2013.03.29

定数配分訴訟と「選良」の限界 

大屋雄裕 法哲学

政治 #一人別枠方式#定数配分訴訟

2012年12月16日に行われた衆議院総選挙(第46回)について、その定数配分が憲法に違反しているとして選挙の無効を求める訴えが全国各地で起こされ、次々と高裁判決(第一審)が下されていることは報道を通じてよく知られているかと思う。そのうち、2013年3月25日の広島高等裁判所判決、26日の広島高等裁判所岡山支部判決が選挙を無効にするという戦後初となる判断を示したことは、とくに話題になっているだろう。

だがじつのところ、法的な見地からこれらの裁判の結果がきわめて重要だとか興味深いとは、少なくとも筆者は考えていない。この問題は要するにほとんど組み上がったパズルになっているし、裁判所がその範囲でどのように判断しようが、きちんとしたかたちで解決する可能性はないからだ。

以下では、何故そうなるのか・今後の展開として何が求められるのかについて述べていこう。(なお、各高裁判決の全文はまだほとんど公開されていないため、入手できた範囲以外のものは報道に依拠して説明している。)

初期条件

まず、今回の一連の訴訟以前の状態がどうであったのかを確認しておこう。現在の衆議院は定数300の小選挙区部分と定数180の比例代表制部分との並立制になっている。このうち選挙区間の格差が問題になるのは、基本的に小選挙区の部分である。

その配分については都道府県を単位とし、(1) まず各1議席を配分したうえで(一人別枠方式)、(2) 残り253議席を人口比例(最大剰余方式)によって配分する。そのあと都道府県ごとに、選挙区間の有権者数の格差が2倍を超えない・大都市をのぞいて市区町村を分割しない・飛び地をつくらないなどの基本方針に沿って個々の選挙区へと区割りされることになる。この区割り作業は国の衆議院議員選挙区画定審議会(区画審)によって行なわれ、首相へと勧告された内容は特段の問題がなければ国会へと提出され、審議されるという手順になっている。同審議会の委員(国会議員以外の有識者7名)は、国会同意人事により任命される。

問題は、2000年の国勢調査をもとに行なわれた区割り改訂において、一人別枠方式があるために選挙区間の格差を2倍以下にできないことが判明した点にある。この結果、2009年8月30日に投票された第45回総選挙の定数配分をめぐって提起された訴訟において最高裁判所は、当時の選挙区割りは憲法違反の状態にあると判断した(最高裁判決平成23年3月23日)。一人別枠方式は、小選挙区制度の導入当初(1994)においてそれまでの定数配分とのあいだで生じる違いを緩和するための方法としては一定の合理性を持っていたものの、すでに制度の定着した現在において・一票の価値の格差を拡大させる主要な原因になっているにもかかわらず・維持する正当性を認めることはできないというのである。

結論として最高裁は、「できるだけ速やかに本件区割基準中の1人別枠方式を廃止し、区画審設置法3条1項の趣旨にそって本件区割規定を改正するなど、投票価値の平等の要請にかなう立法的措置を講ずる必要がある」と指摘した。

違憲状態は是正されたか

これを受けて立法府においても法改正の内容が検討された。しかし改革案に関する与野党協議は合意に至らず、野党が欠席するなか衆議院で与党案を単独可決・参議院に送付(2012年8月28日)、野党側が反発して野田総理大臣問責決議案の可決に至った(29日)。この間の経緯・与野党双方の改正案の内容については、すでにSynodos Journalに掲載していただいた(「選挙制度はどう改革されようとしていたか」)。

結局、与党案は第180国会において審議未了廃案、野党案について閉会中審査の手続きを取り、第181国会において成立させた(11月16日・平成24年法律95号)。その内容は、一人別枠方式を廃止しつつ、2010年国勢調査を踏まえた当面の改定案についてはそれと別にいわゆる「0増5減」を行なうというものであった。つまり、最高裁判決の要求を無視したわけではないがきちんと実現したわけでもなく、なんとか合意の取れた範囲での弥縫策を講じた程度だということになろう。

