2019.01.28
グダンスク市長襲撃事件――英雄ではない私たちが憎悪の波を止めるために
2019年1月13日、日曜日の夕方、グダンスク駅近くの広場では、医療支援のための音楽イベントが行われていた。「クリスマス・チャリティ大オーケストラ」(WOŚP)と呼ばれるこのキャンペーンは、グダンスク出身でテレビやラジオ番組の司会者として知られるイェジ・オフシャクの呼びかけにより27年前から続いており、赤いハート型のステッカーをポーランドの家庭や町中のあちこちで目にする。この日の夜は、フィナーレに「オーケストラのためのグダンスク」と題された屋外コンサートがあり、集まった人々の手にする明かりの金色の光の点が無数に広がっていた。
8時からの打ち上げ花火を前に、ステージ上では、主催者らに手持ちのスパーク花火が数本ずつ渡され、グダンスク市のパヴェウ・アダモヴィチ市長も、左手にまとめた花火を掲げて正面の広場の観客に笑顔を向けていた。
「・・・6、5、4、3、2、1、さあ!」というカウントダウンに続いて、ステージ前面の仕掛け花火がはじけ、会場に歓声があがったのと、下手から黒いニット帽をかぶり黒いジャンパーを着た若い男が、アダモヴィチ市長に身体を低くして駆け寄っていったのと、ほとんど間がなかった。仕掛け花火と同時に出演バンドBlue Caféの「Zapamiętaj(憶えていて)」の演奏が始まっており、歌をバックに、黒いジャンパーの男は(相手を倒したボクサーがするように)両手をあげてステージの上を歩き回った。
Dobro dziel bez końca, 善は終わりなく分け与えられる
gdy do przodu idziesz. あなたが先へ進むときには。
W sercu schowaj moment, 心のなかにしまっておいて
kiedy byłeś niżej・・・ 苦しかったときのことを・・・
歌が途切れ、伴奏だけ残るなか、マイクを通して声が流れた。バンドは間奏を繰り返しており、男の声ははっきりしていたから、観客は出演者の誰かが曲に乗せて話しているように錯覚したかもしれない。
「なあ、よう、俺の名前はステファン・W・・・だ。無実で監獄に入れられていた。市民プラットフォームが俺を拷問した。だからここでアダモヴィチは死んだんだ」
警備員が男を押さえ込み、少しして音楽は止まった。男はナイフで市長を複数回刺していた。
取り押さえられた27歳の男は、2013年、22歳の時に、グダンスクの銀行4か所を襲う強盗事件を起こして5年半服役し、刑期をおえて、2018年12月8日に出所したばかりであった。母親は戻ってきた息子の精神状態に危険を感じ、警察に相談していた。男は「市民プラットフォーム」が与党であった時期に不当に投獄され拷問を受けたと主張し、同党のアダモヴィチ市長をターゲットに恨みを晴らしたと話したとされる。
グダンスク大学付属病院に救急搬送されたアダモヴィチ市長は5時間に及ぶ手術を乗り切ったが、容態は深刻なままで、意識を取り戻すことなく翌14日に亡くなった(注1)。
(注1)“Paweł Adamowicz nie żyje. Prezydent Gdańska zmarł w poniedziałek, 14 stycznia 2019 r. Kondolencje składają osoby z całego świata”, Dziennik Bałtycki (2019-01-16), https://dziennikbaltycki.pl/pawel-adamowicz-nie-zyje-prezydent-gdanska-zmarl-w-poniedzialek-14-stycznia-2019-r-kondolencje-skladaja-osoby-z-calego-swiata/ar/13806349.
