2012.10.26
今こそ「国際倫理学」の話をしよう
国際倫理学とは何か
ハーヴァード大学のマイケル・サンデル教授の講義が「白熱教室」として紹介され、話題になったおかげで、日本ではここ数年「政治哲学ブーム」が起きている(今は少し落ち着いたように思われるが)。この種の学問に多少なりとも身近さを感じられるようになったとすれば、私としては非常に喜ばしいことである。とはいえ「国際倫理学」という分野には、まだあまりなじみがないのではないだろうか。このたび、リチャード・シャプコット著『国際倫理学』が岩波書店より刊行された。そこで、この場を借りて、「国際倫理学」という学問について、少し書き連ねてみたい。
「国際倫理学」とは、はたしてどのような学問なのだろうか。一般に、「倫理学」とは、ある行為の道徳的評価にかかわる学問研究であり、ある種のメタレベルの問いを扱うものである。だとすると、「国際倫理学」とは、国際社会における道徳なるものを哲学的に探究する学問であるといえる。国際社会における主たるアクターの1つには国家があり、したがって、国家にかかわる法や正義を探求する「法哲学」や「政治哲学」といった隣接分野とも、当然ながら大いに関連する学問である。また、「国際政治学」における、とりわけ規範的な側面を扱う理論などとも関係するため、「国際倫理学」とは、極めて学際性が高い学問領域である。
それと同時に、「国際倫理学」は比較的新しい学問領域である。「倫理学」は前述のようにメタレベルの問いを探求する学問であるから、国家間関係や国際問題について正面から論じることはそもそもあまりない。「法哲学」や「政治哲学」における考察の中心は、前述のように国家、もっといえば、国内社会における法や正義であった。たとえばジョン・ロールズの『正義論』を見れば明らかなように、彼は一国内の財の公正な配分の原理を探求したわけである。したがって、少なくともおよそ1980年代以前までは、概して「倫理学」「法哲学」「政治哲学」が国際社会に関心を寄せることはほとんどなかったのである。
他方で、国家間関係などを扱う「国際政治学」においては、少なくとも日本では、往々にして実証主義的研究が重視され、哲学的な研究は等閑視されてきたように思われる。それにはいろいろな理由があるのだが、1つには、「英国学派」の重鎮であったマーティン・ワイトがかつて述べたように、国家の「生存」を扱う国際政治学と、人々の「善き生」を扱う政治哲学は明確に峻別されるべきであり、国内社会を考察の対象とする政治哲学の議論は、アナーキーな国際社会を対象とする国際政治学にあてはめることはできないという考えが広く流布していたからであろう (*1)。
ところが、冷戦が終焉し、また経済のグローバリゼーションが進むにつれて、こうした状況が変わってきた。とりわけ、環境、金融、テロ、格差などのグローバルな問題群の噴出によって、問題解決の「ヴィジョン」を示せといういっそうの要望が出されるようになった 。そうしたなかで、カントやヘーゲルといった古典からロールズなどの近年の政治理論家にいたるまでの幅広い知見を大いに取りこみながら、国際政治上の倫理的諸問題を扱う「規範理論」(normative theory)への関心が高まってきたのである。(*2)
(*1)See M. Wight, “Why Is There No International Theory?” in H. Butterfield, and Wight (eds.), Diplomatic Investigations: Essays in the Theory of International Politics, London: Harvard University Press, 1966, pp. 17-34.〔「国際理論はなぜ存在しないのか」佐藤誠他訳『国際関係理論の探求──英国学派のパラダイム──』(日本経済評論社、2010年、1-23頁)〕
(*2)押村高『国際政治思想──生存・秩序・正義──』、勁草書房、4頁。
コスモポリタニズム=善、ナショナリズム=悪?