しかし衆議院はその同日に解散されたため、総選挙までに区画審の作業を行なう時間的余裕はまったくなかった。結果的に、第46回総選挙はすでに「憲法に違反する状態」であると最高裁に判断された定数配分のままで行なわれたことになる。

一般的に言えば最高裁判所は同一の問題については自らの以前の判断を維持するし、そのことを前提として下級審も最高裁判例に従った判決を下す傾向が強い。放置しておいたのに勝手に定数配分が修正されるわけはないから、今回選挙の定数配分についても同様の判定が下されるのはほぼ必然的だった、ということになるだろう。実際にこれまでの判決においても、比例区の定数配分を争った東京高裁3月21日判決以外はすべて「違憲状態」を認定している。

合理的な期間

さて次に、定数配分が憲法違反の状態にあれば、すなわち憲法に違反して選挙が行なわれたということになるかという問題を考えることができる。そうなるのが当たり前だと言われるかもしれないが、たとえば以下の例を考えてみよう。

衆議院が解散され(この時点で一般的な手段により定数配分を修正することはできなくなる)、衆議院総選挙が告示されるまでのあいだにある選挙区を巨大災害が襲い、有権者の過半数が死亡した。告示時点での有権者数を基準にすると定数の大きな不均衡が生じ、当該選挙区と・もっとも有権者の多い選挙区との格差は3倍を超え、憲法に違反した状態にあると考えられる。さて、この選挙は憲法に違反して行なわれたことになるか。

ここでの論点は、修正のための合理的な期間の有無ということになる。そもそも立法府は、憲法の求める政策をいつ・どのようなかたちで実現するかについて自由に判断する裁量権を持っている。たとえば憲法25条1項は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定めるが、この権利をどのように実現するかについては、立法府が原則として自由に決めることができる(それが民主政だ)。だから、現状のように金銭を給付する生活保護制度もあり得るし、現物給付やバウチャー制度を選択することも、それ自体として不当だということにはならない。

したがって最高裁としても、憲法違反の問題が生じるのは立法府がその裁量権を逸脱した場合にかぎられると指摘している。たとえば現物給付制度を採用したことによって「健康で文化的な最低限度の生活」が実質的に享受できなくなるような状況が発生したとすれば、人権保障という目的を逸脱しており裁量権の濫用にあたるということができるだろう。あるいは、適切な制度の設計や立法作業に一定の時間が必要なのは当然だが、それによって説明可能な「合理的な期間」を超えて立法が行なわれなかった場合(不作為)には、やはり裁量の範囲を逸脱しているということになる。

とくに、定数配分のように制定当時は基準に合致していたはずのものが・その後の人口移動により基準に反することになったようなものについては《いつの時点で憲法違反になったか》を簡単に判断することはできないため、たとえば定数配分訴訟の先駆的事例においても「人口の変動の状態をも考慮して合理的期間内における是正が憲法上要求されていると考えられるのにそれが行われない場合に初めて憲法違反と断ぜられるべきもの」(最高裁判決昭和51年4月14日)だと判示されてきた。

そこで今回の事例について見ると、第45回総選挙の定数配分について違憲状態であったとする最高裁判決が下された2011年3月から第46回に向けた解散まで約1年8ヶ月の余裕があった。これは抜本的な制度改正を実現するには(とくに立法過程に時間のかかる日本においては)十分ではないかもしれないが、最高裁判決の求める範囲を最低限実現するとか、少なくともそれに近付けるための一定の努力もできないほど短い期間だということはできないだろう。

実際にも上記の通り、弥縫的な改正法案はすでに6月時点で国会に提出されており、その後すぐに可決成立されていたとすればそれに基づく区割り作業が第46回総選挙に間に合った可能性は十分にある。「合理的期間」の問題から違憲性を否定するのはやや難しい、ということになりそうだ。

解決策?