アダモヴィチ市長には9歳と16歳の娘がおり、妻マグダレナ・アダモヴィチはグダンスク大学において海事法を教えている(注2)。市長は折に触れてグダンスクに対する深い愛着を表明する「グダンスク人」であったが、先祖代々ここに暮らしてきたわけではない。
(注2)アダモヴィチ市長の経歴についてPaweł Adamowicz, “O mnie”, http://adamowicz.pl/o-mnie/[最終閲覧日:2019年1月21日]参照。
かつてダンツィヒと呼ばれ、第二次大戦前には住民の9割をドイツ人が占めていた港湾都市には、バルト海に開かれたハンザの一員としての自立した歴史や文化があり、一筋縄では解けない自由都市の風土は、ギュンター・グラスのような特異な作家を生んだ。
20世紀には世界史的な変化の波の起点となり、グダンスク近郊の岬ヴェステルプラッテは第二次世界大戦勃発の地として知られる。共産主義体制の崩壊を導くことになる東欧革命は、1980年にグダンスク造船所で結成された「工場間ストライキ委員会」(後の自主管理労組「連帯」)から始まった。2014年からEU理事会議長を務めるドナルド・トゥスクは、グダンスク出身であり、沿岸地域の少数民族カシューブ人の出自を持つ。
モトワヴァ運河と木造クレーン(2018年2月)
アダモヴィチの両親は、第二次大戦終結後の1946年に、ヴィレィンシチズナ(現在のリトアニア、ベラルーシに含まれる地域)からグダンスクへ移ってきた。彼らのように新しくポーランド領「グダンスク」となった都市に移ってきた人々は、戦争で破壊された市街地を復興し、近所の教会を再建することで、住民自らが都市の運営に参加していくという自治の気風を育み、実践しながら、生活の場と帰属先を自分たちの手で作っていった。
グダンスク造船所(2018年2月)
1965年生まれのアダモヴィチは、レフ・ワレサ(1943年生まれ)やアダム・ミフニク(1946年生まれ)ら、「連帯」メンバーとして、戒厳令下に拘束されながら民主化運動をけん引した世代とは20歳ほど年が離れている。アダモヴィチは1988年に、グダンスク大学の学生「連帯」委員会でストを主導したことで知られるが、一口に「連帯」に参加したといっても、ミフニクやワレサら共産主義体制との交渉を前線で担った人々の経験とは異なる。
アダモヴィチは1980年から84年まで、グダンスク第一普通科高校に通い、在学中に地下出版の発行と配布に関わり始めた。ワレサらが始めたストがポーランド全域に波及し、政府から譲歩を引き出した「8月合意」が、グダンスク造船所のホールにおいて署名された翌9月に、アダモヴィチは高校に入学し、同17日に、独立自主労働組合「連帯」が結成された。
そうした意味では、十代から二十代にかけての基本的な価値観が形成される時期に、当時「連帯」が獲得しようとしていた自由や民主主義の意味を身近に感じ、その理念を真に受けて育った最初の世代の一人であった。
体制転換後おおむね順調に2004年のEU加盟まで歩みを進めてきたポーランド社会は、2010年春にスモレンスクで起きた大統領機墜落事故に深い衝撃を受け、その反動から急速に愛国的な行動を求める言説が強まった。ソ連による支配から解放されて「復帰」したはずのヨーロッパ・アイデンティティは次第に後退し、2015年に右派政党「法と正義」の単独政権が成立すると、各分野への介入が公然と行われるようになった。
その過程で公共放送(TVP)やラジオ放送の内容が規制され、従来番組を作ってきたスタッフの多くが解雇された。とくにニュース番組の目的は、政府見解を伝え、野党が国益を損なっていると非難し、対外関係におけるポーランド国家の主張の正統性を訴えることに占められていった。こうした雰囲気は、とりわけ2018年のポーランド独立回復100周年が近づくにつれ常態化した。
独立回復100周年の節目は、強力な磁石のように、歴史上のあらゆる出来事をひきつけ、2018年を通じて何らかの記念日が来るたびに(その出来事の時期に関わりなく)、独立100年と結びつけてポーランドの近現代史が語りなおされた。
その際、かつては反ユダヤ主義的な「黒い英雄」として、存在を不可視化されていた右派の政治家ロマン・ドモフスキが、「建国の父」であるユゼフ・ピウスツキや初代首相イグナツィ・パデレフスキと共に並び称されるようになったことは、ここ10年間にポーランド社会の雰囲気がいかに大きく変わったかの指標であった。ドモフスキの復権は、体制転換と民主化を成し遂げた時代の象徴や言葉の内実が、内向きに閉じたナショナリズムへ置き換えられていくのと軌を一にしていた。
そうした変化を象徴的に表したのは、2018年9月1日にグダンスク近郊のヴェステルプラッテで行われた第二次世界大戦勃発79周年を記念する式典であった(注3)。午前4時45分、ヴェステルプラッテがドイツの戦艦シュレジヒ・ホルシュタインによって攻撃を受けたのと同時刻に、長いサイレンが鳴らされ、記念式典が始まった。
(注3)Anna Iwanowska, “79. rocznica wybuchu II wojny światowej – obchody na Westerplatte”, Portal Miasta Gdańska, https://www.gdansk.pl/urzad-miejski/79-rocznica-wybuchu-ii-wojny-swiatowej-obchody-na-westerplatte,a,123185[最終閲覧日:2019年1月21日].
