2019.07.08
タクシン時代、終焉へ――タイ政治、主役交代も分断修復の道筋見えず
タイではこの3か月の間に歴史の節目となる出来事が続いた。69年ぶりの国王戴冠式、10年ぶりの東南アジア諸国連合(ASEAN)議長、8年ぶりの総選挙、5年ぶりの民政移管・・・。政界を二分して争った最大の実力者の一人が逝き、もう一人は乾坤一擲の賭けに敗れて、時代の後景に退きつつある。それでも「新時代」を迎える高揚感は乏しく、社会に鬱屈がくすぶるように見える。王室を中心とする既得権層や軍支配と対峙する人々の声を吸いあげる仕組みはなく、分断を癒す道筋がまったく見通せないからだ。
タイが議長を務めるASEAN首脳会議(サミット)は6月22、23の両日、加盟10カ国の首脳が首都バンコクに集まり、独自の外交戦略「インド太平洋構想」を採択、海洋プラスチックごみの削減や東アジア地域包括的経済連携(RCEP)の年内合意をめざす方針を確認して閉幕した。
10年前の前回サミットは阿鼻叫喚のなかで突然幕を閉じた。赤シャツを着た群衆数千人が徒歩でリゾート地パタヤの会場に向けて行進し、軍や警察の防御線を次々に突破、ホテル入口の大きなガラスを打ち破って議場に乱入した。当時のアピシット首相や日中韓豪など域外6カ国を含む各国の首脳らはほうほうの体でヘリに乗り脱出し、会議は打ち切られた。当時新聞社の特派員だった私は、前代未聞の事態に慌て、記者室にいたスタッフの安全確保に冷や汗をかいた記憶が鮮明だ。
赤シャツ隊はタクシン元首相の支持者らだ。2001年に政権に就いて以来、議会の圧倒的多数を抑え、憲政史上最強の首相とされたタクシン氏は06年9月に軍のクーデターで失脚。以後、政界は社会を巻き込んでタクシン派と反タクシン派に色分けされ、多数の死者を出した首都中心部での争乱や国際空港の封鎖、司法の介入による政権の瓦解などで混乱を重ねてきた。サミットの騒動はその一幕である。
それに比べれば今回は波乱なくコトが進んだように見える。しかし議長国の舞台裏は寒々しいものだった。そもそも首脳会議は例年4月前後に催される。ところがタイの総選挙が2月から3月24日に先延ばしされたため、念のために6月後半に設定された。当初は民政復帰した新内閣の船出の場となるはずだったが、総選挙後3か月を経ても組閣が間に合わず、「再任」されたプラユット首相を除けば、ホスト役の閣僚らはいずれも退任間近、いわば「死に体内閣」の状態だった。
大立者の大往生
5月26日、プレム元首相が亡くなった。陸軍司令官から1980年に首相となり、8年間にわたって国政をつかさどった。その後、枢密院議長として、2016年10月に亡くなったプミポン前国王を支えてきた。98歳の大往生だが、4月までプラユット首相らのあいさつをうけるなど国の重鎮としてのふるまいを見せていた。
21世紀のタイの政界は、プレム氏対タクシン氏の争いを軸に展開されたとみることができる。
タクシン派は都市貧困層や東北部、北部の農民ら、反タクシン派は王党派、軍、官僚、経済界などの既得権層や中間層が支えた。反タクシン派を背後で仕切っていたとされるプレム氏を、タクシン氏は「黒幕」「スーパーパワー」と罵っていた。
クーデター後の選挙でも圧勝したタクシン派政権を、王党派寄りの裁判所が些細な理由で解党しても、同派は党名や候補者を入れ替えて次の選挙で多数派を占めた。これに対して軍は、元首相の妹インラック氏が首相だった14年、再度のクーデターで政権を転覆した。それを指揮した陸軍司令官から暫定首相に横滑りしていたプラユット氏が6月5日に召集された国会で首相に指名された。軍事政権下の「暫定」がはずれ、「正式」な首相となった。
プラユット氏は総選挙に立候補したわけではない。議員でなくても首相になれるよう、軍政が憲法を改定した。プレム氏が1980年代に非民選の首相として君臨したのと同じ形だ。政治は「半分の民主主義」と呼ばれた30年前に先祖帰りした形だ。
