2013.11.25
ドイツの「強いマイノリティ」――戦後ユダヤ人社会の形成
なぜ「ヒトラーの国」を選んだのか
現在、ドイツには約12万人のユダヤ人が100を超えるコミュニティに暮らしており、これはヨーロッパではフランス、イギリス、ロシアに次ぐ規模である。ベルリンやミュンヘンといった大都市だけでなく、地方都市にさえ、実に立派なシナゴーグ(会堂)やコミュニティセンターが居を構え、近年では戦後はほとんど目にすることのなかった、黒ずくめの服にひげを生やした超正統派ユダヤ人の姿さえ町で見かけるようになった。かつて「呪われた土地」として忌避されたドイツに、いまや活発なユダヤ人社会が存在するのである。
しかし、ドイツにおけるユダヤ人の「可視性」は、どこか象徴的でもある。全国各地にユダヤ人迫害を記憶する記念碑が散在し、観光の目玉になっている。毎年開かれる「ユダヤ文化週間」の催しには多くの市民が集い、多文化的価値が謳われる。他者への寛容が語られるときには必ずユダヤ人団体の代表が登場し、そのコメントには道徳的権威の雰囲気さえ漂う。ユダヤ人人口がドイツ国民8千万人のなかの12万人に過ぎないことを思うと、彼らの可視性はどこか均衡を欠いている。ドイツの他のマイノリティ集団と比して、公的空間におけるユダヤ人の時には過剰ともいえるプレゼンスは、彼らが政治的資源を持つ「強いマイノリティ」であるような印象を与えている。
「強いマイノリティ」とは、形容矛盾のようにも聞こえる。通常、マイノリティは社会的弱者であることが多い。しかし、マイノリティの間でも格差が存在し、社会的資源にアクセスが容易な集団と、そうでない集団があり、一種の序列化が生まれているのが現状だ。マイノリティ間の格差を生む要素とは、集団の教育水準や、それと関連する職業分布と収入、さらにそのマイノリティの権利保護に強く関心を持つ同族国家(kin state)が存在するかどうかといった点にも影響される。しかしドイツのユダヤ人の場合、こういった条件はほとんど満たしていなかった。ではなぜホロコーストにより壊滅的打撃を受けたユダヤ人社会が、「強いマイノリティ」と見なされるようになったのか。
それは、「殺人者の国」に再建された共同体がたどった歴史と、それを取り巻くドイツ社会との関係のなかから生まれてきた。まず、戦後ドイツ・ユダヤ人社会の形成を振り返り、ホロコースト後のドイツに暮らすユダヤ人とはいったい誰なのか、なぜ彼らは「ヒトラーの国」を選んだのか見てみよう(本稿ではユダヤ教の信徒共同体の参加者を「ユダヤ人」とする)。
実は弱い「強いマイノリティ」
ナチ政権が成立した1933年の国勢調査で約50万人を数えたドイツ・ユダヤ人のうち、終戦時にヨーロッパで解放された者の数は2万人前後であった。14万人から16万人が殺害され、残りの30万人以上は、国外脱出が不可能になる前に移住しており助かった。
ホロコーストをヨーロッパで生き延びた約2万人のなかには、強制収容所から生還した者、地下に隠れて終戦を迎えた者もいたが、実はその大半がドイツ人の配偶者を持ち、いわばドイツ人社会とのつながりゆえに強制収容所への移送を免れた、中高齢の同化ユダヤ人たちであった。彼らが共同体を再建する主体となってゆくのだが、年齢的に彼らはすでに子供を産み育てる年になく、したがって共同体も遅かれ早かれ自然消滅するものと思われた。彼らがドイツに残ったのは、年齢ゆえに移住する気力も体力もなかったのに加え、命の恩人である夫や妻、子供たちを置いて国を去ることができなかったためである。
この年老いた共同体が消滅を免れたのは、戦後になってドイツにやって来た東欧出身のホロコースト生存者が加わったためであった。彼らは若さと体力ゆえに迫害を生き残った者たちで、ヨーロッパから移住する目的で故郷を離れ、難民化し(DP=Displaced Personと呼ばれた)、国連機関が運営する難民キャンプに流れ着いたのである。一時期、ドイツには16万人ほどのユダヤ人DPが逗留していた。
ユダヤ人DPにとってドイツはまさに「殺人者の国」に違いなく、ドイツに腰を落ち着けようと考えた者はおおよそ皆無であっただろう。ところが迫害による健康問題で移住先が見つからなかったり、ドイツで始めた商売が軌道に乗ったり(多くは闇市を出発点とし、米軍の物資の横流しや、米兵相手のバー経営などであった)、ドイツ人と結婚して子供が生まれたり、そうこうするうちに居座ってしまった。イスラエルが建国されると、大半のユダヤ人DPは出国したが、1万2千から1万5千人のDPが国内に残留した。
