2014.01.30

タイ総選挙と憲法裁判所――タイでは、いま何が起きているのか?

外山文子 タイ政治、比較政治学

国際 #タイ#タックシン#インラック#赤シャツ#黄シャツ#憲法裁判所#玉田芳史

「微笑みの国」とも称されるタイは、2006年の軍事クーデタによりタックシン政権が打倒されて以降、政治的混乱が続いている。通称「赤シャツ」、「黄シャツ」と呼ばれるデモ隊の衝突は、ここ数年間、海外のメディアでも幾度となく報道されてきた。

2011年7月の総選挙でタックシン派のタイ貢献党が勝利をおさめ、タックシン元首相の末の妹であるインラックが首相に就任した。しかし昨年、同政権が2007年憲法の改正や恩赦法の制定を試みたことを契機に、再び首都バンコクの中心部で大規模な反政府デモが展開されるようになった。

デモ隊の圧力を受けて、12月9日インラック首相は下院を解散し、今年2月2日に総選挙を実施する旨を発表した。しかし、最大野党である民主党が「我々は2月2日の選挙が真の改革に結ぶつくとも、制度に対する国民の信頼を回復できるとも信じない」として、総選挙のボイコットを決議したため、同総選挙の実施は極めて困難な状況となった[*1]。連日、軍によるクーデタ実行の噂が絶えず、非常に不安定な政治状況となっている。

多くの報道では、「タックシン派」と「反タックシン派」、「都市部中間層」と「農村部貧困層」との対立に焦点が当てられてきた。

これらの分析枠組みは間違いではない。しかし現在、今後の政局を占う上で最も注目を集めているのは、昨年11月から今年1月にかけて、いくつか政治的に重要な判決を下してきた憲法裁判所である。なぜ現在のタイ政治において、憲法裁判所の判決が重要なのであろうか。本稿では、憲法裁判所を鍵に、タイ政治の混乱について解説を試みたい。

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なぜ反対運動が起きているのか

2011年7月に誕生したインラック政権は、当初から2006年クーデタ後に制定された2007年憲法を改正しようと試みていた。

2012年2月頃から憲法起草委員会の設立に向けた手続きが開始されたが、2007年憲法起草者や一部の上院議員たちは「憲法を改正しようとする手続きは“違憲”である。憲法改正は王室に関する事案に影響があるかもしれない」と述べ、憲法改正に対して激しく反対し、任命上院議員ら40名が憲法改正の合憲性を審査するために憲法裁判所に申し立てを行った。2012年7月に憲法裁判所が下した判決では、まだ憲法改正の具体的な内容が不明確であるため、この時点では違憲ではないと判断された。

しかし、その後、同政権が恩赦法を制定しようとしたことで、一気に反政府運動が高まった。

恩赦法案は、当初は2006年クーデタ以降に実施されたデモの一般参加者に対して恩赦を与えることにより、タイ国内の政治的分裂を緩和するという目的で政府から提案されていたが、第二読会では、2010年にバンコク中心部で起こり、90名以上の死者を出した政治暴動の関係者も恩赦対象に含むと変更された。

また2006年クーデタ後に訴追された汚職事件に対しても恩赦を拡大するとされ、この対象にタックシンが含まれることとなったため強い反発が生じた。同法案は、下院では可決されたものの、上院で否決されたことにより終焉を迎えた。

憲法改正については、(1)2007年憲法によって半数が任命制、残り半数が民選に変更された上院について、全議席を民選に戻すこと、(2)2007年憲法第190条により、外国や国際機関との条約締結においては議会の承認が必要と定められたが、議会承認を必要とする条約を限定すること、以上2点が焦点となった。前述のとおり憲法裁判所は、2012年7月に憲法改正の手続きに着手することに違憲性はないという判決を下している。しかし二つの具体的な改正案については、違憲判決を下された。

