビルマ連邦の一部となり、1974年には少数民族州としての地位を得た。しかしながら、長いラカインの歴史において、ビルマ人に支配されていた時期は非常に短い。それは、15世紀より続いていたラカイン人の統治するアラカン王国が、ビルマ人勢力に制圧された1785年から、英国の属領となる1826年までの間にすぎない。ビルマ連邦が独立した後も、ラカイン人たちはビルマ人による統治を素直に受け入れることはなく、他の少数民族同様に中央政府に対する抵抗が続いた。

ラカイン人のビルマ人に対する複雑な感情は時代とともに変化してきているが、現在でも多くのラカイン人は、ラカインはビルマ人によって経済的・政治的に長い時間をかけて周縁化されてきたと認識している。

たとえば、軍事政権下のミャンマーにおいて、ラカイン人はラカイン州内の政治からは排除されてきており、数多くの強制労働や性暴力などの人権侵害の被害にも遭ってきた。

また2015年の総選挙の際には、ラカイン人が率いるArakan National Party(ANP)が州内で最大数の議席を得たにも関わらず、アウン・サン・スー・チー率いるNational League for Democracyがラカイン州の州首相にANPのメンバーを選ばなかったことにも多くが不満を表した。

加えて、自然資源が豊富なラカイン州が、もっとも貧しい州の一つであり続ける現状についても、多くのラカイン人は、ビルマ人によって、ラカイン州の富が収奪されているからだと説明する。

一方ラカイン人は、ラカイン州内に居住するロヒンギャに対しても、長年にわたって不満を募らせてきた。このことはラカイン人にとってロヒンギャが人口学的な恐怖として認識されていることが端的に示している。

ラカイン州は歴史的に隣国のイスラム教徒との交流が盛んな地域であったが、英国による統治が進行すると、英国領インドからのイスラム教徒の流入がミャンマーの他地域同様に増加した。ラカイン州におけるイスラム教徒の増加は、ラカイン州内における主要な民族としてのラカイン人の地位を脅かすものであると見なされ、古くからラカイン人によって危惧されてきた事柄であった。

近年、ミャンマー国内での民主化が徐々に進行していくにつれ、少数民族の置かれた国内政治状況にも変化が出始めてくると、ラカイン人のロヒンギャに対する不満・恐怖感はますます強化されるようになった。

2012年の暴動以降、ロヒンギャに対して国際コミュニティから提供されるようになった人道支援に対して、本来はラカイン人が受け取るべき国際支援をロヒンギャが不当に奪っていると捉えるようになり、2014年には国連や国際NGOの事務所を襲撃する事件にまで発展した。

同時にロヒンギャが国際的な注目を集め、新たな政治的主体としてミャンマー社会に参入してくる可能性に対しても、ラカイン人は強い危機感を持つようになった。対ビルマ人との関係において長い時間をかけて周縁化されてきたラカイン人にとって、ロヒンギャは自らの地位をさらに周縁化する新たなる脅威として映るようになったのである。

ますます複雑化するロヒンギャ危機

現在も進行するロヒンギャ危機は、もはやラカイン州内のみに着目しているだけではその全容を理解することはできない。国連やアメリカ、ヨーロッパ諸国は、ミャンマー政府によるロヒンギャへの人権侵害をやめさせようとミャンマー内外からコンスタントにミャンマー政府に圧力をかけ続けている。

一方、 内政干渉としてロヒンギャ問題に関して沈黙を貫いていたASEAN諸国の中でも、インドネシアやマレーシアといったイスラム諸国は、長く続く非道な事態に対してミャンマー政府を名指しで非難することが増えてきている。

危機的状況が長期化するにつれ、ロヒンギャ問題が近隣諸国へも波及していることを2015年の移民危機は明らかにしてきた。ロヒンギャをめぐる状況がますます複雑化する中、今日もロヒンギャの命を脅かし続けているのは一体誰なのだろうか。

昨今のミャンマー国内における反ロヒンギャ感情の劇的な高まりを可能にしたのは、ラカイン州のみならずミャンマー国内に長く根付く反イスラム感情である。Graversが指摘する通り、ミャンマー国内での反イスラム感情は、反コロニアリズムの運動と密接に関連してきた(注6)。

 

(注6)Gravers, Mikael. “Anti-muslim Buddhist nationalism in Burma and Sri Lanka: Religious violence and globalized imaginaries of endangered identities.” Contemporary Buddhism 16, Issue 1 (2015). 1-27

英国統治下においては、国の統治と宗教が区別され、仏教徒たちは自らの宗教的価値観が軽視されていくことに危機感を感じていた。同時に、英国領インドから大量のイスラム教徒がミャンマー国内に流入してきたことも、仏教徒にとって恐怖として受け取られていた。独立前の1938年には、インド系イスラム教徒が出版した本をめぐる大規模な暴動がすでに発生している。

2011年にテイン・セイン大統領が就任し、ミャンマーが民主化の道を徐々に歩み始めるようになると、ミャンマー国内における反イスラム主義のダイナミズムは新たな局面を迎えることになる。ミャンマー国内において言論の自由が少しずつ認められるようになり、969運動やミャンマー愛国協会(Ma Ba Tha)といった仏教ナショナリズムを中心的な価値とする過激な愛国主義運動は、民族の壁を乗り越えて、ミャンマー国内の仏教徒の支持を広げていくことになる。

2012年にラカイン州で発生した暴動は、その後にマンダレー、バゴー、カチンといった地域にも飛び火した。また2015年にはミャンマー愛国協会の熱心なロビー活動が奏効し、イスラム教徒に対して非常に差別的な人口管理政策を正当化する4つの法律が制定された。昨今のロヒンギャへの暴力に関するビルマ人とラカイン人との共犯性は、このようなミャンマー国内で絶大な支持を得る反イスラム感情に支えられている。