では選挙が憲法に違反して行なわれたことを認定し、無効にすればよいのか。そうは簡単にいかないところが真の問題なのである。「無効」というのがどういう意味なのかが、よくわからないのだ。

いわゆる定数是正訴訟のほとんどは、公職選挙法(昭和25年法律100号)204条に定める「衆議院議員又は参議院議員の選挙の効力に関する訴訟」の形式を借りて行なわれている。選挙の効力に意義があるとして当該選挙から30日以内に高等裁判所に提起される訴訟であり、(衆議院小選挙区の場合)原告は選挙人(有権者のこと)または候補者・候補者届出政党、被告は選挙区のある都道府県の選挙管理委員会である。その効力については続く205条が規定しており、「選挙の規定に違反」があれば「選挙の結果に異動を及ぼす虞がある場合に限り」、裁判所は選挙の全部または一部を無効とすることになっている(1項)。その結果として当選人がなくなったか、定数に達しなくなった場合は再選挙が行なわれる(109条4号)。

今回の一連の訴訟についても同様であり、いくつかの選挙区の有権者を原告とする訴訟が・それぞれを管轄する高等裁判所に提起されているし、その直接的な請求内容は《対象となっている選挙区における選挙の無効》である。

だが、特定の選挙区について無効が宣告され、上記の通り再選挙が行なわれたとしても、違憲性は明らかに解消しないだろう。ここでいう再選挙は(たとえば)岡山2区の選挙をやり直すということであり、同じ範囲の選挙区から同じ数(1名)の議員が選ばれる以上、定数配分が修正されるわけはないからである。安念潤司が指摘する通り(「いわゆる定数訴訟について(一)」『成蹊法学』24号、1986)、204条に定められた選挙訴訟はもともと選挙実施に問題があった場合を想定した対応であり、定数是正訴訟のように全体としてのバランスや他の選挙区との格差を問題にするための制度では、明らかにないのである。

では対象となっている選挙区の無効だけではなく、選挙全体の無効を宣告することに踏み込むべきだろうか。まず第一に、それは原告が請求した内容とは異なっている。裁判とはあくまで原告側が求めた内容の強制をどこまで認めるかを決めるための制度であり、当事者の主張と無関係に・裁判官の信じる正義を実現するためのものではない。少なくとも通常の裁判制度の理解に立つかぎり、そのようなことはできないということになろう。

さらに、それを認める実定法上の根拠がどこにあるかということも問題になる。前述の通り公職選挙法204・205条は選挙全体に対する措置を認めたものではない。となると「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」とする憲法98条1項まで戻ってそれを基礎付けなくてはならないだろうか。仮にそうしたとして次に立ちふさがるのは、第一に「無効」の意味がここでも判然としないということであり、第二にそれが生み出す結果があまりまともには思えないという問題である。

選挙全体の無効?

おそらく、前回の(あるいはここ数回の)選挙における定数配分が不公正であったと声高に叫ぶ人たち(いやその主張内容自体はわたしも否定するものでない)がイメージしているのは、選挙の結果が全体として無効になり、適切な選挙区割りのもとでガラガラポンと再選挙が行なわれることであろう。だが問題は、その新たな選挙区割りを誰がどのように定めるのかという点にある。根拠になるのは公職選挙法なので、法改正がどのようにしてか行なわれなくてはならないのだ。

だがここでは、選挙全体を無効にしたことが想定されているのであった。ということは、素直な解釈に従えば前回の選挙全体がその効力を失うのであるから、その結果である当選資格も失われ、現在の衆議院議員たちはその身分を失うことになるはずである。なおこの点を勘違いしていた人というのも実際にいたのだが、憲法45条により解散の時点で衆議院議員の任期は終了し、全員がその身分を失っている(だから衆院選には元職と前職と新人しかいないのである)。仮にその後の選挙が無効になったとしても解散の効力に影響が生じるわけはなく、解散前の議員が戻ってくるようなことには決してならない。ではどうすればいいのか。

考えられるのは、やはり憲法54条2項に定める参議院の緊急集会を開催することである。「国に緊急の必要があるとき」に開かれ、国会の職務を果たすことができるがあくまで臨時措置であり、次の国会開会後10日以内に衆議院の同意が得られない場合にはその効力を失うとされているものだ。

