2013.09.24
アメリカはなぜイラクの民主化に失敗したのか
奇妙な問い
アメリカがイラクの民主化に失敗したのはなぜか。まさにアメリカがシリアに軍事攻撃を仕掛けようとしている現在(※編集部註:本記事は9月13日に脱稿されました)、この問いかけは非常にアクチュアルで、示唆に富んだ問題にみえる。
だが、もう少し大局的に考えてみると、この問いは非常に奇妙でもある。武力をともなった外部からの侵攻によって、民主化が実現すると想定するほうが、理にかなっていないからである。
そもそも、世界史的視点でみると、民主主義は珍しい政治体制である。手元にある話題の新刊本を紐解いてみると、その理由が良くわかる。曰く、包括的な政治制度(自由で民主的な政治)と、包括的な経済制度(開放的で自由な市場経済)が組み合わさったとき、持続的な経済発展が可能となるが、こうした好条件は様々な偶然が重なり合ってはじめて可能となる。通常は、その反対の収奪的な政治制度(権威主義体制など)と収奪的な経済制度の組み合わせに陥る(ダロン・アセモグル、ジェイムズ・ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか――権力・繁栄・貧困の起源 上・下』(鬼澤忍訳)早川書房、2013年)。
言い換えるなら、包括的な政治と経済の制度を作り上げる諸条件が偶然に重なり合わなければ、政治体制は権威主義的になり、民主化は起こらない、ということである。民主主義体制を作るのは、それほどまでに難しい。様々な条件が邂逅した結果なのである。
イラクについて考えると、さらに厄介な問題が首をもたげてくる。それは、民主化がアメリカを中心とする外部アクターによって持ち込まれたという点である。民主化支援は、ポスト冷戦期に注目を集めるようになった。無論、軍事攻撃だけではなく様々なアジェンダを含んでいる。ところが、これまで外部から民主主義を押し付ける民主化支援の試みは、ほぼ全て失敗してきたと言ってよい――ミャンマー、ルワンダ、カンボジアなど、その例は枚挙に暇がない。
イラクのように軍事侵攻によって民主化しようとしたり、西洋的基準に則った政治的・経済的コンディショナリティを強制したりと、民主化支援それ自体が非常に非民主的であるというジレンマもある。民主化支援を受ける当事国の指導者も、フリーダムハウスやポリティIVなどのアメリカの基準で民主主義の程度を測られることに、強い不快感を持っているだろうし、理不尽だと考えていることは間違いない。前述のように、当事者たちが時間をかけて徐々に民主主義体制を作りあげること自体、非常に困難であるのに、それを外部介入によって短期間で成し遂げようとすると、さらに難易度が上がってしまう。
このように、アメリカがイラクの民主化に失敗したのはなぜか、という問いかけに対する答えは、「はじめから成功する見込みはほとんどなく、失敗したのは当然の帰結だ」となる。
とはいえ、アメリカの覇権が続く限り、西洋的な民主主義は今後も政治体制の基準になるだろうし、民主化支援で民主化が成功するはずがない、と主張して思考停止に陥るのはあまりよろしくない。なぜ失敗したのか、イラク固有の事情を浮き彫りにしつつ、そのメカニズムを解明することは、イラクだけではなくシリアをはじめアメリカのターゲットになっている国々の今後を考えるうえで必要な作業となるだろう。
端的に言えば、アメリカによるイラクの民主化が失敗した根本的な要因は、「民主化を国家機構の建設と同時に進めたこと」に求められると筆者は考えている。詳しくは、今年の初めに上梓した拙著『紛争と国家建設――戦後イラクの再建をめぐるポリティクス』(明石書店、2013年)で論じたので、ぜひ手に取って読んでいただきたい。以下では、同書の内容をもとに、民主化の失敗要因をなるべく分かりやすく説明してみたい。
国家機構の解体がもたらした混乱
アメリカによるイラクの民主化を考えるうえで、決定的に重要なのは、次の2点である。すなわち、第1に、アメリカが戦後すぐにイラクの官僚機構・国軍・警察などの国家機構を解体したこと、第2に、極めて分権的な政治制度を導入したこと、である。
まずは、第1の国家機構の解体がもたらした混乱についてみていこう。
米国が戦後イラクで初めに行ったのは、サッダーム・フセイン政権を支えたバアス党、旧国軍と警察機構、そして官僚機構の解体であった。バアス党を解体し非合法化することを定めた「脱バアス党政策」は、バアス党幹部を公職から追放し、復帰することを妨げた。その結果、30万人を超える人々が失業者となった。