こうして文化的背景も、年齢構成も異なる二集団からなる戦後ユダヤ人社会の原型が誕生した。
このハイブリッドな共同体は、その後も理由があって「ヒトラーの国」に流れ着いてくるユダヤ人を受け入れてきた。まず、亡命先・移住先から帰国するドイツ系ユダヤ人の流れが常にあった。例えば、ドイツ語以外の国では仕事ができなかった弁護士たち。1950年代に個人補償が始まると、弁護士の需要が高まり、帰国した。イスラエルに移住したものの、現地の厳しい生活を嫌って戻ってきた「出戻りDP」。国交もなかったドイツに、夜逃げ同然で戻ってきた。
また1956年よりドイツへ帰国する者には6000マルクの支援金が出るようになり、南米など経済的に立ち遅れた地域へ移住した者の帰国が増加した。その後も1960年代末にはポーランドやチェコ、1970年代末にはイランなど、政治的理由で小規模な集団が逃げてきた。またドイツからイスラエルへの移住がある一方で、イスラエルからドイツへの移住は、前者より数が多かったのも事実である。ユダヤ人国家を棄てて他国へ移る者が民族の「裏切り者」とされた時代に、あえてドイツを選ぶとは言語道断であったが、ベルリンにはイスラエル国籍者の集団が半ば公然の秘密として暮らしていた。
こうして見ると、西ドイツのユダヤ人共同体は、重層的な移住により形成された移民社会であったことがわかる。端的にこれは、主に経済的理由からドイツを選択した、むしろ社会的基盤が弱い人びとの集合であった。第一、共同体の基礎を築いたドイツ系ユダヤ人の多くが年金や補償に依存していた。元DPは身一つでドイツに流れ着いたうえに、迫害によりまともな教育を受けていなかったから、職業的な意味での有資格者ではなかった。元DPは衣類の小売・卸売や、クリーニング屋、小規模なホテル経営など、伝統的に東欧ユダヤ人が従事してきた業種に集中した。
ドイツのユダヤ人は社会経済的にはむしろ「弱い」集団で、富裕層が比較的大きく、したがって政治的発言力もある他国のユダヤ人社会の構造と比べても、その「弱さ」は明らかであった。また多くのユダヤ人が、移民として文化的・言語的ハンディを抱えていた。戦前のドイツ・ユダヤ人社会の名を世界に知らしめていた知識人が、戦後の共同体には不在であったのも特徴的であった。
国家の民主主義的性格の証
ドイツのユダヤ人は「小さな人びと」の集まりであった。ドイツ社会にヒトラーの影を見出し、隣人のなかに小さなナチを感じ、補償においては官僚的な対応に憤慨する毎日を送っていた。自分の親兄弟を手にかけたかもしれない人びとと隣り合わせのなかで、ユダヤ人であることを知られないように、なるべく目立たないように、生きていた。
それに加え、ドイツに住んでいるという理由で海外のユダヤ人同胞から長い間白眼視されてきたことが、彼らの人生をますます窮屈にしていた。すべてのユダヤ人の「故郷」を標榜するイスラエルが生まれてからは特に、ドイツに残る者は何か問題があるように思われた。実際、ユダヤ人社会は近く消滅すると考えられていたので、シナゴーグやコミュニティセンターといった公共財産は戦後初期に多くが売却され、収益はドイツ外へ移転されてしまっていたのである。祈る場所もないということはつまり、ドイツに残る者はもはやユダヤ人ではありえないという意味であり、彼らはユダヤ世界のパーリア(賤民)と位置づけられたのであった。
同胞からも半ば見捨てられたこの弱小集団が、友好的とはとても言えないドイツ社会のなかでやってこられたのは、ひとえに西ドイツ政府という強力な後援者がいたからである。西ドイツはナチズムと断絶した民主主義的国家であるというのがアデナウアー以来の国家の自己定義であったから、国内のユダヤ人社会が存続することは重要であった。かつての「ヒトラーの国」にユダヤ人が暮らしていること以上に、国家の民主主義的性格の証になるものはないからだ。
したがって、弱小共同体が存続してゆけるだけの物的基盤を提供したのは、政府に他ならなかった。それは第一に、ナチ迫害に対する補償を通してなされた。まず、個人補償が年金生活者や就労不能な者たちの命綱となり、また移住したユダヤ人をドイツに引き戻す要因となってきた。