グダンスク市長をはじめ、ポーランド政府の要人や各宗教コミュニティの代表が、式典においてスピーチし、祈祷を捧げた。前日(8月31日)は、グダンスク協定(1980年の8月合意)から38年目の記念日であった。
モラヴィエツキ首相はスピーチにおいて、第二次世界大戦の最初の数日間にポーランド防衛のために命を落とした人々について、「国民全体にとって独立以上に価値あるものはないと彼らは知っていた」とし、「誰もが自分のヴェスタープラッテを持っている」と付け加えた(注4)。これはヨハネ・パウロ二世が1987年6月に、グダンスクにおいて若者たちがコミュニズムに抵抗するよう触発した言葉である(注5)。モラヴィエツキ首相は次のように続け、スピーチを締めくくった。
(注4)“Premier Mateusz Morawiecki: Nie ma cenniejszej rzeczy dla całego narodu niż niepodległość”, premier.gov.pl (2018-09-01), https://www.premier.gov.pl/wydarzenia/aktualnosci/premier-mateusz-morawiecki-nie-ma-cenniejszej-rzeczy-dla-calego-narodu-niz.html.
(注5)Jan Paweł II, “Każdy ma swoje Westerplatte” (1987-06-12).
「この神聖な場所から、私はすべての同国人に(私たちを支持する人々だけでなく、反対する人々にも)思い出させたい。こうした場所が、合意の場となるように。・・・もっとも重要な日に、私たちは団結するべきである。その日とは11月11日であり、独立回復の100周年である。その時は共に独立行進に参加しよう。英雄たちに名誉と栄光あれ。」
このようにしてモラヴィエツキは、独立100周年、第二次大戦勃発、そして連帯運動の始まり(8月合意)を一つに結びつけ、それらすべてをヨハネ・パウロ二世の言葉によって包摂しつつ、その意味をナショナリスティックなものに限定したのだった。
個々の記念日(出来事)の文脈が本来異なるにもかかわらず、他の参列者たちもまた、これらの出来事を関連づけ、独立の価値、自由、連帯といった共通の諸要素を強調した。それに対して、アダモヴィチ市長のスピーチは、ヴェステルプラッテにおいてポーランドの兵士がヨーロッパで最初にナチスおよびソヴィエトの全体主義に抵抗し、ヨーロッパ的諸価値(自由、自立、デモクラシー)の防衛のために立ち向かったのだと位置づけ、次のように続けた。
「全体主義との私たちの格闘の終結が訪れたのは、ようやく1989年になり、連帯という偉大な平和運動によって、ヨーロッパの一角に私たちが占めるこの場所において、共産主義が崩壊したときであった。その間に私たちは知った。人の自由にとって、単一のグループによる権力の保持や、法に優越する政治的な意思以上に危険なものはないのだということを。私たちの目標は統一されたヨーロッパであった。
しかし今日、いかにこれらすべてのことが過去のものになってしまったか、そして、私たちが歴史から学んだことの影響力がいかに弱まっているかを私たちは目にしている。法の支配は疑わしくなっており、欧州連合における私たちの地位を損ないつつさえある。
その上、ポーランド人それぞれにとってもっとも重要な言葉――祖国、ポーランド、自由、ヨーロッパ――の意味や価値がどれほど変化しているかを私たちは目にしている。そうした変化は、合意のための架け橋ではなく壁を築いているのだ。」(注6)
(注6)“Uroczystości związane z rocznicą wybuchu II wojny światowej”, Onet Trójmiasto (2018-09-01), https://trojmiasto.onet.pl/uroczystosci-zwiazane-z-rocznica-wybuchu-ii-wojny-swiatowej/nf7rz82. “Fragment przemówienia Pawła Adamowicza”, Trojmiast.tv (2018-09-01), https://trojmiasto.tv/Fragment-przemowienia-Pawla-Adamowicza-29623.html.
