2014.03.24

クリミアをめぐる問題――ロシアが恐れる「革命」の連鎖

生田泰浩 ウクライナ政治社会

国際 #ロシア編入#synodos#シノドス#ウクライナ#クリミア#分離独立#クリミア自治共和国#セバストーポリ#シンフェローポリ

ある重大局面の検証に際しては、たとえそれが瞬間的なものであったとしても、時間的な文脈を十分に考慮しなければならない[*1]。冷戦終結以降、ヨーロッパが迎えた最大の危機だとされる目下のクリミア問題は、水平的領土空間のみならず、過去と未来という時間的な文脈の中で捉えなければならない。

クリミア自治共和国政府による「分離独立」宣言、住民投票、プーチン大統領による編入承認という一連の出来事は、まさにこうした時間的な文脈を念頭に置かなければ、何が、なぜ起こっているのか理解し難いだろう。また、時間的文脈への配慮は、各国の思惑が複雑に絡み合う国際政治上の駆け引きが、その社会に暮らす人々を翻弄し続けているという歴史的現実を浮き彫りにする。

日々情勢が変化し、新たな情報が次々と入る中で、ウクライナの「革命」、そしてクリミアの編入までに、どのような流れ、関係があるのか、見えにくくなっているだろう。そこでまずは、ウクライナ、クリミアとロシアとの歴史的関係や、一連の報道を振り返ったのちに、なぜ、焦点がウクライナからクリミアに移りつつあるのか、そしてそこにある「何がロシアを突き動かしているのか」という疑問について考察を行いたい。

そこから見えてくるものは、ロシアの「プライドと偏見」、そして権力喪失という「恐怖」ではないだろうか。現実政治の世界にはおよそ似つかわしくない表現だが、事実それが脅かされた時、プーチン大統領にとっては「一線を超える」のだ。

クリミアという場所

■帰属の変遷

18世紀後半、エカテリーナ2世の南方政策によって、クリミアはロシア帝国に編入されることとなった。クリミア戦争、ロシア革命を経てソヴィエト政権に至ると、1920年にはクリミア自治ソヴィエト社会主義共和国の創設が許された。その後、1954年にはフルシチョフ[*2]によるウクライナへの移譲が行われる(後述するが、プーチン大統領は先日の声明でこれを「歴史の過ち」だと言及した)。

ソ連末期になると、スターリンによって中央アジア地域へ強制移住させられていたクリミア・タタール人の帰還が認められ、ウクライナで唯一の自治共和国として1991年にその地位を取り戻した。

首都はシンフェローポリで、人口196万人(特別市セバストーポリ市:38万人は除く)[*3]、住民比率はロシア人が58%、ウクライナ人が24%、クリミア・タタール人が12%程度であり[*4]、ウクライナの中でもロシア人比率が最も高い地域である。

1990年代半ばまで分離独立運動が盛んであったクリミアは、1998年にようやくクリミア自治共和国憲法が成立したが、(キエフの)最高会議の承認が必要とされる。

■ロシアにとってのクリミア

クリミアおよびセバストーポリはロシアにとって地政学的、心情的に極めて重要な場所[*5]だと言われる。他方、実利的な面においては、ヤヌコーヴィチ前大統領と「地域党」の基盤であったウクライナ東部地域と比較して、この地域は工業化の度合いが低い。言うなれば、ウクライナ東部の人々が仕事や経済的利益に基づいてロシアを支持しているのに対して、クリミアの人々はアイデンティティに基づいた心情的動機からロシアを支持している。この要素は今回の分離独立への動きにおいても大きな違いとなって現われている。

ただし、そうは言ってもクリミアは既に半世紀以上ウクライナに属しているのであって、ウクライナ人にとっても当然愛着のある土地である。風光明媚な景観や美味しいワインなどもあって、ヤルタをはじめとする黒海沿岸はソ連時代から人気のリゾートであり、春夏の休暇をクリミアで過ごすのはウクライナ人やロシア人にとって定番だと言える。いわば皆に愛されている土地なのだ。

シンフェローポリの中心広場。レーニン像が佇む。(2012年撮影)
シンフェローポリの中心広場。レーニン像が佇む。(2012年撮影)
セバストーポリの軍港。当時は特別な雰囲気は全くなかった。(2012年撮影)
セバストーポリの軍港。当時は特別な雰囲気は全くなかった。(2012年撮影)

■2013年までのクリミア

ソ連崩壊後、クリミアがウクライナの悩みの種であったことは否定できない。一昨年、筆者が当地でインタビューした際にも、「キエフ(中央政府)はクリミアをどう扱うべきかいまだに判断できないでいる」という見解が多く聞かれた。