それは、フセイン政権を支えた中核的な幹部や政府高官だけではなかった。旧体制下では、官僚などの国家公務員に加え、大学教員や学校の教諭などの多くがバアス党員であったため(後述)、実質的に国家の運営を支えてきた多くの人たちもまた、職を追われることになったのだ。軍人や警察官もよく似た境遇に陥った。いくつかの情報を照らし合わせると、職を失った兵士と警察官の数は35万人にのぼる。
こうして街に溢れ出した失業者たちは、当初、未払いになったままの給与の支払いと雇用の保証を求めて、平和的なデモに集結した。にもかかわらず、問題は何ら解決しなかった。さらに、戦争によってインフラが破壊され、官僚制の解体によって市民への行政サービスが滞ると、イラク人の生活はどんどん荒廃していった。
サッダーム・フセインという独裁者を倒せば、バラ色の未来が待っているはずだった。だが現実はそれと反対に、生活状況は一向に改善せず、むしろ悪化の一途をたどった。次第に失業者の不満は蓄積していった。繰り返されるデモに対して、米軍が発砲し始めると、怒りの矛先は状況を改善できない米軍に向かうようになった。デモは次第に暴力的になり、反米・反占領を声高に叫ぶようになった。
こうして、当初は少なくとも表面的には、独裁政権からの解放者として歓迎されていた米軍は、イラク国民の敵となった。
国家機構の解体が、とりわけイラクでこのような問題を引き起こしたのは、もちろん理由がある。それは、あまりにも多くの国民が旧体制の統治に組み込まれていたため、国家機構の解体によってダメージを受ける人がその分だけ多かった、という点に他ならない。
もう少し具体的に説明しよう。イラクは半世紀にわたって社会主義的な政治・経済制度を敷いてきた。多くの国民を公務員として雇いあげる巨大な官僚機構を持った近代国家だったのだ。
1968年にバアス党が政権を取ったとき約5万8千人だった公務員の数は、1980年には82万8千人に増えた。これは、当時の人口約1700万人の4.9%を占め、労働力人口の15%を超えている。我が国の場合、2010年の統計で、約64万人の国家公務員と約282万人の地方公務員を合わせた人員が総人口に占める割合は、わずか2.9%にすぎない。官僚主導の国家と言われる日本をもはるかにしのぐ、いかに肥大化した官僚機構であったか、おわかりいただけるだろう。
言うまでもなく、この巨大な官僚機構を支えていたのは、1970年代後半に激増した石油生産・輸出による潤沢な資金であった。このオイルマネーを利用して、フセイン政権は多くの国民を公務員として政権に取り込み、体制の安定化を図ってきたのである。もちろん、公務員になるためにはバアス党員になる必要があり、その職位が上がるにつれて、彼らはバアス党幹部と密接な関係を持つことになった。
同じようなことは、軍や警察にもみられた。1970年代前半には約6万2千人にすぎなかった治安機関(軍と警察)の人員は、サッダーム・フセインが政権を取った後の1980年代には、実に7倍以上の約43万人に激増している。1950~80年のあいだに、イラクの人口は約510万人から約1700万人に増えているが、治安機関の人員増加は人口増をはるかにしのいでいることがわかるだろう。ちなみに、日本の場合、警察(約28万人)と自衛隊(約23万人)を合わせた人員が人口に占める割合は、0.4%にすぎない。1980年代のイラクでは、その割合は2.5%を超えていた。権威主義体制を維持するために、国民の多くが公務員(兵士や警察官)として政権に雇われたのだ。無論、彼らはみな、バアス党員になった。
だからこそ、こうした官僚機構や軍・警察などの国家機構が解体され、「脱バアス党政策」が実行されると、非常に多くの人々が失業し、彼らの生活に甚大な影響が及んだのである。
職を失った人々はどのように生活を再建したのだろうか。彼らに残された選択肢はそう多くなかった。そうしたなかで、とくに多くの元軍人や警察官が、昔の職場からカラシニコフをはじめとする重・軽火器を持ち出して、反米闘争を始めた。おかげで、旧国軍の武器庫はすっかり空になってしまった。
こうして、アメリカが国家機構を解体したことで、治安が急激に悪化し、イラク社会は大きな混乱に陥った。米軍はこうした混乱を鎮め、治安を回復することに忙しくなった。そのせいで、行政サービスを提供し、国を実際に動かしていくための官僚機構の再建は後回しにされた。さらに、軍や警察などの治安機関を再建するプロジェクトも、暗礁に乗り上げた。アメリカは、国家建設の初めの一歩で取り返しのつかない過ちを犯したのだ。
分権的政治体制の導入がもたらした混乱
次に、第2の分権的政治制度の導入がもたらした混乱について説明しよう。