この制度は使えるだろうか? まずパズルとしては、誰が緊急集会を求め、議案を提出するかが問題になる。規定上は「内閣」であるが、現在の安倍(第二次)内閣は第46回総選挙の結果として構成された国会によって成立したものであり、その選挙の効力が失われるのであれば(議員の資格と同様に)その地位を失うことになると考えるのが自然だろう。となるとその前の野田(第三次改造)内閣復活かということになるが、2012年12月26日に総辞職してしまっている。法改正を行なおうにも、そのための手段がまったく起動しないということになりかねないわけだ。

この点は、12月26日の総辞職はあくまで先行する第46回総選挙が有効であることを前提に・憲法70条の規定に従って行なわれたものであり、前提が崩れれば無効になると解してもいいかもしれない。あるいは憲法71条により、新内閣の成立まで引き続きその職務を行なっていると考えてもいいだろう。すると本質的な問題は、その方がより優れた民主的正当性・正統性をもたらすことになるかという点にあることになる。

正当性と正統性

正当性と正統性の違いについては、すでにSynodos Journalでも説明したところであるので繰り返さない(「正当性と正統性」)。ここでの選択肢は、以下のようになるだろう。

(A) バランスの悪い選挙区割りによって選出された衆議院を基盤として成立した内閣という正統性に問題のある立法府・行政府に改革を委ねる。ただし少なくとも現時点において内閣への国民の支持は極めて高く、「人民の支持する改革」という正当性は調達できる可能性が高い。

(B) 正統性に問題のある衆議院・内閣を排除し、残る参議院に改革を委ねる。ただしその構成員は2007年・2010年にそれぞれ半数ずつ選出されており、現在の民意とは非常に大きく乖離している可能性が高い。

このように正当性と正統性とが対立する状況において、(B)の方が民主政的に正しいとまで言い切ることができるか。これが選挙全体の無効という選択肢を考えた場合に裁判所が直面する問いである。

付け加えれば「残る参議院」も2010年の第22回通常選挙における定数配分が憲法違反の状態にあり、「都道府県単位で選挙区の定数を設定する現行の方式を改めるなどの立法的措置を講じ、できるだけ速やかに不平等状態を解消する必要がある」と指摘されている状況にある(最高裁判決平成24年10月17日)。それ自身の正統性も危うい参議院に改革を委ね、国民から支持されている内閣を葬り去るようなことが許されるかどうか。すでに述べた裁判制度の制約を除いて考えたとしても、相当に悩ましい事態だということにはなるだろう。

なお余計なことを言うと、現時点での支持という正当性があるからといって成立過程における正統性の問題は治癒されないという立場を取る人は《日本国憲法を支持できない》という点には注意する必要があろう。日本国憲法が成立過程に大きな瑕疵を抱えていることは明白であり(占領下で主権が制限された状態で制定された、明治憲法の改正という形式を取りながら明治憲法の改正規定に準拠していない)、にもかかわらずそれに正統性を認めるなら《人民が独立後も一貫してそれを支持してきた》という正当性に根拠を求めるよりないからである。

さらに余計なことを言うと、上記のような問題に直面した裁判官がいたとすれば、次のようなことを考えるかもしれない。すでに述べた通り、遅くとも2011年3月には衆議院の選挙制度を改正する必要があることが明らかになっていた。その義務を負うものが誰かといえば立法府であるが、内閣を組織しており・衆議院の多数を占めている民主党(および連立政党)に第一義的な責任がある、すくなくとも重い責任があると考えることはできるだろう。「不可能は義務付けられ得ない」以上、たとえば法案提出権すら持っていない日本共産党に立法不作為に対する主要な責任があると考えることは不合理だからである。

ところで制度改正が怠られたまま行なわれた第46回総選挙がどうなったかといえば、その民主党が壊滅し、自公連立へと政権が移ったわけである。この選挙を無効にし、民主党政権を暫定的にであれ復活させるというのはトラブルの責任者に利益を与えることにはならないだろうか。むしろ制度改正責任を怠ったものが人民から罰を受けたのだから、そのままにしておいた方が正義にかなうのではないだろうか……。

