2024.02.12
ハマス・ヒズボラ「抵抗の枢軸」とは何か――中東における親イラン勢力の成り立ちと動向
21世紀において、イラン・イスラム共和国ほど、その戦略的目的のために国外の非国家武装勢力を活用することに成功した国家は他に例を見ない。レバノン、シリア、イラク、イエメン、そしてパレスチナ占領地で展開される紛争において、イランの支援を受けた勢力は、同国が国境を越えて政治的影響力を行使し、地域の敵対者たちに対して優位性を確保する上で大きな役割を果たしている。
1979年の革命以降、イランにとって最大の脅威は米国および地域におけるその同盟勢力(主にイスラエルとペルシャ湾岸諸国)であった。イランのアリー・ハメネイ最高指導者は2014年6月、支持者たちを前に「われわれは世界的な傲慢勢力による挑戦に直面している。率直に言おう。問題は米国が引き起こしているのだ」と断じている。彼らの認識では、物心両面において(軍事同盟から米軍の前方展開、武器売却、経済制裁、文化的・政治的影響力工作まで)イランは米国から絶え間ない攻勢に晒されている。それゆえ、こうした脅威に対抗する上で、地域の親イラン勢力(いわゆる「抵抗の枢軸」)に対する支援は、イランにとって弾道ミサイル開発(さらに近年ではサイバー攻撃能力開発)と並び、きわめて重要な柱となっている。
「革命の輸出」を通じた「抵抗の枢軸」の形成
1979年の革命以降イランの指導者たちは、志を同じくする国外の「被抑圧者たち」に対して革命を輸出することで、自国を取り巻く戦略環境、さらには広くイスラム世界全体の変革を目指してきた。その中心となったのは、革命体制を守るために最高指導者の直轄組織として1979年に設立された革命防衛隊である。彼らは国外の(主としてシーア派)武装勢力を支援・指導し、自国の同盟勢力として育成することこそが、イスラム共和国の国家安全保障にとってきわめて重要であると考えていた。
イラン・イラク戦争(1980〜88年)の時期を通じて、「革命の輸出」戦略は徐々にその形をなしていった。戦争中、(同盟国であるシリアを除く)周辺アラブ諸国、欧米諸国、そしてソ連までもがイラクを支援した。一方のイランは孤立無援の状態で、外部からの支援はほとんどなく、総合的なパワーという意味でイランは圧倒的な劣勢に立たされた。この時の経験を通じて、イランの指導者たちは自国が「敵意の海に浮かぶ革命の孤島」〔1〕であることを痛感し、国際的な「抵抗の枢軸」を形成することで米国およびその同盟勢力と対峙する必要性を確信した。こうしてイラン・イラク戦争は彼らの世界観と国家安全保障戦略の基盤を形成することとなった。
イランはその後、地域諸国で生じた無政府状態を巧みに利用し、「革命の輸出」を通じた非対称戦略を進めてきた。イラン・イラク戦争中には亡命イラク人を糾合してバドル軍団を創設し、レバノン内戦(1975〜90年)とイスラエルによるレバノン侵攻(1982年)を契機としてヒズボラ誕生を後押しし、1990年以降は第一次インティファーダ(1989年)のなかで生まれたハマスを支援するようになり、米国によるイラク侵攻・占領(2003〜11年)に乗じてイラクにおける親イラン武装勢力を組織化し、イエメン戦争を好機として2011年頃からフーシー派との繋がりを確立し、シリア内戦(2011年〜)ではアサド政権を軍事的に支え、「抵抗の枢軸」を強化した。このように、国外の親イラン勢力を経済的・軍事的に支援し、米国や同盟勢力に対して平時から軍事的圧力を加えることで抑止や強要に利用しようとする試み――これによってイランは責任の所在をあいまいにすることができ、制御困難なエスカレーションを抑制し、国内を戦場にすることを回避することができる――は、しばしば「前方防衛」戦略とも称される。