90年代の分離主義運動を何とか乗り越えた後も、セバストーポリにはロシア黒海艦隊が駐留し続けていたし、帰還したクリミア・タタール人の土地、住居問題、あるいはロシア人、ウクライナ人との民族、宗教問題などは改善が見られずに、紛争の火種として常に懸念されていた。

一方で、市民の生活上の課題としては、インフラや道路など経済発展を求める声が強く、民族間関係などの優先順位は低い。総じて聞かれたのは、「独立直後の20年前と比較すると民族間の関係は好転している」という意見だ。彼らは同じ教育を受け、ともに学び、共通の問題を抱える中で、それぞれの民族が多様性を受け入れる土壌を形成してきたのだ。2012年の時点で、クリミア南岸地域はもとより、シンフェローポリ、セバストーポリでも日常はとても平穏で落ち着いており、民族間の緊張など少しも感じなかった。このような様子は、2000年代初めにクリミア・タタール人の社会統合と市民社会の構築に着目した分析において、当時すでに民族間の共存が保たれていた[*6]ことにも裏付けられる。

実際のところ、今回の事件が勃発するまで、ウクライナならびにクリミアでは、武力を伴う大規模な紛争が生じたことはない。衝突の火種は内在していたとはいえ、それが再燃化したのはロシアの介入によってもたらされたところが大きい。我々はこの事実を、すなわち、20年以上をかけて積上げられ、築き上げられてきた民族間の恊働や共生という事実をしっかりと認識した上で、分離や独立、ロシアへの編入という現実を受け止めるべきだろう。

クリミア自治共和国最高会議(議会)。ウクライナ語、ロシア語、クリミア・タタール語が併記されている。(2012年撮影)
クリミア自治共和国最高会議(議会)。ウクライナ語、ロシア語、クリミア・タタール語が併記されている。(2012年撮影)

[*1]ポール・ピアソン(2010)粕谷祐子訳『ポリティクス・インタイム―歴史・制度・社会分析』勁草書房。

[*2]フルシチョフ書記長はスターリンの死後、その独裁政治を批判した。クリミア移譲はウクライナへの融和策の一環として、ウクライナ・コサックの指導者フメリニツキーとロシア帝国との同盟300周年に合わせて行われた。

[*3]Україна у цифрах 2010, Державний комітет статистики України.

[*4]ウクライナ国立統計委員会(2001年国勢調査)。http://2001.ukrcensus.gov.ua/results/general/estimated/

[*5]クリミア戦争、第2次世界大戦と2度にわたり祖国防衛に貢献したセバストーポリはロシア人にとって唯一無二の英雄都市だとされる。同地域はソ連時代からの軍港拠点であり、政治エリートだけではなく国民にとってもクリミア、セバストーポリは誇り高きロシアの一部だという感情が根強い。

[*6]南野大介(2004)「クリミアにおける民族関係と紛争予防―クリミア・タタール人の社会統合と市民社会の構築を中心に―」『ユーラシアの平和と紛争』Vol.4 3-40。

「分離独立」から「ロシア編入」

■「分離独立」宣言

キエフでの「革命」から数日後の2月26日、クリミアの中心都市シンフェローポリではロシア支持派と新政権支持派の衝突が起こり、数名の死者と負傷者を出した。さらに翌日、数十人の武装集団によって行政府庁舎と議会が占拠される。建物にはウクライナ国旗に代わりロシア国旗が掲げられた。28日にはセバストーポリの軍用空港とシンフェローポリ空港がそれぞれ武装集団によって封鎖されたと報じられる。これによって民間機の発着は停止、空域は封鎖された。

3月1日、「革命」後に不明瞭な手続きで就任した自治共和国アクショーノフ首相は、クリミアの地位を問う住民投票を3月30日に行うと表明した。一方、プーチン大統領は「ロシア系住民の保護」を理由にウクライナへの軍事介入を提案し、同日ロシア上院議会が全会一致で合意する。

ロシア側は即時の軍隊投入を否定するものの、2日の時点でウクライナ海軍基地などが包囲されるなど、駐留ロシア軍部隊、民兵組織、自警団などによって既に実効支配が進んでいた。このことからプーチン大統領は4日、クリミアへの軍事介入の必要がなくなったと述べるとともに、現在クリミアで展開しているのは、「自警団」であって、ロシア軍部隊ではないと主張した。この発言の裏には、1994年に米国、英国、ロシア間で締結された「ブダペスト覚書[*7]」にも配慮したことがうかがえるが、「ウクライナ新政権の正当性を認めない」という理由で協議の場すら持とうとしないことは、協定義務に反している。