インラック政権は、恩赦法や憲法改正の試みに頓挫し、また政府に対して強い反発が生じたため、解散、総選挙を行うことで事態の収束を図ろうとした。ところが、反政府デモ隊は、2月2日に予定されている総選挙を阻止しようと期日前投票を妨害するなど、反対運動を継続しているのが現在の状況である。

このように記述すると、海外亡命中のタックシンを救済しようとする政権と、それに反発する反政府デモ隊という構図にもみえる。しかし現在のタイ政治は、実はもっと複雑で重大な問題を抱えている。だからこそ、政府を支援する「赤シャツ」も連日会見を開き、反政府デモ隊に対して抗議を行っている。

[*1]民主党の要求は、反政府デモ隊と同様に、総選挙を実施する前に、政治改革のための委員会を立ち上げることである。(The Nation 2014年1月14日) 

タイ政治と司法

現在のタイ政治を読み解くうえで重要な鍵となるのは、司法である。

インラック政権は、異常なまでに裁判所や独立機関(選挙委員会や国家汚職防止取締委員会等)の判断を警戒している。インラック自身は政争に疲れて辞任を希望したが、兄であるタックシンからは、もし現在辞任すると刑法第157条(職務放棄)で訴えられるかもしれないと警告されたと報じられている。また同政権は、もし総選挙実施日を2月2日から変更する場合には、選挙管理委員会が首相や政府に対して訴訟等を行わないように確認しなくてはならないと述べていた。

実際、近年のタイ政治は、訴訟合戦の様相を呈している。政府が何をしても憲法裁判所に判断を仰がれると言っても過言ではない。

今月23日には、ある上院議員が「今回の非常事態宣言は、選挙期間中に政府が国の職員を使用することにより、選挙において自らを利することを禁じた第181条(4)に対する違反である」として、憲法裁判所に訴えると述べた。今月8日には国家汚職防止取締委員会が、憲法裁判所により違憲判決を受けた「上院議員の人選方法に関する憲法改正」について関与した疑いのある308人の国会議員に対して、調査を開始すると決議した。また前述のように、2つの憲法改正は、いずれも憲法裁判所の判決により阻止されている。

インラック政権は選挙を経て、民意により選ばれた政権であるが、多くの重要な決定に対して憲法裁判所によりたがが嵌められている状態である。世界的にも、国家権力の使用に対して憲法により抑制を行うべきでるという立憲主義の考え方が広まっているが、タイについても同様に解釈してもよいのだろうか。

タイ選挙の歴史

タイ政治と司法との関係について理解するために、次にタイ選挙の歴史について概観してみたい。

タイでは、選挙は第1回の1933年を皮切りに、37年、38年、46年、48年、52年、57年2月、57年12月、69年、75年、76年、79年、83年、86年、88年、92年2月、92年9月、95年、96年、2001年、05年、07年、11年の、合計23回実施されてきた。

しかし、1932年憲法から現在の2007年憲法までの18憲法のうち、首相が民選の国会議員であるべしと定める憲法は、1974年憲法、1991年憲法(1992年改正後)、1997年憲法、および2007年憲法の4憲法のみである[*2]。この意味において、民主的な制度の下で継続的に選挙が実施されるようになったのは、1990年代以降ということになる。

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一方で、民主化が進展するとともに、表1に示したように、憲法裁判所が選挙の無効判決を下したり、民選政権を打倒するといった、従来には見られなかった新しい現象が登場するようになった。

2006年9月クーデタの約5か月前に実施された2006年4月選挙の結果、本来は再び政権の座に収まっていたはずのタックシンのタイ愛国党は、2007年に憲法裁判委員会により解党された。選挙結果が裁判所によって否定されたのは、これが初めてである。さらに2007年選挙12月選挙によって誕生したタックシン派の後継政党である人民の力党の2つの政権は、2008年に憲法裁判所が下した2つの判決により打倒された。つまり3回連続で、憲法裁判所により選挙結果が否定されてきたことになる。

そして現在、2011年7月選挙により誕生したインラック政権も下院解散後、総選挙を実施できるか否かの危機に瀕している。2014年1月24日、憲法裁判所は、首相は選挙日程を変更する場合には、選挙管理委員会と協議したうえで新日程を決定しなくてはならないとの判決を下した。実は、憲法や関連法律には、明確には規定されていなかった条件である。

[*2]玉田芳史、2010年「タイにおける選挙をめぐる攻防 民主化と脱民主化」吉川洋子編『民主化過程の選挙 地域研究から見た政党・候補者・有権者』行路社、223‐244項。

政府側と反政府側の主張―何を争っているのか?