もっとも、総じて親イラン諸勢力は高い戦略的自律性を有しており、イランの指揮統制下にあるわけではない。また、イランと各勢力との関係性も一様ではなく、支援の度合いも多岐にわたる。たとえば、レバノンのヒズボラはイランの国是であるヴェラーヤテ・ファギーフ(法学者による統治)の理念を遵守しているが、イエメンのフーシー派はそれを認めないザイド派(シーア派の一派)の運動である。ガザのハマスはスンナ派の運動であり、イランとの戦略的利害は部分的に一致するが、その統制や影響力は限定的である。このように、それぞれの勢力は理念や目標も違えば、イランにとっての有用性や立ち位置も違う。それぞれの組織間の連携にも濃淡がある。「抵抗の枢軸」をイランの指揮下にある一枚岩的な組織と捉えることは、現実を大きく見誤ることになろう。
以下では、「抵抗の枢軸」のなかでも特に重要な組織であるレバノンのヒズボラ、そして10月7日のイスラエルに対する大規模攻勢で注目を集めるガザのハマスについて、それぞれ論じていく。
政党であり、社会のインフラでもあるヒズボラ
イランによって支援される親イラン諸勢力のなかでも、ヒズボラほどイランと戦略的目標が合致し、作戦行動を効果的に行える組織は他に存在しない。
ヒズボラは、1982年、内戦下のレバノンにおいてイランとの人的・物的・思想的繋がりを背景に、イスラエルによる軍事侵攻(「ガリラヤの平和」作戦)を契機として誕生したシーア派政治政党・武装組織である。設立に際しては革命防衛隊が大きな役割を果たした。その後、1990年の内戦終結以降もイスラエルの軍事的脅威に対抗するという名目で武装解除を特権的に免除されたヒズボラは、2000年5月にはイスラエル軍の占領下にあった南部レバノン地域を「解放」し、2006年夏のレバノン戦争ではイスラエル軍と互角以上に渡り合うなど、軍事的存在感を誇示し続けてきた。こうしてヒズボラは、イランの「前方防衛」戦略の最も重要な前衛組織の役割を担ってきた。
同時にヒズボラは、1990年代以降、合法的な政党として国政に参加してきた。2005年以降は挙国一致内閣に参加して閣僚も輩出している。加えて、傘下に福祉・教育団体、インフラ関連企業、テレビ局、新聞・雑誌社などを多数抱えており、レバノンの(少なくとも一部の)市民社会に深く根付いている。単なる民兵とは異なるヒズボラの高い回復力や組織的な柔軟性は、こういった性格にも由来する。
2013年、アサド政権との「戦略的同盟関係」という観点から、ヒズボラはシリア内戦への参戦を、不本意ながらも決断した。シリア反体制勢力との戦闘は「対イスラエル抵抗運動」というヒズボラの組織としてのアイデンティティを揺るがすものであり、指導部はそのコストの大きさを強く懸念していた。だが、ヒズボラは結果的にシリアでも軍事的勝利を収め、アサド政権を守り抜き、シリアにおいて永続的な軍事拠点を構築するとともに、その軍備や人員をさらに拡充した。イランにとってのヒズボラの戦略的重要性は、シリア内戦を経ていっそう高まった。
現時点でヒズボラは2.5~3万人の常勤兵力(うち約7000人はシリア内戦にも参加した経験豊富なエリート特殊部隊)と2.5万人の予備兵力を有し、組織構造や戦略はゲリラ組織とよりは正規軍に近い。主力兵器の小型で携帯可能な無誘導ロケット弾は精度に欠けるが数が多いため、効果的な抑止力となっている。ヒズボラはこの10年でスタンドオフ(遠距離)攻撃能力の量と質を急速に向上させ、およそ15万発のロケット弾、数百の精密誘導ミサイル、数千の攻撃用ドローンを保有すると推定されている。
「憲章」に従い戦略的柔軟性を持つハマス
ハマスとは、1987年12月に勃発した第一次インティファーダを契機として、エジプト・ムスリム同胞団の対イスラエル闘争部門として、当時の同胞団指導者アフマド・ヤースィーンを中心に結成されたスンナ派政治政党・武装勢力である。それまで数十年にわたって対イスラエル武装闘争を主導してきたファタハとは異なり、ハマスは設立当初から自らをイスラムの原理に基づく組織であると明確に位置付けてきた。また、ヒズボラと同様に多様な社会活動を通じてパレスチナ社会に強固な支持基盤を形成し、それを土台として対イスラエル武装闘争に展開してきた。