モラヴィエツキ首相とアダモヴィチ市長、二人のスピーチは、同じキーワードを用いているにもかかわらず、異なる歴史観を語っており、アイデンティティの核となる重要な諸概念の意味の変化と縮小を示していた。
比較的開放的な空気を保ってきたグダンスクにおいても、第二次世界大戦博物館の展示や人事に関して「法と正義」の介入が起きており(注7)、体制転換と民主化を牽引した倫理感覚が、今となっては浮いて見えるような雰囲気がワルシャワから発信されるなかで、アダモヴィチの言動やそれを支えるグダンスクの地域共同体が変わらずに価値観を保とうとするとき、幾つもの紛争が表面化するのは避けられなくなっていた。
(注7)歴史家パヴェウ・マフツェヴィチは2000年から2005年まで国立記憶院(IPN)に務め、2008年11月から2017年4月まで、グダンスクの第二次世界大戦博物館(2017年3月から一般公開)の館長であった。
さまざまなアクターの歴史観を比較展示するという同博物館の理念に関して、設立が決定された2008年にはすでに「法と正義」のヤロスワフ・カチンスキが批判を始めており、2013年には展示が「ポーランドの視点」を表明する内容となるよう博物館のかたちの変更を求めた。
これに対しマフツェヴィチは「何をもってポーランドの視点とするのか、独占的に判断を下せる者などいない」と指摘し、「ポーランド人は互いに異なっており、それこそが、1989年以来我々が享受している独立した民主主義国家の擁する最大の価値の一つである」と応じた。
マフツェヴィチは8年間かけて準備してきた博物館を去ることになり、「法と正義」が推薦するカロル・ナヴロツキが後任となった。オリジナルの展示内容は変更され、マフツェヴィチは「博物館に損害を与えた」として検察の取り調べを受けた。Paweł Machcewicz, “Machcewicz jest już trupem. Powiedzieli mi to Joachim i Mariusz. Tak zniszczono Muzeum II Wojny Światowej”, Wyborcza.pl (2017-11-24), http://wyborcza.pl/magazyn/7,124059,22694644,machcewicz-jest-juz-trupem-powiedzieli-mi-to-joachim-i.html.
2000年代に入ってから、公共の場において存在感を増しつつある急進右派の諸団体に対し、アダモヴィチ市長は度々対決する姿勢を見せた。
2018年4月15日、国民急進陣営(ONR)が創設84周年に合わせてグダンスク中心街をデモ行進し、ファランガと呼ばれる旗印を掲げ、黒い服を着たメンバー約400人が、「偉大なポーランドこそ我らの目的」、「祖国の敵に死を!」とシュプレヒコールをあげた。行進はグダンスク旧市街の広場を通って市庁舎前を終着点とした(注8)。
(注8)Joanna Wiśniowska, “Adamowicz zapowiada: Będzie manifestacja przeciwko ONR”, Wyborcza.pl (2018-04-15), http://trojmiasto.wyborcza.pl/trojmiasto/7,35612,23272833,manifestacja-przeciwko-przemarszowi-onr-zbierzmy-sie-na-prodemokratycznej.html.