感じられない新時代の息吹
軍政はこの5年間で、総選挙で負けても権力を維持する体制を作りあげた。
一部公選だった上院を軍の指名制にし、250人の上院議員に首相選出の投票権を与えた。そこに首相や閣僚の兄弟らの「身内」を送り込んだ。タクシン派を中心とする反軍政勢力は総選挙で、定数500の下院の4分の3以上の議席を得ない限り、過半数には届かず政権を獲れない。
選挙制度そのものにも、タクシン派政党が不利になる仕掛けをいくつも導入した。例えば小選挙区で多くの議席を得た政党の比例区での議席配分を少なくした。
総選挙ではタクシン派のタイ貢献党が136議席で予想通り第一党となり、続いて親軍政の国民国家の力党の115、反軍政の新未来党は80、反タクシン派の伝統政党・民主党が52、東北部を地盤とするタイ名誉党51と続いた。350の小選挙区は貢献党が136議席、国民国家の力党97。つまり貢献党は比例区で1人も上乗せされないのに対して、国民国家の力党は18議席上積みして両党の差は縮んだ。
選挙時に親軍政政党とは組まないと公約していた民主党は選挙後、恒例の合従連衡のなかで寝返り、タイ名誉党や多数の小政党ともども与党入りした。その結果、下院の首相指名ではプラユット氏が256票を獲得し、上院すべての250票と合わせて圧勝した。
親軍政党が他党を糾合した見返りに、各党は閣僚ポストを要求。それをまとめきれなかったためASEANサミットまでに新内閣を発足させることができなかったのだ。
日本が平成から令和へ代替わりした5月。40度近い猛暑のなか、バンコクの王宮を中心に絢爛豪華たる原色の式典が繰り広げられた。プミポン前国王の後を継ぎ、ラマ王朝の10世王となるワチラロンコン国王の戴冠式だ。国王は式の直前、突然結婚を宣言して新王妃を迎えるサプライズがあった。しかし即位そのものは2年半前に済ませており、結婚も4度目ということもあってか、令和フィーバーに沸く日本ほどの晴れがましさは広がらなかった。
これだけのイベントが短期間に押し寄せたにもかかわらず、新時代到来の息吹が感じられないのは、民政移管を果たしたというものの、選挙前から親軍政側に大幅に下駄をはかせ、政権選択の選挙とはいいがたい制度設計の下で予想通り親軍政党が勝ち、クーデターの首謀者が首相に収まったからだ。非民選の上院や軍政が指名した司法、独立機関などが既得権層の利益をがっちり守り、事実上軍政が続いているとの見方も失当とは言えない。社会のムードが変わらないのも無理はない。
王女擁立の衝撃
それでも選挙前には、世の中が変わるかもしれないという「逆転」の目が見えた瞬間があった。
2月8日、タクシン元首相派の政党のひとつタイ国家維持党が首相候補としてウボンラット王女を選挙管理委員会に届け出たのだ。本人もSNSで受諾の意思を表明。事実上の王室メンバーが国政のトップに立つ意向を表明したインパクトは大きかった。
王女は米国マサチューセッツ工科大学などで学び、米国人と結婚し王族籍を離れたが、離婚して1998年に帰国した。その後の動向は毎日のようにテレビで伝えられている。社会貢献活動の番組を持ち、SNSでも活発に発信。AKB48の「恋するフォーチュンクッキー」のタイ語バージョンで踊る動画が話題になった。タクシン氏とは帰国後に親しくなったとされ、昨年のサッカー・ロシアワールドカップではスタジアムで隣り合って観戦する姿が報じられている。
この10年余り、反タクシン派がタクシン元首相らを糾弾する錦の御旗は「腐敗」と並んで「不敬」であった。元首相らは王室をないがしろにし、その権威に挑戦して共和制をめざしているとの主張だ。ところが国民から敬愛されたプミポン前国王の長女がタクシン派政党の首相候補になるのであれば、これまでの「不敬」というレッテルは何だったのか。軍政の正統性にもかかわる疑問が擁立劇により提起された。親軍政党が有利とされた情勢が一変するかもしれない・・・。