実際に裁判官がこのように考えたとか、考えるものだと主張したいわけではない。しかし少なくとも、選挙の公正という正統性を過大に重視すれば、政権を持つものの責任や人民からの支持という正当性の問題を大きく損なうことくらいは、意識して議論するべきだろう。

具体的な判決の評価

さて、上記のように考えてくると結局、対象選挙区のみを考えるのであれ全体を考えるのであれ、「無効」という判断をすることは決して良い結果に結び付かないだろうと予測されることになる。すでに述べたように(1)定数配分が「違憲状態」にあり、(2)制度改正に必要な合理的な期間を逸脱して「違憲」になりそうなのだが、(3)結論としては「無効」を出せないとすれば、その中間をどうにかして埋める必要が出てくるだろう。それが「事情判決」の法理、つまり結果として生じる混乱が非常に大きいためにやむを得ず違憲性の宣告にとどめるという《いつもの手段》になるわけだ。冒頭でこの問題が「ほとんど組み上がったパズル」だと言ったのは、そういうことである。

今回の一連の判決をこれに照らして考えると、(2)の点で一歩踏み出して「合理的な期間」だと判断した(「違憲状態」の指摘にとどめた)のが3月14日の名古屋高裁判決と18日の福岡高裁判決、(3)の方向に踏み出して無効判断をしたのが25日の広島高裁判決と26日の同岡山支部判決ということになるだろう。

このうち前者においては、国会が「0増5減」案など一定の改革に取り組んだことがその一つの根拠となっている。名古屋高裁はまた、「ねじれ国会」状況では国会における合意形成が難しく、制度改正などに相当の期間が必要になることにも加えて言及している。

これに対して原告団は「ねじれ国会」は憲法上いつでも起き得る事態なのにそれを理由として立法の不作為が認められるのはおかしいという趣旨の批判を加えており、それはその通りなのだが、ねじれが発生すると脱出困難になるような両院の対称性が強い議会制度自体が憲法によって立法府に課せられた制約なので、それが機能しない責任を立法府のみに追わせることも適切ではなかろうと思われる。また、いずれにせよ結論としては選挙を有効とするので「違憲状態」と「違憲」の差は立法府に対するメッセージ性のみだから大した差ではないと考えることもできるだろう。

では(3)で踏み出した両判決についてはどうだろうか。たしかに、「違憲状態」の判示にとどめたり「違憲」だが事情判決により有効とするような判決に比べれば、司法府としてのメッセージは強いものを送ることができるだろう。しかしただちに岡山2区の選挙を無効とする岡山支部判決がうっかりそのまま確定してしまった場合、あるいは選挙制度改革関連法が施行されてから1年となる今年11月27日をもって広島1区・2区の選挙を無効とする広島高裁判決が確定したがそれまでに抜本的法改正が間に合わなかった場合、どうすればいいのだろうか。

すでに見た通り、現在の制度を前提とするかぎり対応としては対象選挙区の再選挙しか考えられないが、有権者数が大きく変わるわけもなく、定数も変わらないのだから違憲状態が自動的に再現されるということになるよりない。違憲無効を宣告した判決内容が本当に実現したら憲法違反の事態を生じさせるわけで、判決としては異常なものだと評価できるだろう。

さらに言えば、3月25日の広島高裁判決で将来から無効とされた広島1区(314,600人・1.54倍、以下有権者数は2012年12月16日現在)と広島2区(392,877人・1.92倍)、3月26日の広島高裁岡山支部判決でただちに無効とされた岡山2区(288,235人・1.41倍)はいずれももっとも有権者の少ない高知3区(204,196人)を基準として2倍以内にとどまっている選挙区である。これらのみ、あるいは一連の訴訟で対象となった31選挙区をすべて無効・再選挙としても、全体としての格差問題が解決しないことは言うまでもない。

