2011.04.07
リスク分担の政治に向けて ―― 日本の背負った人類史的な課題
東日本大震災は、海外でも前代未聞のメディア・カヴァレッジがなされた。それまでの関心事だったエジプト民主化運動のニュースはほとんど扱われなくなってしまったほどだ。
フランスでは、夜のニュース番組が米同時多発テロ以来の視聴者数を記録したという。役所には日本支援を呼びかける垂れ幕が掲げられ、市民も追悼と連帯をみな口々にする。知人は「阪神淡路大震災のときはそこまでの関心はなかった」という。
ドイツでは3月末に近年稀にみる規模で、数百万人を動員した反原発デモが行われた。デモ隊が掲げていたプラカードには「チェルノブイリ=フクシマ」とあった。福島原発の事故がつづく最中に行われた、南西部バーデン・ビュルテンベルク州での選挙では、地元の与党CDUが緑の党の躍進を前に大敗北を喫した。これは、日本の原発事故によって、与党が進める原発政策への批判が高まった結果だとされている。
これも震災の規模や死者数、さらにシュールリアルで刺激的な映像が垂れ流しつづけられたことを考えれば当然かもしれない。たしかにスマトラ沖やハイチの大震災でも、日本人を含め、世界中の多くの人々が胸を痛めた。だが、グローバルに知覚される不幸は、決してグローバルな不幸を意味しない。それは「対岸の火事」であるという安心感に支えられがゆえに共有される現象である。しかし、今回の日本の震災への関心は、そのような今までの図式に収まらない何かが、あるように感じられる。
チェルノブイリ事故を受けて、「リスク(危険)」が現代社会の抱える「宿命」である、と指摘したのはドイツの社会学者、ウルリッヒ・ベックである。現代社会のリスクには、さまざまなものがある。たとえば、近代化と個人化の過程で、人々を共同体(地域や会社)から解放しようとする意思は、逆にセーフティネットから切り離された個人を生み出し、不安を抱かせるようになる。あるいは、グローバル化によって世界の富を増産しようとして相互依存が進めば、市場価額の変動が国民経済を直撃するようになる。これらは、近代化のプロセスの中で生まれてきたリスクにほかならない。
「リスク」という宿命
ベックの指摘は現代社会が抱えるアポリアを鋭く指摘するものだった。つまり、人間を解放しようとする意思が増大すればするほど、社会ではリスクが増大し、人間を脆弱なものにしてしまう。こうした根本的な逆説を抱えることを説いたのである。
科学技術の進歩や制度的保障の拡充によってリスクは回避できる、という指摘もあるかもしれない。しかしリスクそのものの逓減の努力は、リスクの増加となって跳ね返ってくる。たとえば、農産物の不作を回避しようとすれば農薬を用いることになる。また地球温暖化のリスクを回避しようとすれば、今度は原子力依存という別のリスクが生じかねない。あるいは、放射性物質を排除するヨウ素剤は発ガンのリスクを引き起こすかもしれない。
つまり、リスクを管理しようとすると、別のリスクを招きよせてしまうのである。こうした副次的リスクを抑える措置は、また別のリスクを生じさせ、リスクの連鎖を生み、そしてリスクが現実のものとなったときの影響は、加速して大きくなる。
今回の大震災は自然災害であり、原発事故も津波によるものであるから、このような構図は当てはまらない、という指摘もあるだろう。だがベックは、東日本大震災後に寄せた論考で、「災害」という概念そのものが文明を前提にした考えであり、震災大国の日本で原発推進を進めようとしたこと自体が人為的なものであること、すなわち「震災」は人間によって引き起こされたものだということを強調している。「科学技術や社会の対極にあるような『純粋な自然』がもはや存在しない歴史的段階で、自然災害や環境の危機を論じる」パラドクスに、わたしたちは自覚的でなくてはならない(C’est le mythe du Progrès et de la Sécurite qui est en train de s’effondrer, in Le Monde,25 Mars,2011)。http://www.lemonde.fr/idees/article/2011/03/25/la-societe-du-risque-mondialise_1497769_3232.html
人間から来る「悪」
マルクスの資本主義についての予測と、同じフォーマットをもつベックの予測も、外れる可能性は十分にある。近代社会がリスク回避のために投じてきた投資は並々ならないし、リスク回避のために要求される水準も歴史を追うごとに高くなってきている。それでも彼の比喩を借りれば、現代社会は、船底に穴を開けつつ海の水を掻き出すような、絶望的な状況に直面していることには変わりなく、反論するだけの材料も手元にはない。