だが事態は半日で覆った。ワチラロンコン国王が同日夜、「王室の高位の者が政治の世界にかかわることは、いかなる理由や形であれ極めて不適切」との声明を出し、擁立劇は一夜の夢と消えた。さらに選挙管理委員会の訴えを受けた憲法裁判所は3月7日、「王室の政治的な中立性を脅かし、政党法が禁じる立憲君主制に敵対する行為」としてタイ国家維持党に解党を命じ、候補者全員の資格を取り消すとともに、幹部らの立候補を10年間禁じる判決を言い渡した。
この時点で、タクシン派、反軍政派が選挙で大勝し、首相を擁立する目はなくなった。
致命的な誤算
一発逆転をねらったタクシン元首相はさらなる判断ミスを重ねた。
総選挙2日前の3月22日、香港・ビクトリア湾を目前に臨むローズウッドホテルで、元首相の末娘ペートンタンさんと民間パイロットのピドック氏の結婚披露宴が催された。今年オープンしたばかりの超高級ホテルには、元首相と同様に国外逃亡中の妹インラック前首相をはじめとする親族らに加え、選挙戦最終盤にもかかわらずタイから多くの政治家や俳優らが駆け付けた。詰めかけたメディアの前でサプライズの演出が用意されていた。エントランスに横付けされたリムジンからウボンラット王女が降り立ったのだ。タクシン氏が満面の笑顔で出迎え、ハグする様子が世界に流れた。元首相としては、擁立失敗後も王女は「われわれの側にいる」とアピールをしたかったのだろう。しかしこれが国王の逆鱗に触れたとみられる。
擁立劇の際に声明を出したにもかかわらず、改めて王女を「選挙利用」したと受け止めたとみられる。翌日夜、つまり選挙前夜、国王は「悪い人間に権力を持たせてはならない」という異例の声明を出した。この文脈で「悪い人」とはタクシン氏を指すとの受け止めが一般的だ。さらに選挙後の3月30日、元首相にかつて与えられた勲章を取り消す勅令を出した。汚職などの罪で有罪となった後もタクシン氏が続ける海外逃亡を「不適切で深刻な非行」と切って捨てた。
元首相の生殺与奪の権限を持っているのは国王である。国王は今回のように勲章をはく奪することも、逆に恩赦を与えることもできる。
首相就任前からタクシン氏はウボンラット王女とともにワチラロンコン国王とも直接的なパイプを持っていたとみられる。私は09年、11年に元首相への長時間インタビューをしているが、その際も国王(当時は皇太子)との交遊関係を認めていた。元首相の側近は最近「即位後も国王からタクシン氏に直接電話がかかってくる。私もその場に居合わせたことがある」と私に話していた。
国王は、お互いに王位継承権をもっていた妹のシリントン王女の関係は微妙とされる一方で、ウボンラット王女との仲は以前から良好といわれている。
国王、王女との関係の中で、元首相は王女擁立を仕掛け、「不適切」とした国王の声明が出た後も国王との関係は維持されていると踏んだのだろう。
タクシンは国王との関係に賭けたが、国王は容赦なくそれを切った。
元首相にとって致命的な誤算だったと想像する。
タクシン時代の終焉
日本の天皇家とも親しい関係にあるタイ王室だが、政治とのかかわりは象徴天皇制とはまったく異なる。「国王を元首とする民主主義」を掲げるタイは立憲君主制とされるが、プミポン前国王は70年にわたる治世の間、重要な局面で超絶的な政治力を発揮してきた。軍のクーデターの成否を決めるのも前国王次第だった。政局や社会が混乱した時、調停者として国民の前に現れた。国民を思いやり、莫大な王室財産を投じて地方や貧困層向けの福祉活動を長年続けてきた「徳」を国民が認めていたから調停は絶対とみられてきた。
ところが、06年のクーデター以降、前国王は期待されていた調停役を果たすことがなかった。前国王やシリキット王妃を取り巻く王党派は反タクシンで一致し、とても中立な立場だったとはいえない。前国王が調停に乗り出しても、国民の過半数を占めるタクシン派の納得が得られる状況ではなかった。