無責任な訴訟、無責任な裁判所

広島高裁判決が出た際、まさか無効判断までが出るとは思っていなかった原告団が「勝訴」の垂れ幕を用意しなかったというエピソードが、複数の新聞であたかも微笑ましいものであるかのように紹介されていた。しかしこのことが示唆しているのは原告団自身に勝つ気がなかったこと、勝った場合の法的な解決策がない以上勝てるはずがないと思っていたことではないだろうか。仮に、訴訟を通じて定数配分を実質的に修正することを少しでも考えていたのならばもっとも有権者の多い千葉4区(497,350人)をまっさきに対象にすべきだろうが、そのような訴訟は提起されていない。

要するにこの訴訟は「一票の価値が不平等である」という事態を訴訟という道具を用いてアピールし、可能ならば裁判所にも正当な主張だと認定させ、そのことをもって立法府にしかるべき立法措置を実現させることを狙った「政策形成訴訟」の一種である。そのため、本当に勝ったらどうするか、この特定の訴訟方式によって勝つことが問題の解決に結び付くかといったこと、要するに《後始末の付け方》についてはまったく考慮されていないということになるだろう。

だとすれば、そんな訴訟を起こした方も無責任なら正面から肯定した裁判所は輪をかけて無責任だということにはならないだろうか。両高裁判決は「画期的」だとあちらこちらのメディアが評価しているが、画期的に思えるアイディアの大半はすでに思い付かれたが使いものにならなかった陳腐なものだという箴言を想起すべきだろうと思われる。

将来効判決

付言すれば、すでに述べた通り広島高裁判決が今年11月27日をもって無効の効果が生じるという「将来効判決」を下している点、また岡山支部判決が無効の効果は選挙時に遡らないとしている点の評価も相当に難しい。公職選挙法205条5項を見ると、比例代表区の場合にかぎっては、無効判決があっても再選挙の結果が新たに告示されるまでは従来の当選人決定が有効だと定められている。逆に考えれば、小選挙区の場合には無効判決によりただちに当選の効力=議員資格が失われると解釈するのが自然だからである。

将来効判決という考え方自体は、やはり一票の格差をめぐる1985年の最高裁判決で示されたものである(最高裁判決昭和60年7月17日)。裁判官4名による補足意見は、定数是正訴訟があくまで公職選挙法204条に定める選挙無効訴訟の形式を借りたものに過ぎない(だから205条の内容に拘束されない)と指摘した上で、その独自の性格から判決として下すべき内容についても別個に考える必要がある、だから「憲法によつて司法権にゆだねられた範囲内において、右訴訟を認めた目的と必要に即して、裁判所がこれを定めることができるものと考えられる」と主張している。「選挙を無効とするがその効果は一定期間経過後に始めて発生する」という将来効判決は、これらの前提に立って「できないわけのものではない」とされたのだ。

だがそれは、逆に言えば将来効判決を正面から認めた実定法上の根拠がないことを自白しているということでもある。しかも補足意見という先例性の認められない部分において「できないわけのものではない」と主張されたのみであり、判例上「できる」と確定しているわけでもない。

この問題に関する立法府の怠慢と、それに対する司法府の苛立ちを考えれば《できないわけではないので、やってみました》と言いたくなる気持ちもよく理解できる。しかし他方、日本国憲法41条の定めるように国会が「国の唯一の立法機関」なのであって、法律上に明確な定めのない制度を司法府が勝手に発明してしまっていいものか、それは立法権の不当な侵奪にあたるのではないかという疑問は禁じ得ない。

念のために言うと、おそらくは一般的なイメージと違い、日本の裁判所は実質的な立法に踏み込むことをそれほど躊躇してはいない(とさらっと言うと実定法学者には怒られるかもしれないが)。サラ金に関する過払い金返還訴訟においては判例を通じて返還範囲を次々と拡大していったし、中古ゲーム販売事件においては著作権法上明文の根拠がない頒布権の消尽を、解釈によって認めている。古くは整理解雇の四要件についても、判例により形成された基準だと言うことができる。

だがこれらは第一に、いずれも形式的にはあくまでも既存の法令の解釈として行なわれたものであり、裁判所が自由に法形成していると正面からが謳われたわけではない。第二に、あくまで私的な権利の領域に関する問題であり、民主政の本質的なプロセスに影響を与えているわけではない。三権分立という理念の下、人民が支持する立法府が制定した法令を司法府が現実へと適用するというのが民主政の基本的なモデルだと考えられるところ、定数是正訴訟における将来効判決という今回の対応はその制約から大きく踏み出してしまっているのではないだろうか。

何が問題なのか?