続いて3月11日、クリミア最高会議(議会)は自治共和国と特別市セバストーポリのウクライナからの「独立」を採択し、16日の住民投票後に「ロシアへの編入」を目指す方針を明らかにした。この「独立宣言」は、「領土変更の決定にはウクライナ全土での国民投票を要する」との憲法規定をかわす目的があり、「独立」することで住民投票の合法性を訴える狙いがあった。しかし当然ながらウクライナ新政権と欧米が認めるはずもなく、キエフのトゥルチノフ大統領代行は14日、この「独立宣言」を無効とする大統領令を発令している。

■形だけの住民投票

住民投票は当初、「自治共和国の地位を国家に変更する問題」、つまり単に「独立の是非」を問うものだとされていたが、ロシア側との調整が行われた末に、最終的には「ロシアへの編入を希望するか」それとも「ウクライナにとどまるが、より強い自治権を定めた1992年時の憲法を戻すか」という二者択一であった。

ロシアがこの投票実施が合法だと述べる一方で、キエフ新政権や欧米はウクライナ憲法に違反しているとして拒否し、仮に投票が実査されれば追加制裁を発動させると警告した。クリミア人口のおよそ10%を有するクリミア・タタール人は、意思統一機関である「民族会議」でボイコットの意向を示していた。

結果的には、周知の通り16日に住民投票が実施され、96.77%がロシアへの編入を支持した[*8]とされる。しかし、そもそもクリミア・タタール人はボイコットを表明していたし、ウクライナ人やロシア人でも編入に反対の人は、このような無意味な投票に行かなかったであろう。

また、シンフェローポリ空港の乗り入れ便が(モスクワ便以外は)16日まで制限され、ロシア軍による実効支配下で道路や空港が封鎖された状況は、明らかに公平性が保たれていない。出口調査もロシア寄りの1機関のみが許され、すでに議会でロシア編入が決議された後に行われた投票は、編入を追認する意味合いが強い。

もちろん、仮に公正かつ合法的に投票が行われたとしても、ロシア編入を支持する住民が多数を占めたかもしれない。ただし、これとそれとは別の問題であるのは言うまでもない。したがって、数字に価値と信憑性があるような投票が行われていたとは考えられない。まさに出来レースである。

クリミアに住む友人の投票用紙。「平和」に票を投じたとのこと。
クリミアに住む友人の投票用紙。「平和」に票を投じたとのこと。

■「ロシア編入」、プーチンの承認

上述の住民投票を受けて、クリミア最高会議(議会)は独立国家「クリミア共和国」としてロシアに編入を求めた。同日、プーチン大統領はクリミアをウクライナから独立した主権国家として承認するに至った。ウクライナ新政権と欧米は「独立」もロシアによる承認もウクライナの主権を著しく侵害しているとして激しく非難、ロシアへの制裁の発動に動いた。

次いで焦点となったのはロシアがクリミアの編入を受け入れるかどうかである。ちなみに、ロシアはグルジアやモルドバなど旧ソ連諸国との間で「未承認国家」を生み出してきたが、外国領土を自国の州や共和国として編入した前例はなかった。

翌18日、世界が注目する中で、プーチン大統領は上下両院の議員をクレムリンに招集して演説を行った。編入は先送りするのではないかとの観測が出ていたが、演説では「クリミアとセバストーポリをロシアとして迎え入れる」ことを意気揚々と宣言した。さらに、ロシアの正当性と激しいアメリカ批判を繰り広げた。予想される非難と経済制裁はEUやG7の枠組みでも相当なレベルに上るのが確実な状況で、ロシアとプーチン大統領の覚悟を強く意識させるものだったと言える。そこで以下の節では、この覚悟がどこから生じているのかについて一考察を示したい。

[*7]当事国は、ウクライナが核兵器を放棄することと引き換えに、ウクライナの一体的領土と主権と尊重することを明記。また、これに疑義が生じた際には、協議の場を設けることを規定している。

[*8]クリミア選挙オンライン http://referendum2014.ru/news/krym-vybral-protsvetanie-v-edinstve-s-rossiey.html