上述のように、サッダーム・フセイン率いる旧バアス党政権では、極度に中央集権的な政治体制が確立していた。アメリカは、これこそが民主化を阻害する制度だと考えた。新体制が再び権威主義体制へと逆戻りすることを回避するために、アメリカは権力を分散させることを重視したのである。できるだけ分権的な制度を構築するため、首相任命には出席議員の3分の2以上の承認が、国際条約締結などの重要な決定にも議員総数の3分の2以上の賛成が、それぞれ必要になる規定を盛り込んだ。
選挙では、小さな政治勢力の不利にならないように、比例代表制を取り入れた。それだけでは不十分と、小規模政党に対して優先的に議席を配分する「補償議席」という制度も導入した。女性の参政権を保証することこそが民主主義だと考えたアメリカは、議員の25%を女性枠とする規定をも盛り込んだ。
実にアメリカ人らしい発想だが、実際は選挙で当選する女性議員は極めて少数で、女性議員の大多数が女性枠繰り上げ当選で選出されている。その分、民主的に選ばれた男性議員が落選するわけだから、実に皮肉と言わざるを得ない(有権者の女性参政権に対する関心は、現在のイラクでは相当低く、民意に合っていないのだ)。
ともあれ、こうした分権的な政治制度の導入は、一見すると成熟した民主主義体制を構築するための素晴らしい政策である。ところがどっこい、国家機構を解体されたイラクでは、これは吉と出なかった。
当たり前のことであるが、分権的な政治制度下では権力が分散するため、ある特定の政治勢力が安定した政権を作りにくい。紛争後の分断社会ではなおさらのことである。例を挙げてみよう。比例代表制は選挙区制と比較して多党制を生みやすいと言われているが、イラクでも典型的な多党制が生まれた。選挙が始まると、何千人もの立候補者が何百もの政党に分かれて、我こそはと出馬登録に駆け付けた。その結果、極めて多数の政党が乱立し、単独の政党では過半数を獲得して政権を担うことができなくなった。
ではどうすればいいのか。彼らが考え出したのが、いくつかの政党が集まって連合を形成し、議会で多数派を形成する、という戦略だった。それ以来、ほとんど全ての政党が、どの政党とどのタイミングで連合し、いかに多数派を形成するかを競う「多数派形成ゲーム」に、ありとあらゆる力を注ぐようになった。選挙は民意を問う政治イベントではなく、少しでも多くの票を獲得するために、いかに効率の良い政党連合を形成するかを競う政治ゲームとなった。
このこと自体は、我が国でもみられる現象であり、民主主義の観点からも容認できるかもしれない。問題なのは、選挙時に形成した政党連合を、選挙後にすぐに解体し、再編してしまう点である。選挙前後で政党連合を組み替えることは、比例代表という制度のもとでは、民意を反故にしていることになる。それだけはない。議会運営においても、法案やイシューごとに政党連合を組み替え、その時々で最も有利な連合によって多数派を形成するゲームが、延々と繰り返されるようになったのである。
このように、極めて分権的な政治制度がもたらしたのは、「多数派形成ゲーム」のために政党連合の再編を繰り返す合従連衡であった。言うまでもなく、これは分権的な政治制度を持ち込んだアメリカの意図や、制度そのものの理念とは乖離している。民主主義がひたすら多数派を形成する政治ゲームになり下がったからである。より深刻な問題は、イラクの政治家が「多数派形成ゲーム」に集中したことによって、肝心の国家建設や行政サービスが滞った、という点である。これは国民の政治不信を誘発した。さらに、あまりに短期的で激しい合従連衡は、政治家どうしの対立を誘発した。政治不信と政治対立の激化は、治安の悪化に帰結した。
もちろん、「多数派形成ゲーム」は、イラクの内部アクターが自らの利益を最大化するために、アメリカが持ち込んだ政治制度を都合良く利用した結果、生じたものに他ならない。だが、こうした内部アクターのしたたかさ、あるいはエージェンシーは、利己主義や民主化のスポイラーといった言葉で批判できるものでは決してないことは、強調しておきたい。というもの、アメリカという超大国の軍事侵攻と占領を経験するなかで、何とかして自らの政治社会的主張を行い、自らの手で国家の再権を進めようとする内部アクターに残された数少ない選択肢が、持ち込まれた民主制度をしたたかに利用することだったからである。彼らは、占領政策への協力者でも、アメリカが押し付けようとした民主主義に素直にしたがう「客体」でもなかったことは、今一度想起しておく必要がある。
ともあれ、国家機構を解体された分断社会に、分権的な政治制度を導入した結果、合従連衡によって多数派を形成する政治ゲームが延々と繰り返されるようになった。制度的には民主体制ができあがったのだが、実際には全く別の形で運用されるようになった。おまけに政局は著しく不安定化した。こうして民主化はいき詰った。
民主化のジレンマ
以上で論じてきたことは、次のように整理できるだろう。