さらにユダヤ人共同体に対する集団的補償は、コミュニティを立て直す重要な財源となった。例えば、1938年11月のいわゆる「帝国水晶の夜」で破壊されたシナゴーグなどの物的損害への補償は、ユダヤ人の代表としての「ドイツのユダヤ人中央評議会(Zentralrat der Juden)」が主たる受け取り手となった。多くのコミュニティが礼拝に必要な10人の成人男性の確保もままならないような規模であったにもかかわらず、早い時期から各地で不釣り合いに「立派な」シナゴーグが再建されたのには、こうした背景があった。このような補償立法には、国内のユダヤ人共同体の強化を望む政府の意向が色濃く反映されていた。
物的支援にもまして重要であったのが、政府による政治的な後援であった。「民主主義=反ユダヤ主義の否定」という図式のもと、ユダヤ人は西ドイツ政治にお墨付きを与える監査役の役回りを果たすようになった。首相や外相の外遊に中央評議会の会長が同行し、アウシュヴィッツ解放の式典に並んで参加する姿は、メディアを通して広められた。
ホロコーストへの反省が国家的事業となり、そのなかから「想起文化」が生まれるなかで、ユダヤ人の可視性はますます強まった。メディアへの露出は、膨張したユダヤ人共同体のイメージを作り上げていったが、それはむしろ中央評議会会長により代表される「集団」としてのユダヤ人であり、そこにおいてユダヤ人個人は逆に背景に退き、不可視となっていったのである。カレンダーを埋める記念日や追悼行事、各地での記念碑の落成は、後にはこれらが単なる政治的「儀式」に過ぎないという印象を生むようになる。しかしそれでもユダヤ人への政治的配慮は、西ドイツの「規範」として確立していった。
ここで、規範化とは一種のダブルスタンダードを容認することだと確認する必要がある。つまり、ユダヤ人に関する事柄については、ドイツ人が自ら高いハードルを課すことを意味し、規範は目標値として、常に未到達のものとして存在することになる。反ユダヤ主義的な事件がすぐに問題化されるのに対し、ゼノフォビア(外国人嫌い)はある程度まで放置される。トルコ人に対して「トルコに帰れ」と叫んでも誰も気に留めないが、ユダヤ人に対して「イスラエルに帰れ」と言うと、戦後ドイツの民主主義的価値観の深刻な侵犯として認識されるといったケースである。
ユダヤ人に対するダブルスタンダード
しかし実際には、マジョリティとしてのドイツ人と日常的な摩擦が生じていたのは、大都市の居住者でない限りほとんど出会うことのないユダヤ人ではなく、たいていどの町にも暮らしているトルコ人ら外国人労働者であった。外国人に対する攻撃は物理的対象を伴うが、ユダヤ人に対する攻撃は、ホロコーストへの反省に基づいた戦後民主主義の価値観という、むしろ「象徴」に対する攻撃であり、それゆえにより深刻に感じられる。したがって、トルコ人らが学校や職場などでこうむる構造的な不利益に比して、メディアにおける反ユダヤ主義の取り扱いは、常に均衡を欠くこととなる。
ユダヤ人に対するダブルスタンダードの顕著な例を一つ挙げると、1990年代の旧ソ連のユダヤ人の移住がある。1991年、ドイツ政府は、「ユダヤ系」であると証明できる者に限り、人道的な受け入れ、つまり実質的な移住を認めた。当時、共産主義体制崩壊による政治的・経済的混乱で、東欧から多くの人びとが西欧へと流れ込んでいたが、経済難民の受け入れにドイツの門戸は固かった。しかし、ナショナリズムの高まりと反ユダヤ主義の危険性を理由にやって来るユダヤ人を追い返すという選択は、ドイツには与えられていなかったのである。
よく指摘されることだが、ドイツは東欧やロシアのドイツ系マイノリティのように、ドイツ語・ドイツ文化とつながりを有する者の受け入れを優先してきた。彼らは一種の在外ドイツ人と見なされたから、ドイツ系の移民はその他一般の移民とは常に別枠であった。そうしたなかで旧ソ連のユダヤ人の移住は、ドイツ系でない者に対しても優先的に移住を認める例外的措置であった。
ここで移民の資格を構成する「ユダヤ系」とは、ソ連時代に発給された国内パスポートの民族籍にユダヤ人と記入されていた場合や、父母のどちらかがユダヤ人であることを意味する。受け入れ基準を本人の技能などではなく、民族的・宗教的要素に求めた点では、まさにそれを理由に同じ人々を排除したナチ政権とは正反対だが同根の政策であると言える。実際、この枠組みで移住したユダヤ人は自動的に滞在許可と就労許可を得、住居を支給され、健康保険も適用されるという厚遇で、それ以上の待遇を期待できたのは、入国と同時に国籍を取得できたドイツ系移民だけであった。この措置により、1991年から特別枠での移住受け入れが終了する2004年までの間に、約20万人が「ユダヤ系」として移住し、そのうち約半数が正式に信徒共同体のメンバーとなった。