タクシン元首相と付き合いがあるとみられていた現国王が即位し、状況が変わるのか注目されていた。タイの王室は以前から情報のブラックボックスだが、プラユット首相をはじめとする軍政上層部、プレム氏が議長を務めていた枢密院が現国王と円滑なコミュニケーションをとれていないことは間違いなさそうだった。
軍政は昨年末、延期を繰り返していた総選挙の日程をいったん2月24日と決定した。ところが元日になって国王側は戴冠式を5月に実施すると発表、投票日は再び延期された。
16年10月に前国王が死去した直後には「国民とともに喪に服したい」として軍政の要請を拒んで即位を先送りした。
2017年に制定された現憲法も、国民投票を経た後で国王が変更を求め、軍政は応じざるを得なかった。国王が海外に出るときに摂政を置くとした規定をなくし、憲法に明文規定がないときは憲法裁長官らの合議に任せるとする条文を削除した。国王の権限は格段に強まった。国王の意を軍政が事前に察知できない状況が続いているようだ。
18年6月には王室財産局名義だったサイアム・セメントやサイアム商銀株を国王個人の名義に切り替え筆頭株主となり、王室資産の管理運営権限を絶対的なものとした。米誌フォーブスは08年、前国王の資産を350億㌦と推定。世界一の裕福な王族と紹介している。
国民の絶対的な支持を受けた前国王に比べ、現国王の「徳」やカリスマは足元にも及ばない。皇太子時代から行動を予測することが難しい人と周囲やメディアには受け止められてきた。代替わり以降、独自の権限を強めようと模索している様子がうかがえる。
王女擁立を断念させた国王の声明は「すべての王族は政治的に中立である」「特定の政治的立場をとることはできない」と述べている。06年以降、国王や王妃を取りまく王党派が「政治的に中立」だったとは言えず、その状態は前国王亡き後も軍政、司法、枢密院などの支配層で続いている。そうしたなかで出された声明は、直截的には王女の擁立を退けるものだとしても、タクシン派からすれば、本当に「中立」ならばありがたいという話だった。
しかし現国王のその後の動きを見ると、前の時代と変わらず、タクシン派には厳しく対応するようにみえる。元首相が恩赦で帰国する可能性も当面はない。来月で70歳になる元首相の政治的な影響力は今後次第に薄れていくだろう。これまでは選挙で大勝し再び政権の座に就くことや王室の代替わりで状況が変わる希望が支持者にはあったが、いずれも先行きが見通せなくなった。
新星現る
タクシン派の受け皿は、40歳の党首タナトーン氏が率いる新未来党だ。反軍政を訴え、総選挙で予想を大きく上回る80議席を獲得した。
選挙戦最後の晩、私はバンコクで催された主要政党の集会をライドシェアのグラブバイクにまたがってはしごした。中心部のスタジアムで国民国家の力党が催した集会の大トリにプラユット氏が登場した。ひと昔前のヒット曲を歌い、過去5年の実績をアピール。「すべての人々を豊かにする」と訴えた。行政府の長としての遠慮からか、それまでは集会に登壇することはなく、ビデオメッセージを寄せるだけだったが、最後の集会ということで初めて聴衆の前に姿を現した。首相の登場では盛り上がったものの、野外のスタジアムということもあってか空席が目立ち、ほとんどの参加者は明らかに動員と分かる形で集団行動していた。タクシン派政党がより大きなスタジアムを満杯にした過去の集会を何度も見てきた私の目には熱気に欠けるように映った。
それに比べタクシン派のタイ貢献党と新未来党はそれぞれ体育館を満員にして次々に弁士を登壇させ活気があった。とくに新未来党では午後10時近くになってタナトーン党首がステージに上がると、熱気は最高潮に達した。
タナトーン氏は、軍政の継続に反対する人々、なかでも都市リベラル層や知識階級の心をつかんだようにみえる。これまでは「タクシンは必ずしも好きではないが、民主主義の原則から外れた軍政は支持できない」と考えてきた人たちだ。北部、東北部では元首相の支持は根強いが、今後、反軍政、反プラユット派の求心力はタナトーン氏へ向かうとみられる。