ハマスは1988年に公表された「憲章」のなかで、組織の目標として「パレスチナの全土解放」を掲げているが、その一方で、(あくまで「暫定的」としながらも)指導者たちはイスラエルとの「停戦」に度々言及しており、両者の共存は可能だとの立場を示してきた。こうした戦略的柔軟性は2017年の「新憲章」にも反映されており、あくまでイスラエルの承認は拒否しつつも、六日間戦争(1967年)以前に設定された「グリーンライン」に沿ってのパレスチナ暫定国家を受け入れる姿勢を明らかにした。
ハマスは2006年、それまで「オスロ合意の正当性を認めることになる」との理由から不参加を貫いてきたパレスチナ立法評議会選挙への参加を決定し、結果として議席の過半数を獲得した。だが、イスラエルや米国をはじめとする国際社会はこれを認めず、ファタハもまた権力譲渡を拒否したことから、ハマスとファタハのあいだで武力衝突が生じ、同年6月にはハマスの軍事部門(「カッサーム旅団」)がガザを武力制圧するに至る。その後、現在に至るまで、ハマスに実効支配されるガザはイスラエルによって封鎖され、およそ200万人のパレスチナ人が過密状態の下で厳しい生活を送ることを余儀なくされてきた。
結成当初こそイランとの繋がりは薄かったが、1990~91年にかけてイランがパレスチナに関する2つの国際会議を開催したこと、さらに1992年にイスラエルがハマスの指導者たちを含む数百人のパレスチナ人をレバノンへ追放したことなどを契機として、ヒズボラを仲介役としてハマス・イラン間でハイレベルな接触が持たれ始めた。両者の関係性は、イランを含むシーア派全般に不信感を抱いていた指導者ヤースィーンが2004年にイスラエルによって暗殺されたことにより、急速に深まっていった。
もっとも、ハマスとイランの関係は順風満帆とはいかなかった。ハマスはイスラム共和国の理念を認めておらず、イスラエルとも水面下で協働し、イランやシリアの影響力を中和する目的でトルコやカタールとも密接な関係を維持してきた。さらに2011年に始まったシリア内戦においては、ハマスは反体制勢力を支持し、その戦闘員はシリアでの戦闘に直接参加した(ただし、カッサーム旅団を始めとしてこの決定には内部からの批判も多かった)。これは、(内戦初期の段階では)シリアのムスリム同胞団が反体制勢力の主要メンバーであったこと、そしてトルコとカタールが反体制を支援していたことに由来する。だが、エジプトでムスリム同胞団のムハンマド・ムルスィー政権(2012〜13年)が倒れ、シリアではアサド政権側の勝利で確定しつつあったことを受け、2017年頃からハマスは再びイランやヒズボラとの関係改善を模索するようになった。直近では、2023年6月にイランのハーメネイー最高指導者がハマスのイスマーイール・ハニーヤ政治局長とテヘランで直接会談を行なっている。
このように、両者の関係はときに緊張をはらむものではあったが、それでもイランとヒズボラは「前方防衛」戦略の一環として、ハマスに対して継続的な資金援助や軍事支援を行ってきた。現時点でハマスは約3万人の戦闘員を有し、中・長距離ミサイルをおよそ2万発保有するとされる。また、近年では精密誘導ミサイルのガザへの密輸にも力を入れており(密輸にはガザ・エジプト国境の地下に設けられたトンネルが用いられることが多い)、海軍能力や攻撃用ドローンの能力も向上している。なお、ハマスは創設当時より組織としての効率性・凝集性に欠くところがあり、意思決定プロセスも一元化されておらず、政治部門と軍事部門の間の連携も不十分であるといわれている。
見逃せない「アクサーの大洪水」作戦の波紋
2023年10月7日、ハマスはイスラエルに対して前例のない大規模な奇襲攻撃を仕掛けた(「アクサーの大洪水」作戦)。その反撃としてイスラエルがガザに対して徹底的な軍事侵攻を行い、現在でも未曾有の人道危機は継続している。奇襲攻撃の翌日、「ウォール・ストリート・ジャーナル」(10月8日付)は、革命防衛隊がハマスに作戦の指示を下したとの一報を伝えたが、そのような事実を示す明白な証拠は現在でも見つかっていない。米国やイランの公式見解、およびこれまでのイランとハマスの関係性に鑑みると、イランの指示を受けてハマスが攻撃を実行したという可能性は低いだろう。