こうしてドイツ統一前は2万5千人から3万人の間を推移してきたユダヤ人社会は、1990年代に10万人を超える規模へと拡大した。しかし突然のメンバーの増加に、現場は移民統合のためのドイツ語教室や仕事のあっせんなど、さまざまな負担を負うこととなった。このため連邦政府は2003年に中央評議会と「政府協定(Staatsvertrag)」を結んでいる。これは国が中央評議会に対し年間300万ユーロの補助金を出すことを合意したもので、協定の前文には、ナチズムがもたらした苦痛にかんがみて、政府はユダヤ人社会の再建を望むゆえに補助金を出すと明確に述べられている。
2008年に金額は年500万ユーロへ、そして2011年に年1000万ユーロへ増額されて現在に至っている。いまでは移民の統合だけでなく、宗教教育者の養成など幅広い用途で使われているが、中央政府とのこうした合意は、ドイツのイスラム教徒団体とはなされていない。
以前と比べると条件は厳しくなっているが、現在でも旧ソ連諸国からユダヤ人としてドイツに移住することは可能である。ただし、移民には国内のユダヤ人共同体を強化する要員となることが要求されており、コミュニティへの参加が半ば義務付けられている。ユダヤ人社会の増強は、現在でも、まぎれもなく国策であるのだ。
「特権」と民主主義の関係
こうして見ると、ユダヤ人に対しては明らかに、国内の他のマイノリティ集団に対するものとは異なる基準が適用されてきたのである。こうした特別待遇が、ドイツのユダヤ人が政治的資源を持つ集団、つまり「強いマイノリティ」であると見なされる原因となっている。
しかし、これまで見てきたように、実質的な移民社会であったユダヤ人社会は経済的基盤も弱く、知的エリートは不在だった。イスラエルは彼らの同族国家と言えたが、ドイツにおけるユダヤ人社会の存在を、シオニズムへのアンチテーゼと見なすゆえに、政治的援助はほとんどなかった。つまり彼らは自分たちだけでは「強いマイノリティ」になりうる要素を欠いていたのである。メディアにはユダヤ人のイメージが氾濫していたが、実際に彼らに大きな政治的発言力があるか、具体的な政策を引き出す交渉力があるかは、まったく別の次元の問題であった。それはむしろ張子の虎のようなもので、なかには空洞が広がっていたのである。
それでも彼らが「強いマイノリティ」と認識されてきたとすると、それはもっぱら後援者としてのドイツ政府との関係のなかから生まれてきたものである。その関係の出発点にあったのが、ナチズムとホロコーストであった。実に皮肉なことだが、ドイツの負の歴史が、現代におけるユダヤ人社会が有する政治的資源の源泉となっているのだ。
しかし、国籍法も改正し、移民法も施行し、現実の移民国家へと舵を切っている現在のドイツにおいては、ユダヤ人が国内のトルコ人やロシア人のような「普通のマイノリティ」でないことが、徐々に奇異に映り始めている。遠くない将来に、ユダヤ人がこれまで享受してきたとされる「特権」への批判が聞かれるようになるだろう。これまでもそういった不満は時々口にされていたが、これより強い親ユダヤ的な規範が批判を封じ込めてきた。
ユダヤ人に与えられてきた「特権」とは、戦後ドイツ社会が規範に従って「過去の克服」を前進させる車輪の一つであった。そしてユダヤ人に対するダブルスタンダードは、ホロコーストへの反省に立つドイツ市民社会が、常に追認してきたのである。「特権」はまぎれもなく、戦後ドイツの民主主義の構成要素であったのだ。
サムネイル「Neue Synagogue, Berlin, Germany」Luke Ma
http://www.flickr.com/photos/lukema/10953307084/
プロフィール
武井彩佳
学習院女子大学国際文化交流学部教授。早稲田大学博士(文学)。
単著に、今回取り上げる著書の他、『戦後ドイツのユダヤ人』(白水社、2005年)、『ユダヤ人財産は誰のものか――ホロコーストからパレスチナ問題へ』(白水社、2008年)、『〈和解〉のリアルポリティクス――ドイツ人とユダヤ人』、(みすず書房、2017年)などがある。