こういった過激な愛国主義運動は、近年際立って改善されたインターネットを含む情報通信技術の発達にも支えられている点も無視することはできない。ミャンマー国内では、100年以上もミャンマー国営通信事業者が通信サービスを独占して提供してきたが、通信業に関する規制緩和が進み、2014年より外資の通信事業者が業務を開始すると、国内での携帯電話の普及率が一気に上がり、インターネット利用者数も急激に増加した。しかし、このような通信インフラの変化は単純に、ミャンマー国内の民主的な言論空間が拡大されたことのみを指すわけではなかった。

ラカイン州内に居住する当事者の他にも、世界中に広がるディアスポラのロヒンギャやビルマ人、ラカイン人が、ラカイン州の危機的状況に関する言説の生産に積極的に関われるようになり、ロヒンギャ危機に関連する流言やヘイトスピーチの生産、拡散にも関与するようになったのである。2017年8月に発生した襲撃事件などが起きると、根拠のない流言やヘイトスピーチがインターネットを介して瞬時に拡散され、人々の不安を必要以上に煽る事態が発生している。

一方、国際社会のロヒンギャ危機に関する関与も非常に複雑である。ラカイン州内における人道支援及び国際開発援助は、ロヒンギャばかりを対象としていて差別的であるとされ、国連や国際NGOの活動はつねにミャンマー政府やラカイン市民の監視のもとに置かれている。

また国連や多くのドナー諸国がミャンマー政府に対する批判を強めるたびに、ミャンマー国内の仏教徒間では反ロヒンギャ感情が高まることになる。ミャンマー国内ではこうした国際社会の姿勢に対する不信感が着実に醸成されており、2016年10月および2017年8月に武装ロヒンギャ勢力によるミャンマー治安施設への襲撃が発生した際にも、ラカイン州北部から逃れてきたラカイン人は国際社会から支援物資を受け取ることを拒否し、ラカイン州内のロヒンギャへの支援の提供も中断せざるを得ない状況が続いた。

国際社会によって生産されるロヒンギャに対する言説は、現実に生きるロヒンギャの人々の生活に直接の影響をもたらすことも忘れてはならない。ルクセンブルク人の歴史家であるJacques Leiderによるロヒンギャの歴史に関する研究が顕著な例である。彼はロヒンギャという言葉はもともと特定の民族を指し示す言葉ではなく、1950年代に入ると、現在ロヒンギャと自らを名乗る人たちによって、民族アイデンティティを示す言葉として政治的に使われることになったと指摘する。

このようなヨーロッパの学者によるロヒンギャ概念の歴史的形成に関する見解は、ミャンマーメディアでも取り上げられており(注7)、しばしば反ロヒンギャ勢力によってロヒンギャのミャンマー国内における非合法性を訴えるために援用される現実がある。

(注7)The Irrawaddy. “History Behind Rakhine State Conflict.” The Irrawaddy, September 1, 2017. Accessed January 11, 2018 https://www.irrawaddy.com/in-person/interview/history-behind-arakan-state-conflict.html

現在、民政移管の真っ只中にあるミャンマーは、急激にミャンマー国外に開かれてきており、国際社会からの援助を受けつつ、より広大な国際システムとしての「自由で民主的な国民国家システム」に取り込まれつつある。そのような環境の変化を受け、ロヒンギャ危機自体もより複雑で、より多くのプレイヤーを巻き込んだグローバルな問題として変化しつつある。

よって現在のロヒンギャ危機を理解するためには、密接に関連するミャンマー国内で急速に変化し続ける政治状況や、ミャンマーと国際社会との関係にも細心の注意を払う必要がある。そして同様に、決して一枚岩ではなく、滅多にメディアに取り上げられることのないロヒンギャあるいはラカイン人自身が、ロヒンギャ危機の解決に向けて今後何を望むのか、忍耐強く彼(女)らの複数の声を聞くことも必要になるだろう。

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 ロヒンギャが住む村でコミュニティミーティングを開いた時の写真。海外からの支援がほとんど届いていない村だった。

終わりに

本論考においては、現在もなお世界的に注目を集めるロヒンギャ危機への理解が高められるよう、ロヒンギャ危機を理解する上で必要とされる基礎的な視座を提示した。

まずは、ロヒンギャは歴史的に長い時間をかけて様々な危機を経験してきたことを説明した。加えて、ロヒンギャと同様に様々な苦難を長い期間をかけて経験してきたラカイン人の背景にも言及した。最後に、現在のロヒンギャ危機はより複雑化しており、ラカイン州内のみならず、ミャンマー国内の政治的状況や、ミャンマーと国際社会との関係にも注意を払う必要があることを指摘した。

ロヒンギャ危機の複雑な背景を理解すればするほど、その困難さ、解決策の見えなさに直面せざるを得ない。だが少なくとも、「ラカイン人仏教徒」対「ロヒンギャのイスラム教徒」といった過度に単純化された宗教間対立としての理解や、「援助者」と「被援助者」の非対称的な力関係を内在した既存の援助スキームは、ロヒンギャ問題の根本的な解決には資さないと言えるだろう。こうした単純化した見方や不平等な力関係に依拠しない、新しい国際人道・開発支援の知識や実践の必要性を、ロヒンギャ危機は私たちに訴えかけている。

プロフィール

倉橋功二郎参加型プロジェクトマネジメント

2013年11月より2017年9月までジャパンプラットフォーム、国際機関などの勤務のためにミャンマーに居住。2016年8月からはラカイン州でのコミュニティ開発事業に従事した。専門は紛争の影響を受けた地域における参加型プロジェクトマネジメント。https://kojirocks.blogspot.jp/

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