まず、国家機構の解体によって反乱軍を生み出したアメリカは、その鎮圧に手いっぱいで、国家機構を再建するところまで手が回らなくなった。そうこうするうちに、分権的な政治制度によって大きく開いた政治参加の門戸にイラク人が殺到した。彼らは知恵を絞って、自らの都合の良い制度に作り直し、したたかに運用し始めた。こうして、民主化どころか、国家建設まで暗礁に乗り上げることになった。
ここから導き出せる教訓は、「ポスト冷戦期の民主化支援において、外部アクターは権力を分散させながら体制を安定化させることを要求するが、国家機構が破綻した国でそのような形で民主化を進めることは不可能である」、という点に他ならない。
当たり前のことである。民主主義は、政治アクターに対して、規則にしたがった行動を求める。だが、その規則を強制できる国家機構が存在しないまま民主化が進行すると、制度や規則そのものを自らの利害にしたがって解釈・運営する政治アクターが出現することは、少し考えればわかるはずだ。国家機構を解体し、はじめから権力を分散した状態で民主化を進めることは極めて困難なのだ。
そのことは、歴史を紐解けばより良く理解できる。近代国家は、軍事力や経済力を中央集権的に蓄積した勢力が、国を運営するために官僚機構や軍といった国家機構を整備する過程で形成されてきたものだ。それには極めて長い時間が必要だった。議会などの政治制度が構築されたのは、国家機構が確立したずっと後のことである。民主化は、こうした国家機構と政治制度が定着したさらに後、これまた時間をかけてゆっくりと、段階的に進められた。
だが、イラクにおいては、国家機構の再建、政治制度の形成、そして民主化が、何の区別もなく同時進行で行われた。その結果、多様な利害を持つ政治勢力が、自らの権利を拡大しようと競合を始め、民主主義の理念からは乖離した形で民主制度を運用するようになった。言うまでもなく、国家機構が確立していないので、こうした「勝手な」制度運用を矯正することはままならなかった。国家機構が破壊され、再建段階にある国で、民主化は成功しないのである。
したがって、アメリカによるイラクの民主主義が失敗した要因は、「民主化を国家機構の建設と同時に進めたこと」に求められる。
このように論じてくると、失敗したのはあまりにも当たり前のことのようにみえる。だが、アメリカの覇権が続く現在に生きる私たちは、この当たり前のことが、当たり前に理解できなくなってしまっている。
不安要素はまだある。イラクの場合、莫大な地下資源があるため、課税の必要性がそこまで高くない。したがって、課税権力を行使できる中央集権的な国家機構を再建するために、政治アクターがわざわざ妥協を繰り返すインセンティヴが低くなる、という点である。
このことは次のように説明するとわかりやすい。旧バアス党政権は、少なくとも理念的には社会主義国家であり、権威主義体制を維持するためにも、過度に中央集権的で肥大化した官僚機構や軍・警察が必要であったことは上述の通りである。だが、イラクは今、「民主主義」国家になった。正統性が曖昧な政権を維持するためだけの巨大な国家機構は必要なくなった。課税の必要がなければ、なおさらである。その結果、国家機構を再建し、福祉などの行政サービスを提供していこうという動きが加速されにくくなる。国家機構が再建できなければ、民主化は定着しないし、福祉などの行政サービスが提供できなければ、国民の不満が蓄積する。イラク政府は、合従連衡による勢力均衡によってのみ、秩序を維持していく他なくなるのかもしれない。
幸か不幸か、課税権力と暴力を集中的に管理する近代国家を先に作り、その後で徐々に民主化していくというモデルは、20世紀後半には既に現実には成立しなくなっていた。アメリカの覇権が続く限り、イラクのようにまず「民主化」し、国内の勢力の均衡によってのみ秩序を維持していくという事例が増えていく可能性も否めない。
こうなれば、外部介入者としてのアメリカができることは、ほとんどない。国家建設も、その後の民主化も、イラク人自身が進めていくしかないのだ。それにしても、アメリカは、民主化支援の失敗が生んだ惨事の被害に対して、どのように責任を取るつもりなのだろうか。
タイトル「iraq pre war protest 08」Señor Codo
プロフィール
山尾大
1981年、滋賀県生まれ。九州大学准教授。博士(京都大学)。専門はイラク政治、比較政治学、国際関係論。主要著書に、『現代イラクのイスラーム主義運動――革命運動から政権党への軌跡』(有斐閣、2011年)『紛争と国家建設――戦後イラクの再建をめぐるポリティクス』(明石書店、2013年)、酒井啓子・吉岡明子・山尾大編著『現代イラクを知る60章』(明石書店、2013年)などがある。