軍や王党派は早速、新未来党を盛んに牽制している。警察は選挙後、2015年6月の反軍政デモにからむ扇動容疑を持ち出してタナトーン氏を事情聴取した。さらにメディア関連企業の株の所有者の立候補を禁じる法に違反したとして選管が憲法裁に審理を申し立て、議員資格が停止された。解党の申し立てもされており、体制派から攻撃のターゲットになっている。
世界最悪の格差国家
軍はクーデターに際し大きく3つの公約を掲げた。国民和解、政治改革、汚職追放である。タクシン氏らの「腐敗」を糾弾し、元首相や周辺の汚職の追及に力をいれてきた。前政権が実施したコメ担保融資制度に伴う汚職を防止せずに国に損害を与えたとする「職務怠慢」でインラック前首相らを訴追した。
ところが軍政も過去5年間、その腐敗ぶりを世間にさらし続けた。国際NGO「トランスペアレンシー・インターナショナル」が公表する「腐敗認識指数」ランキングで、タイは16年、176か国中101位と前年の76位から大きく順位を下げた。
軍でプラユット首相の先輩にあたり、政権の中枢を担うプラウィット副首相が超高額の時計を20個以上も取っ替え引っ替え着用していたことがネットユーザーに暴かれ、資産報告をしていないことが明らかになった件は世間を呆れさせた。「知人から借りた」との弁明を首相も受け入れ、国家汚職追放委員会も不問に付したことは、汚職摘発が公平にされていない印象を残した。
過去繰り返されてきたクーデター後の民政移管までの期間と比べても、今回の5年は異様な長さである。その間、5人以上の集会を禁じ、批判者を不敬罪で投獄して反対派を排除した。タクシン派と対話を試みるなど和解の道筋を探った形跡はなく、言論や政治活動を力で封じ込めることで安定を演出したに過ぎない。我田引水で進めた政治改革は選挙後の体制維持には寄与しても、社会の分断を癒す術にはなっていない。
クレディスイスが世界40カ国を対象に経済格差を調べた昨年の調査で、タイは1%の富裕層が国の富の66・9%を占有する世界最悪の格差国家とされた。2年前の調査では58%では3位。軍政下で格差は拡大し続けた。国民和解への道筋は政治だけでなく経済や生活面でも見通せないままだ。
クーデターのあった14年の0・9%を底に経済成長率は持ち直しつつあり、昨年は4・1%を記録した。軍政の経済政策を主導してきたソムキット副首相は、長期計画の「タイランド4・0」や東部経済回廊開発の推進、環太平洋経済連携(TPP)への参加検討などでさらなる成長をめざすという。軍政は昨年後半から総選挙を意識して最低賃金を引上げ、国民の2割にあたる1450万人に「新年の贈り物」として一律500バーツ(1750円)を配り、高齢者には通院費補助千バーツを支給した。批判してきたタクシン派政権のばらまきを上回る規模の大盤振る舞いである。
軍政は自ら定めた非常大権・暫定憲法44条を使って政権運営をフリーハンドで進めてきたが、今後この手は使えない。命令することで軍や軍政も仕切ってきたプラユット首相は議会での野党の追及に耐えられるだろうか。
チュラロンコン大学のティティナン准教授はバンコクポスト紙で「民主制への回帰というより、軍主導の権威主義政権の長期化をもたらす」と総選挙を総括した。しかし私は新政権の寿命が長いとは必ずしも予想しない。軍内部がいつまでも一枚岩であるかも分からない。経済成長を国民、なかでも地方の農民や都市労働者に実感させることができなければ政権運営は早晩行き詰まるだろう。選挙で民意が反映されないと思いつめれば、赤シャツなどの街頭活動が復活することもあり得る。予測困難な国王の出方によっては政治・社会情勢が大きな影響を受けるかもしれない。
「微笑みの国」の行く末は見通せない。
プロフィール
柴田直治
近畿大学国際学部教授、