さて、われわれ日本人にとって、国際社会における倫理なるものを考える1つのきっかけになるであろう近年の大きな出来事といえば、東日本大震災ではないだろうか。失われた20年を経験し、経済が停滞しているとはいえ、日本は世界的に見れば間違いなく裕福な国である。その日本が1000年に1度ともいわれる未曾有の大災害に見舞われたとき、多くの国の人々が直接的であれ間接的であれ援助に駆けつけてくれた。
アメリカによる「トモダチ作戦」は言うまでもなく、正直なところあまり裕福とはいえない国からも多くの義捐金が届いた。ある国のスポークスマンが「このぐらいの額の義捐金が日本にとって取るに足らないことはわかっているけれども、それでも何か支援の手を差しのべたかった」という趣旨のことを述べていたのを聞いて、私は非常に感銘を受けたのを覚えている。
世界の誰であっても、困っている人がいれば救援に駆けつける。これはまさに「コスモポリタニズム」の精神そのものだということもできる。たとえば、「国境なき医師団」のホームページには、次のように書かれている。
国境なき医師団は、苦境にある人びと、天災、人災、武力紛争の被災者に対し、人種、宗教、信条、政治的な関わりを超えて、差別することなく援助を提供する。国境なき医師団は、普遍的な「医の倫理」と人道援助の名のもとに、中立性と不偏性を遵守し、完全かつ妨げられることのない自由をもって任務を遂行する。(http://www.msf.or.jp/about/charter.html)
こうした精神は素晴らしいものだと高く評価できるが、世界がすべてそうした精神で覆われているかといえば、そうではない。ヨーロッパを見てみよう。第2次世界大戦後のヨーロッパは、域内での経済交流・相互依存を深め、「1つのヨーロッパ」という理念を現実のものにしようと相当な努力を積み重ねてきた。その功績が認められ、つい先日、欧州連合にノーベル平和賞が授与されることになった。だが、欧州連合の実態を少しのぞいてみるだけで、なかなか複雑なようであることがわかる。
記憶に新しいところでは、先の金融危機の余波で苦境に陥ったギリシャ、イタリア、スペインという南欧諸国に対して財政支援を行うかどうかで非常に揉めている。そこでよく聞かれる話は、ドイツなど比較的財政が健全な国家の市民からすれば、「なぜ自分たちが一生懸命働いて稼いで支払った税金を、自国民のためではなくて、ギリシャなど他国の借金返済に充てなければならないのか」というものである。
無論、国境なき医師団が救援しようとしている人々と、ドイツ人がギリシャ人を支援するというのは次元が異なるので、単純に比較できないが、ヨーロッパで現れているのは、コスモポリタニズムというより、まぎれもなくナショナリズムであるように思われる。
このように述べると、あたかも世界がコスモポリタニズム的な精神の体現に向かっているところに、ナショナリズムが水を差しているように見えるかもしれない。ここに至って改めて考えなければならないのは「コスモポリタニズム=善、ナショナリズム=悪」という単純な思考図式である。希少資源の配分に関するよく知られた喩えとして、ギャレット・ハーディンの「救命ボートの倫理」があるが、その状況を変えてもう少し具体的に考えてみよう。
日本近海で船が沈没したとして、10人乗りの救命ボートに乗せることができるのはあと1人である。海には、(1)日本人の老人、(2)アメリカ人のハリウッドスター、(3)中国人の若者の3人が投げ出されている。このときに誰を助けるのが正義に適っているといえるのだろか。
コスモポリタニズムの精神に従い、困っている人を全員を平等に助けようとすると、ボート自体が沈んでしまう。そこで仮に救命ボート上の人々が全員日本人であり、同胞愛から日本人の老人を助けたとして、そのことは非難されるのだろうか。見知らぬ他人よりも同胞を助けるというのもまた直感的に正しいように思われるのである。
コスモポリタニズムの再定義
「国際倫理学」とはこうした問題について、どのように考える「べき」かというヴィジョンを規範的に提示する学問である。本書はその格好の入門書であり、「国際倫理学」を包括的に論じたテキストが刊行されるのは、日本では初めてだといってよい。
本書はまず、何らかの倫理的な判断を下す際の起点となる考え方として、「コスモポリタニズム」と「アンチ・コスモポリタニズム(≒ナショナリズム)」という2つを提示し、各々を概観し、問題点などを指摘したうえで、移民・難民問題、グローバルな貧困、正戦、人道的介入といった具体的な地球的規模の課題について、著者なりの立場から論じている。