戦間期のONRは、ドモフスキの主導で設立された大ポーランド陣営(OWP)から分岐して、1934年4月に設立されたが、同年7月に政府により活動を禁止され非合法となった(注9)。現在のONRはこの団体の後継を自認しており、「極右ファシスト団体」との批判を受けている。この日、デモに先立って、ONRは創設記念日を祝う全ポーランド集会を行っており、会場に選んだのはグダンスク造船所のホールであった。「連帯」の始まりとなる8月合意が署名された歴史的な場所である。ONRはあえてこの場所を使った理由について、「ポーランド人のための連帯し偉大なポーランド――それが我らの目的である」とした。
(注9)Rafal Pankowski, The Populist Radical Right in Poland: The Patriots (London, 2010), p. 32.
「8月合意」が署名されたグダンスク造船所のBHPホール。ONRは創設84周年を記念する全ポーランド集会をここで行った。
この出来事を受け、アダモヴィチ市長は、「グダンスク造船所の歴史的なホール――つまり8月合意が署名された場所――から、それらの理念のまったくのアンチテーゼを叫びながら」ONRのメンバーたちが出てくる光景に、「グダンスクとグダンスク市民は、自由や連帯の理念を並外れて嫌悪感を催させるやり方で利用しようとした人々によって侮辱された」とコメントした。そして、グダンスク市民に向けて、「しかし恐怖は私たちを麻痺させることはできないのであり、だから、デモクラシーや自由、そして開かれていること――これらの価値を近しく感じる人たち皆を、4月21日土曜日12時に市庁舎の前に招きます」と訴え、反ファシスト集会へ参加するよう呼びかけた。
「グダンスクはナショナリズムとファシズムにNOと言う」を集会のスローガンに、ポーランド、グダンスク、EUの旗を配布すること、アダモヴィチ市長のほか反共産主義時代の活動家で上院副議長のボグダン・ボルセヴィチ(注10)や、「市民プラットフォーム」議員のヘンリカ・クシヴォノス(注11)、民主主義擁護委員会(KOD)のラドミル・シュメウダに加え、戦争中のルヴフで奇跡的に命を救われ、戦後グダンスクに暮らしたユダヤ人女性マグダレーナ・ヴィシンスカ(注12)の参加が発表された。(注13)
(注10)ボルセヴィチの経歴について“Senatorowie”, Senat Rzeczypospolitej Polskiej, https://www.senat.gov.pl/sklad/senatorowie/senator,74,9,bogdan-borusewicz.html[最終閲覧日:2019年1月21日]参照。
(注11)グダンスクにおいて路面電車の運転士をしていたクシヴォノスは、1980年8月15日朝、自分が運転する電車を停め、乗客に「この電車はこの先へは参りません」と告げた。実際には市内交通のストライキはもっと早くに始まっていたが、彼女が電車を停めたことはストの始まりを象徴するエピソードとして知られている。クシヴォノスは「工場間ストライキ委員会」幹部会のメンバーとして8月合意に署名した。Maciej Sandecki, “Henryka Krzywonos-Strycharska: Ten tramwaj zaważył na całym moim życiu”, Wyborcza.pl (2018-06-19), http://trojmiasto.wyborcza.pl/trojmiasto/7,35612,23559555,henryka-krzywonos-strycharska-ten-tramwaj-zawazyl-na-calym.html.
(注12)ヴィシンスカの経歴についてSebastian Łupak, “Gdańskie obchody Międzynarodowego Dnia Pamięci o Ofiarach Holokaustu”, Portal Miasta Gdańska (2018-01-26), https://www.gdansk.pl/wiadomosci/gdansk-uczcil-miliony-zydowskich-ofiar-holokaustu,a,99848参照。
(注13)Dariusz Gałązka, “Antyfaszystowska manifestacja w Gdańsku. Dla tych, którym bliskie są ideały demokracji i wolności”, Wyborcza.pl (2018-04-21), http://trojmiasto.wyborcza.pl/trojmiasto/7,35612,23298774,antyfaszystowska-manifestacja-w-gdansku-dla-tych-ktorym-bliskie.html.