政府側および反政府側の主張も、上記のような政治状況を受けたものとなっている。それぞれの主張の要点を確認してみよう。

【政府側(1)】

一般にタックシン元首相派とみなされ、タイ北部や東北部の低所得者層からの支持が厚いとされる「赤シャツ」と呼ばれる反独裁民主戦線(UDD)の主張は、非常にシンプルなものである。彼らの要求は一貫しており、政権は民主主義の根幹である選挙に基づいて選択されるべきだというものである。クーデタには強く反対しており、2006年のクーデタ以降、クーデタによって民選政権(タックシン政権)が打倒されたことに抗議し続けている。

【反政府側(1)】

これに対して、人民民主改革評議会(PDRC)のリーダーであるステープは、タックシン派は地方で有権者の票を買っており、選挙は「タックシン体制」を守るためのものだと繰り返して、選挙の民主主義的正当性を否定する。大規模デモを繰り返したことによってインラック政権に下院を解散させたことについては、不誠実な政府から国民に権力をとり戻したのだと表現する。また、「良き人」による統治を唱え、選挙を経ずに任命によって首相や議員を選出することを主張し人民議会なるものの設立を提案している。これは憲法の規定には存在しない制度だが、ステープは合憲だと主張している。

つまり、これらの意見の対立は、「民主主義」の意味を巡る争いだといえよう。

更にもう1点、興味深い争点が存在する。タイでは、1997年憲法、特に2007年憲法以降、「法の支配」(rule of law)が重視されるようになった。1990年代以降、政府のアカウンタビリティや透明性を高め、汚職を撲滅して、政治を浄化することを目的に掲げられるようになった。その結果、1997年憲法によって、憲法裁判所や行政裁判所といった新しい裁判所や、国家汚職防止取締委員会や選挙管理員会といった独立機関が多数創設された。しかし現在、政府側と反政府側はこの点を巡っても対立している。

【政府側(2)】

タックシン本人および赤シャツは、2006年以降の裁判所の判決に対して非常に強い不信感を持っている。タックシンは、2006年クーデタ後に革命団布告30号によって設立された資産調査委員会により資産を凍結された。その後2件の案件で訴えられ、最高裁判所により有罪判決を下されて、資産の一部を国庫に没収された。これらの裁判の中で、タックシンは革命団布告30号や2007年憲法の一部条文の合憲性について憲法裁判所で争ったが敗訴している。

タックシンには、自らの訴訟で使用された条文や規定が、そもそも「法の支配」に合致していないという不満がある。今回上院によって否決され廃案となった恩赦法案について、タックシンが不当に自らの資産を取り返そうとしているという見方だけでは、現在の政治状況を理解するには不十分だといえよう。

また、2007年以降の憲法裁判所の判決により解党され続けて来たのがタックシン派の政党ばかりであり、反対に、保守派層からの支持が厚いとされる民主党に対しては甘い判決が下っていることから、タックシンと赤シャツは、裁判所判決の「二重基準」に対しても批判を行ってきた。

【反政府側(2)】

ここでもステープの主張は、正反対な内容となっている。反政府デモ隊にとっては、「法の支配」とは裁判所の判断そのものである。彼らは裁判所の判決を絶対視し、また2007年憲法は死守しなくてはならないものとして語られる。ステープは、インラック政権は恩赦法によって裁判所の判決を無効化しようとした時点で、政権としての正当性を失っていると攻撃している。