だがもちろん、それにはそれなりの理由があるとも言えるだろう。すでに述べた通り、事情判決などの手法を用いつつ司法府が繰り返し繰り返し警告のメッセージを立法府に発してきたにもかかわらず十分な対応が取られてこなかったことは間違いないし、選挙の公平が保たれていないという状況が続くこと自体も、また別の意味で「民主政の危機」にあたるだろう。さきほどは無責任な訴訟だと述べたが、「一票の価値を公正にせよ」という原告団の主張自体は、基本的にごく正しいものだと言わざるを得ない。

しかし、司法府がここで事実上の立法をあえて行なうという道に踏み出したとしても、すでに縷々述べた通り本質的に出口はないという状況が変わるわけではない。31選挙区のみを無効にした場合、効力を遡及させようが将来効にしようが、格差を解消することはできない。全選挙区の無効という大胆な判断に将来効付きで踏み込んだとしても、その期限までに立法府がしかるべき対応を取らなかった場合には正統性の再建が極めて困難な状態へと民主政を追いやってしまうことになる。

利害関係者としての立法府

要するに、少なくとも日本の裁判制度は特定の問題についての判断を下すことによって社会の一部で生じた問題を修正することがその本質であり、制度全体を適切に修正したり再設計するような機能は持っていないというごく当然のことなのだろう。そのような機能を担うべきなのは立法府(とその下請けとしての行政府)だろうし、定数是正についてもそのことは暗黙のうちに当然の前提とされている。

すでに指摘した通り、仮に原告団が裁判を通じて定数是正を実現することを本当に目指していたのだとすれば、千葉4区や高知3区を対象に含めないことは異常に不自然なのだ。それをおかしいとも思わないのは、裁判ではなく法改正を通じた制度全体の再設計によって問題解決が行なわれるべきであり、訴訟はそのためのシグナルを送るためだけのものだということを、関係者全員が自明視しているからに他ならない。

言い方を変えれば、定数配分全体が憲法に違反する状態で放置されるとか、そのことを司法府が指摘しても立法府が改善のための措置を適切に取らないということ自体が日本国憲法の想定していない事態なのであり、だからこそそれに対処するための方法が憲法・法令の枠内ではうまく見付からないということになっているわけだ。そしてもちろん、そのような事態を生じさせた責任は、立法府にある。

では何故、立法府は最高裁判決により求められた対応を取らなかったのだろうか。わざわざ言うのも馬鹿馬鹿しいことだが、それは立法府を構成する国会議員たち自身が選挙制度に対する利害関係者であり、自分たちの運命が改革の内容に影響されてしまうために合意形成が困難になるからだということになるだろう。

野田政権末期における選挙制度改革について筆者は、与野党合意以外の内容を持ち込んで議会審議を混乱させるのみならず自党に有利な(あるいは新興勢力に不利な)結果を得ようとするものだとして民主党案を強く批判した(前掲「選挙制度は……」)。だがこの点においては政権交代後の自民党にもたいして差があるわけではなく、もともと社会にある勢力分布を忠実に議席へと反映することによって(少なくとも小選挙区制よりははるかに)中小政党に有利になる比例代表制をさらに歪め・主として小政党にボーナスを分け与えるだけの結果になる「少数政党優遇枠」なるものを導入しようと言い出している。

つまり、選挙制度としての公正さや目指すべき統治のあり方に関する理念から適切な制度を選択しようとするのではなく・自勢力に有利な結果を生む制度をとにかく実現してしまおうとするところでは、民主党だろうが自民党だろうがほとんど選ぶところはない。違うのは、民主党案がシロウトには問題点が理解しにくいよう構成された「制度的ゲリマンダー」であったのに対して自民党案は一見して問題性が明らかだという程度の点であり、自民党の素朴な愚劣さを愛するか民主党の悪辣さを評価するかは好みの問題だろうと思われる。