市が組織したデモに対し、ナショナリスティックな諸団体はすぐに反応した。グダンスク市庁に11件のデモの申請があり、それらのなかには、ナショナリスト団体「全ポーランドの若者」(MW)による対抗デモがあった。
MWは1989年に活動を始めたが、ONR同様、ドモフスキの影響を受けていた戦間期の学生団体の後継を自認している。2010年11月11日に、ワルシャワにおいて最初の独立記念日行進を組織し、後に独立行進の運営に特化した委員会が設置されてからは、主要団体として参加を続けてきた。独立行進は例年、排外的なシュプレヒコールや暴力行為、警察との衝突が問題視されてきたが、2018年には「法と正義」政権が共催を申し出て「合法的に」25万人が参加する大規模行進に発展した。
MWは2017年6月、アダモヴィチ市長を攻撃するキャンペーンを組織し、その一環として「政治的死亡証明」を発行した。ポーランド政府発行の証明書を模したアダモヴィチ市長の「政治的死亡証明」は、右上に顔写真が貼られ、「亡くなった人の名前」欄には「名:パヴェウ/姓:アダモヴィチ/政治的帰属:市民プラットフォーム/公務:グダンスク市長」、「死亡した時間、場所、原因」欄には「2017年6月30日/14:00/グダンスク/死因:リベラリズム、マルチカルチャリズム、愚鈍」と記載、「証明書発行元」欄は「ポーランド国民」とされていた。アダモヴィチ市長は会見で「身の危険を感じる」と話し、検察は調査を始めたが、2ヶ月後には中断、今回の事件の数日前に調査の中止が決定されていた。
市長は襲撃事件の4日前(2019年1月9日)、「全ポーランド主義者たちがしたことは、普通の批判ではなかった。死亡証明書というきわめて明白なシンボルを用いたものであり、許容される範囲を超えている」とコメントし、不服を表明していた(注14)。事件後、MWスポークスマンのマテウシュ・マジョフは、「政治的死亡証明書」の騒動は1年半前の話であるとして、今回の事件との直接的な関係を否定し、ナイフで市長を襲った男は個人的な動機に基づいていたと報道されている、と述べるにとどめた。(注15)
(注14)“Adamowicz skarżył się na mowę nienawiści. Śledczy nie podzielali jego obaw…”, Fakt24 (2019-01-13), https://www.fakt.pl/wydarzenia/polityka/pawel-adamowicz-skarzyl-sie-na-mowe-nienawisci-mlodziez-wszechpolska-i-prokurature/61j35f8#slajd-7.
(注15)Paweł Kalisz, “Wszechpolacy tłumaczą się z “politycznego aktu zgonu” Adamowicza. “To happening sprzed półtora roku””, Na Temat (2019-01-19), https://natemat.pl/260703,mlodziez-wszechpolska-tlumaczy-sie-z-politycznego-aktu-zgonu-adamowicza.