大規模デモの衝突、裁判所、独立機関、総選挙、汚職、票買い、タックシン……さまざまな要素が錯綜して複雑に見えるタイ政治であるが、2006年から現在に至るまで、「民主主義」と「法の支配」の二つの原則を巡る争いが、繰り広げられ続けているのである。

タイにおける「法の支配」の問題点(1)

次に、タイにおける「法の支配」の問題点について指摘したい。

最も重大な問題点は、2007年憲法により変更を加えられた、憲法裁判所、各種独立機関、そして上院の制度設計である。憲法裁判所、選挙管理委員会、国家汚職取締委員会の人選過程を確認してみると、1997年憲法ではいずれの機関の選考委員会も、政党代表者、司法代表者、学者代表者ら三勢力により構成されていた。全体的には司法代表者の比率が高かったが、最終的な委員の決定を行う上院は1997年憲法より完全に民選化されており、各勢力のバランスに配慮した構成になっていた。

ところが2007年憲法では、これらの機関の人選過程は、ほぼ完全に司法代表者によって独占されるようになった。また上院の人選についても変更が加えられ、約半数が任命制、残り半数が民選となった。

任命上院議員の選考委員会は、憲法裁判所長官、選挙委員会委員長、国家オンブズマン委員長、国家汚職防止取締委員会委員長、国家会計検査院委員長、最高裁判所裁判官、最高行政裁判所裁判官、合計7名から構成されると定められた。司法および独立機関の代表者が選考過程を独占している。つまり、上院および独立機関の人選過程において、司法の影響力が大幅に拡大しているということだ。

司法関係者は、2006年クーデタグループに協力して2007年憲法の起草に深くかかわっており、両者の協調関係は明らかであった。その一つの証拠として、任命上院議員に多数、2006年クーデタグループに近い人物が入っている[*3]。

このような制度設計の下では、憲法裁判所や独立機関に公正な判断を求めることは難しい。インラック政権が、上院を全て民選に戻そうとした憲法改正に対して、憲法裁判所は、1997年憲法下で起こったような下院議員による上院議員への影響力行使を防止するために上院議員の半数を任命制に変更したのであり、再度の完全民選化は違憲であるとの判決を下した。

しかしインラック政権側にとっては、上院議員の約半数が任命制であるということが非民主的であるというだけではなく、憲法裁判所や独立機関から2006年クーデタグループの影響力を排除するためにも、憲法改正が必要だったのである。

タイにおける「法の支配」の問題点(2)

もう一点、見逃すことのできない重要な問題点について紹介したい。

それは、2007年憲法第68条である[*4]。この条文は、2008年の人民の力党の解党の際に使用されている。また2012年に、インラック政権による憲法改正を阻止しようとした任命上院議員らが憲法裁判所に訴えた際にも、根拠条文として使用された。さらには昨年11月および今年1月の憲法裁判所による2件の憲法改正に対する違憲判決でも、根拠条文としても使用されている。2007年憲法第68条とは、一体どのような条文なのか見てみよう。

2007年憲法第68条

「人は、国王を元首とする民主主義政体の廃止または憲法に定める手段によらない国家統治権限の獲得を目的として、憲法に定める権利および自由を行使することはできない(第1段落)。(中略)憲法裁判所は、政党に対していずれかの行為の停止を判決する場合、当該政党の解散を命じることができる(第3段落)憲法裁判所が、第3段落に基づき政党の解散を命令した場合、憲法裁判所の命令があった日から5年間、政党党首および党幹部であった者の選挙権をはく奪する(第4段落)」

憲法裁判所に政党を解党する権限を付与した当該条文のモデルは、ドイツ基本法第21条である。ドイツ基本法は、ナチス党の経験を踏まえて、第21条によって違憲政党の禁止を定めている。これが有名な「たたかう民主制」の根幹となる条文である。