神が死んでから、人間は自らの運命を、自分で受け止めなければならなくなった。アーレントがいうように、産業資本主義に生きる人間は、世界にではなく、人間自身に投げ返されるような存在である。18世紀半ば、ポルトガルでやはり数万人の死者を出した地震と津波をみて、ルソーは「人間はもはや悪の責任者を探す必要はない。なぜなら責任は人間自身にあるからだ。人間がなす悪も、人間を苦しめる悪も人間から来ているのだ」と、すでにこの絶望的な状況を見切っていた。
繰り返しになるが、リスク社会は、人間の解放を目的に科学技術や経済の進化を遂げてきた先進国に共通する課題である。現実のものとなった未曾有のリスクを前に、日本人がどのように行動し、その困難をどのように克服しようとしているのか。世界がその一挙手一投足を固唾を呑んで見守り、連帯の意思を表明しているのは、人類にとっての「宿命」となったリスクを前に人々がどのように立ち振る舞うのかの、凄惨ではあっても真剣勝負の現場であることを知っているからだ。
ベックは、リスク社会は何人をも容赦しないから、これほど普遍的で民主的な現象はない、とも述べている。科学技術大国であり、世界一安全な原発をもつと、少なくとも認識されていた日本であっても、放射性物質漏洩に決定的な対処を見出せていないことは、改めてリスク社会に潜む「悪」を気づかせるのに十分だったのである。
復興のデザイン
「悪」としてのリスクの原因を人間にではなく自然に求め、外部化することで社会を防御しようとするのは、震災とともに生きてきた日本に住む多くの人々の自然な反応かもしれない。しかし「天災」によって宿命を受け止めようとする態度は、もはや限界にきているというべきだろう。
他方で、震災の責任を特定の政治家や事業者に求め、バッシングすることによって事足れりとするのも適切ではない。そうではなく、全体的な認識のもと、リスクが内なるものであるという事実を受け止め、その上で、構造的に要請されるリスクといかに向かい合うのか――こうした問いなくして、震災からの復興はありえない。
阪神大震災を取材した経験のある『ニューヨーク・タイムズ』元支局長は、多くの日本人にとって震災が「運命」の一部として認識されつつ、これと共生しようとする「我慢強さ(シビリティ)」が、人々の共同体の一員であるという感覚から来ている、とレポートしている。そして、弱肉強食が当たり前になった現代社会で、この感覚はますます貴重になっている、と「賞賛と尊敬の念」を送っている。
おそらく大切なことは、復興の先にみえる、リスクを否応なく抱えたわたしたちの共同体を、これからどのようにデザインしていくかにある。しかし、それは必ずしも難しいことではない。たとえば、阪神大震災を経て残ったのは、死者と被災者の無念だけではない。100万人以上ものボランティア(=主体的な意思)が誕生し、これは98年のNPO法の誕生につながった。そして、この新しい「市民社会(シビル・ソサイエティ)」は、その後着実に社会に根を下ろし、行方は定かではないにせよ、民主党政権の「新しい公共」といった政治コンセプトへとつながっていった。
日本の背負った課題
現代社会が抱えたリスクの特徴は、これが特定の階層や社会の一部に集中するのではなく、他人にとってのリスクが自分にとってまったく同じ重みをもつとはかぎらないという、その多様性にある。同時に、今回の大震災でみられたように、リスクはブーメランのように共同体の全員を何らかのかたちで傷つける。
リスクを失くすことはできない。だからこそ、どの程度のリスクが許容でき、どのようにしてリスクを分担・配分していくのかといった作業は、政治的にしか決まらない。そして、リスクを共同して管理し、その負担を分かち合うことを可能にする社会の仕組みを用意するのも政治の仕事である。これは、地域政治や企業編成だけでなく、社会保障制度をどう構築していくのかといった、共同体の大きな未来像にも関わってくる。
復興に向けて日本が背負っているのは、おそらく人類史的な課題である。「内なる悪」を見据えてこの課題を正面から受け止めることができたとき、日本はそれまでの近代社会の発展とは異なる文明の定義を生きることになるかもしれない。それは、それだけ重く、しかし、やりがいのある課題である。
※多くの失われてしまった魂に追悼の念を記します。
プロフィール
吉田徹
東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学博士課程修了、博士(学術)。現在、同志社大学政策学部教授。主著として、『居場所なき革命』(みすず書房・2022年)、『くじ引き民主主義』(光文社新書・2021年)、『アフター・リベラル』(講談社現代新書・2020)など。