アダモヴィチ市長は「自由な、連帯した、開かれたグダンスク」を目標にし、自身の両親が「移民」としてグダンスクにやってきた背景から、とくに旧ソ連諸国からグダンスクへやってくる人々を受け入れて地域社会へ統合することに熱心であった。EUが標榜する多文化共生の理念に賛同し、賛同するだけでなく実践した。
こうした姿勢は、公共メディアやネットにおいて、「市民プラットフォーム」の政治家のなかでもとくにアダモヴィチを標的にする理由になったと考えられる。アダモヴィチはポーランド人ではないといったネット上の中傷だけでなく、「アダモヴィチ市長が擁護したグダンスクの第二次世界大戦博物館の展示プログラムは非ポーランド的」であったとか、グダンスク市は「ドイツ・グダンスク共和国」である、といった右派の国政与党「法と正義」の政治家らの発言は、「憎悪の波」が高まるのを助長こそすれ沈静化させはしなかった。
アダモヴィチ市長が襲われた際、直接に実行した男の動機はなお不明瞭な段階ながら、政治的な暴力行使であるという受け止めが広がったのは、こうした経緯によるものであった。グダンスクだけでなく、ワルシャワやクラクフにおいて、暴力による意思表示に抗議するサイレント・デモが行われた。
ワルシャワにおいて14日夜のサイレント・デモの終着点とされたのは、国立美術館ザヘンタの建物であった。ここは1922年、独立を回復したポーランドの初代大統領に選出されたガブリエル・ナルトヴィチが、「ユダヤ票で選ばれた」という中傷に基づいて暗殺された場所である。
ナルトヴィチに対しては、選挙後、右派の国民民主党(ONRやMWと同じ思想的起源を持つ)の新聞による中傷キャンペーンが行われ、世論を反ナルトヴィチへと煽動した(注16)。独立回復から間もないポーランド社会の分断は、言論による攻撃から政治家の暗殺に至った。
サイレント・デモに参加した人々は、1922年の大統領暗殺の経緯を、独立回復100周年を祝ったばかりのポーランド社会で深まっていく分断と対立、歯止めをかけられない憎悪の言葉、そして今回の暗殺に重ね合わせていた。
(注16)実際には、ナルトヴィチの政治的立場は、ユダヤ人の支持層と特別に強い関係があったわけではなかった。ナルトヴィチ選出の経緯について、安井教浩「第二共和政ポーランドにおける議会政治の幕開けと民族的少数派(2) :東ガリツィア・ユダヤ人の選択」『長野県短期大学紀要』64巻、137-154頁。
アダモヴィチ市長の訃報を受け、「クリスマス・チャリティ・大オーケストラ」の代表イェジ・オフシャクは会見を開き、「大オーケストラ」のイベントが襲撃の標的となった事件に自分や家族の身の危険を感じたため、代表を辞任すると述べた。「ここは残忍で野蛮な国だ」と言って、慌ただしく部屋を出た。苛立ち怯えた様子で、太めの赤いフレームのメガネがまったく映えていなかった。
土曜日の葬儀までは喪に服することが、グダンスク市やポーランド政府により宣言されたが、「憎悪の波」はやまないであろうという見通しが大半を占めた。
翌日、ガゼタ・ヴィボルチャの編集長として、アダム・ミフニクは公開メッセージを送り、イェジ(ユレク)・オフシャクに再考を促した。
「激情、痛み、そして理解とともに、昨日、ユレク・オフシャクの辞任表明を聞いた。そして今、この場所から、連帯と敬意、賛嘆の言葉をもってユレクに願い出たい。お前がやっていることは、ユレクよ、お前のクリスマス・オーケストラは、私たち皆のなかから、私たちのなかにあるもっとも良いところを集めたものだ。お前は良いことをしているし、そうすることでお前は人生の情熱を実現させてきたんだろう。
辞任すると決めた言葉から感じられた、お前の痛みや後悔を、よくわかっている。
だが私は思うんだが、しばらくしてから、ユレクよ、考え直すときが来る。お前はオーケストラにとって必要だ。なぜなら、良きことを実行したいと願うポーランドに、お前は必要とされているからだ。
辞任を取り消せないか、もう一度よく考えてくれるように、私は君に訴えかける。これが君の決定であり、ただ君だけが、最終的に自分と自分に近い人たちの運命を決められる――そのような意味で君の辞任を理解しているけれども、それでもやはり、君やオーケストラに対してあの憎悪の波を組織している人々は、ただ一つのこと、叫喚追跡のキャンペーンをすることしかできない。そして、もしも彼らが、自分たちの魔女狩りは効果的だというシグナルを受け取るとしたら、それはよくないことだ。