憲法起草に関わったタイ人の学者は、タイ2007年憲法第68条を「選挙によって選ばれた“悪い政権”を取り除く権利を、国民に付与した条文」であると称賛する[*5]。しかし問題は、「誰」にとって、どのように「悪い」のか、である。現在の2007年憲法は、2006年クーデタグループの影響下で制定された憲法である。任命上院議員には、クーデタグループに近い人物が多数選ばれている。また、2012年7月の憲法裁判所の判決により、検察を経ずとも、国民が直接に憲法裁判所に対して第68条に基づく訴えを起こせるとの判断が下された。2012年の憲法改正を巡る裁判を提訴していたのは、任命上院議員らであった。

タイ人知識人らの見解

タイ国内の知識人らの見解は分裂している。基本的にタイのエリート層は保守的な価値観を持っていると指摘されるが、近年はタマサート大学の教官らを中心とした革新的な法学者のグループ(niti rat)が登場しており、「民主主義」や「法の支配」の原則に則った政治を求めている[*6]。

同グループは、2013年11月の憲法裁判所による違憲判決についても、判決の方が違憲であると糾弾しており、政府側に憲法を改正する権利があると主張している[*7]。また、マスメディアの記者の中にも、恩赦法案への反対は支持するが、デモによって民選政権を打倒するのは間違っているとの見解を表明する者もおり、政権は選挙によって選択されるべきであるとの原則を重視する声が上がっている。

反タックシン派には都市部の富裕層や中間層が多いと言われてきたが、徐々にではあるが、彼らの中にも民主主義に対する考え方について変化が起こっている。

今後の展開

今後の展開を予想することは難しいが、2006年の流れを振り返ってみると、4月に実施された総選挙が5月に無効判決を下され、約4か月後の9月19日クーデタが起こっている。その後、約1年間の暫定政権による統治下で2007年憲法が制定され、2007年12月23日に総選挙が実施された。2007年憲法において大幅な変更が加えられたのは、選挙制度と独立機関に関わる条文であった。

反政府デモ隊や民主党が要求するような政治改革を実行するためには、再び新憲法の制定が求められるかもしれない。新憲法を制定するための最も手っ取り早い手段は、軍にクーデタを実行してもらうことである。軍は、従前のように自らの権益のためにクーデタを実行するのではなく、憲法を取り換えるために再度引っ張り出されるかもしれない。

再び焦点となるのは、選挙制度だと思われる。選挙では勝てない保守派層らの望みは、直接民主制や任命制を取り入れた選挙制度である。「民主主義」とは何か? 「法の支配」とは何か? タイ人の議論は、まだまだ続いていくであろう。

[*3]外山文子、2012年「タイ2007年憲法と上院―その新たなる使命―」『南方文化』天理南方文化研究会、第39輯、75-96項。

[*4]1997年憲法では、第63条がほぼ同様の内容を定めていた。

[*5]タマサート大学政治学部ナカリン教授とのインタビューによる。2013年10月4日

[*6]勿論、同グループの見解に対して、激しく糾弾する保守派からの声も存在する。Santisuk Sathaphon, 2012, Nitirat phlik phendin Thaksin Maharat, Bangkok: Power Politics Publishing (タイ語)

[*7]http://www.enlightened-jurists.com/  (タイ語)

サムネイル「Demonstration in Bangkok」Heinrich-Böll-Stiftung

http://www.flickr.com/photos/boellstiftung/12206767266/

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プロフィール

外山文子タイ政治、比較政治学

筑波大学人文社会系准教授、京都大学東南アジア地域研究研究所連携准教授。京都大学博士(地域研究)専門はタイ政治、比較政治学。早稲田大学政治経済学部卒政治学科卒、公務員を経て、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程修了(2013年)。主な論文に、「タイ立憲君主制とは何か―副署からの一考察」『年報 タイ研究』第16号、PP.61-80、日本タイ学会、2016年、「タイにおける体制変動―憲法、司法、クーデタに焦点をあてて」『体制転換/非転換の比較政治(日本比較政治学会年報第16号)』ミネルヴァ書房、PP. 155-178、2014年、「タイにおける汚職の創造:法規定を政治家批判」『東南アジア研究』51巻1号、PP. 109-138、京都大学東南アジア研究所、2013年など。

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