ロシアの思惑

■変貌したウクライナ情勢

直近のウクライナ情勢の焦点は、キエフのマイダン(独立広場)からクリミアへと移っている。それと同時に対立の争点も変化していることは注目に値する。なぜなら、その転換こそがロシアの戦略だった可能性が考えられるからだ。つまり、マイダンがヨーロッパ選択というテーマを発端として、腐敗した抑圧的な政権を打倒するというウクライナの内政改革を試みたものであった一方で、クリミア問題は、多分にプロパガンダを含むウクライナ人とロシア人の対立、あるいは欧米とロシアの領土、軍事外交的な段階へと変貌を遂げている。

この変化はなぜ起こったか。日々地政学的な駆け引きが繰り返されているのは報道の通りであるが、基本的にはロシアの一連の介入によってクリミアの危機は拡大している。ロシアは革命の直後から多くの要人をクリミア半島に派遣していた。ロシアによって意図的な変質が画策されていたと考えられる。もっとも、「革命」の後、ロシアは明確な発言を控えて情勢を見極めていたのは間違いない。ヤヌコーヴィチ前大統領の利用や東部の動向などによってはプランB、Cも検討されていたはずだ。

ただし、「革命」の本質的な意味合いを考えれば誰の目にも明白だが、ヤヌコーヴィチの政治生命は完全に終わっていた。また東部での新政権の反発はロシアの予想以上に小さなものであった。一方で、クリミアにおける分離独立の動きの発端は、キエフの新政権に反発したという側面に加えて、これまでクリミアの統制を行ってきた旧与党「地域党」の基盤が瓦解する中で、アクショーノフ新首相の選出、ロシア系政党が実権を掌握したことが大きい。その意味で、「地域党」支持者と新政権支持者の間での衝突が報じられている東部とは温度が異なる。ロシアもこの点は理解した上で、クリミアに焦点を絞った可能性が高い。

ロシアがクリミアに固執する理由は、地政学的要衝であることはもちろん、黒海艦隊、石油資源や安価なパイプラインの建設の為などさまざまな事柄があげられる。また、18日の演説でも強く主張している通り、クリミアがロシアに帰属しないことは歴史の過ちであって、隔絶されたロシア人は救済されなければならない、という自負だ。さらに重要なことは、クリミアやセバストーポリが北大西洋条約機構(以下:NATO)の基地に生まれ変わりかねないという懸念だった。ウクライナ新政権もNATO側もこの懸念は否定しているものの、かつてのグルジア侵攻もこの懸念が現実味を帯びたからである。

それに加えて「ウクライナを不安定に保っておくこと」それ自体が大変重要な意味を持っている。つまり、独占と腐敗に溢れていた体制を瓦解させた「革命」の勢いを止め、新政権を混乱、分裂させることで、少しでも影響圏を保つことであったと考えられる。ウクライナ情勢の変貌は、究極的には自らの権力喪失を回避する、いわばロシアのシナリオだったかもしれない。

■ロシアが危惧する「革命」の連鎖

ウクライナ情勢の混乱の最中、モスクワの裁判所は2012年の大統領選挙の際、プーチン大統領への抗議デモを行った活動家に有罪判決を下した。そして、この判決に抗議した数百人がモスクワ、サンクトペテルブルグでそれぞれ拘束されている。この中には、有名な野党指導者のナワリヌイ氏、ネムツォフ元副首相、女性バンド「プッシー・ライオット」のトロコンニコワ氏などが含まれている。また、反政権寄りの放送をするテレビ局への圧力も強めている。プーチン政権は、抗議デモがロシアにも波及する事態を警戒して、厳しい措置に出ていることがうかがえる。

ロシアでは、2003年〜2005年にグルジア、ウクライナ、キルギスで連続して生じた「カラー革命」に際しても、その連鎖を警戒していた。その為、プーチン大統領は大規模デモの中核となる青年層を取り込み、愛国主義政策を推進することで若者の意識形成にも努めてきたという指摘[*9]もある。また、「カラー革命」が欧米の支援と介入によってもたらされた点を強調しており、米国からの経済支援を受けているNGOには「外国の代理人」として当局に届けることを義務づけるなどの対応を取ってきた。

それにもかかわらず、2012年に大統領復帰を目指した選挙の際には、「反プーチン」デモはかなりの規模と勢いで、プーチン時代には陰りが見えたとも評された。このような経緯を鑑みても、「革命」の連鎖こそプーチン大統領が最も危惧していることであり、それだけに「革命」の勝利をクリミア問題でかき消すこと、それによってウクライナと欧米の勢いをくい止めることは最優先課題のはずだ。

さらに、ウクライナにおける「革命」が完全な勝利に終わってしまえば、「カラー革命」や中東での「アラブの春」の再現のように、他の旧ソ連諸国に波及することも想定された。