ユレクよ、私自身、一度ならず嫌がらせの標的となったことがある。分かったことが一つだけあった。これをやっているのは悪意ある人々で、恐喝屋なのだ。そして相手が恐喝屋であるなら、譲歩してはだめだ。憶えていてくれ、ポーランドのなかで君が敬意を向けてきた人たちは、君を尊敬し、愛していて、そして君の側にいる。その人たちは、この素晴らしいイニシアチブ、クリスマス・オーケストラから君が消し去られることを認めない。ユレクよ、私たちはいま君のそばにいるし、これからもそうだ。私たちと、留まってくれ。」
ミフニクは事件後すぐに、アダモヴィチ市長への追悼の辞を『ガゼタ・ヴィボルチャ』に掲載したが、その文面の冷静さと異なるオフシャクへの訴えかけの口調は、ミフニクにとって大事な話をしているのだということを明示しており、まだ事態は進行中なのだということを伝えていた。
グダンスク造船所に隣接するヨーロッパ連帯センターに安置されたアダモヴィチ市長の棺は、18日夕方にグダンスク大聖堂へ移され、別れを告げに来るグダンスク市民の列が深夜も途切れることはなかった。翌19日の葬儀において、市長の妻マグダレナ・アダモヴィチは、次のように夫に語りかけた。
「あなたは開かれてあること、共感することを教え、善をなすよう励ましてくれました。ここグダンスクにおいて、あなたの小さな祖国において。私は信じています、あなたの励ました善がこれからも広がっていき、他の町や、世界中に届くことを。分裂はぬぐい去られ、憎悪の波が終わることを。」
そして、参列者に向けて静かに訴えた。
「今日私たちに必要なのは静寂ですが、しかし、静寂が沈黙を意味してはならないでしょう。なぜなら沈黙は無関心に近いからです。パヴェウは決して無関心だったことはありませんでしたし、一度として日和見主義者であったことはありませんでした。今日、皆が良心の清算をしなければなりません。身の回りで悪や不正、卑劣なことが起きていたとき、私たちは何をしていたでしょうか? 悪い言葉が浴びせられていたときに?
パヴェウや私たちの家族に、たくさんの卑劣で悪い言葉がぶつかってきました。私たちは心を痛めましたが、パヴェウはそれらを自分の肩に負いました。パヴェウと私たち家族が遭遇し、グダンスクを哀しみで覆った悲劇が、もう二度と繰り返されませんように。」(注17)
(注17)“Magdalena Adamowicz: Cisza jest potrzebna, ale nie milczenie. Dotknęło nas wiele niegodziwości”, OKO.PRESS (2019-01-19), https://oko.press/magdalena-adamowicz-cisza-jest-potrzebna-ale-nie-milczenie-dotknelo-nas-wiele-niegodziwosci/.
アダモヴィチ市長は大聖堂内に埋葬された。
葬儀の後、イェジ・オフシャクはアダモヴィチ宛てにメッセージを出し、チャリティー・オーケストラ代表の仕事に戻ると宣言した。グダンスク大聖堂において参列者たちが話した内容を、多くのポーランド人が聞き、自らの心に問いかけ、憎悪に対して「ノー」と言うように、この出来事から憎悪に対して憎悪で応じることがないように。
そして、アダモヴィチの理想はより一層大きな力を得て帰ってきたとし、「私はこれからもオーケストラで演奏し、代表を務める。なぜなら、自分の隣で何が起きているのかを見たからだ。」と話した(注18)。
(注18)Jerzy Owsiak, “Moje dwa słowa do Prezydenta Pawła Adamowicza”(2019-01-19).
プロフィール
宮崎悠
北海道教育大学国際地域学科准教授。北海道大学法学部卒業、同大学院法学研究科後期博士課程修了。北海道大学法学研究科助教、成蹊大学法学部助教などを経て、2019年より現職。著書に『ポーランド問題とドモフスキ』(北海道大学出版会)、「戦間期ポーランドにおける自治と同化」(赤尾光春・向井直己編著『ユダヤ人と自治:東中欧・ロシアにおけるディアスポラ共同体の興亡』岩波書店所収)ほか。https://www.iwanami.co.jp/book/b281689.html