2018.05.11

化身ラマを人類学する!――季刊民族学・シノドス共同運航便

島村一平 文化人類学・モンゴル研究

国際 #化身ラマ

『季刊民族学』とウェブ上のアカデミックジャーナル「SYNODOS」とのコラボレーションが実現しました。本特集記事「モンゴル仏教と化身ラマ――あるいは生まれ変わりの人類学」のうち3 編が誌面を飛び出して「SYNODOS」に登場します。ウェブ媒体と紙媒体のマリアージュをどうぞ。

表紙写真 遠くを見つめるガチェンラマ寺院の僧院長 撮影:島村 一平

ダライ・ラマの半生を描いた映画「クンドゥン」(マーティン・スコセッシ監督作品、1997年)の冒頭シーンは印象的だ。

1937年、チベット・アムド地方のある寒村でのこと。貧しい農家の中でひとつの試練が始まろうとしていた。ロウソクが灯る薄暗い部屋の中、机の上にチベット仏教のさまざまな法具が2つずつ並べられている。腰をかがめた高僧が、この農家の4歳の幼子に尋ねて言った。「どっちが君のだい?」「こっちだよ」幼児は大小2組の手太鼓から小さな方を選びとった。「じゃあ、これは」「こっちだ」今度は鐘である。そして眼鏡。最後に2組の杖が差し出される。「こっちが僕のだ!」笑顔で叫びながら幼児は黒い杖を選び取った。その瞬間、高僧は両手を合わせながら思わず目をつむる。そして鼻から息を大きく吸い込んで、こう呟いた。

「クンドゥン(法王猊下)!」

チベット仏教最大の化身ラマ、ダライ・ラマ14世の誕生の瞬間である。実は、幼児が選び取った法具は3年前に遷化(高僧が亡くなること)したダライ・ラマ13世の持ち物だった。前世が使っていた正しい法具を選び取ることで幼児は、前世の化身(生まれ変わり)だと認定されたのである。

バルダン・ブレーベン寺院の幼い化身ラマ(中央)と側近のラマたち。1928年

所蔵:モンゴル科学アカデミー歴史学・考古学研究所

本特集のテーマは、ダライ・ラマに代表される「化身ラマ」たちの世界である。ただし、その舞台はチベットではなく、モンゴルである。実はチベット仏教とモンゴル仏教は大きな重なりがある。まずチベット・モンゴル仏教に共通する大きな特徴として挙げられるのが、如来や菩薩、偉大な仏教修行者の「化身」すなわち、生まれ変わりとして崇拝される化身ラマ(転生活仏)の存在である。チベット語で「トゥルク」と呼ばれる化身ラマは、モンゴルでは、ホトクト(聖人(しょうにん))やホビルガーン(化身)、ゲゲーン(上人)などと呼ばれている。また現代モンゴルでは化身ラマのことを「生き仏(amid burkhan)」つまり活仏と呼んで崇拝したりもする。研究者によっては「活仏」を正しい訳語でないとみる者もいる。本特集では基本的には「化身ラマ」という語を使うものとするが、現地の信仰者の立場を重視し「活仏」という言葉も排さないでおこう。

いずれにせよ、こうした化身ラマの代表格が、観音菩薩の化身とされるダライ・ラマだ。意外なことにダライ・ラマという称号は、モンゴル人王侯が生み出したものだ。1572年、モンゴルのトゥメト部のアルタン・ハーンは、ゲルク派の高僧ソナムギャンツォに帰依し、ダライ・ラマの称号を贈ったのである。ダライ(dalai)とは、モンゴル語で「大海」を意味する。こうしてモンゴル王侯とチベット仏教は、仏教の施主と帰依処という相互依存的な関係を築いていった。ちなみにチベットの都ラサのポタラ宮殿にしてもグシ・ハーンのようなモンゴル王侯の莫大な寄進によって築かれたことで有名だ。

こうしてモンゴル高原に「チベット仏教」は急速に広まっていった。清朝期になると、モンゴル高原に多くの清朝公認・非公認の化身ラマが現れるようになる。その代表的な存在の一人が、ジェプツンダンバ・ホトクトである。この化身ラマは、ダライ・ラマ、パンチェン・ラマに次ぐチベット仏教ゲルク派で第3位の名跡であるが、初代はなんとチンギス・ハーンの血筋を引く王侯の息子だった。すなわちチベット仏教は、文化史的にはチベット文化とモンゴル文化の複合体として発展していったのである。

というわけでチベット仏教は、チベット・モンゴル仏教というべきだという研究者も少なくない。ただし、この特集が扱うのは――本来は不可分ではあるが――「モンゴル仏教」の部分である。

ウブルハンガイ県、2016年 撮影:島村一平

なぜモンゴルなのか。実は現在、モンゴル高原では、かつて途絶えた化身ラマたちの転生者が次々と現れているのである。モンゴル高原の北側部分のモンゴル国は、20世紀を通してほぼ社会主義国だった。南側の中国・内モンゴル自治区にいたっては今も一応、「社会主義国」だ。社会主義は宗教を嫌う。ところが社会主義が崩壊したモンゴル国では、何十年も途絶えていた化身ラマの伝統が今、復活しているのである。中国・内モンゴルでは、改革開放期以降、何と共産党が化身ラマを認定し、身分証すら発行しているらしい。興味深いことに、モンゴル西部の化身ラマの転生者がアメリカで「発見された」事例すらある。

そもそも化身ラマは、位が高ければ高いほど、北インドに居するダライ・ラマ法王の認定を必要とする。しかしその選定作業は、モンゴル国内の地域の政治的な駆け引きとも深くかかわっている。なぜなら化身ラマは、いったん認定されると、彼をめぐって人とカネが集まり寺院が建てられるといった、大きな社会の結節点となるからである。

そう。実は映画の神秘的な描写とは裏腹に、現実の化身ラマ探索をめぐる舞台裏では、もっと人間臭いドラマが繰り広げられているのである。化身ラマの選定に暗躍する人びともいる。さまざまな駆け引き(ポリティクス)もある。もちろん、選ばれた本人にしても、化身ラマになることに対する逡巡もある。化身ラマとなった者にすり寄る者、去っていく者。

本特集では、こうした神秘のベールに包まれた化身ラマの舞台裏を垣間見ていきたい。

なお本特集は、日本学術振興会の科学研究費補助金・基盤研究A「モンゴル仏教のグローカル実践に関する学際・国際的地域研究」(研究代表者:島村一平・課題番号16H02719)の成果の一部である。

プロフィール

島村一平文化人類学・モンゴル研究

滋賀県立大学人間文化学部准教授・博士(文学)。モンゴルのシャーマニズムをナショナリズムやエスニシティとの関連から研究してきた。その他の関心領域としては、ポピュラー音楽、現代におけるチンギスハーンを巡る言説や表象、鉱山開発による社会変容など。2013年度日本学術振興会賞、地域研究コンソーシアム賞、2014年度大同生命地域研究奨励賞をそれぞれ受賞。

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