著者がどのような主張を展開しているかは、実際に本書を手にとって確認して頂きたいが、興味深い点を1つだけあげておけば、著者は、先に挙げた「コスモポリタニズム=善、ナショナリズム=悪」という単純な思考図式を回避し、両者を共に擁護できるような見方を探っているのである。シャプコットは次のように述べている。
コスモポリタニズムは地球規模での相互の結びつき、人類への帰属意識の目覚めに訴えかけ、他方アンチ・コスモポリタニズムは、各地の特定の下位人間集団への帰属や相互結合という事実に訴えかける。しかしながら、こうした相違があるにもかかわらず、本書から明らかなように、コスモポリタニズムとアンチ・コスモポリタニズムは普遍主義の前提にもとづく1つのスペクトラム上に各々の位置を占めるのであって、顕著な違いは、普遍主義の範囲や中身にかかわるかぎりで現れる(本書:265頁)。
シャプコットによれば、このときの重要なポイントは、「コスモポリタニズム」をカント主義の観点から解釈すること、すなわち、カントの有名な「定言命法」を基盤にした「薄いコスモポリタニズム」(thin cosmopolitanism)として理解することである。著者のこうした試みがどれだけ成功しているかは読者の判断に委ねざるをえないが、私は少なくとも著者の企図自体は大いに評価したい (*3)。
(*3)シャプコットはコスモポリタニズムに立脚しつつアンチ・コスモポリタニズムとの両立可能性を探っているが、私は逆に、拙著『ナショナリズムの力』において、アンチ・コスモポリタニズムの立場から、それとコスモポリタン的な価値との両立可能性を論じた。本書と併せて参照願いたい。
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日本政治に蔓延るヴィジョンなき決断
「国際倫理学」という学問分野は先に述べたように比較的新しいものであり、欧米でも本格的に取り組まれだしたのはここ20年くらいである。日本においては、残念ながらこの分野の研究はまだあまり進んでいない。そこで最後に、本書の文脈とは少し離れるが、現在の日本の政治状況を踏まえたうえで、「国際倫理学」研究の意義について若干触れて、本稿を終えたい。
昨今、政治について叫ばれるフレーズは、「決断できない」「決められない」「先送り」というものである。そうしたなかで、大阪市の橋下徹市長率いる「維新の会」などは「決断できる政治」を全面にアピールしている節がある。たしかに政治の重要な局面に「決定」や「決断」はつきものである。それは否定できない。しかしながら、ヴィジョンなき「決断」や「決定」ほど恐ろしいものはない。
「理念や構想を語ることなどこの際どうでもよいから、決めるべきことを決めて少しでも早く政治を前に進めてくれ」という趣旨のことをマスメディアにおいてしばしば目にする。しかしながら、私はこの考え方にあまり賛同できない。「決断」の重要性は、むしろそれがどのようなヴィジョンのもとになされたのかにかかっていると思うからである。そして、そうしたヴィジョンにかかわる学問こそ、倫理学や哲学(特に政治哲学/社会哲学)である。
とりわけ国政レベルにおけるあらゆる政治的決定は、日本をどのような国にしたいのかというヴィジョンと、直接的であれ間接的であれ、つながっていなければならない。日本をどのような国にしたいのかというヴィジョンは、日本のことだけを考えて導かれるものではない。そうではなく、世界の中で日本はどのような国であって、いかなる役割を果たしていくのかという大局的なヴィジョンがあるべきで、これにもとづいて、対外・国内政策が行われなければならない。
党利党略を優先した、現在の政治の停滞は大いに問題だが、だからといって、「決断」や「決定」こそが最も大事なのだという風潮は、首肯しかねるところがある。政治においては、むしろその背後にあるヴィジョンもまた大変重要なのである。本書は、そうしたヴィジョンを描くうえでの1つの手がかりとなるものである。その意味では、「政治哲学」や「国際倫理学」という学問の今後のさらなる発展が期待され、また、それらが一般の人々にとってますます身近なものになるように、われわれ研究者にはいっそうの努力が求められるように思われる。本書が、研究者や学生だけでなく、多くの人の目に触れることになれば幸いである。
プロフィール
白川俊介
1983年生まれ。関西学院大学総合政策学部を卒業。九州大学大学院比較社会文化学府博士後期課程修了、博士(比較社会文化)を取得。現在、日本学術振興会特別研究員PD(青山学院大学国際政治経済学部)。専門は政治理論、国際政治思想。主な著書に『グローバル秩序という視点――規範・歴史・地域――』(法律文化社、2010年、共著)、『分断された社会における社会的連帯の源泉をめぐって――リベラル・ナショナリズム論を手がかりに――』『現代思想研究』(第10号、2010年、政治思想学会研究奨励賞受賞)。