ヒズボラもイランも、これまでの数度に及ぶハマス・イスラエル紛争の際と同じく、イスラエルへの非難とパレスチナ人への連帯を表明し、事態がさらに深刻化するようなら直接介入も辞さないと述べる一方、エスカレーションのリスクをはらむ大規模攻撃には踏み切っておらず、深入りは決してしないという態度を貫いている。実際、ヒズボラにとってもイランにとっても、今イスラエルと正面から戦火を交えることのメリットはほとんどない。「抵抗の枢軸」はあくまで利害の一致に基づく共同戦線であり、有機的に結び付いた一枚岩的な組織ではない(この意味で、最近のフーシー派による一連のミサイル攻撃やコンテナ船襲撃はあくまで場当たり的なものであり、ハマスとの事前調整の上で連携した作戦行動を行っているとは考えづらい)。
ただ、2023年12月25日、イスラエル軍によるシリア空爆によって革命防衛隊顧問サイード・ラズィー・ムーサウィー准将が殺害され、2024年1月2日にはイスラエルの無人偵察機がヒボラ支配下のベイルート南郊にあるハマス事務所を攻撃し、ハマス幹部のサーレハ・アールーリーが死亡したことで、一転、潮目が変わる可能性が浮上してきた。両者はいずれも「抵抗の枢軸」間のパイプ役を務めてきた重要人物であり、イスラエルとしてはガザ以外の場所も攻撃対象であることを示威すると共に、「抵抗の枢軸」に楔を打ち込む狙いがあったものと思われる。戦火が今後「抵抗の枢軸」全体を巻き込むものへと拡大する可能性はさほど高くはないが、イランやヒズボラによる標的を絞った反撃は十分に予想され、事態は予断を許さない。
〔1〕Afshon Ostovar, “The Grand Strategy of Militant Clients: Iran’s Way of War,” Security Studies, Vol. 28, No. 1 (January 2019), p. 15
- 本稿は、『外交』第82号(都市出版株式会社、2024年2月、http://www.gaiko-web.jp)に掲載された同名の原稿(104-109頁)を転載したものである。転載の許可を下さった『外交』編集部に対して感謝申し上げます。
プロフィール
溝渕正季
広島大学大学院人間社会科学研究科准教授。専門は中東地域の政治・経済・軍事・安全保障問題、イスラーム政治運動、中東地域をめぐる国際関係、および米国の対中東政策。
1984年香川県生まれ。2006年神戸大学国際文化学部コミュニケーション学科卒業。2011年上智大学大学院グローバル・スタディーズ研究科地域研究専攻博士後期課程単位取得退学。2012年に上智大学より博士(地域研究)を取得。公益財団法人日本国際フォーラム研究員、日本学術振興会特別研究員(PD)、ハーバード大学ジョン・F・ケネディ公共政策大学院ベルファー科学・国際関係センター研究員、名古屋商科大学ビジネススクール教授などを経て、現職。
主な業績は「外交:シリア内戦に見る米国覇権の黄昏」末近浩太編『シリア・レバノン・イラク・イラン』(ミネルヴァ書房、2021年)、“Strategic Asset or Political Burden? U.S. Military Bases and Base Politics in Saudi Arabia,” in Shinji Kawana and Minori Takahashi, eds., Exploring Base Politics: How Host Countries Shape the Network of U.S. Overseas Bases (Routledge, 2021)、「サウジアラビアにおける米軍基地と基地政治」川名晋史編『基地問題の国際比較:「沖縄」の相対化』(明石書店、2021年)。訳書にロジャー・オーウェン著(山尾大・溝渕正季訳)『現代中東の国家・権力・政治』(明石書店、2015年)、スティーブン・ウォルト著(今井宏平・溝渕正季訳)『同盟の起源』(ミネルヴァ書房、2021年9月[近刊])。