どうして、こうなってしまったのか。

「選良」信仰の限界

一般論として言えば、利害関係者に制度設計させること自体が問題であっておかしいと、誰もが言うことだろう。当の国会議員たち自身も、おそらくこの一般論自体は否定しないのではないか。いやこの間、法曹三者という当事者だけで議論するから変な結果になるといって「利用者の観点」を重視した司法制度改革・法曹養成制度改革を推進してきたり、大学教員自身が大学を運営するからおかしな教員や不効率がのさばるのだといって大学自治を制約したり介入してきたりしたことを考えれば、否定できるわけがないとも言えるだろう。

だとすれば選挙制度を国会議員たちが自分で決めるのもおかしいということには、ならないだろうか。「ならない」と言うための仕掛けが人民の自己統治であり、その人民の選良としての国会議員という観念である。

すなわち民主政は、《人民自身は人民の問題を適切に判断することができる》ということを前提にしている。それが最良なのか最終なのかという点はともあれ、人民自身は自らの統治に関する事項を判断することができるし、その権限を与えられるというのが民主政である。そしてその人民の代表たる国会議員にも人民と同様に、あるいは選挙を通じてその最良の部分が選ばれた結果として通常の人民以上に、自己統治能力があるということが前提されてきたわけだ。普通の役人だの教員だの社会人だのは社会全体の利益より個々人の私利私欲を優先してしまうかもしれないが、「我ら人民」全体としては正しく全体の利益を配慮することができるし、すぐれてそれを実現できる「選良」が国会議員なのだと。

だが実際にはどうだろうか。国会議員は普通の人間と違い、私利私欲を棚上げして社会全体のために行動することができると、従って自分たち自身の利害に直接関係する選挙制度の設計を委ねることができると、そう考えるだろうか。少なくとも定数是正訴訟の歴史はそれを否定しているだろうし、そもそも現在の選挙区割制度自体がそのような理念の実現を諦めていると言うこともできる。衆議院小選挙区の区割りについては内閣府に置かれた「衆議院議員選挙区画定審議会」が担当し、その答申を内閣・国会が追認するという制度になっていることを思い出してほしい。各政党・議員の利害がむき出しに衝突することになる選挙区割りを自主的・自治的に解決することなどできないことが、すでに国会自体によっても前提されているということにはならないだろうか。

解決策に向けて

だとすれば、本質的な解決のために必要なのは、この点の改善だということになるだろう。具体的には選挙制度の設計・改善に関する実質的な権限を立法府から剥奪し、中立的な第三者へと委ねさせることである。

もちろん憲法の制約範囲内で考えるならば、国会が「国の唯一の立法機関」である以上、その権限を形式的に剥奪することが許されるわけはない。独立行政委員会のようなかたちで審議機関を設置してその答申を特段の事情がないかぎり尊重する義務を立法府に負わせる一方、委員の任命を国会同意人事とすることによって民主的正統性を確保するといったような制度設計にはなるだろうか。従って、答申内容を忠実に実現するか・どのような人物を委員として選任するかといったような点を通じて当事者たる国会議員たちの意図が間接的に反映することは避けられない。

それでも、誰が・どこで・どのような議論を行なった結果としてどのような提案がなされたかが公開され、反対するにしても一定の《恥ずかしくない理由》を述べなくてはならないだけ、少なくとも現状よりは改善が見込めるのではないだろうか。定数是正訴訟による・あまり効果を発揮できていない政治的アピールを続けるくらいであれば、このような制度的対応を実現させるための運動に取り組んだ方が有効なのではないかというのが、この問題に関する筆者の見解である。

プロフィール

大屋雄裕法哲学

1974年生まれ。慶應義塾大学法学部教授。法哲学。著書に『法解釈の言語哲学』(勁草書房)、『自由とは何か』(ちくま新書)、『自由か、さもなくば幸福か』(筑摩選書)、『裁判の原点』(河出ブックス)、共著に『法哲学と法哲学の対話』(有斐閣)など。

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