下記の図は米国のシンクタンク、フリーダムハウスによる民主化指標の世界地図(2013年版)の抜粋[*10]である。緑色は「民主的」な国、青色は「民主的ではない」国、黄色は「部分的に民主的」な国である。

<民主化/自由の地図>
<民主化/自由の地図>

一見して明らかな通り、すでにEUに加盟しているバルト3国を除くと、旧ソ連諸国で「民主的」な国と認められているところはなく、ロシアをはじめベラルーシや中央アジアでの腐敗や縁故にもとづいた独占的経済、強権的な政治体制は従来から問題視されている。

そうだとすると、プーチン大統領以外の指導者たちも、革命の連鎖が自国に波及して来ることが、最大の不安要素であるはずだ。ウクライナの成功は危険な前例になりかねない。ヤヌコーヴィチ前大統領の保護、クリミア分離独立の支持や編入承認というロシアの決断は、「親ロシア路線を取れば安全は確証する」という、旧ソ連諸国の強権的な指導者と国民に対するメッセージも読み取れる。

プーチン大統領にとって「クリミア編入」は、18日の演説の言外にも、ロシア国内のみならず旧ソ連諸国でも求心力を高めることにつながる、重要かつ不可避の決断だったのではないか。

[*9]西山美久(2010)「プーチン政権下における「愛国主義」政策の変遷―「カラー革命」と青年層―」『ロシア・東欧研究』第39号。

[*10]Freedom House. http://www.freedomhouse.org/report/freedom-world-2013/map-freedom-2013

終わりに

ウクライナならびにクリミアにおける現状は、欧米とロシアの綱引きがこの時代に今もなお危機として存在しているという現実を浮かび上がらせている。

今回の「革命」からクリミアをめぐるさまざまな行動や主張を見たとき、理路整然とした正論を主張しているアクターは存在していない。刻々と情勢が変化する危機的な状況において、現実の政治とはそのようなものと言ってしまえばそれまでだが、ロシアの詭弁は言うまでもなく、ウクライナ新政権やそれを100%支持する欧米首脳も、民主主義の原則を看過している部分はあるだろう。その矛盾はロシアの主張に多少なりとも正当性を与えてしまっている。

すでに自明であるが、ウクライナの将来的発展は、欧米、ロシア双方と緊密な関係を保ちながら民主的な国家体制を築くことによってのみ達成される。その為には、欧州もロシアもウクライナに対する地政学的な打算をひとまず脇に置いて、ウクライナ新政権に対して適切な支援を行い、バランスの取れた関係を保っていくことが求められるはずだ。

ただし、クリミアを奪われ、CIS(独立国家共同体)からも脱退を表明したウクライナは、2度とロシアの影響圏に属することはないと思われる。これは、ロシアにとって、そしてロシア国民やクリミアの人々にとって、どういう意味を持つのか。

現実的問題として、クリミアは水や電気などのインフラの7割〜8割をウクライナ本土に頼っていた。さらに当地のおよそ4割はロシア人ではない。ロシア・ウクライナ間の移動にはビザが必要になる可能性もある。何世紀にも渡り兄弟国であり、お互いの国に親戚や友人がいない人はあまりいないだろう。キエフで話される言葉は体感的に半分以上がロシア語である。

今回のクリミア問題にあたって、キエフで「ユーロマイダン」時のようなデモが起きていないのはなぜか。また、これほどの主権の侵害と衝突があっても末端レベルですらウクライナ側の反撃は見られない。過激派を除いて多くの人々の想いは「プーチンは出て行け!」であって「ロシア」ではないのだ。

だからこそと言うべきか、それでもプーチン大統領はクリミアを編入することで、ロシアのプライドを保ち、NATOの拡大を阻むと同時に、ロシアでの革命を回避する為に自身の権力基盤を固めることを選んだのかもしれない。

ロシアは今回のクリミアをめぐる攻防において、国際社会の立場と経済利益を犠牲にしながらも、すでに「革命」をかき消すという成果をあげている。プランBであったと思われる「東部への侵攻はない」とも明言している。とは言え、ウクライナの混乱も欧米とロシアの関係も未だ予断を許すものではない。国際政治の駆け引きの内側にある、その国や地域の時間的な文脈、そして人々の日常を意識しながら、この問題を注視していくことが必要ではないだろうか。

プロフィール

生田泰浩ウクライナ政治社会

慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科博士課程在籍。専門はウクライナ政治社会。ウクライナ地域研究。上智大学外国語学部卒業後、企業勤務を経て、慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修士課程修了(2012年)。

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